コロナウイルス時代〜人生を落ち着いて再考する時 (Medium)

Mediumが掲載した私の新しい記事「コロナウイルス時代〜人生を落ち着いて再考する時」より

コロナウイルスが世界的な現象になる前、私たちはとても危険な世界的状況にありました。

私はずっと、史上最も高い世界的な緊張と不安の警報が鳴りつつあると感じていました。国際債務の激増や緊迫した国際関係、莫大な汚染といった、個人的・社会的・国際的・生態学的な様々な問題。そのいずれにおいても、私たちの行く先では次の世界大戦が猛威をふるう、と感じていたのです。

何としてでも、私たちがこの地球の周りに構築した競争的・利己的で正しくないすべての関係性を落ち着かせる必要がありました。

突然、どこからともなくやってきたように見えるコロナウイルス。これが浮上したのは、まさに世界的緊張がプツンと切れる恐るべき時だったのです。

そのため、私は差し当たっての道が拓け、もっと悪い事態に至らなかったことを嬉しく思っています。

加えて、コロナウイルスの原因をめぐり散在してる理論より高いところで、最も強い自然の力があらゆる人とものを、非常に正確で思いやりのある方法で導いています。

私たち人類は、自らを袋小路に追い込んでいました。比較的穏やかに、そして私たちに他のどんな選択肢も与えることなく、自然は新たな状態を整え、私たちが抱えていた難局からの脱出手段を手配したのです。

そうして現在、私たちの多くは、なにもすることなく家の中でじっとしています。自分たちを忙しくさせ続けてきた非自然で非本質的なものは、すぐに消えていくでしょう。もう、そういったものを使う必要はない、という感覚が高まっているからです。

私たちやその子どもたち、孫たちが生きていくために、政府レベルと社会レベルの両方で、新しい部門や団体を作るのが賢明でしょう。そこで、社会に対する相互サポートという空気をもたらすことに関与するのです。そうすることで、私たちが新しい生き方に慣れるまで、このすばらしい発達の新ステージを通して、私たちは生き抜いていけます。

この危機の後、私が願うのは、中国や欧州連合(EU)、米国、ロシア、イランなど、世界に力を示し影響を与えている、経済的・軍事的・産業的な超大国が平静を取り戻し、正常化していくことです。また、世界中を旅することへの人々の熱狂が沈静化していくことも。

このコロナウイルス時代から脱するような現象が出てくることを、私は確信しています。

私は新たな世界を明確に描いています。そこでは、なぜ生きているのか、人生の意味は何なのかということを考える、心と思考の空間がどんどん解き放たれます。そして、このすべてのごたごたに終止符を打つのです。

コロナウイルスに襲われるまで、私たちは部屋の隅から隅へと駆け回る小さな子どものようなものでした。

これからは、すべてが変わります。

私たちはもっと成熟し、親であるかのような自然が私たちをしつけ、指を差してこう言います。「もう十分だ! 腰を下ろして、何をしているか考えよ」と。

私たちは歴史的な新しい時代に入りました。そこでは、自分たちが何をどのようにしているのか、立ち止まって熟考し、冷静になることが求められます。そして、もっと忍耐強くなって、どうやったら人と人との間、人と自然との間で、もっとバランスよく生きていけるか、と自分を見つめていきます。その体験と知識を持ちながら、前へ進んでいくのです。

[261806]

なぜコロナウイルスは歴史上の他のパンデミックと違うのか?(Newsmax)

Newsmaxに掲載された私の記事「なぜコロナウイルスは歴史上の他のパンデミックと違うのか?」より

人類がパンデミック(感染爆発)に直面するのは、これが初めてではありません。しかし、COVID(コビッド)―19、すなわちコロナウイルスは、疑いなくこれまでに比類がないものです。津波のような過去の健康危機は、基本的に全世界へは打ち寄せず、地球の隅々まで影響しませんでした。

なぜなら、世界は今ほど、相互につながったり依存したりしていなかったからです。自然の中でこのように閉塞しもつれ合ったシステムが、私たちに個々に死ぬか、共に生きるかを教えています。これは、コロナウイルスが私たちに見せている確固とした教訓です。

黒死病やSARS(サーズ)、そしてこれまでに最もひどいパンデミックであり、1918年に約5千万人を死に至らしめたスペイン風邪。これら世に蔓延した流行り病は、人類に深刻な影響を及ぼしました。しかし、コロナウイルスのような打撃は、今までにありません。コロナウイルスは範囲が非常に広くグローバルで、皆をわしづかみにし、ほんの一瞬で私たちの生活をひっくり返しました。

急速に世を席巻した渡航禁止令は、どこであろうと可能な限り世界を飛んで逃げればいい、という私たちの執着を凍結させました。この危機以降、お金に対する見方も変わり、人生のプライオリティに対する再評価が始まっています。私たちの尽きることない大量消費主義や衝動的な余暇への探求は突然、一時停止し、幸運にも十中八九、元には戻らないでしょう。私たちはもっと基本的で落ち着きのある、賢く新しいライフスタイルに適応していく必要があります。

私たちの性質との戦い

パンデミック(感染爆発)に加えて、戦争もまた世代から世代へと、この地球の様々な地域でその爪跡を残してきました。以前は、対立が世界を陣営に分けていました。ドイツ対ドイツ人に抗する人々、ロシア人対アメリカ人、中国人対西洋人、イラン人対イスラエル人などです。

しかし今や、全世界が一つの村になっています。コロナウイルスはまさにそれを証明しました。以前の危機に比べて、人種や信仰、社会での地位など、一切の分け隔てなく、全人類に影響を及ぼしています。

この状況が全世界へ示しているのは、自然に直面した人間が、いかに弱くてもろいかということ。これは謙虚さを持て、という戒めです。これまで、私たちはこう感じていました。現実とは私たちにとって役立つ、即、入手可能なもの。そして、他を考慮することなく、自分の周りのありとあらゆるものを利用する権利を持っているのだと。

自然の中では、何事も偶然には起こりません。この現状が、人類に新しい方向性と見方を示しています。今やこの事態は、過去のケースのように、どこか特定の国や地域、リーダーへ向けられていません。今回、私たちは皆が同じ船に乗り、荒波を航海しています。私たちが戦うべき唯一の敵は、自分たちの身勝手さや利己的な性質であり、それが世界のアンバラスさの元凶であること悟らなければなりません。

ウイルスや生態系に関わる他の問題をもたらしたのは、自然と人、双方に対する無謀で暴力的な人間の行為です。それが自然のシステムへ損傷を与えたからです。事実、すべてが同じ世界に組み込まれた、なくてはならないパーツであり、世界は相互につながり噛み合わされた、巨大なはめば歯車として機能しています。

人類への治療薬

人生における楽しみや喜び。それは何も禁じられていません。喜びに対する私たちの欲求は、自然に織りなされたものであり、それによる満たしは、間違いなく創造物に善を行い、満たしをもたらすという創造の目的です。問題は、楽しむ目的が何かということであり、さらに重要なのは、何を、誰のために費やすか? ということです。

そのため、パンデミック(感染爆発)に苦痛や不安を感じていると思いますが、私たちがこれを第一の教訓として学ぶなら、コロナウイルスは人類の病気の治療薬となり得ます。死の天使というのは、唯一、人間のエゴだけです。私たちがエゴの上に昇るまで、人生がすばらしく楽しいものになることは決してありません。私たちには、道を変えること、互いにつながることへの目覚めが与えられています。そうして、調和のとれた関係性を通し、共に自然にあるプラスの力を解き放つことができるのです。

ここに、世界を変えて行くこの啓示に感謝する理由があります。

コロナウイルスへの最善の薬

コロナウイルスは人類にとって、世界規模の問題となりました。中国で発生し世界中に広がったこのウィスルによる死者は、すでに3千人を超えています。私たちはこの問題にどう対処すればいいのでしょうか?

私たちが進む道では、この先、数々の問題に出くわします。新型ウイルスや新たな疾病がひっきりなしに現れ、温暖化によって地球から水分が蒸発することで、私たちは毎日のように何か新しいものを見つけます。もしかしたら、5万年から10万年前という遠い過去に存在した疾病の復活を、目撃することになるかもしれません。

この惑星で人類に存在の意識があるのはわずか数千年で、その時代に私たちは生きていなかったため、新しいウイルスが何に由来するものかは分かりません。だから、新型ウイルスやバクテリアはよりいっそう増加するのではないか、と思っています。

カバラの知恵は簡単な防御手段を与えます。つまり、私たちが互いにつながるのなら、何も恐れるものはない、ということです。つながるという方法をとることで、どんなウイルスも殺す場所と力を創ることができます。それは、試してみればわかります。

たとえば、私たちは先ごろ、テル・アビブの中心地でカバラのワールド・コンベンションを開催しました。そこには、78か国から5千人を超える人々が参加しました。私たちは、3日間のコンベンションと、その前後合わせて計10日ほど、一緒に過ごしました。だれも病気になりませんでしたし、風邪すらひきませんでした。

実を言うと、私たちにはワクチンがありました。すべての細菌を消毒する特別な殺菌剤、つまり私たちのつながりです。これは、すべての悪の力に対して作用する、自然の力です。人々が共につながろうとするのなら、恐れるべきウイルスはありません。スピリチュアル的にも、物質的にも、すべてのウイルスを殺すワクチンを手にするからです。

そのため、私にはこのコンベンションを開催することに疑いはありませんでした。中には、コンベンションの開催中止や、少なくとも種々の感染症への恐れから、多くの人が集まる場所を避けなければならない人々の参加制限を示唆する人もいました。つまり授乳中の母親や慢性疾患を抱えている人々に対してです。

しかし私には、このようなコンベンションには健康上のどんなリスクもない、という確信がありました。私たちには、すべてのウイルスに効く薬があるからです。私たちに必要なのは、その扱い方を学ぶだけですが、それは簡単ではありません。

生物学的、またスピリチュアル的段階に存在する、あらゆる感染やウイルス。それを消毒して殺菌できる人々の間のつながり。それをどう活用すればいいのかを、人々は学ばなければなりません。これは神秘的で非現実的のように思えるかもしれません。しかし、まさしく人々の間のつながりが、すべての疾病と問題の治療薬なのです。それは、私たちのつながりが、この世で可能なかぎりの最高段階で起こるからです。

自然には、鉱物、植物、動物、人間という4つの段階があります。鉱物や植物、動物段階では、自然は創造されたとおりに、何も変わることなく存在します。しかし、人間段階、つまり私たちは出来事に影響をもたらすことがあります。私たちの間に良い関係性を築くことで、互いに活力と強さを受け渡し、それが邪悪な考えや問題、悪い関係性に対する予防接種となります。

しかし、人と人との間の関係性を正さないのなら、それが誘因となり、さまざまなウイルスの出現・拡散や、火山の噴火、津波、台風など、自然災害の発生を引き起こします。私たちは自然の中で一番高い段階に存在しているため、すべては人と人との関係性次第です。だから、私たちの態度次第で、自然を殺しもすれば、自然を指揮して改善させもするのです。

コロナウィルスから得られるものとは(KabNet)

KabNet で公開された私の新しい記事“Benefits of the Coronavirus”より

人々を死に至らしめ、世界を混乱に陥れていているウィルス。ここから何が得られるのか?

コロナウィルスは、人間が自然に直面して、自分たちの弱さや小ささを受け入れるのを助けます。

ウィルスであれ、自然災害であれ、その他無数の打撃であれ、そこから得ているものは、私たちが行っていることに対する自然からの戒めです。私たちが私たちのやり方で何をしようとも、自然にとって大差はない、ということです。

「人間のエゴによる損害への気づきは、私たちのこれからの発展における、重要な一つの局面なのです」

コロナウィルスから得られる主なもの、それは人類の相互依存へのグローバルな目覚め

私たちは徐々に、同じ惑星に住む一つの大きな家族のように、自分たちが単一の人類であるという結論に導かれています。互いが互いを仕切るために据えた、国境や壁といったすべてのもの。グローバル化がしかと張られた現状では、最終的にそれが用をなさなくなります。それを認識するよう、自然は私たちを促しているのです。

私たちが相互に依存しつながっていること。また、私たちが自然に統合された不可避な一部分であること。それを、自然は私たちに打撃を与えることで示しています。

そのためコロナウィルスは、自然が私たちに知らしめようとする、さらなる教訓とみなすことができます。互いの間にどれだけ違いを見ていても、私たちが作った評価やレッテルなど気にも留めない、すべてを包む込む自然があるということです。

「我々は既に、全世界が一つの集合体であり単一の社会である、と考えられる段階まで来ている」

カバリスト、イェフダ・アシュラグ(バール・ハスラム)著、『世界の平和』より

コロナウィルスによって得られるものは、全人類によるワンネス(単一性)への気づきです。コロナウィルスは、私たちのエゴによるインフラ(社会基盤)を弱体化させます。それによって私たちは、世界規模での相互依存が高まっている状況下でどう動けばいいのか、その答えを出す必要性を知るのです。繰り返しになりますが、自然は私たちが世界中に張り巡らしたあらゆる種類の仕切りに、どうやって風穴を開けるかを示しています。

私たちの間に引いた仕切り線はどこから出ているのか?

その仕切り線は、他者を犠牲にして得を望む人間のエゴから出ています。

人間のエゴは、全現実の知覚を小さな破片に粉砕しました。コロナウィルスは、私たちのエゴの本性を窮地に追い込んでいます。そして、いかにその破片が、利他を燃料とする、究極の自然の力に反して作用しているかを見せているのです。一方で、自然それ自体は、私たちそれぞれの間の、また全体性の中の自然との、相互依存や相互のつながりを意識するよう、徐々に私たちを促します。

私たちの間の完全なつながりや自然との相互依存の実現に向けて、自分たちの利己的な性質が邪魔をしていることに気づき始めなければなりません。いかにエゴが私たちを互いに孤立させ、全体としての自然から分離させているかを見始める必要があります。そうすることで、エゴは新たなウィルスにしろ、個人的もしくは社会的、世界的規模の問題にしろ、この先に来る無数の打撃に対し、私たちに備えさせるのです。

人間のエゴによる損害への気づきは、私たちのこれからの発展における、重要な一つの局面です。

苦しみか、もしくは豊かなつながりへの教育・感化か、そのどちらかによって、私たちは人間のエゴの邪悪さを明かす必要があります。

その明かしは、私たちが自然のポジティブな力を惹き付けることを目指すなら、喜ばしいものになり得ます。それは、鉱物や植物、動物、スピーキングレベルという、自然の全要素を完全につなげます。そして、ポジティブとネガティブな力の間、その啓示の中間で、起きていることを正確に見て、自然からの影響に応じて明確に行動し、人類はなすべきことができるようになります。

どうやったら、ポジティブなつながりの力を私たちの人生の中に呼び起こせるのか?

かなり簡単に言えば、私たちのつながりが自然のポジティブなつながりの力を呼び起こします。そうして、自然の中のポジティブな力を惹き付けることで、その反対に位置するネガティブなエゴの力を明かします。その双方の力を目覚めさすことで、より高くさらなる至高の力、完全さとバランスが感じられる新たなレベルのつながりが生じます。

それは歌に、「Ose shalom be Meromav, Hu yaase shalom aleinu(築けよ、「彼」(クリエーター)の天に平和を、「彼」は私たちに平和をもたらす)と詠まれている通りです。つまり、平和とは、自然とその逆の力との中間で、私たちの関係を一つにまとめることにあります。

私たちは、互いにどうやってつながればいいかを学び、自然のポジティブおよびネガティブな力の手綱を取らねばならない時期に直面しています。

その手綱をさばき始めると、世界の主要な出来事も現実のなかのあらゆる細部も、そのすべてがどうやって一つの絵へリンクしていくのかが、わかるようになるでしょう。

カバラの知恵は、そういった力の発見をガイドします。カバラが提供しているのは、調和のとれたつながりを知るためのメソッドであり、自然のポジティブな力を惹き付け、その対にあるネガティブな利己の力を明かしていきます。そして、それら2つの間で、バランスのとれたロープの上を歩む方法を学んでいくのです。

人がいなくなると自然が活性化する理由

私のFacebookページ Michael Laitman 02/18/20より(英語)

1986年、チェルノブイリで起きた世界最大の原子力事故。人々はおびただしい量の放射能から逃れるため、大急ぎで家をあとにしました。それから30年後の今日、チェルノブイリから30km圏内の閉鎖地帯には、数十種の生き物が生息しています。そして、その多くは何世紀もの間、その一帯にはいなかった種なのです。

この事例が示しているのは、人間の自然への干渉は放射能よりもはるかに悪いということです。どうしてでしょうか?

カバラの知恵は、人間には自然にはない付加的な側面がある、と述べています。それは、人間のエゴであり、他のものを犠牲にして楽しむという欲求です。

そのため、たとえ気づいていなくても私たちがいる限り、どんな些細な行為であっても自然のシステムの完璧なバランスを妨げます。だから、人がいなくなることで自然が活性化するのです。

では、人間社会において、自然のような調和を得ることは可能なのでしょうか?

もちろん可能です。これは私たちがしなければならないことです。でも、一体どうやって? 自然の内的感覚やその法則を研究し、自然と一体となるよう努め、互いに流れ込むようにしてください。そのような自然との統合に達すれば、実際、すべてはただただ至福であると、わかるようになります。

憎しみを愛へ変える

質問:愛を憎しみへ、憎しみを愛へ変えるなら、その祈りの場所はどこにありますか?

答え:今あなたは、愛か憎しみの状態にあって、それを変えることをとても簡単に思っているようです。しかし、実際にはそれができないことに気づくでしょう。

誰かを愛せなくて、憎しんで拒絶さえしていると想像してみてください。次に、その状態を真逆のものに変えようとしてみてください。できますか? いいえ、不可能です。

しかし、あなたはそれを望んでいますし、あなた自身を変える必要があります。その憎しみが、自分をスピリチュアリティから遠ざけ、上層の世界を感じさせないようにしていることを理解するのです。では、一体どうすればいいのでしょう? その疑問を持った時、あなたは自分の憎しみを愛に変えて欲しいと請い始めます。

どうしたら、それができるのか? それを心配すべきではありません。わずかな光線が上層からあなたへ送られ、あなたは別人に、若く、美しく、愛し愛される人になり、すべてが開花します。それが、祈りです。
[259524]
From KabTV’s “Fundamentals of Kabbalah,” 12/29/19

新年の抱負

私のFacebookページ Michael Laitman 12/29/19より(英語)

他者とより強い関係性を結ぶほど、私たちはもっと幸せになれます。

新年の抱負として最も重要なことは、真の満足のあるたった一つの源へ投資をすることです。その源は良好な人間関係を通して見つけられます。皆それぞれが友情を築き、社会へ利益をもたらすことを焦点とする、全体的な統一の中で見つけていきます。

私たちの欲求が自分の外、他者へ与えることへ向いていれば、どんなときもむなしさを感じることはありません。そのようなつながりがある状態では、苦しみのない美しく完璧な人生を得ることができます。この満たしの源は際限がなく、新年のみならず、私たちの全人生に関わっています。

天国と地獄はどのように定義すべきか?

Quora、マイケル・ライトマン:「天国と地獄はどのように定義すべきか?」より

カバラの知恵によれば、天国は完璧な授与のスピリチュアルな世界であり、受け取りはほんの少しもありません。

もし私たちがたとえ極わずかでも、この世のものを超えて何かを望むなら、カバラの知恵を用いて、スピリチュアルな授与の世界への準備をし、他者との良好な関係を築いていけます。

そして、私たちが死ぬときーー体の死ではなく、他者を犠牲にして楽しむいう生まれつきの利己的な欲求が死ぬときーー、授け与えるという第二の性質に入ります。その性質が私たちにとって天国となります。

もし、私たちが準備をせず、授与の欲求を持たなければ、授与の関係性や他者への愛など、まるで地獄です。

そのためこの世は、適切に準備をするなら、愛と授与というスピリチュアル世界である天国に入れる土台、と考えられているのです。

天国と地獄とは内的状態のこと

質問:魂は発達する間、さまざまな変容を遂げます。宗教的な観点では、天国と地獄は魂の発達のある段階です。私はカバラ的な観点から、その意味を知りたいのですが。

答え:宗教が述べていることとは違います。

天国は、他者への授与に喜びがある状態です。地獄は、まさに恥ずかしさで火照っている状態です。

地獄とは恥の感覚のことです。天国とは愛からの喜びです。しかし、これはすべて、スピリチュアル段階でのことです。それ以外ではありません。

質問:恥の原因は何ですか?

答え:恥は、クリエーター(創造主)がどれだけ自分と反対であるかを見たときに起こります。

『カバラの知恵の前書き』では、クリ(器)がクリエーター(創造主)と反対であることを見つけたとき、恥を感じ、それ自体を制約して、第一制約(ツィムツムアレフ)が起こった、と私たちは学んでいます。

[251420]
From the Kabbalah Lesson in Russian 6/23/19

バール・ハスラム

私のFacebookページ Michael Laitman 10/10/19より(英語)

イェフダ・レイブ・ハレヴィ・アシュラグは、『ゾハールの書』の解説書である『スラム(梯子)』から、バール・ハスラム(梯子の所有者)として知られています。バール・ハスラムはその生涯を、カバラの智恵の解釈と革新のために捧げ、それをイスラエル中に、また世界中に広げていきました。バール・ハスラムが展開したカバラの研究に関する独特のメソッドにより、誰もが現実を深く掘り下げ、その根と存在の目的を明かせるようになったのです。

バール・ハスラムは、1884年9月24日、ポーランドのワルシャワ生まれ。19歳のとき、ワルシャワで最高位のラビによってラビに任命されました。16歳のときには、ダヤン(正統派ユダヤ裁判官)として仕え、またワルシャワで教師をしていました。

ポーソブのラビ・イェホシュアに師事し、1921年にイスラエルに移住。エルサレムの旧市街に居をかまえました。バール・ハスラムが来たといううわさは、ポーランドから移住したユダヤ人たちの間ですぐに広まり、ただちにカバラの権威として知られるようになります。その周りには徐々に生徒たちのグループができ、夜明け前のカバラのレッスンに参加しました。後には、旧市街から引っ越して、エルサレムの新しい居住区であるギバト・シャウルに落ち着き、そこで数年間、その地区のラビを務めています。

1926年から1928年まではロンドンで過ごし、その間、アリの『生命の樹』の解説書『パニム・メイロット・ウマスビロット』をしたため、 1927年に出版。また、その滞在中、イスラエルの生徒たちと頻繁に手紙を交わし、それは1985年に『イギロット・コデシュ(神聖なる手紙)という本にまとめられています。

1933年には、論文『マタン・トーラー(トーラーの授与)』『ハアルヴット(相互保障)』『ハシャロム(平和)』を出版。

バール・ハスラムの長きにわたる仕事の成果として、2つの主な作品があります。それは、アリの著作に関する解説『タルムド・エセル・セフィロト(10個のセフィロトの研究)』と、『ゾハールの書』の解説『ペルシュ・ハスラム(スラムの解説書)』です。16章(6巻)からなる『タルムド・エセル・セフィロト(10個のセフィロトの研究)』の出版は、1937年に開始。1940年には、アリの著作を厳選しその解説を添えた、『ベイト・シャアル・ハカヴァノット意図の門)』を上梓しました。ゾハールの解説である『ペルシュ・ハスラム』18巻は、1945〜1953年にわたって印刷されています。 後に、さらなる解説を含む3巻、『新ゾハール』が、バール・ハスラムの死後、1955年に刷られました。

バール・ハスラムはゾハールの書への手引きで次のように書いています。「私がその解説をスラム(梯子)と名付けた理由は、この書の目的があらゆる梯子と同様であり、もしも屋根裏部屋に山ほどの素晴らしいものがあるならば、必要なものはそこにいくための梯子だけであり、その時世界中のすべての恵みはあなたの手の中にある、ということを示すためである(第58項)」。

バール・ハスラムは、カバラの原典を正当に学ぶための準備として、一連の解説を書いています。その一部には、『ゾハールの書の前書き』『ゾハールの書への手引き』『カバラの知恵への前書き』『スラムの解説書の前書き』『生命の樹への一般的前書き』『タルムード・エセル・セフィロトへの手引き』などがあります。

1940年には『ハウマー(国家)新聞』を初刊行。しかし、結局それが最終刊となりました。この新聞は、英国の委任当局が共産主義を広めたという悪意のある情報を受け取ったことで、廃刊とされたのです。

バール・ハスラムは、自分の本の出版で途方もない困難に直面しています。2003年のイスラエル賞を受賞したシュロモ・ギオラ・ショハム教授が1950年代初頭にバール・ハスラムと会談した際の記述から、バール・ハスラムが出版とカバラの普及に帰した重要性を知ることができます。

「彼は老朽化したぼろぼろの建物、ほぼ掘っ立て小屋のようなところにいた。そこには古い印刷機があった。彼には植字技術者に支払う余裕がなく、 60代後半にして、自ら一文字ずつ組版し、何時間も通して印刷機の前に立っていた。 アシュラグはツァディック(義人)であることは明らかで、晴れやかな顔をした謙虚な男であった。 しかし、彼は完全に社会の本流から外れた人物であり、ひどく貧しかった。 後に聞いたところでは、彼は非常に多くの時間を植字に費やし、印刷過程で使用された鉛が健康を損ねたとのことだ」

この抜粋は、2004年12月17日にハアレツ新聞に掲載された、ミッカ・オデンハイメルによる記事です。

バール・ハスラムは、単に自分の考えを紙に著しただけにとどまらず、その推進活動にも精力的でした。 当時のイスラエルにおけるユダヤ人居住地の多くの指導者や労働運動の指導者ほか、多くの公人と会談しています。その中には、ダヴィド・ベン=グリオンやザルマン・シャザール、モシェー・サデー、ハイム・アーロゾロブ、 モシェー・アラム、メイル・ヤアリ、ヤアコブ・ハザン、ドブ・サダン、偉大な詩人であるハイム・ナフマン・ビアリクなどの人物がいます。

イェフダ・アシュラグと数度にわたり会談したベン・グリオンは、実に驚いたとのこと。

「私は彼とカバラについて話したかったが、彼は社会主義について話すことを望んでいた」

(ベン=グリオン・アーカイブ、1958年8月11日の日記より)。
ドブ・サダンは、そのエッセイ「3つの会議とその間に」(アモット、テルアビブ、1963、P.49)で次のように書いています。

「当時最も偉大なカバリストの一人であるラビ・イェフダ・レイブ・アシュラグは、カバラの基本を私たちの世代の歴史的なエンジンに変えることを目指していた。これに基づいた社会主義的な認識を通じて、彼はキブツ運動との接触を求めたのだ」

バール・ハスラムがヘブライ労働運動とその指導者たちとのつながりを求めたことは、両者にある精神的および教育的な食い違いを考慮すれば、驚くことかもしれません。しかし、彼の著作を深く研究すると、イスラエル国内でも世界でも、その両方でその時代の出来事に多大に関与していた博識者のうち魅力的で興味をそそる人物、そのアイデアが今日にあってなお画期的で大胆であると考えられている人物が明らかになります。