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誰が『ゾハールの書』を隠しているのか?

『ゾハールの書』が人々に隠されていたとき、それは2世紀に書かれてから13世紀に明らかにされるまでですが、誰もそれを隠されているとは言いませんでした。全く知らなかったのです!

今日、世界中の誰もが自由に『ゾハールの書』を購入し、読むことができます。では、なぜ秘密とか、隠されていると言われるのでしょうか。

この書物にはすべてがあります。『ゾハールの書』は、この世界と上層の世界を、そのすべての完全性において私たちに明らかにすることができます。それは、全宇宙の125段階すべての高さの達成レベルで書かれており、私たちの道全体について教えてくれます。

唯一の問題は、この本がどのように閉ざされているかということです。本の中で何が起こっているかを見るために、集中したり正しく同調したりすることができない人自身によって閉ざされているのです。

もちろん読者自身は、他の読書のように文章の前に身を置くことができません。しかし、読者自身は、他の読書のように文章を前にして自分を見失うことはなく、文章の中に自分の世界、歴史、地理、生理学、解剖学などのイメージを見出すことができます。概念、物体、行動をこの地上での理解と結びつけています。

たくさんの配線や部品を間違ってつないでしまった電気機器を想像してみてください。それを作動させることができるでしょうか? もちろんできません。

問題は、すべてが目の前にあるのに、それを明らかにすることができないことです。自分自身も、このシステムも正しく使うことができず、自分自身の中で間違って組み合わせてしまっているということです。私たちは『ゾハールの書』に対する正しいアプローチができていません。

読む前も読んでいる間も、常に新しい焦点、理解、ビジョンに自分を合わせることを学び、それを一歩一歩、ゆっくりと進めていかなければならないのです。

同調することが義務付けられていますが、それは単に『ゾハールの書』を開いて読み始めても、混乱するだけで、その混乱を修正して最初に戻ることは非常に難しいからです。

したがって、すべての難関は『ゾハールの書』に正しく入ることにあります。

そのため、『ゾハールの書』には、私たちの知覚の道具である「魂」を研ぎ澄ますための資料(原典や記事等)が添えられているのです。

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デイリーカバラレッスン12/21/2009第3部 『ゾハールの書への序文』より。

狡猾な敵アマレク

アマレクは、スピリチュアルなものを追求する人間にとって最悪の敵です。アマレクに打ち負かされると、スピリチュアルなものに対する重要性が欠けたり、ぼんやりしたり、うんざりしたりしてきます。アマレクが、クリエーター(創造主)の性質を発見したい、クリエーターのようになりたいと努力する欲求を奪うのです。そして、私たちは、努力しないほうが良い理由をたくさん見つけ始めます。これがアマレクの力と言われるものです。

アマレクはあからさまな敵としてではなく、たいていは気づかれないように忍び寄り、倦怠感を与え、怠けぐせをつけさせて、スピリチュアル的なものを重要視させなくします。私たちは生きていく中で、目標へと続くとても重要な行動を具体的に行うことなく、種々様々なことをたくさんしているものです。そして、目標以外のすべてのものに満足しています。これがアマレクと呼ばれるものです。

アマレクは私たちを攻撃する憎らしい敵としては姿を現しません。しかし、アマレクを滅ぼさないといけないのは明らかです。

ラバシの記事についてのレッスン( 2011年9月2日)より

母たる心

母たる心は物質的、スピリチュアル的な全宇宙の中心点にあります。結局のところ、スピリチュアル的にも物質的にも、まさにこの地点から命が生み出されるのです。母たる心より強いものはありません。それは全現実の中の最も敏感で重要な地点です。クリエーター(創造主)は欲求を創造しましたが、欲求とは母たる心の基盤です。

そのため、女性たちがほんのわずかでも調和や統一について考え始めれば、それはすでに人類の命、つまり共通の魂が始まった場所、全宇宙の中心点に触れていることになります。世界が是正されるのは、女性を通してだけなのです。

女性には、命を生み育て、体系化していく、とてつもない力があります。裏を返せば、もし女性がこの是正に加わらないのなら、その人は争いの原因となり、仲たがいや邪悪さのある場となってしまいます。ですから、私は本当に、女性がまとまって、平和や平穏、人類の統一をもたらすことを心から願っています。

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From the Women’s Lesson 8/29/20, “Bnei Baruch Rule Toward Humanity”

2019年砂漠のコンベンションへの準備

クリエーターを満足させるためには、共通の欲求を持たなければなりません。誰一人として、自分の欲求だけでは、十分な強さの影響力をもたないからです。クリエーターというのは、私たちの統合の結果であり、唯一、私たちの中心、テン(TEN:10人)の中心からだけ「彼」に到達できます。私たちが共通の欲求に到達したいと切望した時点から、その切望の分だけクリエーターへつながっていくのです。

私たちはこの欲求をその質と量において発達させ、成長させ続けます。自分の内側にどんな種類の欲求があるのか。クリエーターに向けられた共通の欲求、つまり共通のマルフットに貢献する時、いつもどのようにそれを心を決めているのか。私たち一人ひとりが、主にそういったことを確認していきます。

愛の貯蔵庫(器)は信仰です。愛とは、信仰の光、ハサディム(Hassadim)の光に変化するホフマ の光(Light of Hochma )です。クリエーターのために愛を受け取るということ。そのためには、私たちの中にそういった器を発達させる必要があります。

友へ授与するのはクリエーターへ授与するのと同じである、と書かれています。自分が楽しむための欲求であれば、テン(TEN:10人)でも、世間でも、クリエーターでも、どこに授与しようが何の違いもありません。どちらしても、器の中に受け取らないように、自分を自らの欲求から切り離すことになります。しかし、授与それ自体には、友人へ与えるのとクリエーターへ与えるのとでは違いがあります。

もし人が純粋な愛に到達し、友へ向けて授与するのであれば、それに伴ってクリエーターへの愛と授与にも到達する、と書かれています。勉強とテン(TEN:10人)での作業に助けられながら、その友人たちのなかに正真正銘のクリエーターの性質を見るために、友人たちへの態度を変えないといけないのです。それができたとき、友への愛が完全なものになり、クリエーターへの愛が友人たちの中に明かされます。

しかし、自分の行動はすべて権力やプライド、わがままのためであり、正しい意図とは反対であることを発見したとしたら、どうやって同じ力と熱意でもって進み続けていくのでしょうか? 自分が身勝手に行動していることや、自分の意図と行動は必然的にすべて自分のためであることを、私たちは知っています。しかし同時に、私たちは反対の方向へ動くことを欲しています。「エジプトへの追放からの脱出」と言われるものです。

私たちは利己主義や私一人のためという意図、グループへ向けてのエゴだらけの態度といった力の下にいます。私たちはこれに気づくと同時に、自分たちの行ないが利他的になるという望みをもって、振る舞いつづけなければなりません。たとえまだ、そこに正しい意図はなく、あるのは行動だけだとしても、そうすることで、改善する光を惹きつけます。

私たちの意図がすでに利他的であったなら、内なる光が作用しているはずです。しかし、今私たちに作用している包む光(囲んでいる光)はそれとは違い、今のところ授与のための意図はありません。私たちがエゴの中や自分一人のためという意図にいたとしても、自分たちの行動が与えるものになるよう段取って、包む光(囲んでいる光)を目覚めさすのです。

つまり、私たちは行動の世界に存在していて、結局、私たちにできることは、今はまだ反対の形態である改善する光を目覚めさすことなのです。この改善する光は心の点を持つ人々を見分けます。そういった人々は、授与というものの存在やクリエーター、利他的なつながりを感じることができますが、そこに到達する能力はありません。授与の力を理解していても、その正反対の状態の中に自分がいることも見つけています。しかし、自分たちの行動を通して、改善する光と言われる授与の段階からの影響を引き起こすことができます。

利己主義とその内側にある心の点。この2つの性質を持つ人だけが、それをする能力を持ちます。その人たちはエゴの内側では、自分の性質や追放状態、ファラオの奴隷として、それにしたがって行動しながらも、心の点にせきたてられて、授与や奴隷状態からの脱出、エゴからの解放へ向かっていきます。そして、かすかな希望を感じたかと思えば、エゴから自由になることはできないと悟る。それを何度も何度も繰り返していくのです。「イスラエルの子どもたちがその仕事にため息をつき……、泣き叫ぶ」まで。

この2つの相反する性質は、イスラエルというクリエーターへまっすぐに向かう人だけに存在します。その人は自分が受け取りたいという意志に支配されていることをはっきりと認識すると同時に、授与について、自分自身の上へ昇ることについて考えています。その人にとって、それは哲学でもなければ、心理学でもなく、現実的な人生の目的です。その人には、欲求の中の欲求、つまり利己主義の内側にあるスピリチュアルな点を与えられているのです。

From the 1st part of the Daily Kabbalah Lesson 1/27/19, “To Bestow Contentment to The Creator” (Preparation for the Convention in the Desert 2019)

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理性を超えた信仰へ至るには?

理性を超えるとはどういうことなのでしょうか? 私たちが理解していることや、この世の人の思考からすれば、理性の範囲内とは人のエゴを意味します。「私の意見では」などというように、エゴによって、人は理解し、感じ、決意し、行動します。しかし、自分の意見を超えたところに、上層世界の意見があります。つまり、クリエーターの意見と引き換えに、自分の意見をあきらめなければならない、ということです。

しかし、人はクリエーターの意見を知りません。それはテン(TEN:10人)を通して届きます。もしテン(TEN:10人)につながるなら、徐々に自分を無化して友に統合することで、友の意見と引き換えに自分の意見をあきらめていくことになります。これは何かを単純に別の何かに交換するといったことではありません。それでは天使、つまりスピリチュアルな獣になってしまいます。そのため、自分の理性を超えてそれを振る舞うのです。自分の意見は保ちながら、それを超えていくのです。つまり、2つの段階にいることになります。この2つの違いからスピリチュアルな人が持つ理解力を見つけ出していきます。

人の感覚は何も壊されませんし、何も消されません。その代わり、今までとは異なったクリエーターの性質を付け加えることで、理性を超えた信仰を獲得します。自分の意見を持ちつつ、それを超えた信仰を持つのです。そして、人はその2つの間に存在するようになります。クリエーターは、無駄な楽しみのために私たちの欲求を創ったのではありません。それは、「暗闇は光のように輝く」という、常に私たちに伴っている基礎を成すものであり、エゴや自分の意見といった暗闇はそれを超えた意見を助けています。人が低き被造物にクリエーターの偉大さを獲得するのは、それらの対比によってなのです。

私たちは自分を取り消すことも、自分にある何かを失うこともありません。両足でしっかりと立ちながら、中間の線を築きます。そして唯一この方法だけが、自分たちをクリエーターと類似したアダムという人間に位置づけるのです。被造物にあるすべて、起こることすべては、クリエーターから受け取っています。しかし、それは人が自分でどう決めるかによっています。1

クリエーターは人に「彼」(クリエーター)とつなげるアダプターを与えてくれています。それは、テン(TEN:10人)です。このアダプターはとても複雑なものですが、他に選択の余地はありません。たとえ何年かかろうとも、そのアダプターにつながってそれを使うしかないのです。そして、自分を無化しなければ、グループにつながることはできません。自分のプラグではソケットに合わないからです。クリエーターは友人たちの内側にいて、「彼」はもっともっと友人たちにつながれるよう助けているのです。友人たちの内側に「彼」を明かし始めるまで……。そうして人は、友人たちを通してクリーターと共に働き始めます。その友人たちはその人の魂であり、魂を満たす光であるからです。

そのため、これまで経験したすべてのことから離れて、グループに入り自分を無化し始める以外に私たちに選択肢はないのです。今私たちは、人生経験と知識が豊富な大人について話しています。しかし、人はその自分から抜け出して胚(胎芽)を作り、グループに対して無(ゼロ)になります。その状態から人が知識を得始めて、成長し始めると、人のもともとの性質やその思考、自己への欲求といった土台の上に、理性を超えた信仰を築きます。片方がなければ、もう片方もありようがないのです。2

From the 1st part of the Daily Kabbalah Lesson 1/23/19, Writings of Rabash, Vol. 1, Articles “Rungs of the Ladder,” Article 21 “Concerning Above Reason” (1986)

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私が望むたった一つのこと

私は自分の感覚や心に働きかけることはしません。私が望むことはたった一つ。それは他者に含まれることを通して、新しい視覚や聴覚、味覚、臭覚、触覚を受け取ることです。友とのつながりを通して、今私は、クリエーターと類似した「アダム」という人間を作っています。私は自分の今の感情を気にかけることはしません。なぜならそれらはすべて、動物的レベルのものだからです。

From the 3rd part of the Daily Kabbalah Lesson 1/9/19, Writings of Baal HaSulam,“The Essence of the Wisdom of Kabbalah,”

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最も難しい事は助けを求めること

thumbs_laitman_239バール・ハスラム「トーラーの授与」:我々はトーラーにおける残りの612のミツヴォット(戒律)が、それらのすべての解釈と共に、ただ一つのミツヴァ(ミツヴォットの単数形)、すなわち「汝の友を愛せよ」の中に挿入され、含まれている詳細の合計以上でも以下でもないことを理解すべきである。

613の「戒律」、すなわち是正に至らせる613の行いがあります。私たちは受け取りたいという欲求に関連する意図を、利己的なもの(受け取るために)から利他的なもの(与えるために)に改めるべきです。私たちがそうするとき、それは私たちが「戒律を果たした」ことを意味します。

戒律の数は、魂の器に含まれている個人の受け取りたいという欲求の総計で定義されます。それは2つの部分に分かれています。

上部  ガルガルタ・ヴェ・エイナイム (Galgalta Ve Eynaim <G’E>)248の欲求
下部  アハップ(AHP)365の欲求

受け取りのためという意図は邪悪な性向と呼ばています。一方で与えるためという意図は、善い性向と呼ばれています。行為自体は同じです。それらの背後にある意図によってのみ、私たちは良い行為と悪い行為を識別することができます。そのため、是正のプロセスは実際には意図を変更することです。意図が自己中心的なら邪悪な性向とみなされ、その中心が隣人に向けられているなら善い性向なのです。

結局、私たちは248と365の欲求を是正しなくてはなりません。全部で613です。しかし、最後の戒律(愛についてのもの)は「問題をはらんだ」ままなので、私たちは実際612の欲求しか是正しません。カバリストたちが言うように、612の欲求を改善することによって、我々は愛を達成します。 言い換えれば、友への愛から、私たちは創造主を愛するようになります。

 

総体のシステムの中には、欲求の特別な部分があります。それはグループと呼ばれるそれ自身を是正しなくてはならない部分で、当然ながら残りの欲求と相互的につながっています。最初、私はそこにいません。 しかし、グループで友と一緒に作業を始めて、友とのつながりを望み、現実にそうするやいなや、自分の性質がすべてこれに反していると分かります。つまり、「できない」「不可能だ」「したくない」 「しない」ということ。これが邪悪な性向というものです。つまり統合したくないということ。それは私を妨げます。

その後で私はそれを私の中に存在する「憎む人」と呼び、至る所にいる友からその是正を要求します。私はどこを是正するのか、どのように是正を実現化するのか、そしてどのように自分の性向に打ち勝つことができるのかを発見します。そして、クリエイターの方を向く必要を感じるまで私はそうします。

それはすぐに起こりません。私は今、叫ぶことができますが、その後で利己的な欲求は高まり、クリエーターの考えに我慢できなくなります。私はクリエーターを憎んでいて、いつでもクリエーターを滅ぼす準備ができています。クリエーターに向かうこと以外なら何でも喜んでするのです。私は不可能なことをするよう要求されていると思います。まるで敵を滅ぼす代りに敵を愛して助けなければならないかのように。それは非常に難しいことです。その後で、絶望を感じ、何よりも授与の獲得を欲する時、私はクリエーターの方に向くのです。

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From the 4th part of the Daily Kabbalah Lesson 10/21/12, “Matan Torah (The Giving of the Torah)”

あなた自身ではなく、あなたの友達を信頼しなさい

質問:「あなたが死ぬその日まであなた自身を信頼するな」と書かれています。それなら、もし私が私自身あるいは友達を信頼できないなら、アルヴット(相互保証)の意味とは何ですか?

答え:当然私は私自身を信頼できません。しかしこれは友達について言及しているのではありません。グループとは単にレッスンに来た人々の集まりではありません。グループとは彼らの魂と魂の内なる和合・統一です。

クリエーターは魂たちが住む「無限の世界」と呼ばれる欲求(喜びを受け取る意志、すなわちクリ)を創造しました。これらの魂たちはお互いに結合し、無限の光で満たされている1つの集合したシステム、すなわち1つの魂の状態にあります。

しかしこのシステムは、それを隠すスクリーン、すなわちフィルターによってあなたから遮断されています。このシステムはフィルターを通じることで幾分堕落した又は壊れたようにあなたに映ります。その内側は完全で無限の光によって満たされていますが、現在あなたはそれを歪んだものとして見ています。さらに進んで、その次のフィルターの後ろでは、あなたにとってそれがさらにいっそう堕落しているように見えます。

第一状態、すなわち無限の世界から、最終状態、すなわち私達の物質世界まで、全部で125個のそのような段階あるいはフィルター、すなわち無限の状態を隠すものが存在します。したがって、あなたはグループをあなたの物質的な視覚で見て考えます、「そもそも彼らは誰なんだ? 私は彼らより低くない! 彼らは本当に統合しているのか? いや、彼らは統合していない。彼らは本当に統合することを望んでいるのか? いや、彼らはそれを望んでない。彼らは本当に何かを理解しているのか? ラビ・シモンのグループを私にくれ。そこでなら私は彼らの腕の中の赤ちゃんになることに同意するだろう! そしてこれらの・・・ 彼らは私にとって誰なんだ?」

しかしこれは間違いです。すべては友達に対するあなたの態度によって決定されます。もし人が彼らを「貫通」し、つながりたいと思うなら、隠れた状態にあり、参加していて理解するこれらの物質的な身体とではなく、むしろ彼らを完全な結合状態で無限の中に住むグループとして扱うなら、仕事は終わりです:彼はこの完全な状態に接着します。

なので、ラビ・ヨスィ・ベン・キスマは彼のビギナーの弟子たちなしでは居ることができなかったのです。彼らは小さな段階でいくらかスピリチュアリティを求めていたのでしょうか?彼らを通して彼が、彼ら自身がそのことに気付いていないにもかかわらず、彼らが1つの心を持つ1人の人間のように、皆1つになっている場所であるスピリチュアルな状態に入るのにそれで十分でした。

これは環境、すなわちグループと呼ばれます。しかしながら、私自身は、私が私自身を想像できる場所の中に住んでいます。そして、私は私自身を、何でも受け取ることができる理想的で完全な環境に照らし合わせて想像します。そして唯一それを通じて私は力を獲得します。

したがって、グループとは身体的な人々の集まりではなく、むしろ私の内なるスピリチュアルな特質なのです。

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From the 1st part of the Daily Kabbalah Lesson 12/24/10, “Perfection in Life”

ハートとはレモンを搾るようなこと

より近づくことには、いくつかのフェーズがあります。第一フェーズでは、スピリチュアルワールドに到達するためにつながることを切望すればするほど、つながることができないと知ります。人は他者とつながってクリエーター(つながりの中に存在する授与の特質)を明らかにすることはできません。

その人は自分ではできないと分かるまで努力します。最初に発見することは、クリエーターの力がその人をすぐに助けることができるということです。だからその人は「彼以外に他は在らん」、これだけが自分に唯一必要なことだと言います。それに至る(そのことを悟る)ためには、一番目に、自分には選択肢がない、次に、なので創造された存在に対する愛という指示に従うことに自発的に同意し、それ故に、クリエーターに対する愛に達します。

創造された存在に対する愛の条件は、常にどのくらいクリエーターが明かされなくてはならないかによって働きます。カバリスト達だけにクリエーターが明かされていて、その他の人からは隠されていた時代もありました。よってこの作業は今日のとは違っていました。これは、時代によって一般の知恵と個人の知恵の間の結合に違いがあったことを意味し、このことについて「トーラーの意見は地主の意見と反対である」と書き記されています。

今日私たちは完全なる啓示(クリエーターが完全に明らかになること)に近づいていて、カバリスト達がそのことを私たちに告げています。その理由は私たちが自分たちでそのことを見付けることができないからです。単に外面的兆候からでは誰もそのことを特定できません。とはいえ日々世界は完全なる危機に向かって突き進んでいます。その危機とは人間社会の危機、つまり人と人のつながり(人間関係)の危機です。しかし、この世界には人間のつながり(関係)を正せる力は存在しません。

だからこそ私たちはカバリスト達が言うことに耳を傾けるべきなのです。まず私たちは、私たちがつながって一つのハートを持つ一人の人間になることをクリエーターが助けてくれることを理解しなければなりません。私たちのハートは異なるので、一つのハートになるようにつながるためには努力が必要です。それはあたかもレモンの果汁のすべてを搾りだすようなことです。つまりハートから出てくる邪悪な性向のすべてを搾り出すということです。そして残ったものに、お互いに与え合うという意図を加えます。そうすることによってクリエーターに与えます。

条件はとても簡単ではありますが、その条件を満たすのは不可能です。しなければならないことは明白です。自分のハートから利己的な性向をすべて搾り出したあとに、グループと、そして友達の一人一人と、そしてクリエーターとも同様に、良い関係を結ぶことができます。しかし、それはその人が友達で、私たちにそのようにつながる準備ができている場合のみのことです。そうなら私たちは一緒に私たちの間にある共通する一つのハートの中にクリエーターを発見します。

私たちの一人一人が上層の力そのものと同じくらい重要です。私たち一人一人が自身を愛と授与の力に変化する準備ができています。もし私たちがそのことを切に願い、そのことを日中に忘れないなら、習慣が第二の天性になり、自分たちだけではすることができなくクリエーターの助けが必要であるということに気がつきます。唯一彼(クリエーター)の助けを借りて私たちは自分たちの性質を無にし、それを超えてつながることができるのです。

From the Preparation for the Daily Kabbalah Lesson 6/3/14

霊的発見までの9つの段階

私たちの目標は光との同等性と調和に到達すること、言い換えると、是正の完了、つまり永遠の愛と授与に到達することです。この状態は、光に似るために何が欠如しているのか理解するのに必要とされる特性に対する私たちの気付きと感覚、そして上昇を必要とします。それには内なる変化を経験しなくてはなりません。

すなわち、私たちの作業のすべては、いま自分が感じていることと、自分が正された状態で感じているであろうことを理解することです。いかなる状態でも私は光のように反応しなければなりません。

自分の人生の全瞬間において、私は光と釣り合った状態、つまり形態の同等性を切望しなければなりません。このためには、まず第一に光の特性を知ることが必要です。しかしそれまでは、私たちは隠されている状態(in concealment)に在り、光との同等性に到達してないかぎり、光を感じません。光を感じないなら、どうやって私は光に似ることが出来るのでしょうか?

ここで私たちを助けてくれるのが私たちのために創造された、この世という状態です。この世という状態が他の諸世界のいずれにおいても存在しないことは驚きです。ここ、この世では、たとえ私が完全に砕け散っている状態、つまり光と完全に正反対の状態にあるにせよ、そのすべてにもかかわらず、私のように光との同等性を探し求めている願望を発見する可能性があります。彼らは私のように上層からこの強い願望、この精子の1滴、つまりこの“心の点”を授かります。それなしには、この強い願望は呼び覚まされないでしょう。

この時点から、もう私たちは光に似た行為を始めることができます。つまり、私たちがお互いに交流する時に、私たち自身から光の行為と呼ばれるものの手本を作ることができるのです:授与、愛、相互扶助、相互協力、そして目覚め(気付き)。お互いを少し暖めるために、煽動するために、つまり友のなかに願望と羨望を起こさせるために、光が私たちにするそれらの行為をする機会があるのです。

光つまりクリエーターの代わりに、私たちにはグループが与えられます。クリエーターが人に幸運をもたらし「うけとりなさい!」と言うのです。言い換えると、クリエーターがその人を実験室へと連れて行き、私たちの砕け散った破壊された状態にも関わらず、それを通じて友だちの助けを借りて前進することができる型(モデル)に入れるのです。クリエーターがあなたを彼らのところに連れてくるのです。そして、今やあなたは行動しだします!

それ以外の全てはあなたにかかっています。つまり、あなたの作業の仕方と、あなたに授与するクリエーターと同じようにグループに対して関わることによって決まるのです。クループとの対話や相互作業を始める時、あなたはグループがどのようにあなたに影響を及ぼし、また、あなたがグループに影響を及ぼすのか明らかにするでしょう。それなら、一緒に上昇することが可能です。

そのように、私たちはグループの全員のために相互扶助と相互に影響し合うことを全員に義務付けるアーヴット(Arvut:お互いに保証しあうこと・相互保証)とよばれる状態に至らなくてはなりません。私たちは、友だち全員の前で光の授与を演じます。つまり友にクリエーターの授与を示すのです。そして友は、自分自身を正して光に似ることを望む被造物(創造物)のように、私たちに反応を示さなければなりません。

言い換えると各自が、グループと一体になること、グループとつながること、グループにくっつくこと、1つのハートとマインドを持つ一人の人に成ることを望むのです。つまり、私の何もかもがなくなるように、完全に友だちのなかに溶け込まなければなりません。私はグループの中に没入することを望むのです。それが各自がしなくてはならないことです。そして、このことに対して皆が皆を助けています。

この結果として、努力の最後の1滴の後に、私たちは1つのハートを持つ1人の人に本当になります。この1滴は食事の最後の一口に似ており、その後になって満腹状態が生じ、私たちは私たち自身を満たしたと感じるのです。こんなふうに私たちは完全なハヴァヤー(HaVaYaH, יהוה‎)、つまり10個のセフィロトを全部そろえます。ほら、最後のフェーズ、つまりマルフト・デ・マルフト(Malchut de Malchut)だけが、誰を相手にしているのか、なぜ、そして、どのようにふるまわなくてはならないのか、どのように構成されているのか、どのようにクリエーターが構成されているのか、もしクリエーターからすべてのもの(光と願望の両方)をもらうなら、それに応じて何をしなくてはならないのか、を感じ、理解し、知っているのです。

従って、アーヴットが第一段階です:つながってたった1つの統一体になること。そしてもうこれ以上することがないように思われます。しかしながら、それまでは、これらが単なる言葉にすぎないと私たちは知っています。「行為の結果は最初の考えの中にある」と言われるように。思いの上では既に私たちは最終結果に到達したいのですが、長くなりうる道を通らなくてはなりません。ほら、私は私自身を作り上げなくてはなりません。そして、そのとき初めて私はクリエーターを知るのです。

すべては上層から完璧な形に創造されますが、被造物(創造物)は、この完璧さを獲得し、クリエーターに気づき、クリエーターのようになり、クリエーターの深遠さの全部を理解し、すべての行為においてクリエーターに似なければなりません。ほら、もし被造物の状態がクリエーターとの完全なる同等性以下なら、クリエーターが被造物にとって有益であるとは考えられないのです。

私たちは、これらの段階のすべてを通らなければならなく、前の段階を終えない限り次の段階を経ることは出来ません。したがって、最初からアーヴットについて、つまりクリエーターとの形態の同等性について、つまり自然との調和について話しているのです:交接、抱擁、口づけ、クリエーターとの形態の同等性の表現のすべて、そして、それらすべてにもかかわらず、これらはすべてまだ言葉でしかなく、私たちは今やこの状態を築き始めるのです。すなわち、私たちは第二段階以降に入るのです。全般的に見て、霊的発見に至る9つの段階を発見することは可能です。

From the 1st part of the Daily Kabbalah Lesson 1/7/14, Lesson on the Topic: “Preparation for the Convention”