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バール・ハスラム

私のFacebookページ Michael Laitman 10/10/19より(英語)

イェフダ・レイブ・ハレヴィ・アシュラグは、『ゾハールの書』の解説書である『スラム(梯子)』から、バール・ハスラム(梯子の所有者)として知られています。バール・ハスラムはその生涯を、カバラの智恵の解釈と革新のために捧げ、それをイスラエル中に、また世界中に広げていきました。バール・ハスラムが展開したカバラの研究に関する独特のメソッドにより、誰もが現実を深く掘り下げ、その根と存在の目的を明かせるようになったのです。

バール・ハスラムは、1884年9月24日、ポーランドのワルシャワ生まれ。19歳のとき、ワルシャワで最高位のラビによってラビに任命されました。16歳のときには、ダヤン(正統派ユダヤ裁判官)として仕え、またワルシャワで教師をしていました。

ポーソブのラビ・イェホシュアに師事し、1921年にイスラエルに移住。エルサレムの旧市街に居をかまえました。バール・ハスラムが来たといううわさは、ポーランドから移住したユダヤ人たちの間ですぐに広まり、ただちにカバラの権威として知られるようになります。その周りには徐々に生徒たちのグループができ、夜明け前のカバラのレッスンに参加しました。後には、旧市街から引っ越して、エルサレムの新しい居住区であるギバト・シャウルに落ち着き、そこで数年間、その地区のラビを務めています。

1926年から1928年まではロンドンで過ごし、その間、アリの『生命の樹』の解説書『パニム・メイロット・ウマスビロット』をしたため、 1927年に出版。また、その滞在中、イスラエルの生徒たちと頻繁に手紙を交わし、それは1985年に『イギロット・コデシュ(神聖なる手紙)という本にまとめられています。

1933年には、論文『マタン・トーラー(トーラーの授与)』『ハアルヴット(相互保障)』『ハシャロム(平和)』を出版。

バール・ハスラムの長きにわたる仕事の成果として、2つの主な作品があります。それは、アリの著作に関する解説『タルムド・エセル・セフィロト(10個のセフィロトの研究)』と、『ゾハールの書』の解説『ペルシュ・ハスラム(スラムの解説書)』です。16章(6巻)からなる『タルムド・エセル・セフィロト(10個のセフィロトの研究)』の出版は、1937年に開始。1940年には、アリの著作を厳選しその解説を添えた、『ベイト・シャアル・ハカヴァノット意図の門)』を上梓しました。ゾハールの解説である『ペルシュ・ハスラム』18巻は、1945〜1953年にわたって印刷されています。 後に、さらなる解説を含む3巻、『新ゾハール』が、バール・ハスラムの死後、1955年に刷られました。

バール・ハスラムはゾハールの書への手引きで次のように書いています。「私がその解説をスラム(梯子)と名付けた理由は、この書の目的があらゆる梯子と同様であり、もしも屋根裏部屋に山ほどの素晴らしいものがあるならば、必要なものはそこにいくための梯子だけであり、その時世界中のすべての恵みはあなたの手の中にある、ということを示すためである(第58項)」。

バール・ハスラムは、カバラの原典を正当に学ぶための準備として、一連の解説を書いています。その一部には、『ゾハールの書の前書き』『ゾハールの書への手引き』『カバラの知恵への前書き』『スラムの解説書の前書き』『生命の樹への一般的前書き』『タルムード・エセル・セフィロトへの手引き』などがあります。

1940年には『ハウマー(国家)新聞』を初刊行。しかし、結局それが最終刊となりました。この新聞は、英国の委任当局が共産主義を広めたという悪意のある情報を受け取ったことで、廃刊とされたのです。

バール・ハスラムは、自分の本の出版で途方もない困難に直面しています。2003年のイスラエル賞を受賞したシュロモ・ギオラ・ショハム教授が1950年代初頭にバール・ハスラムと会談した際の記述から、バール・ハスラムが出版とカバラの普及に帰した重要性を知ることができます。

「彼は老朽化したぼろぼろの建物、ほぼ掘っ立て小屋のようなところにいた。そこには古い印刷機があった。彼には植字技術者に支払う余裕がなく、 60代後半にして、自ら一文字ずつ組版し、何時間も通して印刷機の前に立っていた。 アシュラグはツァディック(義人)であることは明らかで、晴れやかな顔をした謙虚な男であった。 しかし、彼は完全に社会の本流から外れた人物であり、ひどく貧しかった。 後に聞いたところでは、彼は非常に多くの時間を植字に費やし、印刷過程で使用された鉛が健康を損ねたとのことだ」

この抜粋は、2004年12月17日にハアレツ新聞に掲載された、ミッカ・オデンハイメルによる記事です。

バール・ハスラムは、単に自分の考えを紙に著しただけにとどまらず、その推進活動にも精力的でした。 当時のイスラエルにおけるユダヤ人居住地の多くの指導者や労働運動の指導者ほか、多くの公人と会談しています。その中には、ダヴィド・ベン=グリオンやザルマン・シャザール、モシェー・サデー、ハイム・アーロゾロブ、 モシェー・アラム、メイル・ヤアリ、ヤアコブ・ハザン、ドブ・サダン、偉大な詩人であるハイム・ナフマン・ビアリクなどの人物がいます。

イェフダ・アシュラグと数度にわたり会談したベン・グリオンは、実に驚いたとのこと。

「私は彼とカバラについて話したかったが、彼は社会主義について話すことを望んでいた」

(ベン=グリオン・アーカイブ、1958年8月11日の日記より)。
ドブ・サダンは、そのエッセイ「3つの会議とその間に」(アモット、テルアビブ、1963、P.49)で次のように書いています。

「当時最も偉大なカバリストの一人であるラビ・イェフダ・レイブ・アシュラグは、カバラの基本を私たちの世代の歴史的なエンジンに変えることを目指していた。これに基づいた社会主義的な認識を通じて、彼はキブツ運動との接触を求めたのだ」

バール・ハスラムがヘブライ労働運動とその指導者たちとのつながりを求めたことは、両者にある精神的および教育的な食い違いを考慮すれば、驚くことかもしれません。しかし、彼の著作を深く研究すると、イスラエル国内でも世界でも、その両方でその時代の出来事に多大に関与していた博識者のうち魅力的で興味をそそる人物、そのアイデアが今日にあってなお画期的で大胆であると考えられている人物が明らかになります。

ラバシ

私のFacebookページ  Michael Laitman 10/3/19 より(英語)

思い悩み眠れずにいた、1978年のある寒い雨の夜のこと。私は、不意に自分がどこともなく車を走らせていることに気づくと、大きな標識が私の目に映りました。「ブネイ・ブラク*」という標識でした。そこへ入っていくと、通りに人気はありませんでした。「ハゾン・イシュ」ストリートの角で通行人に出くわし、私は尋ねました。「ここでは、どこで学べるんですか?」と。するとその人は私を見て、こう答えました。「この道の突き当たりまで行くと、そこに果樹園が見えます。その反対側です」

私はこうして、20世紀最大のカバリスト、バール・ハスラムの長男であり後継者である我が師、ラビ・バルーフ・シャローム・アシュラグ(ラバシ)と出会い、その時から、私の人生はまるで別の人生になったのです。

それから12年の間、私はラバシの個人助手および弟子として仕え、ラバシがカバラの知恵において知るすべてを吸収しました。毎日、ラバシは2階に閉じこもり、筆をしたためていました。そうやって、ラバシの深遠な記事が生まれたのです。そして、その記事が、今日の人に最も適したスピリチュアルな道を切り開き、すべての人のために道を整えました。ラバシ以前には、彼のように簡潔および実践的な手法で著した人はいませんでした。道に沿って子を導く父のように、ラバシは読者の手を取り、真の人生の意味を見つけるまで導いていきます。

「一度、私が愛の服を手に入れたら」と、ラバシはその有名な手紙『友の愛』の文末で、生徒たちに書いています。「愛の火花はすぐに私の中で輝き始める。心は友とつながり一緒になることを切望し始めた。私の目が友を見て、耳が友の声を聞き、口が友に話し、手が抱きしめ、足は友と一緒に輪になって、愛と喜びの中で踊るかのように……」(ラバシ)。

1991年にラバシが旅立った後、自分の目的を明らかにしたい、という欲求で心を燃やす人々が集まり始めました。 そして次第に、ブネイ・バルーフ「カバラ教育研究所」が形づくられていったのです。ブネイ・バルーフとは、カバリスト、バルーフ・アシュラグにちなんで名付けられました。 毎朝、私たちは『10個のセフィロトの研究』や『ゾハールの書』の解説書である『スラム(梯子)』といった、バール・ハスラムやラバシなど、カバリストの著作を研究しています。 我が師がその父から継いだカバラの知恵を私に与えたように、私たちは興味のある人なら誰にでも、このメソッドを分かち合っています。

本日**、この世代で最も偉大なる我が師、ラバシを亡くしてから28年目を迎えました。 私たちが彼の道を忠実にたどれることを、願っています。

*イスラエルテルアビブの東の中央地中海沿岸平原に位置する、超正統派ユダヤ教の中心地(訳注)

**10月3日(訳注)