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勉強は難しければ難しいほどよい

私達の考えと願望はお互いに繋がっています。したがって、たった今、私達がゾハールの書を勉強している間に、もし誰かが怠惰になっているのなら、これが残りのすべての人を衰弱させます。この人はこの行為に対する罰を受け、勉強を続けることが彼にとってもっと難しくなります。

私達は皆1つの共通の船に乗っています。私は、それに穴を開けているのか、それとも、自分の能力の限りをつくして私達の共有している船を自分の意図で進ませているのかのどちらかです。

私にエネルギーがなければないほど、私にとってそれはますます難しいものになります。それでも、もし私がこれらすべての障害を乗り越えるのなら、私は光を呼び起こすという共同の努力に、自分の大きな努力を提供することになります。それによって私は自分以外のすべての人に影響を及ぼし、この影響が彼らを通じて自分に戻ってきます。その結果、私は最後に勝利者になります。

したがって、それが勉強中に難しければ難しいほど、それはますます良くなるのです。私は自分の責任を感じなくてはなりません。なぜなら、私達の全員が「相互保証」と呼ばれるグループ契約にサインをしたからです。そして、この事実は私に行動する義務を負わせなくてはなりません。

自分独りでゾハールの書を読むことはできません—自分には環境が必要です。この環境とは、世界中で勉強しながら、この勉強結果を期待している人々のことです。クリエーターは世界の様々な場所にいる数百万の人々を目覚めさせました。今、その人々は私達と一緒にゾハールの書を読んでいます。

テレビまたはパソコンのモニターの前に座っているすべての人は、もし彼がこの瞬間に怠惰になっているのなら、彼が他の全ての他者に影響を及ぼすことを理解しなくてはなりません! この違反は彼に戻ってきて彼が私達全員に及ぼした害と同じ程度に彼を目的の達成から遠ざけます。

したがって、その勉強は自分の個人作業ではないのです。今、私達の全員が、私達の船を目的地に近づけさせる「包む光」(the Surrounding Light)を引き寄せようと努力しています。友が欲しがるのなら最後の枕をも与えるという友愛の度合いを人は獲得しなければならないと記されています。

今考えてください:あなたの友達がスピリチュアルな目的地に向かって前進したいと思っています。そして彼とあなたの二人が同じ方向に一緒に進んでいます。しかし、突然あなたは彼を置き去りにします! これほどの裏切者はどんな罰を受けるに値しますか?

スピリチュアリティーの中では全てが反対である

バール・ハスラム著 『Beit Shaar HaKavanot(意図の門楼)』:最初にはZair AnpinNukvahが二つの大きな光として、背中合わせで同じ段階に立ち、Nukvahには裏側の十個のSefirotのスピリチュアルなPartzufがあったことから、創造の四日目に月が欠けた。[これはNukvahがスピリチュアルな器を含んでいたことを意味します。では何故彼女には光が欠けていたのでしょうか?] 月は、二人の王は同じ王冠(Keter)を使うことができないと不平を言った。彼女は「行け、そして自分自身を小さくしろ!」と告げられた。こうして、彼女は以前住んでいたZair AnpinYesodの下の箇所に戻った。

Malchut(創造物)は彼女がZair Anpinのようになれると思いました。しかし、彼女は彼のようには輝くことはできませんでした。彼女は光をZair Anpinのように受け取るためにBinaへ上昇しましたが、そうすることができませんでした。これはZair Anpinには授与の特質があるという理由からでした。彼の性質はHassadimの光であり、彼はHochmaの光が無くても完璧さを感じるのです。彼はいつでも好きな時にHochmaの光で輝きます。なぜなら彼には常にHassadimの光があるからです。

しかしながら、MalchutにはHassadimの光がなく、彼女はHochmaの光のなかで彼女の存在を暗闇として感じます。これが創造物の不平を成すものです(Kitrug Yareach―月の不平):「私はまさに無限世界の高さへ上昇できる。しかし私にはHassadimの光―授与の光―がない。ゆえに私のためにHochmaの光は輝くことはなく、私はより大きな暗闇を感じるだけだろう。」

私達はいつ私達が暗闇にいることを明らかにするのでしょうか? それはまさに私達が上に持ち上げられているときです。私達がわずかに上の方へ持ち上げられるとき、そのことが私達に正された願望―Hassadimの光―が欠けていることを感じさせます。私達はこれを暗闇として知覚するのです。

私達が暗闇を感じるのは、私達が落ちるからではなく、上昇するからです。しかし、それは私達がHassadimの光—愛と授与の光—の衣をまとわずに上昇するという理由からです。私達の考える下降(下落・堕落・落ち込み)とは実際には上昇(向上・進歩・高揚)です。しかし、それは是正されていないものです。同様に、私達にとって上昇に思えるものとは実際には下降です。なぜなら私達が受け取りの願望の中に与えられている物を受け取るからです。したがって、スピリチュアルワールドのなかでは全てが逆なのです。

そして夕となり、また朝となった 一日

スピリチュアルワールドのなかで光が現れることを「日中」と呼びます。ゆえに、「朝」の次に「正午」そしてその次に午後の祈りが来ます。楽しみたいという願望は人の中で大きくなり、様々な状態のなかを通り過ぎると、彼は感じます。「日中時間」は、新しい利己的な願望があまりにも大きくなり、光が制限されはじめ、太陽が沈みはじめるまで、続きます。その人にはHochmaの光を保持するのに十分な量のHassadimの光がもうありません。彼の楽しみたいという願望は是正される前に大きくなったのです。

その結果、もう彼が受け取りたいという願望と授与したいという願望の差異、または光と暗闇の差異、が識別できなくなった時、「夕」が始まります—すべての物が混ぜ合わさっているということです。彼のスピリチュアルなPartzufRosh-Toch-Sof(魂における頭、体、そして手足)がすべて同じ段階にある時、彼は“横たわった”(不活発な)状態に入ります。彼はどんな計算もできなくなり、計算しなくなるのです。

彼にできる唯一のことは彼の「無生物」段階を維持することです。よって彼は“眠りにつき”、これは死にとても近い状態です。「夜」と呼ばれる状態のときに、彼は再び「結束」—魂どうしのきずな及びクリエーターとの合体—を獲得します。そうすることで堕ちてる状態にあっても、上層の光が彼を持ち上げます。

この点から、私達は、スピリチュアルな段階に到達する前のこの準備段階で、どのように自分たち自身を暗闇に備えさせるのかということに対する結論を引き出す必要があります。可能な限り多くのつながり又は“支えるブロック”を造るために、自分たち自身をグループと真正な書物と勉強に束縛させることによってでしか、これを行うことはできません。私達がこのつながりを造るとき、「夜」が終わり、新たに「日中」が始まるでしょう。


インターネットとは他に類のないつながりの手段である

最近、システマチックな世界危機がもっと明らかになるにつれて、世界の機能性における正しいシステムを造ることの必要性を感じます。バール・ハスラムは、私達がこの社会を新しい状態に従いながら変革させていかなくてはならなく、それは自然が要求していることであると記しました。世界危機は私達が自然または“全体的相互連結”(general interconnection-全員がお互いとのつながりを持ち合うこと)のようにならなくてはならないことを明示しています。

私は自然のような愛と授与(与えること)の関係を徐々に実行することが可能であると見ています。これはバーチャルな領域で可能です—そこでは世界中のすべての人々がお互いにつながっていることを感じ、全員の生活を共に体験します。全てのコミュニケーションの手段の内でインターネットだけが、このつながりの場所を提供できます—これはテレビや新聞や本を通じることでは不可能です。

ワールドワイドウェブ、つまりインターネットだけが、子供そして大人も同じく教育する世界システムを造るための、普及と統一の要求を満たすことができます。唯一それだけが、共通の団結力を造るための、世界的なつながりを提供することができるのです。そうすれば、我々の全員がつながりの伝達経路を通じてお互いのことを感じ、スピリチュアルなつながりに到達します。


スピリチュアルな飢え

スピリチュアルな人生に到達するために、物質的な人生の中で気分悪くする必要はありません。これは、良い暮らしをするために必要な物の全てが、エジプトの奴隷であったユダヤ人に、与えられていたことの例から見て取れます。新しい王がエジプトに君臨し、7年間の飢きんが始まりました。しかし、これは物質的な飢えではなくスピリチュアルなものです。

彼らはファラオのためにピトムとラムセスというすばらしい都市を建設しました。“ファラオのため”とはどういう意味でしょうか? それは、それが彼らの“エゴイズムのため”になされたということです! 彼らはそれにとっての良い暮らしを築きました。しかし、突然すべてが空っぽであることが明かされました・・・そして、良い生活の全てが満たされているのにもかかわらず、私達はそんな人生から逃げる必要があるのです。

私はスピリチュアルな人生が物質的な人生よりももっと重要であり、それなしで生きるのなら死んだ方がましだと感じます。私はこの人生をもう生きることができません—私にはスピリチュアルな人生を明かす必要があるのです。したがって、私は暗闇そして砂漠の中へと走り去る覚悟があるのです。

この状態を“エジプトの外に出ること”と呼びます。それは自分の優先事項を変えて、それらを一般的に受け入れられているものと反対にする必要がある時のことです。だからといって、世界が肉体的な苦しみにそれ自身をさらす必要は全くないのです。正確に言うと、私達はスピリチュアリティーの欠如に苦しむべきであって、物質的な問題から苦しむべきではありません。

こん棒やムチを使って人をスピリチュアルワールドに行かせるこては不可能です。人々は身体的な問題があるとき、宗教や精神科医に頼ります。人はスピリチュアリティーを欠く必要があるのです。これは、その人の心の中の点がどれくらい早く明かされるのか、そして、どれくらい私達がカバラの科学を広められるのかによって決まります。

この知識を広げることなくして、スピリチュアルな救出が起きることは不可能です。人は自分自身の力でスピリチュアリティーを明かす方法を発明することはできません—人はそれをどうにかして受け取る必要があるのです。バール・ハスラムはカバラの科学を広めることを“メシアの角笛”(The Mseeih’s Horn)と呼びました。なぜなら、これなしに世界がよい方向に変革する機会が無いからです。


その時、新しい王がエジプトに起き上がった

『ゾハール』Shemot(出エジプト記)章 250節:彼らの部族が残りの国々と混ざることを恐れ・・・彼は、イスラエルを軽蔑しひどく嫌っていた傲慢なエジプトに、彼らを追放した。そして彼らは、アモリ人の不正が蔓延し、彼らが彼らの土地に来るまで、そこに居た。その理由は残りの国々と混ざる恐れがもうなくなったためである。

自分たちの心の中で中間線(the middle line)を築くとき、どう私達は望まれた状態にもっと近づくのでしょうか? 光、授与する者、又はクリエーター、との私達の類似である中間線は、まさに私達の内面で明かされる「エジプトへの追放」(エジプト捕囚・エジプトでの異郷生活・the Egyption Exile)と呼ばれる状態によって生じます。

自分の利己的な願望はあまりに大きくなり、私はその中にとじ込められ、それに制御されていると感じます。そのあとに私は、自分自身と自分の性質、自分自身と自分のエゴイズム、または、自分自身と自分の特性、を見分けはじめます。

私は自分の特性を変えたいと思っていますが、そうすることができません。私はその特性が自分に害を与えるのを見ます—私が自分自身、自分の人生、私の近くにいる人々の生活、そして全世界を堕落させていると、私は実感します。私は、自分で鎮めることのできない、永久に膨張し続けるエゴイズムの中に存在しているため、自分自身と残りのすべての人を危険にさらしています。それでも私は、それに対してどうすることもできないのです。

その後その人は、自分に働いている力が外来性の力であると実感しはじめる状態になります。その人はもうそれと関係しなくなり、それを自分の憎い敵として知覚しはじめます。このことを、“その時、新しい王がエジプトに起き上がった”(出エジプト記 1:8)と呼びます。人はこう感じはじめます:新たな支配力が明かされた、これは自分ではなく他の誰かがこの全てを自分のために用意していると。それは自然またはクリエーターかもしれませんが、その人ではないのです。その人はどうすれば自分がそれから自由になるのか知りません。

そのとき人は、まるで自分の脇から自分自身を見つめるように、自己の喜びを受け取る意志を、自分とは無関係なものとして見ます。その人は、クリエーターのことを、このすべてを自分のために準備・計画する者として、認識しはじめます。その人には既に、ファラオとクリエーターの両方に対して同じ姿勢があるのです。

その後その人は、内面的な分割—自分に起こることの全てを決定している上層の力が存在するという実感—を経験します。しかし、この啓示はそれ自体が独立して勝手に起きるものではありません。その人が実際にカバラの知恵に取り組み、その間における多数の学習時間、グループの中での結束、そして普及活動での作業の後にしか起こることはないのです。


5 Minutes Of Light From The Daily Kabbalah Lesson: スピリチュアリティーとは?

自分自身から脱出し他者の中へ

自分自身、自分のエジプトから脱出することとは、何を意味しているのでしょう?

私は自分で運べる物の全てを持ち、隠れるためだけに逃げます。しかし、私が完全なるエジプトの闇に包まれているとき、何処に逃げる場所があるのでしょう? 私は自分の願望の中に閉じこめられています。それゆえ、私はどこへ逃げることができるのでしょう? 結局のところ、私には他に何もないのです。

私は自分の力だけでこれを遂行することはできないかもしれませんが、それを切望しなくてはなりません。さもなければ、生き残るチャンスはありません。人はエジプトの器のすべてを持ち、夜の暗闇の中、エジプトから逃亡します。暗闇が彼を取り巻いている状態で、彼はどこに逃げることができるのでしょうか? その次の状態も暗いのです。しかし彼はそれがより自由に近いと感じます。

たとえ私が今、他人を憎んでいて、他人とのつながりがないとしても、それでも私は次の状態がより進歩したものであることを知っています。言い換えると、私はできる限り自分の願望から出てきて、隣人の願望の中へ入るのです。私は単純に逃げます。しかしながら、私は今のところそれらの中に光を見ません。私は暗闇をよそに、それらの外に出る覚悟を示す必要があるのです。

私は自分の背後に自分に向かって輝いているものがなく、もうこれ以上自分のエゴのなかに留まることができないことを見るゆえに、最後の海(紅海)を達成し、その中に飛び込む覚悟があります。私は共通の願望、私の隣人の願望の中に入るためだけに、それを殺す覚悟ができています。

私がそこで自分のために何も受け取ることがないという事実にもかかわらず、私は次の段階、スピリチュアルな段階がそこに置かれているのを見ます。人は自分自身の内部の願望に関して、他の人々の外部の願望の方がより高い段階であることを理解します。


エジプト脱出の奇跡

『ゾハール』Bo(ファラオの所へ来る)章 ・・・そしてあなたの神である主はあなたをそこの外へ連れてきた・・あなたがエジプトから脱出したこの日を覚えておくのだ・・・そして、彼の偉大な力で、彼の存在と共になんじをエジプトの外へ連れてきた・・・主はあなたをこれの外に連れてきた・・・エジプトからの脱出は50回トーラーのなかで言及されている・・・

50とはMalchutの10個のSefirotBinaの40個のSefirotを一緒にした最高段階です。Malchutの全体はそれ自身の上、その最高段階にまで昇る必要があります。これらの2つの力は人間の中で感じられないといけません。1つがもう1つと対立するように。

したがって、自分らのエゴイズムから脱出する力が私達には備わっていないということに於けるひどく不快な気持ちに至り、同時にこの遂行が絶対に必要であることを感じるようになり、そのあとに私達が「エグザイル」(異郷生活・国外追放)を終えるまで、救済はやってきません! 私達がこの対立を最大限に感じるようになるとき、紅海(ヘブライ語では最後の海と呼ばれる)の海が開き、それを渡るのです。

人は、それがどう啓示されるのかについて知りません。これは奇跡と呼ばれています。しかし、この奇跡は人が行き詰まった状態になるときに、その人自身によってもたらされるのです。一方、その人は、どのように脱出することが可能なのか理解しません—その人にはこのための力または能力がありません。さらには、その人の性質を変化させる何らかの力が上層に存在しうることも理解しません。そして他方、自然を超えた所に存在しているこの力が啓示されるのです。

これは奇跡のようにしか起こりません。それは「エジプト」と呼ばれるその状態、その性質の上で生じ、人間の内面感覚の全体を構成します。

あなたは救いを待っているのか?

『ゾハール』Shemot(出エジプト記)章 247節:Malchutである、イスラエルの聖なるHayaの外面という意味の、彫り物にしがみつくGevuraの側面から来た、上にいる強力な者たちである、Malchutは60人だ。これは何故彼らが彼女、60人の王妃[Malchuts]の名を取って名づけられているのかということの理由だ。それらは国々(the nations)の上に任命された天使たちだ。80人の女中は、60人の王妃の下で、Malchutの彫り物に任命された天使たちだ。これは何故それらが王妃ではなく女中と呼ばれているのかということの理由だ。そして少女たちには数はない・・・

私達が『ゾハール』のなかで読む全てのことは、願望の内側で生じることです。願望以外には何も存在しません。私達はその内面的な現象、変化、そしてその各部分の様々な関係性について読んでいるのです。

それは集合的にMalchutと呼ばれる巨大な装置であり、常に光との同等性を高めながら変化する必要性があるのです。したがって、『ゾハール』に記述されている全ての名前や語句は、それらの様々な相互関係において、Malchutの内部、私達の願望の内部に存在しています。

これゆえに、私達に必要なことは、単に『ゾハール』に記述されている光の願望への引き寄せ方だけについて考えることなのです。私達は明確にどの特質や変化が描写されているのか、また、そこで生じていることについて理解していませんが、それでも救いを待ちます。救いとは、光がこの願望に影響を及ぼすこと、私達が願望とそれを満たす光を感知して理解すること、そしてそれらを一緒に感じることです。確かに他方を感じることなく一方を感じることは不可能ですが、もしそれらの間に接触がまさに最少量の最初だけでもあればよいのです。

これを私達は待っているのです。そして、私達が『ゾハールの書』で読む全ての語句と文字はこの願望—私達の魂—の中だけに存在しているのです。