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生命線をつかむ

『ゾハールの書』“BeHukotai(私の像の中)”章 5節:バラクは賢かった。彼の行いにおいて、彼は、バラムをしのぐ、最も偉大な魔術師であった。私はこの世、このクリエーターの作品のなかで人が望むすべてのものについて、その人は下層での行為で目覚めるべきであると学んだ。これがそうである理由は、下層での行為をもってして、上層での行為が目覚めるからだ・・・

光が私達を目覚めさせるということから、私達は上層からの願望しだいであるかのように見えます。しかし、私達が下層で働き始めるときに、私達は上層から目覚めをもたらすのです。

“下層からの目覚め”と“上層からの目覚め”に関して、「私は最初で最後である」と記されています。この意味は、すべてがクリエーターによってなされるということです。すべてがクリエーターから始まることは明白なことです―しかし、私達もそのプロセスに参加するようになる必要があるのです。人におけるスピリチュアルな作業の最初と最後の最後には、上層からの助けを受け取りますが、それ以外のすべてはその人次第なのです。

通常、私達はまさにこの点において困惑します。人がどん底に落ちた時、その人の力だけでそこから這い上がることはできません。このことについて次のように記されています。「囚人は牢獄から自分自身を釈放することはできない。」しかし、もしその人に生命線の末端が投げられたのなら、後はその人次第です(彼はそれをつかまなければなりません)。その人には、その機会を正しく利用したのかどうかの責任があるのです。

クリエーターの秘密を達成せよ

『ゾハールの書』 “Song of Songs(雅歌)”章 482節:人が知っておくべき知恵:彼の主の秘密を知りそれを遵守すること、彼自身を知ること、彼が誰であるのか、如何に彼が創造されたのか、何処から彼が来て何処へ彼は向かっているのか、如何に肉体が是正されるのか、そして如何に彼が全ての王によって裁かれるのであろうか、を知ることだ。

私達はこれらを単にきれいな言葉と考えます:「何処から彼が来て何処へ彼は向かっているのか」、そして「如何に彼が全ての王によって裁かれるのであろうか」。しかし、最も重要な部分は「彼の主の秘密を知りそれを遵守すること」です。これがまさに私達が達成しなくてはならないことです。

クリエーターは、彼の全作品、彼の創造物のすべて、彼が創造した現実のすべて、その創造の理由、創造の考え、その実現方法、そして創造物のすべてが到達しなければならない目的地、を明らかにするよう私達に求めます。このすべてを学ぶ唯一の方法は、それを達成することです。その意味とは基本的に、創造物のすべて及びその全状態に包まれて、それらすべてを経験することです。唯一そのあとに、私達の全行為を創造物全部の中に含ませることによって、私達は私達の中、又は私達の願望(KelimKliの複数形―ヘブライ語で器・容器を意味する)の中でそれを達成します。この達成から、私達は到達する必要のあるすべてのものに到達するでしょう。

私達の願望を是正することによって、私達はこれを達成できます。これらの願望は上層から与えられていて、それらは上層の光によって是正されます。しかし、その光は、私達の用意、私達の努力、その光が現れて自分達を是正してほしいという私達の要求、に従って現れるのです。このことを、MANを上げる又は掲げると言います。人間は光に自分を是正してもらいたいという状態に到達する努力をしなくてはなりません。

私の息子達は私を負かした

クリエーターは喜びを受け取りたいという願望を創造しました。そして、彼はそれを絶えず新しいものに取り替えています。言い換えると、私が毎回新しい喜びを得たいという願望を感じるとき、それが私の中にいるクリエーターによってなされているということです。彼は私を押し、これらすべての喜びの方へ引き寄せます。彼は私の中ですべての衝動を呼び起こし、まるで手袋の中の手のように私を制御し、常に私の中で新しい願望を生じさせます。

私がクリエーターから与えられたこれらの願望を実感するとき、それらが誰から送られてきたのか、そしてそれらの理由について考えないなら、私は無生物レベル、植物レベル、又は動物レベルです。しかし、心の中の点が自分のなかで目覚めるとき、私は、まるで私が彼の手につけられた手袋であるかのように、クリエーターが私と遊んでいるのだと識別しはじめます。

こうなると、私はすべてのことに対して心の中の点の内部から考察します。私は、毎回新しい喜びを得るよう誘発しているのが彼であることを識別します。この自覚を持ち、すべてのことに対して心の中の点から考察することは、彼の内部から考察することと同じようなことです。これが、なぜ魂の芽生えである心の中の点が、“上層からのクリエーターの部分”と呼ばれる理由です。この心の中の点を持てば、私は自分の内部の動物を人間に変化させる機会を獲得します。

私はどうこれをするのでしょうか? 私はクリエーターに逆らって、自分の性質に逆らって、自分の中の彼の手に逆らって、それをするのです。私は彼が私の中で呼び起こす全てのことを盲目的に実行することを拒否します。私は彼が私の中で目覚めさせる願望を使うのを止めて、同じ指針で行動し続けることの理由と目的を確認します。たとえ彼がそれを望んでいるとしても、私は自分に何らかの自主性がその中にあるのかどうか発見します。私は、自分が機械的に呼び覚まされ、私の中で彼が手袋の中の手のように呼び起こしている同じ願望を満たし続けるべきかどうか、又は、この様に行動することを止めて、これからは自主的に行動することを自分が望んでいるのかどうか発見します。“私の息子達は私を負かした”と記されているように。

私はクリエーターの行為をし続けます。しかしそれは私が、ホスト(クリエーター)と同じ指針、同じ考え、同じ意図で、それらに参加するという条件のもとに限ってのことです。私はこのことの中に彼を明かしたいのです。私は完全にすべてのことにおいて彼とパートナー同士になりたいと思い、この協力関係を通じて彼との一体化を達成します。

普遍的な自然とのつながりの体系

受け取った質問:『ゾハールの書』と全世界の自然とのつながりは何ですか?

私の答え:『ゾハールの書』が説明することは、普遍的で完璧な自然とつながる方法、この一体化させる特殊な力が自分に影響を及ぼすよう、どうそれに依頼し、要求し、それを引き出すのかということです。『ゾハールの書』は私と全自然を結びつける鎖の環です。―この環がなければ、この世の人はそれとのつながりを持てません。

私は自然が世界的で、全世界が世界規模の村であり、そのなかですべての人がつながっていることを発見するので、さらに私は自分がすべての人に依存していることを実感します。自分がすべての人に依存していることから、次に私は彼らと同等になりたい、彼らの間で友達としてすべての人を善良に扱いたい、そして自分に対し彼らにもそれと同じことをしてもらいたいと思います。ならば、私はこれをどう獲得するのでしょうか?

これを達成するためには、私は彼らとのつながり方を知る必要があります。私には指導、つながる方法を教示するマニュアルが必要です。その手引きは、人々の集団との関係のつくり方、どのように彼らに近づいて話せばよいのか、教示す必要があります―その教示は、彼らが私から必要なものと、私が彼らから必要なものをさらけ出す必要があるのです。

このつながりのマニュアル、『ゾハールの書』は人と自然とのつながりの体系の全部を明かします。そうすることで自然、クリエーターは人に影響を及ぼし、そのひとを不可欠な自然の一部に変化させるのです。

人類という共通の生命体におけるスピリチュアルな中心部

私達は世界全体がスピリチュアルな是正に目覚めるまで待つ必要はありません。正確に言うと、既に目覚めた人々が、自分たちの間に群れ又は正しい結合体を構築して、このやり方で前進しなくてはなりません。そのあとに、だんだんと多くの人々がこの結合体に加わりはじめることでしょう。

私達の関心事は、どのようにしてこの統一体を、その達成が可能な人々の間で達成するのか、そしてどのようにしてその共通の生命体の全臓器をつなげるのかということに向けられるべきです。それらはその生命体に新たな命を吹き込み、私達に上層の光をもたらし、それは生命体の全体に行き渡り始めるでしょう。そのあとに、このスピリチュアルな中心部のおかげで、光はその中を通り、共通の体系の全部分に広がり、他のすべての魂も同様に目覚めることでしょう。

統一体に到達するための機会

共通の魂の破壊は本当に大きな事でした。クリエーターはその破壊を通じて私達に、私達が存在して私達自身を表現するための機会を与えました。結局のところ、もし共通の魂の各部分が互いから引き離されることがなかったなら、私達はクリエーターのイメージを描くことも、私達自身を他者に関連させて知覚することも不可能でしょう。さらには、1つの統一体の中で何かを識別することは不可能であるため、私達は光のなかで単に消えてなくなっていたでしょう。

創造物が1つの統一体のなかで存在することはできません―私達と私達以外のものがあるときにだけ、私達は存在できるです。私達の知覚は、私達の間に距離があるということの結果から生じています。私達は純粋な光または完全な暗闇の中で達成できるものは何もないのです。

これゆえに、破壊が私達に、存在における達成と体験の機会を与えるのです。もしそうではなく、私達が絶対的なものや完全な暗闇のなかにいるとするなら、私達には何も感知するものがなくなり、私達が存在していることも感じることはできないでしょう。この理由は、私達のすべての感覚が二つの反対のものに対する知覚に基づいているからです。例えば、物音と静寂、または、臭いと無臭などです。もし私達のすべての感覚器官の中が“静寂”であったら、私達は私達自身を認知できません。

したがって、破壊はまさに創造物に存在とそれ自身の知覚の機会を与えるために起きたのです。これはまさに神の特許です。私達は破壊が起きた場所の空間を埋めています。お互いの間にある光との距離のように一見映っている、その破片の間にある空っぽの空間を、私達は埋めているのです。しかし実際は、私達に最初と同じ統一状態に自主的に到達する機会を与えるために、クリエーターが1つの統一体から消え去ったのです。


ラシビの体系は共通の魂を復活させる

ゾハールの書の著者のラビ シモン・バー・ヨハイ(通称:ラシビ)の前に生きていたカバリストらは、共通の魂の体系の中の、より高い段階の是正を行いました。ラシビの体系は私達に直に繋がっており、私達はこの理由から『ゾハールの書』を主な資料として扱っているのです。破壊された魂の体系内で是正を行う事により、カバリストらはその中で特別な繋がりを築きました。それは全般的な是正のための準備です。彼らがこの体系内で確立した繋がりの経路を通じ、それに光をもたらすことにより、彼らはこの体系をよみがえらせます。

したがって、今、私達は上昇し、自分らをこの体系の中で是正する事ができます。魂はそれ自身を是正する事により、それ自身が変わるだけでなく、その是正を他の全ての魂にももたらします。けれども、ラシビの魂のように、是正において主要な役目をする魂も存在します。そのような魂は、特定の段階を完成させ、その後に続く全ての是正のための基盤を準備するのです。

私達には、是正した魂が体系の中における何らかの孤立した部分のように思えます。しかし、これは間違いです。魂の体系の全体は、ホログラムの像のように統合したものであり、各部分に全体像が含まれています。そして、その一方で、すべての部分は、全体像とその各部分にもあります。私は魂の体系の部分であり、体系の全体が私の中にあり、そして、私はその体系の各部分にも含まれているということです。

魂は全体の構成単位ではありません—魂は創造の全体系のなかに“拡散”しているのです。それはその特質と一緒に、無限世界のMalchutの全部に広がります。これは私達全ての人に当てはまることです。各々の人が他の全ての人の不足を満たすとき、私達は一つの大きな魂の球体を獲得し、そのなかでラシビの体系がその是正をもたらす働きをします。私達はこの体系を通じ、私達を満たして是正する光を受け取るのです。


カバラの集会は世界の是正にどう影響を及ぼすのか

受け取った質問:私たちがカバラの集会に参加することは、どうように世界の是正に影響を及ぼすことができますか?

私の答え:それは必ず世界の是正に影響を及ぼします。なぜならそれは統一の行為であるからです。私たちの間のどんな統一の行為も、クリエーターとの接触に近づかせる新たな一歩になります。そのような行為のすべては、私たちを引っ張り彼により近づけさせる包む光を引き寄せます。そして私たちを通して、その光は全世界に広がります。

私たちの使命と責任について私たちが考えれば考えるほど、それはますます効果的に働きます。その理由は、それがクリエーターに満足をもたらし、創造物のよい未来に貢献することになるからです。私たちの間の統一の箇所が強ければ強いほど、私たちはますますクリエーターの近くに引き寄せられます。

確かな進歩の表れ

受け取った質問:『ゾハールの書』の勉強のとき、どんな内面的変化を期待すべきですか? どうすればもっと自分を開いて光の影響を受けることができますか?

私の答え:どのように『ゾハールの書』が私達に作用するのかをテストする一番の方法は、Atzilutの世界のMalchutのなかに入るためにすべての人と団結する準備が私達に整っているのか吟味することです。これが改善する光を達成するための条件です。

シナイ山でトーラーが啓示されるための条件は、“一心一体”(one man with one heart)になることです。スピリチュアリティーのなかで存在するための条件は一緒に座っている兄弟になるようなことです。“座っている”の意味とは、その人が自分自身を無にするということ、つまり、みんなと一緒になる覚悟ができているということです。立っている人の背丈は異なります―一方座っているときの人々はみんな一緒です。

したがって、もし『ゾハールの書』の勉強を数週間または数ヶ月した後に、他者と結束することに対する自分の姿勢が変わってきていると感じるのなら―もしその人が自ら進んでもっと聞きたいと感じるのなら、つまり、一つになるという確かな性向がその人のなかで生じるのなら―もしその人が統一体に対する重要性を明らかにし、すべてがまさにこのように機能していることを感覚を通して気づき始め、それを受け入れる覚悟ができているのなら、これが進歩していることの表れ、光がその人に作用している徴候です。

スピリチュアルな進歩とは、他の魂と一体化することに対する人の意欲によって測定されます。これこそが、そのテストです。それ以外の全てのものは、カバラの科学および目的地に向けられた前進と何の関係もありません。

目的地へは一つになることによって到達できます。私達と無限世界の間にある違いとは、後者のなかでは私達が完全に無限につながっているということです。無限への道の全段階は、私達の互いとのつながりが増すことによって定義されます。この意味とは、つながりの125段階があり、それらはますます圧縮されて接続しているということです。

したがって、進歩は他者と一つになることに対する自分の覚悟によってでしか測れません。それ以外のすべてのテストは完全に誤っています―他のすべてのものは利己的な性質のなかでも起こりえるのです。

スピリチュアリティーに向けられた私達の活動も利己的なものです。私達はスピリチュアリティーを達成したい、他者と一つになりゴールに到達したい、と切望しています。しかし、これはLo Lishma(授与のためではないという意味)の意図のなかで起きることです。私達は、より高尚なものを受けるにふさわしくなるためには、自分たちのエゴを手放さなくてはならないことを、既に理解しています。今のところは、依然としてエゴイズムが私達に動機を与えます。それでも、それは既にスピリチュアリティーに向けられて動いています。


ゾハールは枝の言語で語っている

『ゾハール』“Chayei Sarah(サラの人生)”章12節:・・・このゆえに、悪人たちはDumahの帳簿から消し去られた。なぜなら彼は悪人たちが含まれない中間線からしか計算に入れないからだ。したがって、誰が死者の復活の際に彼らを望むのだろうか?死者の復活の間、天使Matatは墓地のなかで勘定をDumahから受け取る。しかし誰が死者の復活のために、Dumahが勘定に入れなかったそれらの邪悪な者たちを望むのだろうか?

受け取った質問:この文章には“死者”や“墓地”といった言葉があり人に恐怖を与え困惑させる可能性があります。これらの言葉を読み取るための正しいやり方とは何ですか?

私の答え:私達は他のカバラの書物のほとんどがそうであるように、『ゾハール』も枝の言語で書かれていることを理解しなければなりません。その方法は知識を与えるだけでなく、より重要なことですが、印象も私達に伝えるのです。これは私達が正された状態を達成するためにスピリチュアルワールドから是正の光を引き寄せれるようにするためです。

私達は肉体やこの物質世界について述べているのではありません。また私達は“手や足”を直そうとしてはなりません―身体的な心配は普通の医者に治療してもらうべきです。正確に言うと、『ゾハール』は魂の是正について述べているのです。したがって、たとえ『ゾハール』にこの世の言葉が使われていても、それらすべてはスピリチュアルな概念について遠回しに言及しているのです。それらは私達の内面的な力と特質に関することです。

私が今学びたいことは、これらの特質です。私がそうするのは、私のどの部分が“病んでいて”、どの部分が正されなければならないのかということを理解するためです。私がそうするのは、それを是正したいと望むことが私に必要になるからです。それが『ゾハールの書』の目的なのです。