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この世界を操作する型としての文字

 

質問:アルファベットの文字はどうやって創られたのですか?

答え:アルファベットの文字はアダム・ハリション(最初の人)に由来します。アダムはクリエーター(創造主)に類似できた(Domeh)最初の人です。

アダムはまず上層の世界と、私たちの世界にあるその結果を発見しました。スピリチュアル世界に存在するものはすべて根であり、私たちの世界に存在するいかなるものも、スピリチュアル世界から降りてきている結果であるということです。

この2つの世界はうりふたつなのですが、ただ上層世界は力の世界であり、私たちがいる所は物質の世界である点が異なります。力であっても地球上のもの(電気、磁気、プラズマ、原子など)は、物質世界の一部とみなされています。

ここから、アダム・ハリションは私たちの世界の根、つまり上層の世界を発見しました。アダムは私たちの世界を操っている力が、いかにしてその根から降りてくるか、そこにある特定の規則に気づきました。アダムは上層の力の働きの意図とその動かし方を理解したのです。このことから、アダムはこの法則を公式化し、文字の構造を描写しました。

すべての存在は単一の黒点から生じています。その単一の黒点とは欲求です。上層から下層へ、この点から拡張するもの、つまりホフマ(Hochma)の光、生命の光(図の縦の線)があり、それは上層世界から私たちの世界へ伸びてきています。同時に、横の力であるハサディム(Hassadim:慈悲の力)も伸びています。

世界はこの3つの要素、つまり一つの点、縦と横の2つの線から成り立ち、それにより操作されています。事実、すべてがプラスとマイナスのような、2つの反する力の統合を通して操作されているのです。アダムはスピリチュアル世界にこれらの力を感じ、それらを調査し研究し始めました。

上層の世界はケテル(Keter、ホフマ(Hochmaビナ (Bina)、ゼア・アンピンZeir Anpin マルフット(Malchut)という部分から構成されているため、アダムは上層の世界が私たちの世界へ及ぼす影響について調査し始めたのです。アダムはスピリチュアル世界が2つの部分に分かれていることを発見しました。その上部はガルガルタ・ヴェ・エイナイム(Galgalta ve Eynaim:授与の特質)と呼ばれており、そこで決定がくだされます。下部はアハップ(AHP:受け取りの特質)と呼ばれ、ここから各操作がなされています。

この研究に基づいて、アダムは文字の構造を描写しました。最初の9文字はビナ(Bina)の最後の部分を基礎としています。次の9文字はゼア・アンピン(Zeir Anpin)、最後の4文字はマルフットに基礎をおいています。合計で22の文字と、22の操作モデルがあります。これ以外にも、さらに5文字「ם(メムソフィート)ן(ヌンソフィート)ץ(ツァディソフィート)ף(ぺーソフィート)ך(カフソフィート) (MNTzPCh)があり、総計で27文字となります。

上層の光は鋳型のようなこれらの各文字を通って、文字の形で降りてきます。

光は単一・単純で不定形にして均質、その中には何も特別なものはない文字の上に宿っています。

しかし、光が文字の鋳型を通り抜けるとき、特定の方法で私たちの世界に作用します。なぜなら各文字の横(ハサディム)と縦(ホフマ)の線の相互作用がとても独特だからです。極めて特徴的なのは、ダレット(“Dalet – ד” )という文字です。そこには特別な尾と点があり、その点では2つの線が互いにつながり、そこが文字を回転させる軸になっています。一般的に、文字は内的な特質をいくつも持っています。

文字はそれぞれ分離したクリ(Kli:器)であり、そこではハサディムとホフマの2つの力が組み合わさっていて、それらのベクトルは常に変化しています。

各文字は一つひとつが特定の印であり、上層の力はそれらの印を通して作動しています。上層の力は鋳型を通り抜け、特定の方法で私たちへ影響するためにその道筋をはっきりとさせます。言葉は文字が集められたものであり、コンピューターのコマンドに似ています。

質問:操作には3つの線があると聞いていますが、なぜ図には2つの線しかないのですか? 3つ目の線は文字にどのように示されますか?

答え:それは、3つめは創造物から、つまり下から上向きの線になっているからです。図は上から下へ向かうクリエーター(創造主)からの操作を示しています。

文字で人間そのものを表現できるものはありませんが、唯一、私たちが自分の欲求に文字を付けることを許可した分だけは、そこに人間の表現があります。

質問:なぜトーラーは一言で書かれていると言われるのですか?

答え:なぜなら、トーラーは言葉に分けられないからです。トーラーは絶え間なくつながった文章として書かれています。それを分ける方法がないのです。トーラーとは創造の初めから続くものであり、「はじめに神は創造された」から始まり「イスラエル」という言葉で終わる一つの簡潔な指示なのです。「[196736]

過ぎ越しの祭り──出エジプトのレベル

thumbs_laitman_749_01トーラー「レビ記23:4 – 23:8」以下は主の祝日であり、その日あなたたちはイスラエルの人々を聖なる集会に召集しなければならない。 第一の月の14日の夕暮れが主の過越である。同じ月の15日は主の除酵祭である。あなたたちは7日の間、酵母を入れないパンを食べる。初日には聖なる集会を開く。いかなる仕事もしてはならない。7日の間、燃やして主にささげる献げ物を続けて、7日目に聖なる集会を開く。いかなる仕事もしてはならない。

質問なぜ過ぎ越しの祭りの最初と最後の日に働くことが禁じられているのですか?

答え:スピリチュアルな作業の2つの状態、すなわち、下層からの目覚めと上層から目覚めという2つの状態を区別するからです。

下層からの目覚めの間、私たちは切望によって光と器の協調を呼び起こします。つまり光が器を是正し、正しい意図を与えるのです。 上層からの目覚めの間に、この作業は上層から遂行されますが、それは私たちが前もってそのための正しい状態を作り出す時のみ遂行されます。

私たちは祝日の最初と最後の日のために正しい状態を作り出すよう、努力をします。なぜなら、過ぎ越しの祭りの週は上層の光がすべての作業をするので、最後は何もしない状態で閉じられなければならないからです。祝日の最初の日は出エジプトの始まりです。 最後の日は出エジプトの終わりで、それを封じるのです。

世界の国々が異なる暦を持っているということは重要です。 キリスト教の暦は太陽の動きに基づいています。 イスラム教の暦は月の動きに基づいています。 それに対して、ユダヤ教の暦は太陽と月、そして地球の動きを考慮しています。なぜなら地球が太陽と月の間にある中心的な物体だからです。

一方で、私たちは太陽の周りを回っている地球の公転を意味する年を考慮に入れます。また一方で、地球の周りを回っている月の公転である月(マンス)を考慮に入れ、そしてその二つを比較します。ユダヤ教の暦は変わらないので、たとえば、35年後の過ぎ越しの祭りの初日の曜日を事前に計算することができます。

さらに、太陽、地球、月の動きの比較に基づくと、過ぎ越しは月(マンス)の特定の日にはできないと言うことができます。 つまり、すべては一般天文学系に正確に関連しているのです。

質問:トーラーは聖なる集会について何度も言及しています。なぜ私たちは過ぎ越しの祭りに集まらなければならないのですか?

答え:過ぎ越しの祭りの間の聖なる集会は、イスラエルの民にとって最も重要なことです。なぜなら、実際、彼らの統一したいという欲求のおかげで、エジプトから出る必要性を持つからです。

個人とグループ、社会、国家、あるいは全世界との統一は、実際、エジプト(エゴ)からの脱出のさまざまなレベルです。私たちが統一の力を獲得する時、ある緊張、つまりこの脱出、エゴからの分離が起こるのです。

それは常に私たちの間にあり、私たちを隔て、互いに拒絶を感じさせます。もし私たちがそれを圧縮し、凝縮し、統一し、互いにつながろうとし始めるなら、私たちが最初に統一を獲得する瞬間、エゴからの脱出が始まります。

過ぎ越し(出エジプト)の最初の日に、私たちはこのつながりを固く結び始めます。そして、週の間それに取り組み、出エジプトの最終日に完全に統一します。その瞬間から、私たちは統一した国家なのです。

しかし、その一方で、人々は何をすべきかを理解していません。エゴから逃げたいという欲求を駆り立てる方向があるにもかかわらずです。しかし、それは、適切な認識のない動物的な本能にすぎません。人々はシナイ山の麓に集まる時、その認識を獲得するでしょう。

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From KabTV’s “Secrets of the Eternal Book” 5/28/14

祝福と呪い

laitman_238_01『トーラー』「申命記 第11章26−28節」見よ、私は、今日、あなたがたの前に祝福と、呪いとを置く。もし、今日、私があなたがたに命じるあなたがたの神、主の命令に聞き従うならば、祝福を受けるであろう。もしあなたがたの神、主の命令に聞き従わず、私が、今日、あなたがたに命じる道を離れ、あなたがたの知らなかった他の神々に従うならば、呪いを受けるであろう。

もし人がクリエーター、つまり唯一無二である自然の上層の力との付着へと導く道から離れるなら、言うまでもなく、彼は間違いを犯し、「他の神々」、つまり自然の他の力へと向かいます。

「あなたがたの知らなかった他の神々に従うならば」とは、すなわち、あなたがそれまでそれらの神々を、きわめて重大で決定的で、根本的なものとして考慮に入れていなかったということです。もしあなたがいま、それらの神々を選択し、支配者として見るならば、言うまでもなく、あなたは呪いを受けます。

人は唯一無二の真の支配する上層の力に背を向けることによって自分自身に非難を招きます。上層の力の派生物であるすべての他者がその支配下にいるのです。

これが呪いです。私たちに上層からの特別な何かを送ってくれる神はいません。私たちはただそのような比喩的な方法でそれについて話すだけです。私たちの行為を通じて、私たちは共通のシステムの歪みを引き起こします。それ故、私たちは自分たち自身の上ですべての結果を感じるのです。

質問:なぜ『トーラー』のこの部分はレヘ(見ること)と呼ばれるのですか?

答え:なぜなら、私たちがスピリチュアルなシステムに至る必要があるからです。結局のところ、視覚は人間の最も強い感覚であり、私たちがどこにいるのか、何者なのかという知識と理解の最も力強い源です。それゆえ、私たちは視覚、つまり最も高い認識を通じてすべてを知覚する必要があるのです。信じたり、単純に認めたりするのではなく、その本質を本当に理解するために。裁判所においてさえ、証人は見た人だけがなりうるのであって、聞いただけの人はなれないのです。

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From KabTV’s “Secrets of the Eternal Book” 6/22/2016

 

 

太陽の光と夜の闇

トーラー「出エジプト記」第22章1−2節:もし、夜、泥棒が押し入るところを見つけられて、打たれて死んだならば、打ち殺した者にはその血の責任はない。もし、太陽が人の上に輝いていたならば、打ち殺す者には血の責任がある。彼は必ず償わなければならない。

この泥棒とは私達のエゴのことです。この泥棒は常にいつでも人の内面に掘り進み、奪っていこうとします。もしエゴ(泥棒)が無意識に、「夜」に、つまりこれら全てのことがその人には理解されず明らかでない時に、これを為すならば、そのとき、その人はこの泥棒(自分のエゴ)を殺す権利を持ちます。何故ならこのようにして、その人自身の是正(correction)が果たされるからです。

しかし「輝く太陽」が共にあるとき、あなたはエゴを殺す必要はありません。あなたに必要なのはエゴを是正することです。もしあなたが不適切にそれと関係するならば、あなたは今の段階から落ちることになります。それはあなたが(霊的に)死ぬことを意味します。あなたは殺されます。この為、あなたにはあなたのエゴを殺す権利はなく、その泥棒を是正・矯正する必要があるのです。利己的な行為から利他的な行為へとです。ただ殺すだけというのではありません。

2つの偉大な是正期間、または行為の2分類というものがあります。

・「あなたがされることを欲しないことを他人にしてはならない。」
これは利己的な状態にある人が(エゴ(利己心)の抑制された)中立的な状態へ移行する期間です。

・「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。」
これはあなたがすでに他者のために良い行為をしている期間であり、あなたが自分自身のために望んでいることを他者のためにも願っている状態です。

このようなわけで、もし人が「夜」に行動するのなら、彼は依然として本当の是正の準備はまだできておらず、そのための力もありません。しかし、もし彼が(自分の)エゴと格闘する場合には、彼はそれを殺す権利を持っています。その意味はエゴを単純に無力化するということです。そのとき私はそのエゴを持たなくなります。しかし、もし彼が「真昼間」、すなわち上層の光が彼の上に輝き、彼に力を与える時に働こうとするならば、彼はエゴを是正する必要があります。エゴを殺すのではありません。この昼の状態でエゴを殺す場合は、彼は夜に振る舞えたと同じようには振る舞えません。これによって彼は自分自身を(霊的に)殺します。つまりより低い段階へと落ちるという意味です。

From KabTV’s “Secrets of the Eternal Book” 5/20/13

最終結果を見る

バール・ハスラム、『Introduction to the Book of Zohar(ゾハールの書の序章)』項目4:これらの質問と疑問を理解するために、その唯一の戦術は行為の終わり、すなわち創造の目的を調べることである。唯一その終わりで以外に、プロセスの途中で理解されることは何もないためである。

これはルールです、行為の終わり(結末)をよく見ることだけによって、すべての詳細、様相、すべての理由、そして、プロセス全体が理解できます。その理由は、唯一その終わりで、あらゆる詳細がどれぐらい重要であって、どの程度これらすべての詳細がこの順序で次々とアレンジされなくてはならないのかが明確になるからです。唯一その終わりで、すべてが完全だと分かります。すべての詳細が正しくアレンジされる時にだけ、完全なる終わりが可能なのです。しかし、私たちが道の途中にいるのなら、どのように終わりに達するのでしょうか?

そして、目的(意図)のない行為がないことは明白である。今日、この事を近代科学で見ます。近代科学では確かにすべては因果関係と絶対的法則に従って動きます。少なくとも自然の中の静物レベル、植物レベル、動物レベルにおいて、私は偉大な知恵、論理、常識を発見します。そこには余計なものはなく、すべては、あらゆる小さな詳細がその他すべての無数の詳細に連結できるようにアレンジされています。だから私は「スピーキング」レベルに関して結論に達することができます:私がその中に見る堕落は、私の堕落した個人的な知覚から生じていて、それが私に「スピーキング」レベルにも存在する素晴らしい秩序を見させなくしていて、それどころか、真実と逆の様相や光景を私に見せているということです。人間社会の中で堕落や大混乱を実際に見ますが、それは私たちがそれを生じさせているからです。

もちろん、この現象に対する他の説明もあり得ます:クリエーターは善良で慈悲深い、彼はすべてを包含していてすべてを行う、しかし、彼は彼の創造物を見捨てたと言うことができます。バール・ハスラムは彼の記事『The Peace(平和)』のなかで、このアプローチについての様々な検証を提示します。しかし、私がすでに人生で目にするものに反応して異なるアプローチを使うならば、最終結果を見るほうが望ましいということをよりよく理解します。私たちの研究における経験から、自然が一定のゴールに向かって発達することが分かります。だからバール・ハスラムは、唯一最終結果を見ること以外に、中間(途中)で理解できることが何もないため、最初に創造のゴールに目を向けるべきだと言うのです。

私は、クリエーターがすべての現実を創造してその後にそれを放っておいたと言って、トーラーとミツヴォット(ミツワーの複数形)の重荷を背中の上に投げる者たちがいることを知っている。ここでバール・ハスラムは、すべてが人間のために創造されたこと、人間が創造物の中心に位置していること、そして、この地点からしか私たちが正しく成長できないことを信じない人々について言及しています。すべては私のために創造された-私たちの世界全体とすべての諸世界-そして、私はこのことを受け入れなくてはなりません。それを明らかにしないといけません。状況を制しなくてはならないのです。「私のため」とは、私がそれを是正でき、それを利用することができるということを意味します。この利用のことは「ミツヴォットを尊守する」と呼ばれ、“改善する光”または“トーラー”の助けを借りて行います。こうして私たちは創造のゴールに達するのです。

確かに、彼らが話した知識なしに、私たちが私たちの堕落した極めて不快な性質の全部で私たち自身を創造したと決める前に、私たちの低さ(卑しさ)と無価値についてコメントすることは不可能であるため。私たちが完全でないことは明白です。しかし、どういうふうに世界の中のすべてのものが徐々にその完全性をあらわにすることを目にしないなら、世界が低いと決めることは不可能です。

問題は:もしクリエーターが完全なら、最初から完璧なやり方で進化を創造したのではないのかということです。 しかし、そんなことはあり得ません。創造された存在の中にも現実がなくてはならないためです。この現実はクリエーターと正反対です。従って、それは二つの反対の部分が組み込まれなくてはなりません:クリエーターの性質と創造された存在の性質です。その二つの性質は創造物の中で成長し、その内部でお互いに向かい合います。それはその二つの性質の中間にあり、それ自身を二つの力から作り上げます:授与の力と受け取りの力です。

この意味は、もしゴールが分からないなら、当然創造を正当化できるようにはならなく、以下のような様々な正当化の理由を見つけるということです:完全であるクリエーターは私たちに失望している、私たちを置き去りにした、彼の完全性の中のどこかで見つかる。他の意見には、クリエーターは善の力と悪の力これら二つの力の中にはまったく見つからない、または、多くの善の力と多くの悪の力があるなどがあります。

どちらにせよ、人がトーラーを受け取らない限り、起きていることを正当化することは明らかに不可能です。「トーラーを受け取らない限り」の意味は、その人が堕落したシステムの中にいて、それがそうであるのは、その人がその部分になるため、そして、毎回システムを稼働させることをさらに目指すということへ自分自身を引き寄せながら光によってそれを是正するためということを理解している状態に到達しない限りということです。その後にその人は、すべてが自分のために創造されたことと、最初にそのシステムを是正することなしに、より正確には、それをインストールすることなしに、クリエーターのレベルに到達することが不可能だと悟ります。子供たちがおもちゃを集めておもちゃを組み立てるといったゲームを通じて自分自身を作り上げるのと同じように、私たちの作業においても、つまりパーツを接続する(つなげる)ことにおいても、それは同じです。だから私たちはゴールを理解するために、つながり、ユニティ、そして相互保証のゲームをしなくてはならないのです。

 

トーラーを学び、従事するとはどういう意味か?

私が受けた質問:真正のトーラーに従事するとはどういう意味ですか?

私の答え:バール・ハスラムが書くように、カバラを実践するという意味は、それを自分の中で実現化、体験するということです。私たちを是正する光をトーラーと呼びます。それは私と反対で、遠くから私のレシモ(私の霊的な、情報遺伝子)に照りつけるのです。私は前世代からレシモット(レシモの複数形)の連鎖によって進化してきて、“ハートの点”と呼ばれるレシモに到達しました。それは光の影響によって目覚め、私に、この身体の中で過ごしてきた人生より高い何かがあると感じさせます。

全ての作業は是正する光によって成されます。光が私を目覚めさせるのです。始めに、光は動物のレベルで私を発達させてきました。しかし今、私が人間になる時が来たのです。

私、自分自身では行えないので、魂のシステム(カバリスティック・グループ)に頼むのです。そしてそこから付加的な意思と付加的な重要性を受け取り、つまり私は“彼”の重要性と自分の無意義さを感じ始めるのです。それともう一方との相違が付加的な、MAN(祈り)と呼ばれる願望を生み出します。私はこのMANを上のほうへ上げるのです。基本的に、私の主な作業はこれにあるのです。クリエーターを獲得する願望、MANを初期のハートの点からして10倍の大きさにして上の方へ上げれば、私は自分の任務を果たせたるのです。

しかしながら、これはまだ“トーラーを学ぶ”または“トーラーに従事する”までには至りません。今まで、これらの全ては準備だったのです。しかし今、光は私により強力に照り付け始めます。今、囲む光-2となったのです。それは違ったふうに私に照り付けます。直線に、そして私の想望の度合いまで。

クリエーターの重要性の認識はKeterと呼ばれ、人の自分の無意義さはMalchutです。この意味は、今、私は自分の願望を一つの線に整え、クリエーターを獲得するという目標と一致して行動しているということです。それの最も外側の点らがKeterMalchutなのです。クリエーターと授与は上で、私と受理が下です。

現在、私に光は別の、直接的な形態でやってきて、私の性質を照合し始めます。それは全てを整列し私の中で何がもっと重要で、そうでないのか、を私に見せます。つまり、囲む光-2はよく整列されており、それはこの順序により私を是正し始めるのです。この意味が、私は今“トーラーを学ぶ”ということです。なぜなら囲む光が自分の中で是正することを学ぶからです。

From the 3rd part of the Daily Kabbalah Lesson 5/31/10, Introduction to the Study of the Ten Sefirot

トーラーを授かるための準備:是正の光

トーラーとは是正の力で、それは私たちを変え、クリエーターと等しくします。私たちがクリエーターと類似することが出来たとき、私たちは“Adam”(アダム)と呼ばれ、各自は“Ben-Adam”(人間)と呼ばれます。アダムとはクリエーターと“類似する”(ヘブライ語 ‐Edame)という意味です。従って、“人間”とは私たちの世界に存在する何十億人の一人のことではなく、クリエーターとの同一化を成し遂げた者のことなのです。

しかしながら自分自身をクリエーターのレベルへと昇進させる、トーラーを実施するには、充分な欲求が必要です。私たちは、俗界的な関心事に飲み込まれています。私たち自身を次の次元へと昇進させるスピリチュアリティへの欲求を、どうしたら重要視できるのでしょうか? これはトーラーを授かる準備の一部です。クリエーターはトーラーを毎日与えていると書かれています。この意味は、それはいつも使える準備が整っていて、私たちの欲求次第であるということです。

従って、まず私は動物の段階から霊的世界という新しい世界へ上昇する欲求を育てなければいけません。しかしながら、もし私にこの欲求がないなら、私は動物のように生き、この手段にも気づかないでしょう。何故なら私はそれに対する必要性を感じないからです―私はこの世界の領域を超えた何かを欲しくも、理解もしたくありません。さもなければ、私はもう既に霊的世界へと前進していることでしょう。現時点では未だに、私は充分な欲求を持ち合わせていないがために、上層次元に入り込む、この方法を利用できないのです。従って私はトーラーを授かるための、自分の準備をしなければならないのです。

もし私が自分の中の「邪悪な性向」を明らかにし、クリエーター(愛と授与の特質および力)に達するために何を是正しなければならないのかを明白にできてのみ、私はこのトーラーという手段を授かる準備ができるのです。トーラーに従事するという意味は、それから是正する光を抽出するという意味です。私はそれを熱望し、それが私を是正することを要求する必要があります。私はまるで、救命の薬を授かるように本を開く必要があります。それが無ければ死んでしまう運命にあるように。このようにトーラーを勉強する人は私たちの世界で多くいるでしょうか?

From the 3rd part of the Daily Kabbalah Lesson 5/17/10, “What is the Preparation for Receiving the Torah?”

聖なる書物の各文字に生きる

文字は欲求の形態です。クリエーターは楽しみたいという欲求だけを創造しました。そしてその欲求は受け取りと授与の様々な形態を習得します。それにもかかわらず、受け取りの形態はスピリチュアリティーのなかで存在する権利がありません。授与の形態については、クリエーターに類似するもの、すなわちBinaからMalchutまでの様々な授与の種類だけを私達は扱います。

全部を合わせて27個の文字があります:ZAT de Binaからの9個(アレフからテットまで)、Zair Anpinからの9個(ヨッドからツァディックまで)、Malchutのなかに含まれる4個(コフ、レーシュ、シン、タヴ)、そして語末に使われるParsaの上の5文字MaNTZePaCH。これらはクリエーターに、又は正しい行動の手本に似ている物質の形態です。

したがって、私達が本、語、又は文について話すとき、私達はパン生地のように常に変化して様々な形を習得する楽しみたいという欲求について話しているのです。このようにして、クリエーターのようになりたいと切望しながら、私達の欲求はその形態を変化させます。

トーラーの全ての文字を追い、その最初の言葉(はじめに―Beresheet)から最後の言葉(イスラエル)までの文字の並べ替えの全連なりの繰り返しを完了させるとき、人はこれらの形態の全てを獲得し、クリエーターと完全に類似するようになり、最終是正(Final Correction)に到達します。したがって「トーラーの全部をあなたの心に刻みなさい」と言われるのです。心(ハート)とは欲求のことです。トーラーの書、存在している創造物に対するクリエーターの授与の形態のすべて。私達はそれらを自分たちの欲求のうえに書き写さなくてはなりません。そうすれば、私達はクリエーターに類似するでしょう。

私達の“罪”の償いは私達の意図によります

受取った質問:私はあなたの著書を長い間読んできました。私はキリスト教徒の家庭で育ちましたが、私の持つ全質問の答えは見つかりませんでした。あなたは何度も聖書とは寓話的に書かれているので文字どおり(逐語的)に解釈すべきではないと言いました。私もそれと同じことをずいぶん前に確信しました。しかし、なぜ聖書は罪の犠牲という概念を起用しているのですか? キリスト教における最も重要な信仰はキリストが人類の罪の生け贄として自分自身を捧げたことを考慮すると、なぜ罪あがないの供物という戒律の必要性があるのですか?

私の答え:聖書(トーラー)の全部に書いてあることは、どのようにして人間のエゴイズムを是正し、創造主との完全な同等性の段階に到達するのかということです。ありうる罪のすべてを列挙している聖書の部分は、人間のエゴイズムの啓示について書かれたものです。

その意味は、人が自己のエゴイズムをさらけ出すとき、自分が罪人であると感じるということです。なぜなら自己の利益の為に他者を利用するからです。それと同時に聖書には解決法もあり、私達のエゴイズムの是正方法を伝えます。聖書の説明することは、エゴの違う段階(無生物、植物、動物、人間)とエゴの是正方法についてです。もっと正確には、それは私達の意図・意向を”自己のため”から”他者のため”に是正させる方法を伝えているのです。

はじめに神は天と地とを創造された

受取った質問:「はじめに神は天と地とを創造された。」(創世記第1章1節)

なぜですか? 動機は何だったのですか? 目的は何だったのですか? どうして創造主はすべての結果を考えずにこの世を創られたのですか!? これは洪水の話で立証されてます。「わたしが創造した人を地のおもてからぬぐい去ろう。人も獣も、這うものも、空の鳥までも。わたしは、これらを造ったことを悔いる」と言われた。(創世記第6章7節)それはあたかも彼がこういう結果になることを知らなかったようです。

私の答え:存在するものは2つだけです。被造物―“ひかり”を受け取る意志、そして創造主―“ひかり”:喜びを授与する意志。被造物が“ひかり”と(性質上)同等で、それを創造主を喜ばす目的で「創造主のため」に受け取りたいのであれば、被造物は“ひかり”を受け取ります。そして、もし被造物が「創造主のため」に受け取りたくないのであれば、被造物は創造主と(性質上)反対になります。なぜなら、創造主は被造物を喜ばせたいからです。よって被造物は創造主と創造主の“ひかり”を感じなくなり、完全な暗闇がそれに取って代わります。それが私達の世界―“ひかり”の黒い写しです。

「はじめに神は天と地とを創造された。」の意味することは、彼が授与と受取の性質を創ったということです。何のためにか? それは人間の内面にこれらの性質を混ぜ合わせ、利己主義(エゴイズム)と利他主義(愛他主義ともいう:オルトルイズム)を自由に選択できるようにさせるためです。