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うぬぼれからの脱却

エゴイズムに対する取り組みは基本的にうぬぼれとの闘いです。すべては段階形式に配列されていて、人は自分の本当の位置と行為に気付いていません。エゴイズムは人が見ることを許さず、光の各行為をまるで存在しないかのように人から隠します。したがって、私たちは世界が勝手に回っていて、その管理者または計画者が存在しないと思います。すべては自由に、偶然に、どんな理由も目的も持たずに、ぐるぐる回っていると考えられています。

完全に隠された状態にいることから、人は自分がすべてを自分でしていると思うことに慣れています。環境からの助けを受けること以外に、より強くなって自分自身(自分の利己的な欲望)を少し超越し、外側から起きていることを見る機会はありません。そのあとで自分が実行しなかったこと、そして起きることのすべてに自分の努力や計画や自主性が含まれていなかったことを目にします。

したがって、私たちは絶えず誰が支配するのかをめぐって争っています:私たちのエゴイスティックな欲望、つまりファラオ(パロ)か、それともクリエーターか。この葛藤は、最も小さな境遇と人生に対する全態度に関することの両方で生じています。不純な力(クリパー)と神聖の間の議論はこのことのみに関してです。

不純な力の兆候は、うぬぼれです。すなわち自分自身が自分でどんなこともできると思う時です。実際のところ人には自由に選べることが1つしかありません。それは毎回正しい環境の中に含まれることです。人生において膨大な数の機会があるなかで、1つのことを除けば、行動の自由を与えるものは何もありません:まず第一に正しい環境の中に含まれること、そしてそのあとにそれを通じて、その中に含まれて自分が消えた、環境の活動を続けることです。

これが、うぬぼれ、慢心、そして間違った行為を回避する唯一の方法です。そしてそのあとにグループに加えて、神性にマルフートをつなげるために実際に何かをすることが出来るようになります。また、ただ自分を分析して裁くことは少しも助けになりません。環境の中に含まれることによってのみ、最も小さな行為でさえもスピリチュアルなものになるのです。

From the Preparation for the Daily Kabbalah Lesson 9/27/13

“労働は果てし無い、しかし報酬は大きい”

ラバシの記事『信仰』より:「ラビ・タルフォンは “日は短い、労働は果てしない、精をだして働く者は怠けている、しかし報酬は大きい、そして家の「主」は強要する(ピルケイ・アヴォット 2:20)。”と言っていた。」もし人が、「統治者」がいない首都はないということを信じ、「主」が存在することを確信しているなら、その人は強要されていると感じます。

クリエーターが私たちを目覚めさせない限り、私たちが自力で目覚めることはできません。その理由は私たちが、生命力を少しも持っていない物質からできているからです。よって私たちは創造物と呼ばれます。つまり私たちは上から支配されているということです。クリエーターが私たちを目覚めさせて初めて私たちは、“日は短い、労働は果てしない、精をだして働く者は怠けている、しかし報酬は大きい、そして家の「主」は強要する”ということを目にします。そのあとに私たちは働き始めます。

この時点で私たちの自由意志が“オン”になります。クリエーターは人の手を良い運命の上に置かせ、言います:「受け取りなさい!」言い換えれば、クリエーターの行為が最初なのです。その次に私たちが仕事を継続する番になります。その意味とは、クリエーターが私たちに与えるものを、私たちが受け取るということです。一方と他方、両方に対して努力することを許す構造を日常生活に与えるために、私たちは環境と勉強を整えなければなりません。

普段の仕事量と普及活動に対する責任に関係なく、私たちは決して原文の情報源とのつながりを断つべきではありません。絶えず情報源とのつながりをどうにかして維持する場合に限り、私たちは望ましくて予想された結果に至ります。労働は果てしない、しかし報酬は大きい、従って私たちはそれを受け取るための複数の器を用意しなければならないのです。

この全ては私たちに時間をいくつかに区分することを要求します:通常の生活、勉強、普及活動です。私たちは常にこの3つのこと全てに精を出し、それらのいずれに対しても決して避けたり見過ごすべきではありません。私たちがそれらの1つでさえおろそかにすれば、中間の線(middle line)から離れてしまいます。たとえ私たちがそれらに均等な時間を割り当てないとしても、依然、3つの部分すべての世話をしなければなりません。

私たちはこれらの問題点に個別の注意を払うべきです。とても重要な普及の任務があるときでさえ、勉強することを忘れるべきではありません。ただ普及活動で忙しいというだけで、授業を休むことに対する弁明の余地はありません。それは本当に悪いです。なぜなら「もしあなたが「私」を一日置き去りにするなら、「私」はあなたを二日間放置する」と言われているからです。それは危険です。普及活動の理由で勉強を止めれば、私たちの前進はいずれ損失になるでしょう。

From the preparation to the Daily Kabbalah Lesson 9/10/13