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人生のゴールへの理解

質問:今日、私たちは無意識的に存在すると言う科学者がいます。スピリチュアルと物質的な世界の違いは意識的、無意識的に存在することにあると言えますか?

答え:私たちは完全に無意識な仕方で自動的に存在し、自分たちが誰であるかまったく知りません。私たちは何であり、なぜ生きているの分かりません。私たちの体のすべての臓器と細胞、私たちをとりまく全てが私たちを刺激し、私たちは生きる瞬間を感じます。

ですから、私たちには何かを変える機会が少しもありません。自由意志は全くないのです。全てはあらかじめ決められていて、私たちの発達におけるある時点で、自分たちの存在の実状に失望し、その無価値さ、無意味さ、そして空虚感を悟り、人生の意味を見つけることを切望し始めるように、私たちは様々な状況で“操作”されているのです。

私たちの世界の意味は、次のスピリチュアルな次元へ向けてそれを超えて意識的に上昇することを、私たちに可能にするということなのです。

質問:意識的にとはどういう意味ですか? 様々な欲求が絶えずあがってきて、私はその欲求を喜びで満たすために走り回っています。スピリチュアリティにおけるこれらの欲求を、自分自身で作らなければならないのでしょうか?

答え:ある時点で、人は欲求の満たしを追い求めることに疲れてきて、もはやそれらの欲求に感情移入することがなくなります。彼はこれらが彼の欲求の意図であり、絶えず欲求を満たさなければならないのだと悟ります。人はその中に喜びを感じますが、もはやそれにコントロールされたくないと思います。彼は自立し、これらの喜びの感覚にふけたくないと思うようになります。

そして人は考え始めます。「どうしたらこの生き方より崇高なものへ向上することができるのか。なぜ私は絶えず様々な喜びを追い求めなければならないのか。なぜ私はいつもこれらの喜びに身を売るのか。私の人生はこれで十分なのか。これは私を満足させるのか。私はこれらすべてが何のために必要かどうか考えるべきか。これらは刻々と変わるつかの間の喜びで、結局のところ私の全人生は喜びと最小限の痛みを追い求めることを余儀なくさせる」と。

質問:スピリチュアルな世界では、何がその代わりになりますか?

答え:スピリチュアリティにおいて、人は自分が存在していることの意味を獲得し始め、この獲得でその人は、上層世界の存在における説明がつかない感覚、言語に絶する感覚、そして調和への到達、真実、真のゴールなど、つまり物質世界には存在しない全てのもので満たされます。

もし人が私たちの世界に不快を感じるなら、彼は今すぐそれをよい気分に変えなければなりません。そして、そのようにして何度も繰り返し、これが彼の人生のゴールになるのです。スピリチュアルな世界において、起こること全ての意味と自分を超えることに到達した人は、完全なる調和の感覚と彼の中の平静と永遠性を生み出します。

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From the Kabbalah Lesson in Russian 2/21/16

“労働は果てし無い、しかし報酬は大きい”

ラバシの記事『信仰』より:「ラビ・タルフォンは “日は短い、労働は果てしない、精をだして働く者は怠けている、しかし報酬は大きい、そして家の「主」は強要する(ピルケイ・アヴォット 2:20)。”と言っていた。」もし人が、「統治者」がいない首都はないということを信じ、「主」が存在することを確信しているなら、その人は強要されていると感じます。

クリエーターが私たちを目覚めさせない限り、私たちが自力で目覚めることはできません。その理由は私たちが、生命力を少しも持っていない物質からできているからです。よって私たちは創造物と呼ばれます。つまり私たちは上から支配されているということです。クリエーターが私たちを目覚めさせて初めて私たちは、“日は短い、労働は果てしない、精をだして働く者は怠けている、しかし報酬は大きい、そして家の「主」は強要する”ということを目にします。そのあとに私たちは働き始めます。

この時点で私たちの自由意志が“オン”になります。クリエーターは人の手を良い運命の上に置かせ、言います:「受け取りなさい!」言い換えれば、クリエーターの行為が最初なのです。その次に私たちが仕事を継続する番になります。その意味とは、クリエーターが私たちに与えるものを、私たちが受け取るということです。一方と他方、両方に対して努力することを許す構造を日常生活に与えるために、私たちは環境と勉強を整えなければなりません。

普段の仕事量と普及活動に対する責任に関係なく、私たちは決して原文の情報源とのつながりを断つべきではありません。絶えず情報源とのつながりをどうにかして維持する場合に限り、私たちは望ましくて予想された結果に至ります。労働は果てしない、しかし報酬は大きい、従って私たちはそれを受け取るための複数の器を用意しなければならないのです。

この全ては私たちに時間をいくつかに区分することを要求します:通常の生活、勉強、普及活動です。私たちは常にこの3つのこと全てに精を出し、それらのいずれに対しても決して避けたり見過ごすべきではありません。私たちがそれらの1つでさえおろそかにすれば、中間の線(middle line)から離れてしまいます。たとえ私たちがそれらに均等な時間を割り当てないとしても、依然、3つの部分すべての世話をしなければなりません。

私たちはこれらの問題点に個別の注意を払うべきです。とても重要な普及の任務があるときでさえ、勉強することを忘れるべきではありません。ただ普及活動で忙しいというだけで、授業を休むことに対する弁明の余地はありません。それは本当に悪いです。なぜなら「もしあなたが「私」を一日置き去りにするなら、「私」はあなたを二日間放置する」と言われているからです。それは危険です。普及活動の理由で勉強を止めれば、私たちの前進はいずれ損失になるでしょう。

From the preparation to the Daily Kabbalah Lesson 9/10/13

同じ劇、違うセット

私たちは皆、私たちの全関係を貫く力の「クモの巣」によって結ばれています。全体的に見ると、これらは受け取りの力か授与の力かどちらかです。もし人がそのどちらの力も発見しないなら、彼はまるで空虚の中でぶらさがっているかのようです。しかし通常は正の力か負の力かどちらかが彼に明かされ、それらが組み合わさって総ネットワークを作り上げます。

従って「クモの巣」は存在し、どの程度それを感じるか、どの程度その中にいるのか、そして、どの程度これらの力に肉体性か霊性かどちらかになってもらいたいかは、その人次第です。

私たちの物理的な場所に関係なく、私たちはこのネットワークの中の「一定」の場所(定位置)にいると言えます。そして「場所を変える者は運を変える」という格言は、霊的な「座標」について言及しています。たとえ私がある国から他の国へと移動し、自分の周りに違う人々や環境を目にするとしても、私がシステムの中で自分の位置を多少なりとも変えたということではありません。

私は同じ点の中、同じネットワークの中にいますが、今やそれが違うように見えます。たとえ私の「運」が変わったとしても(私に作用する力という意味)私が霊的なネットワークの中で自分の位置を変えたわけではありません。現れ、「衣装」、クリエーターが私を操る彼の劇場の中での場面のみが変わったのです。しかし監督は同じで、劇は同じ劇で、新しいセットの後ろに同じ舞台装置があります・・・。

質問:しかし何を強調すべきですか? どの点において努力をすべきですか?

答え:クリエーターは私にこう告げます:「私はあなたを選択点に連れてきた、即刻それを実現しなさい。」彼は私をグループへと連れて来ましたが、それはほんの選択の場所にすぎません。それと同時に選択そのものは私の手中にあります。それは、自分のために既に用意された投票箱に私が来て、今やその選択が自分にあることに似ています。

From the 3rd part of the Daily Kabbalah Lesson 4/30/13, “The Mutual Guarantee”

私たちは自由の身でしょうか、それとも機械の中のただの歯車でしょうか?

意志の自由は最も重要なトピックです。なぜなら、それが私たちの生活における主要な問いを提示するからです:私たちは、自然の何か他の部分のように、完全に上層からコントロールされているのでしょうか? 私たちは、全てのものが上層からの支配、つまり自然(クリエーター)の支配の下で機能していることを目にします。自然を超えるものは何もありません。私たちは支配の力を何らかの働き・作用において見分けることができます。しかし、他のものにおいて、それらの支配の力は隠されています。

若いとき私たちは、私たちが自分たちの人生を支配するのだと考えますが、成熟し人生の経験を積むにつれ、人生が私たちをコントロールしているのであって、その逆ではないと理解するようになります。確かに、物理学的、化学的、生物学的といった自然の全レベルを操作している厳密かつ不変な法則を私たちが発見するとき、どこに意志の自由の可能性があるのでしょうか? また、もし法則が私たちに見えない場所があるとするなら、それは、絶対的な確実性をもって働く法則がそこに存在しないのではなく、私たちがまだそれを明かしていないという意味なのです。

どうすれば何の法則からも影響を受けない、制御されていない自然の部分が存在することができるのでしょうか? これは絶対に不可能です! 私たちは、自然を明らかにする全ての箇所において、厳密な規則性を発見します。

すると、選択の自由とは何なのでしょうか? それは決定論的な自然の法則に支配されることなく、自分が好きなようにする可能性でしょうか? 選択の自由はどこからもたらされるのでしょうか? 自然の中に於いて[法則に]従わない“白い斑点”はありえるのでしょうか?

私たちの全ての見かけ上の自由とは、厳重な監視下で自分の部屋で遊ぶよう残されたにもかかわらず、自分が自由であると考えている小さな子供の錯覚であるということが分かります。つまり、自由意志とは私たちの無知のみによって説明されているのです。そして、これは私たちが自由と呼ぶものでしょうか? すると、人間とは何でしょうか?、完全に上層からコントロールされていて、それに気がつくことさえもない、自然のもう1つの部分でしょうか? もし私たちが操り人形でしかないのなら、私たちは善も悪もしません。私のすることの全てが法則に従っているとき、私に求められることはありえるのでしょうか?

私が突然したいと望むことの全ては、外側および内側から私を操作・制御する生まれながらの本能です。もし私たちが創造の中の単なる普通の「歯車」でしかないなら、褒美も罰もありえません。しかし、もし全部の存在が“製造中に包装されたゲーム”なら、そのすべての意味とは何なのでしょうか?

その意味とは、何よりもまず、それでもまだ意志の自由があるのかどうか、それが何処にあるのか解明する必要があるということです。結局のところ、もしここに本当に選択があるなら、高得点を取ることも、全てを失うことも可能であるのです。

したがって、意志の自由はカバラに於ける主要なテーマです。なぜなら、それが次の段階の始まりだからです:私たちには自由があるのかどうか、そしてもしあるなら、それを最大限の恩恵を受けるよう、どうやってどこに対して利用できるのかということです。

From the 4th part of the Daily Kabbalah Lesson 10/8/10, “The Freedom”

私たちは、どうやって自由の箇所をみつけるのか?

私が受けた質問:なぜクリエーターは世界をこのように創ったのですか? なぜ彼は私たちの心や感覚から自分自身を隠すのですか? なぜ彼は私たちを彼および究極の目標と正反対になるように創ったのですか?

私の答え:彼は私たちに自由を与えたかったため、こうしたのです。彼は私たちに、自由選択を通じて彼を明らかにしたいという欲求を持たせたかったのです。彼は私たちが彼のような与える者になりたいと望むようにさせたかったのです。もし最初から私たちがクリエーター、彼そのままを感じていたならば、私たちはそれに反対せず、方法を何も変えたいとは望まないでしょう。

これと同じように私たちは、誰も自分たちを支配するエゴイズムに抵抗したくありません。私たちは利己的なプログラムを自動的に実行します。同様に、もし私たちの中に利他的なプログラムが植えつけられたとしたら、私たちはそれを自動的に実行します。そしたら、私たちは、“自然の自動的な力”、つまり「天使」と呼ばれるようになります。しかしながら、どちらの形態にしても自由はありません。

自由は真ん中(中間)にしかありません。それは不純と神聖の間にあります。この状態をKlipat Nogaといいます。それはTifferetの質の真ん中の三分の一です。クリエーターは、私たちを不安定状態の所に置かなくてはならないのです。私たちが均衡の取り方、どっちへ傾けばいいのか分からなくするためです。私たちは、何が善で何が悪なのか、そして何を選べばよいのか、または何を切望すればよいのか知りません。ここに私たちの自由選択の箇所があります。

私たちは、そのような自由選択の各点から線を成形し、この瞬間から是正の終わりまで前進します。私たちの唯一の課題は、(クリエーターの)隠蔽の程度と形態を理解し、その理由と必要性に気付くことです。この方法で私たちは自分たちを独立した存在へと作り上げます。

クリエーターは私たちの独立以外に目的はありません。結局のところ喜びを与えるためには、独立した創造物が彼に必要です。彼が創造した、彼が全てをコントロールしている機械に対して、彼はどうやってそれを喜ばせることが出来るのでしょうか? しかしながら、創造物が独立する限り、クリエーターはそれを喜ばせることによって喜びを受け取ります。今や彼が喜びを与えられる誰かがいるのです。本当に存在する誰かが。

この理由から、彼は私たちを直ちに善になるようには創らず、最初に無限の世界を与えなかったのです。彼は私たちを彼と正反対に創り、二つの世界の間に置くことを余儀なくされたのです。結局のところ、これら二つの世界の間にある、まさに真ん中のここ、つまりクリエーターと創造物のどちらの支配も働かない、クリエーターと創造物のどちらにも属さないこの中立的な点(箇所)の中でのみ、私たちに自由があるのです。

From the 3rd part of the Daily Kabbalah Lesson 6/8/10, Introduction to the Study of the Ten Sefirot

永遠の呼吸のフィーリング

受け取った質問:あなたは、カバラが人を永遠の命に至らせると言いましたが、カバリストは死にます。ならば、これがどうして可能なのですか?

私の答え:カバリストはあなたの視覚の中で死にます。なぜならあなたは彼の命をカバリストが見るようには見ていないからです。あなたは彼の一部しか見てません – 他の動物がそうであるように必ず死に至る彼の肉体のことです。しかし、彼の中で発達した神のようなスピリチュアルな部分は、永遠に生き続けます。人がこの部分を獲得すると、その瞬間からその人はそれを所有し、それは永遠の存在の感覚を与えます – その人が獲得した授与の特質は永遠なのです。

私達はMachsomに近づきながらでしか、これを理解し始めません。それは授与の徴候が私達の中で現れるときのことです。人に届き始める光(the Light)は、彼に、物体を超越して授与の視点から他者に関わるといった考え方の変化が意味することの感覚を与えます。人はまだ授与のなかには存在していませんが、彼は既になんとかしてそれに接することができるのです。そのあとに、彼は、この永遠性に属している感覚といった特質に順応する徴候を得ます。

これが起きる前には、人に理解する能力はありません。光がまだ彼に十分に近づいていなく、語句に意味がないからです。人は食べて休みたいと思いまが、永遠はあまりにも遠くにあるように思え、彼はそれを感じません。人が、はためく風のように、光の呼吸を遠くから感じ始めるときにだけ、彼はカバラに死の天使からの解放があることを理解し始めます。もっと光が人に近づくとき、それは永遠が存在するといった感覚をその人にもたらすのです。

これは私達が行える自由な行為の最初の条件です。そうでなかったら、なぜあなたに自由が必要なのですか? 動物的な肉体の人生のなかで、それ以外にあなたがすることはあるのでしょうか? 他の全ての物事は、あなたの為に上層からなされています- あなたはそれを自分でしているのではありません。自分の力であなたができる唯一のことは永遠に到達することだけです。授与(与えること・授けること)は永遠ですが、受け取ることは一時的であり、つかの間です。Hochmaの光は永遠に私達に訪れることはありません。それは唯一Hassadimの光の内部でしか知覚されないのです。したがって、私達が永遠を手にする為には、まずは、授け与えたいという願望を獲得する必要があります。そして、そのあとに、この願望の内部で私達は人生が永遠として感じれるようになるでしょう。

毎日のカバラレッスン 2010年4月15日 第三部 論説『自由』より)

人類の結束は自然界に類がありません

受取った質問:なぜ人間社会は動物的段階にいる間に体の細胞のような相互保証的な状態に至ることができないのですか?

私の答え:人間はとても複雑な生物なので細胞のように他と結束することはありません。以下がその理由です。

エゴイズムは無生物段階から、植物段階、動物段階、人間段階になるにしたがって質的に大きくなります。物体のエゴイズムが大きいほどその物体は個性的(個人主義的)なものになり、他と一体化することがより困難になります。よって人は発達するに従い他者から分離していることをもっと感じるようになります。

今日では、心理学者や社会学者だけでなく経済学者や政治家も世界がお互いに繋がっていることを理解するようになり、人類が統一しなくてはならないと考えるようになりました。しかしながら、彼らは物理的な手段で統一が達成できると信じています。世界銀行、世界政府、世界教育、世界規模の関係を築けば全てが解決すると考えているのです。

しかし、つい最近開催されたG20サミットのような会合がさらに数回行われた後には、彼らに統一する手段がないことが理解され始めるでしょう。彼らがこの事を理解するまで人々は残念ながら、食糧難、精神的混乱、完全な無力感、世界的な悲しみなどを含む大きな災難を経験しなくてはならないかもしれません。人々は不安を抱えて暮らすような状況に耐えることはできません。なぜなら絶え間ない不安は死よりもひどいためです。そのような状況下で私達の精神は正しく機能しません。しかし、統一を達成する唯一の方法が私達のエゴイスティック(利己的)な性質を超越することでしかないことを私達に理解させる為、これらすべてのことが起こるかもしれないのです。

無生物段階、植物段階、動物段階における全ての性質や構成部分は自然的そして本能的に互いに連結しているため、それらの段階にはこのことは適用されません。それらの段階は自由選択や意思決定することなく相互的に補い合って調和しながら相互作用しています。

しかし、人々における統一は一人一人が意識的にそうしたときにだけ達成できます。他の自然段階と違い、創造主は私達に単に統一させる本能を与えそれを達成させるようなことはしませんでした。私達の統一は私達が与えることと愛の特質を獲得し、全員参加で全員が結束したときにだけ可能です。この達成には、私達が自分自身と自分のエゴイズムを克服して「自分のように隣人を愛しなさい」という聖書の戒律を守れるようになるしかありません。

このような方法で私達の間に創造主の特質が啓示され、私達は創造主に似た存在になります。その後になってはじめて、なぜ創造主が私達に対してこのように振舞ったのか、その理由を理解するようになります。