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後ろを振り返るな


受け取った質問:あなたはいつも私達に、ロトの妻がソドムに振り返り、塩の柱になったように、私達は後ろを振り返るべきではないと警告します。これであなたが意味することとは、コングレスや普及活動の後に私達が活気づけられたときに、それについて考えるのではなく、前方、次の段階に向かって奮起するべきだということですか?

私の答え:後ろを振り返らないということは、昔の状態にあることを望まなという意味です。しかし、これは、過去があたかも存在しなかったかのように、それを切り捨てるべきだという意味ではありません。私達は今日のより良い状態に居続けるために、昨日から学ぶべきです。しかし、昨日の状態ではなく今日の状態にいることを望むべきなのです。これが“後ろを振り返るな”ということの意味です。

しかし、これはソドムとは関係のないことです。ソドムとは、人間が既に欠陥状態として明らかになった過去の段階に本当に戻りたいたい時のことです。私達はそれに帰ることはもうできません。もし私が自分の前の状態が不完全で、是正、ゴール、授与への前進に不適切であると決断したのなら、自分に選択肢はありません—私はそれを捨てて前に進まなくてはなりません。

後ろを振り返る人々も存在します—彼らは過去の状態のなかで”小さい”ままで居続けることを望んでいます。これは発達に反しているため、私達がこのように行動することは禁じられています。私達はその代わりに常に将来に向かって移行することを待望しなくてはなりません。このための手段がグループです。もし私がたとえ少しでもグループと適合しようと努力するのなら、クループまたは自分がどんな状態であろうとも、常に自分の将来の状態をそれから獲得するでしょう。したがって私達には、後ろに戻るのでなく前に進む機会がいつもあるのです。

天国と地獄は私達が内面で経験する“フレーム”である

『ゾハール』VaYaera(そして主は現れた)章 258節:クリエーター が執行した洪水におけるDin(判決)とソドムにおけるDinは、両方とも地獄のDinimDinの複数形)であった。なぜなら地獄のなかの悪人は水と火によって判決を下されるからだ。

259節:ソドムは地獄の判決によって宣告された。「そして主はソドムに雨を降らせ、ゴモラには硫黄と火が天国のそとの主から下った」と記されているように。一つは水の刑に処され、一つは火の刑に処された。そしてその両方が地獄の刑である。そして地獄のなかの悪人には、これら二つの判別によって判決が下される。なぜなら水である雪の地獄があり、火の地獄があるからだ。

私達は、全ての差異の識別が自分たちの内面で行われているだけで、現実それ自体は不変であることを理解しなくてはなりません。私は今も無限世界にいるのです。そして、その存在している現実のなかで変わるものは何もありません。唯一変化するものは、自分の知覚、感覚、意識、理解、そして査定(評価)です。これらの変化とは、自分が感じるものなのです。

「すべての人はその人自身の欠点の度合いにまで判断する」と記されてます。言い換えると、私は無限世界に対する自分の査定に従いながら、自分の内面に像を描写しているということです。この理由から、天国と地獄、善と悪、火と水による判決というものが、静的かつ不変の像に対する自分の感じ方の異なるレベルであるのです。「私は、私のHaVaYaHを変えなかった」と記されてます。

私達は、不変状態に対する自分達の感じ方(態度・姿勢)で、内面に現実を描いています。全てのものは、無限世界・クリエーター・光・絶対的な授与に対する私達の特質、知覚、そして査定によって決まります。

天国、地獄、そして判決(審判)の様々な種類は、自分自身の内面で明らかにする全状態のことです。外側で変わるものは何もありません。すべてのものは、自分の意識又は視覚なかで生じる変化によって決定されます。言い換えると、全てが自分次第、内面にある価値観と特質と基礎によって決まるということです。

したがって、すべてのものは教育と自分の基礎を変えることを援助する社会によって決まります。このようにして私は、決して変わることのない現実に対するより正確な感じ方(態度・姿勢)を発達させることができるのです。内面の特質を変えれるように早くなればなるほど、1つの“フレーム”から次の“フレーム”へますます早く進むことができます。


スピリチュアルワールドへの突入

『ゾハール』は私達すべてを含む上層システムについて伝えています。しかし、それを非常に細かく説明する必要はありません。なぜなら、私達は単にストーリーを追って、それが私達に影響を及ぼすのを待てばよいからです。そうすれば、まるで霧の中から現れるように、その描写がもっと明らかになります。それは、子供が自分の周りある様々なものに対して、それらの関係性や利用方法を学習し、段々にこの世界について知るようになるようなことです。

同様に、私達は新しい世界の中で自然にそのように育ちます。現在私達はその世界に近づきつつあり、それはより明らかに現れ始めています。最初は私達に何かが“聞こえ”始めます。そしてそのうち私達はこれらの音が何なのか分かりはじめます。このようにして私達はスピリチュアルワールドの感覚に入ります。

よって、多くの説明をすることは意味をなしません。なぜなら、スピリチュアリティーは知性の中ではなく、感覚の中、願望の中で明かさねばならないからです。私達はスピリチュアリティーを理論的に勉強して満足するのではなく、スピリチュアルワールドに入らなくてはならないのです。

どのようにして人類は統一できるのか?

私達の全作業は、私達の間の空間を満たしているクリエーターによって実行されています。それゆえ、人類が自分たちの力だけで統一しようという全ての試みが、どれだけ無駄か想像できます。

現在、人類の世界的な問題は明らかであり、私達は共に縛られた状態にあります。それによって私達は上層システム—私達のつながり—が啓示されるのを目の当たりにします。私達は何らかの合意に達しよう、この段階で一定の関係を確立しようと努力していますが無駄です。妥協の成立が可能だったのは、世界システムが明らかになった時まででした。今日それはもう機能しません。

この理由から、私達の間の空間を満たしているものが誰なのか明かさねばならないのです。この“媒介者”—クリエーター—なしには、誰も他者との関係確立を達成できないでしょう。これゆえに私達は、家族関係、子供や親戚との関係、そして事実上すべての人との関係において危機感を抱いているのです。そして、これらの問題は単にいっそう深まるだけでしょう。


光に同調する器具を造る

創造物が充足した状態に到達する前には、充足されたいという願望を獲得するプロセスが前もって必要です。この充足に対する期待をつくりだす平凡な例には、動物の求愛行為や私達が特別な食事のために“食欲をとっておく”ことなどがあります。充足されたいという願望をつくる準備段階は、充足そのものよりも常に重要です。なぜならそれが、そのうち経験するようになる喜びの種類と度合いを定めるからです。

スピリチュアリティーのなかでは、すべてが願望によって決まります。なぜなら、光(喜び)は永続的で限りがなく、完全に穏やかであるからです。それは常に私達の周りにある全空間を満たしています。私達に欠けているのは、それを受け取りたいという願望と、それを知覚させる道具です。

しかし、光を受け取りたいという願望は、食欲をそそる“スパイス”—“胡椒”、“塩”、“マスタード”、そしてその他の”調味料”—を加えることによって徐々に私達の中で造られています。それは“いちゃつく”ような遊びに似ています。クリエーターは繰り返し私達に喜びを味わせてはそれを取り上げて遊んでいます。この“遊び”は私達の将来の充足に対する正しい姿勢を造り洗練させます。

トーラーは“スパイス”(Torah Tavlin)と呼ばれます。なぜなら、それは私達に願望を啓示し、その育て方を教え、そしてそのあとに、その正しい満たし方を教えます。具体的に言うと、それは私達を待つ将来の正しい喜びと充足へと導くのです。現在私達はトーラーの助けを借りて正しい願望を造り上げようと努力しています—たとえ光が私達を取り巻いていても、トーラーなしで光を知覚できるようにはなれません。

私達には光を標的として明らかにさせる願望はまだありません。それは送信された信号を受信するために一定の周波数(波長)に同調しなくてはならないラジオに似ています。ラジオはその外の波を引きつけるために、外の波長に十分つり合う一定の波長を造らなくてはならないのです。

私達は学習によって小さな“スピリチュアル・フレーバーの味”を受け取り、私達を持ち上げる光を引き寄せます。そしてそのあとにそれは私達を落とします。それは時には気持ちよく、時にはあまり気持ちよいものではありません。しかし、このようにして私達は光のための器、光を知覚させる道具(感覚器官)を造ります。言い換えると、私達の外側にある光に類似する“波”を造るということです—唯一そのあとになってのみ、私達はそれを達成できるようになります。

その“器具”が用意されたらすぐにそれは光を受け取り始めます。これには何の秘密もありません。それが私達にとって不可思議に思えるのは、私達にはそれが見えず、私達の願望はまだそのための用意ができていないからです。私達の問題はこれだけです。私達の外側で隠されているものは何もありません—隠されていること(コンシールメント)は私達の内面にあるのです。

生命線をつかむ

『ゾハールの書』“BeHukotai(私の像の中)”章 5節:バラクは賢かった。彼の行いにおいて、彼は、バラムをしのぐ、最も偉大な魔術師であった。私はこの世、このクリエーターの作品のなかで人が望むすべてのものについて、その人は下層での行為で目覚めるべきであると学んだ。これがそうである理由は、下層での行為をもってして、上層での行為が目覚めるからだ・・・

光が私達を目覚めさせるということから、私達は上層からの願望しだいであるかのように見えます。しかし、私達が下層で働き始めるときに、私達は上層から目覚めをもたらすのです。

“下層からの目覚め”と“上層からの目覚め”に関して、「私は最初で最後である」と記されています。この意味は、すべてがクリエーターによってなされるということです。すべてがクリエーターから始まることは明白なことです―しかし、私達もそのプロセスに参加するようになる必要があるのです。人におけるスピリチュアルな作業の最初と最後の最後には、上層からの助けを受け取りますが、それ以外のすべてはその人次第なのです。

通常、私達はまさにこの点において困惑します。人がどん底に落ちた時、その人の力だけでそこから這い上がることはできません。このことについて次のように記されています。「囚人は牢獄から自分自身を釈放することはできない。」しかし、もしその人に生命線の末端が投げられたのなら、後はその人次第です(彼はそれをつかまなければなりません)。その人には、その機会を正しく利用したのかどうかの責任があるのです。

クリエーターの秘密を達成せよ

『ゾハールの書』 “Song of Songs(雅歌)”章 482節:人が知っておくべき知恵:彼の主の秘密を知りそれを遵守すること、彼自身を知ること、彼が誰であるのか、如何に彼が創造されたのか、何処から彼が来て何処へ彼は向かっているのか、如何に肉体が是正されるのか、そして如何に彼が全ての王によって裁かれるのであろうか、を知ることだ。

私達はこれらを単にきれいな言葉と考えます:「何処から彼が来て何処へ彼は向かっているのか」、そして「如何に彼が全ての王によって裁かれるのであろうか」。しかし、最も重要な部分は「彼の主の秘密を知りそれを遵守すること」です。これがまさに私達が達成しなくてはならないことです。

クリエーターは、彼の全作品、彼の創造物のすべて、彼が創造した現実のすべて、その創造の理由、創造の考え、その実現方法、そして創造物のすべてが到達しなければならない目的地、を明らかにするよう私達に求めます。このすべてを学ぶ唯一の方法は、それを達成することです。その意味とは基本的に、創造物のすべて及びその全状態に包まれて、それらすべてを経験することです。唯一そのあとに、私達の全行為を創造物全部の中に含ませることによって、私達は私達の中、又は私達の願望(KelimKliの複数形―ヘブライ語で器・容器を意味する)の中でそれを達成します。この達成から、私達は到達する必要のあるすべてのものに到達するでしょう。

私達の願望を是正することによって、私達はこれを達成できます。これらの願望は上層から与えられていて、それらは上層の光によって是正されます。しかし、その光は、私達の用意、私達の努力、その光が現れて自分達を是正してほしいという私達の要求、に従って現れるのです。このことを、MANを上げる又は掲げると言います。人間は光に自分を是正してもらいたいという状態に到達する努力をしなくてはなりません。

私の息子達は私を負かした


クリエーターは喜びを受け取りたいという願望を創造しました。そして、彼はそれを絶えず新しいものに取り替えています。言い換えると、私が毎回新しい喜びを得たいという願望を感じるとき、それが私の中にいるクリエーターによってなされているということです。彼は私を押し、これらすべての喜びの方へ引き寄せます。彼は私の中ですべての衝動を呼び起こし、まるで手袋の中の手のように私を制御し、常に私の中で新しい願望を生じさせます。

私がクリエーターから与えられたこれらの願望を実感するとき、それらが誰から送られてきたのか、そしてそれらの理由について考えないなら、私は無生物レベル、植物レベル、又は動物レベルです。しかし、心の中の点が自分のなかで目覚めるとき、私は、まるで私が彼の手につけられた手袋であるかのように、クリエーターが私と遊んでいるのだと識別しはじめます。

こうなると、私はすべてのことに対して心の中の点の内部から考察します。私は、毎回新しい喜びを得るよう誘発しているのが彼であることを識別します。この自覚を持ち、すべてのことに対して心の中の点から考察することは、彼の内部から考察することと同じようなことです。これが、なぜ魂の芽生えである心の中の点が、“上層からのクリエーターの部分”と呼ばれる理由です。この心の中の点を持てば、私は自分の内部の動物を人間に変化させる機会を獲得します。

私はどうこれをするのでしょうか? 私はクリエーターに逆らって、自分の性質に逆らって、自分の中の彼の手に逆らって、それをするのです。私は彼が私の中で呼び起こす全てのことを盲目的に実行することを拒否します。私は彼が私の中で目覚めさせる願望を使うのを止めて、同じ指針で行動し続けることの理由と目的を確認します。たとえ彼がそれを望んでいるとしても、私は自分に何らかの自主性がその中にあるのかどうか発見します。私は、自分が機械的に呼び覚まされ、私の中で彼が手袋の中の手のように呼び起こしている同じ願望を満たし続けるべきかどうか、又は、この様に行動することを止めて、これからは自主的に行動することを自分が望んでいるのかどうか発見します。“私の息子達は私を負かした”と記されているように。

私はクリエーターの行為をし続けます。しかしそれは私が、ホスト(クリエーター)と同じ指針、同じ考え、同じ意図で、それらに参加するという条件のもとに限ってのことです。私はこのことの中に彼を明かしたいのです。私は完全にすべてのことにおいて彼とパートナー同士になりたいと思い、この協力関係を通じて彼との一体化を達成します。

普遍的な自然とのつながりの体系

受け取った質問:『ゾハールの書』と全世界の自然とのつながりは何ですか?

私の答え:『ゾハールの書』が説明することは、普遍的で完璧な自然とつながる方法、この一体化させる特殊な力が自分に影響を及ぼすよう、どうそれに依頼し、要求し、それを引き出すのかということです。『ゾハールの書』は私と全自然を結びつける鎖の環です。―この環がなければ、この世の人はそれとのつながりを持てません。

私は自然が世界的で、全世界が世界規模の村であり、そのなかですべての人がつながっていることを発見するので、さらに私は自分がすべての人に依存していることを実感します。自分がすべての人に依存していることから、次に私は彼らと同等になりたい、彼らの間で友達としてすべての人を善良に扱いたい、そして自分に対し彼らにもそれと同じことをしてもらいたいと思います。ならば、私はこれをどう獲得するのでしょうか?

これを達成するためには、私は彼らとのつながり方を知る必要があります。私には指導、つながる方法を教示するマニュアルが必要です。その手引きは、人々の集団との関係のつくり方、どのように彼らに近づいて話せばよいのか、教示す必要があります―その教示は、彼らが私から必要なものと、私が彼らから必要なものをさらけ出す必要があるのです。

このつながりのマニュアル、『ゾハールの書』は人と自然とのつながりの体系の全部を明かします。そうすることで自然、クリエーターは人に影響を及ぼし、そのひとを不可欠な自然の一部に変化させるのです。

人類という共通の生命体におけるスピリチュアルな中心部

私達は世界全体がスピリチュアルな是正に目覚めるまで待つ必要はありません。正確に言うと、既に目覚めた人々が、自分たちの間に群れ又は正しい結合体を構築して、このやり方で前進しなくてはなりません。そのあとに、だんだんと多くの人々がこの結合体に加わりはじめることでしょう。

私達の関心事は、どのようにしてこの統一体を、その達成が可能な人々の間で達成するのか、そしてどのようにしてその共通の生命体の全臓器をつなげるのかということに向けられるべきです。それらはその生命体に新たな命を吹き込み、私達に上層の光をもたらし、それは生命体の全体に行き渡り始めるでしょう。そのあとに、このスピリチュアルな中心部のおかげで、光はその中を通り、共通の体系の全部分に広がり、他のすべての魂も同様に目覚めることでしょう。