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すべては私達の特質なかで描かれている

『ゾハール』VaYaera(そして主が現れた)章 94節:彼らは人々の形で地上に降りてきたので、もちろん彼[アブラハム]は彼らを見た。彼らは確かに聖霊であったが、世界に降りて来るときは、空気と、覆う物と、包む物の要素をまとい、人々にとってまさに彼らの形で見えるのだ。

これには違う解釈の仕方があります。私達は現実を喜びを受け取りたいという願望のなかで知覚します。存在しているものとして私達が知覚するすべてのものは、物体のなかで顕現された喜びを受け取りたいという願望です。“物体のなかで顕現された”とはどういう意味でしょうか?その意味は、現実が私の存在する段階における感覚のなかで知覚されているということです。

この段階以上に知覚するには、人の特質の変化が必要とされます。私は自分の願望の中で、自分が光と相似している程度、光を知覚するのです。それは様々な像と形を私に映し出します。“私はこの世に存在する”とは、何を意味するのでしょうか? その意味は、光が私の特質の中で輝き、そのなかに私が見るものが自分の現実であるということです。

もし私が光にもっと照らされ、自分の特質が変化するなら、私は、光により近くて特質においてより高い段階に上昇します。光が私のより是正および改善された特質の中で輝くことで、光はさらに高いはしごの踏みこ、または上層世界、を私に知覚させます。すべてのものは人間の特質の中で描かれているのです。


なぜ古代都市ソドムは破壊されたのか?

受け取った質問:何故ソドムは滅ぼされたのですか?その法律は公正であったように思えます。全てのひとは受け取るべきものを受け取りました。

私の答え:ソドムでは、すべての人は自分自身に留まっていました。“ほっといてくれ、あっちに行け!私はあなたに何も与えない。あなたは私に何も与えない。そうすればどんな対立もなくなる。全ての人が独り。全てが公平で公正。問題があるなら、クリエーターと共にそれに取りかかれ。でも私のことはほっといてくれ!” ソドムの市民はこれを宗教に変えました。しかし、法律それら自体は悪くありませんでした。

それに比べ、今日の世界はソドムよりよっぽど悪い状態です。今や、すべての人は絶縁状態で、お互いから距離をおいているだけでなく、全ての人が他の全てのひとを破滅させて利用したい、彼らから盗みたいと思っています。ソドムの場合はこうではありませんでした。その都市の法律は“他者に良くするな。しかし他者に危害も加えるな。他者に危害を加えたいと考えることすらも禁ずる!”とはっきり述べています。

ソドムの唯一の欠陥は、その法律が人々の結束の妨げになったことにありました。“何でも好きなことをしろ。しかし他者に近づくな。”この意味は他者とつながりを持つなということです。それは戦争も禁じました—破壊に於ける相互貫通と同様、戦争もつながりの一種なのです。

破壊はすでに“ソドム”の状態ではなく、正確には”エルサレム”です。BinaMalchutの破壊された破片が互いに接合する(つながる)とき、それらは修繕(是正)されるのです。しかし、ソドムを是正することは不可能です。なぜなら、そこには相互的なつながりがないからです。それはBinaの特質を受け取ることができません。よってそれは単に滅ぼされなくてはならなかったのです。他の破片と混ざることのできない、これらの快楽に対する願望の破片に触れることは禁じられています。その結果、それを是正することは不可能なのです。

ソドムのイデオロギーは非常に強固なものです。今日の世界のなかで、もし私達がそれを明らかにして、その説明を人々にしたとすれば、、彼らはそれを理解し、それに従いたいと思うことでしょう—しかし、次の是正段階に必要不可欠な壊れた魂の破片の混合(BinaMalchutの特質の混合)は、ソドムのイデオロギーでは不可能であるという欠陥があるのです。

(訳注:カバラに於ける“禁じられている”とは、不可能を意味します)


第一と第二の制約

受け取った質問:第二制約(Tzimtzum Bet)の状態から第一制約(Tzimtzum Aleph)の状態への変化を、人はどう感じますか?

私の答え:私達は第二制約とその三本線の働きをより複雑なものと考える傾向があります。しかしながら、第二制約の状態では、どの程度まで願望が使えるのか、または使えないのか、そして、どの程度まで自分自身を無にする必要があるのかは、とてもはっきりしています。

それに比べて、第一制約は簡単なように見えて騙されてしまいます。一見それは願望、光、そしてスクリーンだけを扱うように思えます。つまり、そこでは自分がゲストで彼がホストであり、私とクリエーターだけが関係しているように見えるということです。しかし、これが成立するのは、人が上から下へ下降して、その人に力があるときに限ります。それは、お金(力)をたくさん持ってレストランに行き、金額を気にしないで注文する様なことです。これが第一制約とよばれるものです。

しかしながら、私達はまだそのような是正された状態にいません。私達の願望は、その全てが目の前に置かれて開示されてる程度にまで、是正されていません。第二制約が定めている条件下で、私達は常に、取れる量、取れるもの、そしてその理由を計算します。それは、20ドルを持ってスーパーに行き、それで家族を養うための食料雑貨類を買わなくてはならない状況に似ています。よって値段を確かめて何が最も必要なのか判断して決めるのです。

これが、下から上への是正の道の間の私達の行動様式です。私達には力がなく、私達は授与に近づかせるどんな機会も歓迎します。このようにして私達は徐々に授与の力をつけていくのです。

主要エネルギー源へのアクセスを手に入れる

この世のすべてのひとは、内面からの二つの力によって支配されています:エゴイズム(利己主義)とオルトルイズ(利他主義・愛他主義)です。利己的な力は全てのものを人の内側に引き込み、その人を宇宙の中心にします。一方、愛他的な力は外側へ与える能力、他者に与える能力をその人に与えます。

しかしながら、オルトルイズムと呼ばれるこの力でさえも、この世の中の領域では、利己的な行為しかできないことが明白です。よって、たとえ私が他の誰かに何かを与えたとしても、それは無私無欲の行為ではありません—私は依然として何らかの見返りを期待しているのです。私は自分の行為に対する動機または“燃料”といった報酬なしに与えることのできる可能性を全く有していません。

このように人間は造られているです—利己的な燃料、受け取るであろう利益の期待でしか動かない機械。私は、外からのエネルギーや充足の摂取なくして、永久運動する永遠のエンジンとして働くことは不可能です。エネルギーは外から得られないといけないのです。なぜなら、私はそれ自体の光で輝く太陽ではないからです。

唯一クリエーターだけに真の授与の特質があります。なぜなら、これが彼の性質であるからです。創造物が無私無欲に授与することができるようになるには、クリエーターの偉大さを知覚するという形でクリエーターから燃料を受け取らなくてはなりません。これが授与(与えること)を達成する唯一の機会です。それはクリエーターを動力エネルギー源として利用することです。

これは共産主義者、社会主義者、キブツ主義者、そして世界を是正したいあらゆる種類の愛他主義者の全問題を成しています—彼らは人間に授与するエネルギーがないことを理解していません。この概念を実行する燃料は人間にはないのです。もしすべての人が愛他主義者になったとしたら、人生がより良くなるという事実に反論する人はいません。しかし問題は、誰もこれをどう起こすのか知らないということです。カバリストたち以外に誰も知らないということです。その理由は、カバリストたちにはエネルギー源へのアクセスがあるからです!