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聖なる書物の各文字に生きる

文字は欲求の形態です。クリエーターは楽しみたいという欲求だけを創造しました。そしてその欲求は受け取りと授与の様々な形態を習得します。それにもかかわらず、受け取りの形態はスピリチュアリティーのなかで存在する権利がありません。授与の形態については、クリエーターに類似するもの、すなわちBinaからMalchutまでの様々な授与の種類だけを私達は扱います。

全部を合わせて27個の文字があります:ZAT de Binaからの9個(アレフからテットまで)、Zair Anpinからの9個(ヨッドからツァディックまで)、Malchutのなかに含まれる4個(コフ、レーシュ、シン、タヴ)、そして語末に使われるParsaの上の5文字MaNTZePaCH。これらはクリエーターに、又は正しい行動の手本に似ている物質の形態です。

したがって、私達が本、語、又は文について話すとき、私達はパン生地のように常に変化して様々な形を習得する楽しみたいという欲求について話しているのです。このようにして、クリエーターのようになりたいと切望しながら、私達の欲求はその形態を変化させます。

トーラーの全ての文字を追い、その最初の言葉(はじめに―Beresheet)から最後の言葉(イスラエル)までの文字の並べ替えの全連なりの繰り返しを完了させるとき、人はこれらの形態の全てを獲得し、クリエーターと完全に類似するようになり、最終是正(Final Correction)に到達します。したがって「トーラーの全部をあなたの心に刻みなさい」と言われるのです。心(ハート)とは欲求のことです。トーラーの書、存在している創造物に対するクリエーターの授与の形態のすべて。私達はそれらを自分たちの欲求のうえに書き写さなくてはなりません。そうすれば、私達はクリエーターに類似するでしょう。

“目には目、歯には歯”

受け取った質問:全世界で知られるようになったトーラーのなかのことわざがあります:「命には命、目には目、歯には歯」です。 カバラの見地からすると、この意味は何ですか?

私の答え:同じ度合い、同じ段階、そして同じ形で今や破壊があった場所に是正が必要です。今私達は願望の堕落した場所を是正し、使用するのにふさわしくしなくてはなりません。破壊が起きた場所を正しく識別し、正確に同じ場所を是正する必要があります。何故なのでしょうか? 私達はそうすることにより以下を学びます。クリエーターが行ったこと、彼の計画の抜け目なさ、そして、私が彼の助けを要求し彼の作業から学ぶようになるために如何にして彼が全状態で私をつまづかせるのかということです。

是正における全作業はクリエーターの作業と呼ばれます。なぜなら、私が自分の堕落した場所を識別し、彼の手を引いてその場所に連れてきて、それを是正するよう彼に頼むからです。私は事前に、どうやってこの状態が是正されなくてはならないのか想像します。ひとたび彼がそれを是正してくれれば、私は彼を補完し、それによって彼と私が一緒に歩むのです。この様にクリエーターと私達は繋がっています。

もし私が自分の力だけでこの是正ができたなら、私が上層の力との繋がりを持つことはありません。もしクリエーターが私なしにそれをすることができたなら、私は誰なのでしょう? 私の存在の意味とは何なのでしょう? 彼と私がパートナーとして一緒に作業するには、このやり方しかないのです。

クリエーターは壊れた願望(Kelim)を嘆いています。一方では彼はそれを直したいのですが、他方では私の依頼、私の要求、そして何を直すのかそしてどこを直すのかといった正確な指示なしに彼にそうすることはできません。したがって彼と私はこの作業において真のパートナーになるのです。

From the 1st part of the Daily Kabbalah Lesson 5/4/10, The Zohar


朝のゾハールレッスン:2010/5/2 梗概

ゾハール』16~21節(梗概):トーラーの物語は、器の破壊を既に経た魂に対してなされる行為から始まります。それは破壊された破片の混合、そして、憎しみと拒絶への転落です。言い換えれば、トーラーは是正の準備が整った魂について述べているのです。

隠されている状態に居ることから、我々の世界の人は、自分に欠点があり惨めで、自分が敵意と憎しみで満ちていることを感じません。上層の光の影響だけが、即時の満足と喜びに完全に支配されている私達の真の性質を暴き、それを理解することを助けるのです。

それ自体からエゴイズムを取り除き、永続的な喜びの状態に至るには、クリーチャー(被造物・創造物)、Malchutは、その意図を「自身の為に受け取ること」から「与える為に受け取ること」というものに変えなくてはなりません。このことがBinaの属性を生じさせ、如何に受け取りたいという願望が与えることになるのかを明示します。

クリーチャーが願望(又は欲望)を“制限”し、それ自身を無にするとき、それはBinaの力の支配下に来ます。Binaとは母親であり、自分の娘であるMalchutに、授与という働きを教えているのです。MalchutBinaの中に含まれるようになればすぐに、母親は自分の娘に“衣類と貴重な装飾品”を譲ります。それらはHassadimの属性のことです。その影響下でクリーチャーは段々とクリエーターと似るようになるのです。

彼女(Malchut)が霊的成長をさらにすることにより、MalchutBinaの上に昇り、“Elokim(エロヒム)”の属性を獲得します。これは、彼女が自分のルーツに到達し始め、共通の魂の体系の中での彼女の居所、働き、義務を理解するようになることを意味します。

The Zohar Lesson in Russian 5/2/2010


全てを備えた繋がりのシステム

私が授与の為の是正を切望する事ができるのは、唯一環境がこの事において私を支援してくれるときだけです。授与をしたいという欲求は、唯一自分が他者と繋がっている時に顕現して機能します。よって私には彼らの支援が、「相互保証(mutual garantee)」という形で必要になります。私が彼らを支援する程度にまで、彼らは私を支援します。これは一つのシステムです。わたしがそれを稼働する程度にまで、私はそれから得るのです。

グループに加わって他者と繋がりたいと望む事で、私は反対に自分に向けられた反応を誘発します。その他者が私達の繋がりに於ける正しい形を、私がそれに気づく事さえもないまま、私に受け取らせてくれます。私達が一つのネットワークの中に住んでいるという理由から、彼らは私に、私達が有する繋がりのタイプを示してくれるのです。

この繋がりは、授け与えたいという単なる欲求ではありません。それはむしろ、私達の絆を強固にする保証です。これは私の依頼によって生じるのです。そのあとで、私は自分が用意した器(Kli)- 613(Taryag)の要素から成る、用意された繋がりのシステム – を持って、彼らに依頼します。私はそのことを知らないまま、その全システムを起動させます。したがって、私達はお互いに繋がることにより、私達の間にシステムの全体を受け取ります。

「相互保証(mutual guarantee)」とは、とても深い概念です。それは生命と、私達の繋がりに於ける内面的なシステムについて言及しているのです。私達がしなくてはならないこととは、単にそれを私達の内側から取り出して、使い始めるということです。

そうでないなら、自分は他者と繋がりたいと叫ぶことはできますが、そのやり方をどうやって知る事ができるのでしょうか? 自分は全ての人とその一人一人に繋がる方法を理解しているのでしょうか? その訳は、自分が彼らを目覚めさせることによって、彼らが自分に対して影響を及ぼし、我々の繋がりの形態を自分に受け取らせるからです。彼らはその事について気づいているかもしれませんが、それは重要な事ではありません。どっちにせよ私達は、この繋がりのシステムを起動させるのです。

From the 1st part of the Daily Kabbalah Lesson 4/25/10, The Zohar

スピリチュアルな達成の波に乗る

受け取った質問:ゾハールを読んでる最中、次の瞬間に何も思い出せないとしたら、知識は私達に何を与えるのですか?

私の答え:知識は私達に何も与えません。現在私は何かを知っていますが、明日にはそのことを全て忘れます。なぜ忘れるのでしょうか? もし私の願望(KelimKli(器)の複数形)が変化するなら、私の新しい願望の内側で、以前に知っていたことを明日には思い出せないでしょう。なぜなら、私は以前の願望の内側に、その時はもう居ないからです。

私は唯一感覚だけを通じることによって、一つの段階からもう一つの段階へ知識を伝達できるのです。私達の状態には波のようなプロセスが含まれています:知識〜感覚〜知識〜感覚。私がある段階で自分の願望を是正したということにしましょう。私はこの段階での願望是正に従い、現実に対する何らかの感覚と知識を得ます。どの世界のどの段階に自分がいるのかということの実感を得るのです。

そのあとに、新たな願望が現れます。前の段階は消え、私は暗闇に包まれます。私に残るものとは何でしょうか? すべての人は、暗闇の感覚が自分に来る時、そのすぐ後に前の感覚のすべてが消え、もうそれらが扱えなくなることを知っています。しかし、もしあなたがこの新しい段階、この新たな暗闇を扱い始めるなら、あなたの努力が新しい光を呼び寄せ、その光があなたに来てあなたを是正します。その後にあなたは新たな状態に行き、そこでのあなたには、より高度な新しい知識に基づく、以前の知識に対するより深い理解があります。

したがって、あなたはどんなときでも知識を考慮に入れるべきではありません。それはいつもそこにあり、必ず是正された願望に入るのです。最も重要なのは、願望を是正することです。そうすれば、そのなかで明かされる必要のあるどんなものも、明かされるでしょう。しかし、このことについて心配することは、意味をなしません。

これが、なぜ正しく勉強する人が、何も覚えないでレッスンを後にするのかということの理由です。彼らは一般的な印象を持って教室から出て行きます。この印象は、彼らの理解の中ではなく、感覚の中に記録されるのです。それは感覚の記憶に残るのであり、知性に於ける記憶ではありません。

私は思考力を見下しているのではありません。実のところ、私は知識と真剣な研究に惹かれます。しかし、人が“心の中の点”を通じて勉強するとき、彼の感覚が十分に発達するまでは、彼が勉強している内容を理解することも覚えることもありません。感覚が十分に発達した後に、彼は自分の感覚で理解しはじめるのです。そのあとに、彼は“彼が感じていること”を理解するのです。

結局は、何年もかけて勉強してきたことは消え、“勉強結果”が見えないということになります。その結果とは、あなたの知識の中で示されるべきではなく、是正の光(Ohr Makif・包む光)があなたの特質を是正することに於いて示されるべきなのです。あなたの特質の中という意味です。

これは、4年間から6年間かけて何らかの分野のエキスパートになり、そのあとにもう二三年間かけて博士論文を書くといった大学の勉強とは、とても異なることです。カバラを10年間学んだ人の明確な知識とは何処にあるのでしょうか? 彼は何を得たのでしょうか? 彼にはそれについて見せれるものが何もないようにみえます。その理由は、彼が啓示を達成するまで、新しい特質の中に毎日新しく生まれ変わるからです。

彼が啓示を達成するとき、すぐにそれは彼の段階に記録されます。そうすれば、彼が上昇状態のとき、彼は題材に於ける精通と知識を本当に有します。しかし下降状態のときには、彼は闇に包まれ、彼の経験だけが彼を持ちこたえさせます。(バール・ハスラムの論文”What Is Support in the Torah, in the Work“を参照してください。)

人は、私達が最後の是正(Final Correction)に到達するまでは、状態が大きく変化し、是正のレベル又は高さだけを考慮に入れるべきであるということを理解しなくてはなりません。知識はいつまでも人の段階に応じてその人に伴っています。

全てのものは相対的である、追放と救いでさえも

追放と救いは相対的なものであり、それはその人が何処から落ちたのか、そして何処へ落ちたのかによります。私がスピリチュアリティーから追放されているということを感じることができるのは、私がスピリチュアルワールドを感じ、自分がそれから分断されていることを感じる時に限ってのことです。しかし、もし自分が何から分断されているのかについて感じないのであれば、これを追放と呼ぶ事はできません。なぜなら、何から自分は追放されたのでしょうか?

スピリチュアリティーに関して、バビロンの追放はエジプトからの脱出よりもさらに高い状態でした。しかしそれは追放と呼ばれています。それが多大なる苦しみを生じさせたためです。

私がスピリチュアルな階級から堕ちたことについて、いつ後悔するのでしょうか? それはまさに私がスピリチュアリティーのなかに存在するときです。なぜなら、それ以外に自分はそれを評価することができるのでしょうか? 私はいつになったら、愛、授与、正しい繋がり、そして他者に対する自分の愛におけるクリエーターとの類似性がある状態から、自分が堕落したことを後悔するのでしょうか? いつ私は自分が追放状態まで堕落したと言える事ができるのでしょうか? それは私が既にそれらすべての特質を会得しながらも、それらが十分ではなく、納得ゆかないものとして見るときです。

追放の感覚はとても高尚な状態です。なぜなら、それは私が他者に対する授与と愛の特質を欠いているということから苦しむ時であるからです。


勉強は難しければ難しいほどよい

私達の考えと願望はお互いに繋がっています。したがって、たった今、私達がゾハールの書を勉強している間に、もし誰かが怠惰になっているのなら、これが残りのすべての人を衰弱させます。この人はこの行為に対する罰を受け、勉強を続けることが彼にとってもっと難しくなります。

私達は皆1つの共通の船に乗っています。私は、それに穴を開けているのか、それとも、自分の能力の限りをつくして私達の共有している船を自分の意図で進ませているのかのどちらかです。

私にエネルギーがなければないほど、私にとってそれはますます難しいものになります。それでも、もし私がこれらすべての障害を乗り越えるのなら、私は光を呼び起こすという共同の努力に、自分の大きな努力を提供することになります。それによって私は自分以外のすべての人に影響を及ぼし、この影響が彼らを通じて自分に戻ってきます。その結果、私は最後に勝利者になります。

したがって、それが勉強中に難しければ難しいほど、それはますます良くなるのです。私は自分の責任を感じなくてはなりません。なぜなら、私達の全員が「相互保証」と呼ばれるグループ契約にサインをしたからです。そして、この事実は私に行動する義務を負わせなくてはなりません。

自分独りでゾハールの書を読むことはできません—自分には環境が必要です。この環境とは、世界中で勉強しながら、この勉強結果を期待している人々のことです。クリエーターは世界の様々な場所にいる数百万の人々を目覚めさせました。今、その人々は私達と一緒にゾハールの書を読んでいます。

テレビまたはパソコンのモニターの前に座っているすべての人は、もし彼がこの瞬間に怠惰になっているのなら、彼が他の全ての他者に影響を及ぼすことを理解しなくてはなりません! この違反は彼に戻ってきて彼が私達全員に及ぼした害と同じ程度に彼を目的の達成から遠ざけます。

したがって、その勉強は自分の個人作業ではないのです。今、私達の全員が、私達の船を目的地に近づけさせる「包む光」(the Surrounding Light)を引き寄せようと努力しています。友が欲しがるのなら最後の枕をも与えるという友愛の度合いを人は獲得しなければならないと記されています。

今考えてください:あなたの友達がスピリチュアルな目的地に向かって前進したいと思っています。そして彼とあなたの二人が同じ方向に一緒に進んでいます。しかし、突然あなたは彼を置き去りにします! これほどの裏切者はどんな罰を受けるに値しますか?

そして夕となり、また朝となった 一日

スピリチュアルワールドのなかで光が現れることを「日中」と呼びます。ゆえに、「朝」の次に「正午」そしてその次に午後の祈りが来ます。楽しみたいという願望は人の中で大きくなり、様々な状態のなかを通り過ぎると、彼は感じます。「日中時間」は、新しい利己的な願望があまりにも大きくなり、光が制限されはじめ、太陽が沈みはじめるまで、続きます。その人にはHochmaの光を保持するのに十分な量のHassadimの光がもうありません。彼の楽しみたいという願望は是正される前に大きくなったのです。

その結果、もう彼が受け取りたいという願望と授与したいという願望の差異、または光と暗闇の差異、が識別できなくなった時、「夕」が始まります—すべての物が混ぜ合わさっているということです。彼のスピリチュアルなPartzufRosh-Toch-Sof(魂における頭、体、そして手足)がすべて同じ段階にある時、彼は“横たわった”(不活発な)状態に入ります。彼はどんな計算もできなくなり、計算しなくなるのです。

彼にできる唯一のことは彼の「無生物」段階を維持することです。よって彼は“眠りにつき”、これは死にとても近い状態です。「夜」と呼ばれる状態のときに、彼は再び「結束」—魂どうしのきずな及びクリエーターとの合体—を獲得します。そうすることで堕ちてる状態にあっても、上層の光が彼を持ち上げます。

この点から、私達は、スピリチュアルな段階に到達する前のこの準備段階で、どのように自分たち自身を暗闇に備えさせるのかということに対する結論を引き出す必要があります。可能な限り多くのつながり又は“支えるブロック”を造るために、自分たち自身をグループと真正な書物と勉強に束縛させることによってでしか、これを行うことはできません。私達がこのつながりを造るとき、「夜」が終わり、新たに「日中」が始まるでしょう。


その時、新しい王がエジプトに起き上がった

『ゾハール』Shemot(出エジプト記)章 250節:彼らの部族が残りの国々と混ざることを恐れ・・・彼は、イスラエルを軽蔑しひどく嫌っていた傲慢なエジプトに、彼らを追放した。そして彼らは、アモリ人の不正が蔓延し、彼らが彼らの土地に来るまで、そこに居た。その理由は残りの国々と混ざる恐れがもうなくなったためである。

自分たちの心の中で中間線(the middle line)を築くとき、どう私達は望まれた状態にもっと近づくのでしょうか? 光、授与する者、又はクリエーター、との私達の類似である中間線は、まさに私達の内面で明かされる「エジプトへの追放」(エジプト捕囚・エジプトでの異郷生活・the Egyption Exile)と呼ばれる状態によって生じます。

自分の利己的な願望はあまりに大きくなり、私はその中にとじ込められ、それに制御されていると感じます。そのあとに私は、自分自身と自分の性質、自分自身と自分のエゴイズム、または、自分自身と自分の特性、を見分けはじめます。

私は自分の特性を変えたいと思っていますが、そうすることができません。私はその特性が自分に害を与えるのを見ます—私が自分自身、自分の人生、私の近くにいる人々の生活、そして全世界を堕落させていると、私は実感します。私は、自分で鎮めることのできない、永久に膨張し続けるエゴイズムの中に存在しているため、自分自身と残りのすべての人を危険にさらしています。それでも私は、それに対してどうすることもできないのです。

その後その人は、自分に働いている力が外来性の力であると実感しはじめる状態になります。その人はもうそれと関係しなくなり、それを自分の憎い敵として知覚しはじめます。このことを、“その時、新しい王がエジプトに起き上がった”(出エジプト記 1:8)と呼びます。人はこう感じはじめます:新たな支配力が明かされた、これは自分ではなく他の誰かがこの全てを自分のために用意していると。それは自然またはクリエーターかもしれませんが、その人ではないのです。その人はどうすれば自分がそれから自由になるのか知りません。

そのとき人は、まるで自分の脇から自分自身を見つめるように、自己の喜びを受け取る意志を、自分とは無関係なものとして見ます。その人は、クリエーターのことを、このすべてを自分のために準備・計画する者として、認識しはじめます。その人には既に、ファラオとクリエーターの両方に対して同じ姿勢があるのです。

その後その人は、内面的な分割—自分に起こることの全てを決定している上層の力が存在するという実感—を経験します。しかし、この啓示はそれ自体が独立して勝手に起きるものではありません。その人が実際にカバラの知恵に取り組み、その間における多数の学習時間、グループの中での結束、そして普及活動での作業の後にしか起こることはないのです。


エジプト脱出の奇跡

『ゾハール』Bo(ファラオの所へ来る)章 ・・・そしてあなたの神である主はあなたをそこの外へ連れてきた・・あなたがエジプトから脱出したこの日を覚えておくのだ・・・そして、彼の偉大な力で、彼の存在と共になんじをエジプトの外へ連れてきた・・・主はあなたをこれの外に連れてきた・・・エジプトからの脱出は50回トーラーのなかで言及されている・・・

50とはMalchutの10個のSefirotBinaの40個のSefirotを一緒にした最高段階です。Malchutの全体はそれ自身の上、その最高段階にまで昇る必要があります。これらの2つの力は人間の中で感じられないといけません。1つがもう1つと対立するように。

したがって、自分らのエゴイズムから脱出する力が私達には備わっていないということに於けるひどく不快な気持ちに至り、同時にこの遂行が絶対に必要であることを感じるようになり、そのあとに私達が「エグザイル」(異郷生活・国外追放)を終えるまで、救済はやってきません! 私達がこの対立を最大限に感じるようになるとき、紅海(ヘブライ語では最後の海と呼ばれる)の海が開き、それを渡るのです。

人は、それがどう啓示されるのかについて知りません。これは奇跡と呼ばれています。しかし、この奇跡は人が行き詰まった状態になるときに、その人自身によってもたらされるのです。一方、その人は、どのように脱出することが可能なのか理解しません—その人にはこのための力または能力がありません。さらには、その人の性質を変化させる何らかの力が上層に存在しうることも理解しません。そして他方、自然を超えた所に存在しているこの力が啓示されるのです。

これは奇跡のようにしか起こりません。それは「エジプト」と呼ばれるその状態、その性質の上で生じ、人間の内面感覚の全体を構成します。