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私の内面にあるスピリチュアルな特性:「アブラハム」と「イサク」

「アブラハム」とは、私達が内面で明らかにする最初のスピリチュアルな特性です。それは授与(与えること)の主要的な特質、Hafetz Hesed(慈悲を欲する者)です。アブラハムが「老齢期」に達するとき、つまり、ある決まった段階が彼に完全に明かされる時、前の段階と根本的に正反対の新しい段階が現れます。

このプロセスは、次の段階を達成する前に、アブラハムが絶え間なく自分自身を以前のバビロンと結びついている願望の上に引き上げることです。まず彼は、他の神々を崇拝するバビロンの住民の全ての願望と力から、遠ざかります。彼が自分自身をそれから切り離すとき、彼はその場所又は段階を去ります。そして、新たな段階が現れます。この新たな段階で、そのサイクルは繰り返されます。彼はまたしても、内面の願望を明らかにし、それは彼を去ったばかりの前の段階に引き戻します。

彼が絶え間なく質的に願望を超えて成長している理由から、新たな段階が現れるように見えるのです。願望はアブラハムとは正反対の「左側」でその正体を現します。しかし同時に、それは彼の「息子」です。その意味は、それがアブラハムに源を発している結果であるということです。このようにして左の線、BinaGevura(支配的なこと、圧倒的なこと、峻厳)を示している「イサク」が、左側(Klipot)と結びついている全ての不純な力の源として現れるのです。


知覚範囲を広げる―正反対なもの両方が真実になることがある

イサクはアブラハムと正反対に成長する力であり、彼に反する助けとしてアブラハムに仕えます。私達は、スピリチュアリティが、以前に私達が考えていた1つだけの力ではないことを発見しはじめます。2つの正反対の意見が共存し、その両方が真実になることがあるということを理解する能力は、私達にはありません。それはまだ理解されていませんが、まさにこの衝突と争いの中で、真実が明きらかになるのです。私達は全てのものが分かり易く明確に定義されるべきだと考えます。

しかし、私達は物事において最初に知覚したときのような明快さがなくなることを実感しはじめます。私達が「イサク」の特質を扱いはじめ、それを是正しはじめるとき、物事において以前私達がエゴイズムだけを使って知覚していたときのような分かり易さがなくなることに気がつきはじめるのです。言い換えると、私達のエゴイズムを通して見た全てのものは、楽しむ願望と、願望の反対側にある喜びであったのですが、今や私達は左の線と右の線があることを知るのです。そのうえ、その両方が真実で正しいのかもしれなく、このことが私達の進歩を助けます。そのもう一方で、その両方は互いに矛盾し合うかもしれませんが、それにもかかわらず、その両方には創造のなかに居場所があるのです。その理由はそれらが両方ともクリエーターにつながっているからです。

実際には「イサク」と「アブラハム」の特質の両方は私達の内面に含まれています:クリエーターから離れて存在し、創造物としての存続を可能にする、自分自身の受け取りの特質があり、その上にはクリエーターから獲得する授与の特質があるということです。ということは、人間の内面の中には、いつまでもこれら2つの力の対立が存在し続けるのです。したがって、唯一イサクを高めることによって、アブラハムはクリエーターに関する自分の本当の位置を理解するようになるのです。これが何故「息子」(Ben)が、新たな段階、Binaである「理解」(Leavin)を意味するのかということの理由です。


治癒のプロセスのかぎは忍耐である

私達の利己的な願望を克服させる上層の光は、常に私達に影響を及ぼしています。しかし、そのうち私達は自分たちの力でその願望の外への脱出を続けなくてはならなくなります。光が私達を上昇させるとき、私達はそれをエジプトからの脱出のように感じます。しかし、もしエジプト(利己的な願望)が自分たちの中にあり、それが私達の真の性質であるとしたら、私達は本当にエジプトから脱出できるのでしょうか?

これは私達に疑問を投げかけます:私達が砂漠のなかにいるということの意味とは何なのか? それはエジプトが自分に戻ってきて、私がその全部分から外へと脱出しなくてはならないときのことです。これが砂漠の中での40年間の旅のことです。それは私が順次的に自分の願望を大きくさせて、それを認識するときのことです。1つそしてまた1つと順次的に臓器が発達する人間の胎児のように。最初の一部が発達し、そのあとにもう1つの部分がというように、発達は次から次へと一つの方向へと向かいます。様々な障害と問題を克服しながら。魂の成長プロセスは、母親の子宮のなかの胎児の成長プロセスに似ています。

私達は『ゾハールの書』があるという事実に感謝しなくてはなりません。なぜなら、それは毎日のように私達を変化させてくれる救済手段であるからです。しかし、私達はこの手段がフルに作用しだすまで、その結果を感じないでしょう。それは、数週間後になってやっと気分がよくなるような、毎日摂取しなければならない病人に処方された薬のように徐々に作用するのです。

 

ゾハールの書に対する個人の努力

私は自分の内側でクリエーターと自分の魂の全部分を見たいと願います:ケテル(Keter)、ホフマー(Hochma)、ビナー(Bina)、ダアト(Daat)、ヘセド(Hesed)、ゲヴラー(Gevurah)、ティフェレット(Tifferet)、ネツァハ(Netzah)、ホッド(Hod)、イェソッド(Yesod)、マクフート(Malchut)、そしてそれらの相互的な繋がり。これらの特質を、アブラハム(Abraham)、イサク(Isaac)、エサウ(Esau)、イシュマエル(Ishmael)、ヤコブ(Jacob)、そして12人の兄弟(12 brothers-ヤコブの12人の息子)、ヨセフ(Josef)、ダビデ(David)、ソロモン(Solomon)とも呼ぶことができます。そして、それらは全側面からヨブ(Job)やファラオ(Pharaoh)などの善と悪の力によって覆われています。

私達はこのスピリチュアル・ボディ(spiritual body-霊体)を3本線だけでなく、多次元的なものとして想像する必要があります。それは人体に多様なシステムがあるようなことに似ています:リンパ系、神経系、循環系、そして他のまだ知られてさえいない多数のシステム。さらに、これらは、それらを中を通って流れているエネルギー、液体、そして化学物質なのです。スピリチュアル・ボディにはさらに多くの構成部分との繋がりがあります。なぜなら、その部分部分に多種多様な性質と繋がりと形態が様々なレベルすべてにおいてあるからです。

それを実際に感じるようになるまで私達にはこれを学ぶことはできません。それを学ぶことができると思っている人は愚か者です。私達には、全てが授与の為に働くこの統合したシステムの中で存在したいと願う必要があるだけです。そのシステムの中で私達はクリエーターと創造を見つけるでしょう-実際には全ての物がその内側にあります。私達は「人間は小さな世界である」という原理に従ってそれを考察しなくてはなりません。

しかし、私達はこの私達の世界や肉体的な体について述べているのではありません。“人間”とは自分のことであり、“小さな世界”とはゾハールの書とその物語のことです。

私達の“罪”の償いは私達の意図によります

受取った質問:私はあなたの著書を長い間読んできました。私はキリスト教徒の家庭で育ちましたが、私の持つ全質問の答えは見つかりませんでした。あなたは何度も聖書とは寓話的に書かれているので文字どおり(逐語的)に解釈すべきではないと言いました。私もそれと同じことをずいぶん前に確信しました。しかし、なぜ聖書は罪の犠牲という概念を起用しているのですか? キリスト教における最も重要な信仰はキリストが人類の罪の生け贄として自分自身を捧げたことを考慮すると、なぜ罪あがないの供物という戒律の必要性があるのですか?

私の答え:聖書(トーラー)の全部に書いてあることは、どのようにして人間のエゴイズムを是正し、創造主との完全な同等性の段階に到達するのかということです。ありうる罪のすべてを列挙している聖書の部分は、人間のエゴイズムの啓示について書かれたものです。

その意味は、人が自己のエゴイズムをさらけ出すとき、自分が罪人であると感じるということです。なぜなら自己の利益の為に他者を利用するからです。それと同時に聖書には解決法もあり、私達のエゴイズムの是正方法を伝えます。聖書の説明することは、エゴの違う段階(無生物、植物、動物、人間)とエゴの是正方法についてです。もっと正確には、それは私達の意図・意向を”自己のため”から”他者のため”に是正させる方法を伝えているのです。

はじめに神は天と地とを創造された

受取った質問:「はじめに神は天と地とを創造された。」(創世記第1章1節)

なぜですか? 動機は何だったのですか? 目的は何だったのですか? どうして創造主はすべての結果を考えずにこの世を創られたのですか!? これは洪水の話で立証されてます。「わたしが創造した人を地のおもてからぬぐい去ろう。人も獣も、這うものも、空の鳥までも。わたしは、これらを造ったことを悔いる」と言われた。(創世記第6章7節)それはあたかも彼がこういう結果になることを知らなかったようです。

私の答え:存在するものは2つだけです。被造物―“ひかり”を受け取る意志、そして創造主―“ひかり”:喜びを授与する意志。被造物が“ひかり”と(性質上)同等で、それを創造主を喜ばす目的で「創造主のため」に受け取りたいのであれば、被造物は“ひかり”を受け取ります。そして、もし被造物が「創造主のため」に受け取りたくないのであれば、被造物は創造主と(性質上)反対になります。なぜなら、創造主は被造物を喜ばせたいからです。よって被造物は創造主と創造主の“ひかり”を感じなくなり、完全な暗闇がそれに取って代わります。それが私達の世界―“ひかり”の黒い写しです。

「はじめに神は天と地とを創造された。」の意味することは、彼が授与と受取の性質を創ったということです。何のためにか? それは人間の内面にこれらの性質を混ぜ合わせ、利己主義(エゴイズム)と利他主義(愛他主義ともいう:オルトルイズム)を自由に選択できるようにさせるためです。