Entries in the '毎日のカバラレッスン' Category

聞き入られる祈り

上の者は常に完全な状態にあり、それは授与以外、何も必要としません。それは機嫌を感じたり、又、変えたりするような何かではありません。むしろ、それは定められた不変の法則、システムなのです。あなたがこの法則と提携する程度まで、それはあなたに良く影響します。

しかし、もしあなたがそれに従わず、あなたがそれと類似していなければ、それはあなたに悪く作用します。私たちの最初と最後の状態はあらかじめ決まっており、あなたがそれに沿って行こうが、抵抗しようが、理解しようがしまいが、それらは完全に実現化されます。

下の者(あなた)には、一つしか良い機会はありません:このプロセスに意識的に参加し、その為の欲求を上の者に渡すことです。私たちが到達しなければいけないのが、この欲求なのです;私たちには欲求以外に何も必要ないのです!私たちはこの欲求を“上げる”方法も知らなくてはなりません。それを上の者に渡す為にです。上の者は完全な状態にあります;それは常に、下の者が必要する全てを与える準備が出来ています。

下の者とは全ての魂の集まりで、上の者とは一つです:一つの光、一つの創造の思想、または一つの力。もし、下の者が上の者に似たいと願うのなら(つまり、結合し、一つとなることに積極的なら)、上の者へその欲求を上げることが出来るのです。上の者はこの願い以外聞き入れないのです。これが祈り、すなわちMANと呼ばれ、それはたった一つの統一体(single whole)になる欲求なのです。

From the 2nd part of the Daily Kabbalah Lesson 6/23/10, “Preface to the Sulam Commentary”

これは人間の為の作業である

スピリチュアルな道はやさしくありません。それは多くの上昇と下降から成ります。それは平坦な、舗装された道ではありません:それは、くぼみだらけなのです。あなたが前に進むまで、あなたは様々な問題や障害に対処し、長い時間、同じ場所で踏み止まることになります。道中で一歩ごとに、厄介な問題と災難が起こります:最初はタイヤのパンク、次はエンジンが壊れ、そしてガス欠、次に居眠り運転、などなど。しかし、私たちにどうすることができるでしょう?これが私たちの道なのです。

突然、あなたのロバ(ヘブライ語の“ロバ”“Hamor”は“Homer”-「物質・利己的な物質」という言葉から来ています)が道の真ん中で立ち止まり、行く手をふさいでしまいます。あなたはそれを退かさなければなりません。しかし、どうしたらロバを動かせるでしょう?あなたはそれを叩きますが、それは動きません。ニンジンで誘い出そうとしますが、追ってきません;それには更に強力な餌が必要なのです。あなたがロバを自分の背中の上にしょって移動させるか、または、カバリストが勧めるように、ロバの歯にパンチでもしないと、あなたは前に進めないのです。

このように、新しい問題は絶えず起こっていき、ついに生命の木が倒れ、あなたの行路に横たわり道を遮ります。そのあと、あなたは止まり、横たわった木の回りを行かなければなりません。その時点で、雲が道に下りてきて、濃い霧を発生させ、あなたが何処へ向っているのか、又、あなたの前に道さえあるのか、分からなくします。

この種の作業は特殊なものです。それはとても困難で、人間のレベルを獲得したい人、本当に人間になりたい者だけの為に選ばれるものなのです。それは、選ばれた人の為に選択された道なのです。

From the Evening Zohar Lesson 6/14/10

光への鍵

もし私が自分のエゴイズムを乗り越え、他人の願望の中へと出てきたなら、私は無限の光を知覚することのできる、無限の霊的な器を受け取ります。これはとても簡単な仕組みです。それは大きなパイプのようで、その中に光が通るのです。このパイプの天辺には弁があり、私はそれを完全に開くことにより、光の流動を著しく変化させることができるのです。この世界では、小さな子供でさえもが蛇口をひねり、水の流動を変化させることが出来ます。スピリチュアリティにて、私は同じことが出来るのです。

私はスピリチュアリティに対し、小さな願望しか持っていません。それは、たった一つのハートの点なのです。しかしながら、もし私が他人の願望へ向かい、自分を魂の共同体へ、それの一つの細胞として含めたなら、私はこの共同体へ授与することになり、その応答として、それは私を保護し始めるのです。それから私はそれの無限の能力を受理するのです。

このゆえに、カバラが私たちに自分たちの願望から出て、他人の願望へ入ることを教えるのは、偶然ではありません。そうすることにより、私たちは、前に持っていたのより、“613”倍大きな能力、霊的な器、そして願望を受け取るのです。以前には、私たちはハートの点しか持っていませんでしたが、今では各自が、体の全体を自分たちの利用のために受け取るのです。

From the 3rd part of the Daily Kabbalah Lesson 6/10/10, Introduction to the Study of the Ten Sefirot

私たちは、どうやって自由の箇所をみつけるのか?

私が受けた質問:なぜクリエーターは世界をこのように創ったのですか? なぜ彼は私たちの心や感覚から自分自身を隠すのですか? なぜ彼は私たちを彼および究極の目標と正反対になるように創ったのですか?

私の答え:彼は私たちに自由を与えたかったため、こうしたのです。彼は私たちに、自由選択を通じて彼を明らかにしたいという欲求を持たせたかったのです。彼は私たちが彼のような与える者になりたいと望むようにさせたかったのです。もし最初から私たちがクリエーター、彼そのままを感じていたならば、私たちはそれに反対せず、方法を何も変えたいとは望まないでしょう。

これと同じように私たちは、誰も自分たちを支配するエゴイズムに抵抗したくありません。私たちは利己的なプログラムを自動的に実行します。同様に、もし私たちの中に利他的なプログラムが植えつけられたとしたら、私たちはそれを自動的に実行します。そしたら、私たちは、“自然の自動的な力”、つまり「天使」と呼ばれるようになります。しかしながら、どちらの形態にしても自由はありません。

自由は真ん中(中間)にしかありません。それは不純と神聖の間にあります。この状態をKlipat Nogaといいます。それはTifferetの質の真ん中の三分の一です。クリエーターは、私たちを不安定状態の所に置かなくてはならないのです。私たちが均衡の取り方、どっちへ傾けばいいのか分からなくするためです。私たちは、何が善で何が悪なのか、そして何を選べばよいのか、または何を切望すればよいのか知りません。ここに私たちの自由選択の箇所があります。

私たちは、そのような自由選択の各点から線を成形し、この瞬間から是正の終わりまで前進します。私たちの唯一の課題は、(クリエーターの)隠蔽の程度と形態を理解し、その理由と必要性に気付くことです。この方法で私たちは自分たちを独立した存在へと作り上げます。

クリエーターは私たちの独立以外に目的はありません。結局のところ喜びを与えるためには、独立した創造物が彼に必要です。彼が創造した、彼が全てをコントロールしている機械に対して、彼はどうやってそれを喜ばせることが出来るのでしょうか? しかしながら、創造物が独立する限り、クリエーターはそれを喜ばせることによって喜びを受け取ります。今や彼が喜びを与えられる誰かがいるのです。本当に存在する誰かが。

この理由から、彼は私たちを直ちに善になるようには創らず、最初に無限の世界を与えなかったのです。彼は私たちを彼と正反対に創り、二つの世界の間に置くことを余儀なくされたのです。結局のところ、これら二つの世界の間にある、まさに真ん中のここ、つまりクリエーターと創造物のどちらの支配も働かない、クリエーターと創造物のどちらにも属さないこの中立的な点(箇所)の中でのみ、私たちに自由があるのです。

From the 3rd part of the Daily Kabbalah Lesson 6/8/10, Introduction to the Study of the Ten Sefirot

信じるということは感じることである

私が受けた質問:Machsom(スピリチュアル・ワールドへの障壁)を越える前の“信仰”とは何ですか?

私の答え:人がMachsomを越え、霊的世界に入るまでは、彼に信仰はありません。カバラにおける信仰の概念とは、日常生活で習慣的に呼ばれるそれとは全く異ります。カバラでは、これら全ての概念は全く違ったレベルで定義されています。

“信仰”とはクリエーターを知覚することです。もし私がクリエーターを知覚しているのなら、私は彼を信じます。私たちが思っていたものからどれほどその定義が違うのかに注目してください。私たちの日常生活では、信仰とは私たちに見えない何か、あるいは、知ることのできない何かがあたかも本当に実在しているかのように信じることです。

カバラは、これは信仰ではなく、単なる幻想であると告げます。カバラは現実的な本当の内面的感覚のみを信頼します:私がクリエーターを感じる度合いまで、私は自分のエゴに反して努力する力を受け取るのです。一つの力に対するもう一つの力;ネガティブに対してポジティブ。これが私たちが言う“理性の上の信仰”です。それはエゴイズムとその中の感覚よりも上の信仰なのです。私はこれらの全ての上に上がります。なぜなら私は上層の理性と感覚を使うことが出来るからです。しかしながら、もし私がそれらを持っていないのなら、私はどのように作業することが出来るのでしょうか? 他の誰かが伝えた物語に基づいてですか?

これは私たちの言う信仰ではありません。それは人々がこの世界で遊ぶゲームなのです。なぜならそれ以外に自分たちを安心させる方法を知らないからです。信仰を獲得するには、私たちは啓示に到達しなければなりません。カバラの知恵とは、クリエーターの創造物に対する啓示です。これを“信仰”と呼ぶのです。

From the 1st part of the Daily Kabbalah Lesson 6/11/10, Shamati #50

和合とは新しい現実である

私が受けた質問:和合(ユニティ)とは何ですか?それは内面的な感覚ですか?それとも何かの力が明らかになることですか?

私の答え:和合とは、私たちには全く解らない、新しい現実のことです。それは私たちが今まで、知覚したことのない霊的な特性、つまり授与の特性を持つ新しい物質です。私たちがこの物質に含まれ、その中で生き始める時、私たちは、まるで別の惑星に自分たちを見つけるように、新しい次元を明らかにします。私たちはこの次元をこの物質の内側、つまり授与の中で明らかにします。

したがって、和合とは単なる相互的な繋がり、良い関係、自信という意味だけではないのです。それは、私たちの世界には存在しない、新しい特性が明らかになるということなのです。私たちがこの特性を獲得し、クリエーターと似通う時、私たちは全てを自分らの知性と感情の中で、彼(主)との結束にて明らかにします。

私たちは和合を達成する以外に何もすることはありません。それは私たちの能力の範囲内で出来るのです。このことに関して、“我等はやるであろう、我等は聞くであろう”と書かれています。この意味は、私たちは様々な行動を起こし、努力し、全力を尽すことが出来るということです。私たちは、カバリスト達が勧めるように、そしてまた、ラバッシュが彼の文章に書くように、一緒に勉強し、結束することができるのです。

しかしながら、私たちはこれにて成功は出来ません。私たちは“そして彼らはこの作業から叫んだ”と表現される状態に達しなければなりません。それは、私たちは和合しなければならないのに、それができない、という内面的な叫びです。この内面的な叫びの状態でのみ、それは起こります。それは真の祈り、真の叫びでなくてはなりません。

私たちは既に全体の土台を造り上げました。後は、私たちが和合の特性に達するだけです。他人との繋がりとして明らかになる、新しい物質が霊的な物質なのです。それはある程度、既に、破壊以前に存在していた、霊的な器なのです。私たちがそれを明らかにする瞬間、つまり私たちが霊的な存在状態を明らにすると、クリエータは明らかになるのです。

そのため、私たちの一人一人と全員が一日中可能な限り一緒に努力してこれだけを気にしなければならないのです。

From the 1st part of the Daily Kabbalah Lesson 6/13/10, The Zohar

最大の報酬はそれが見えないこと

私たちは、隠蔽に対しクリエーターにとても感謝するべきです。それ無しでは、私たちは見せられた快楽を絶えず追いかけ回る動物のままに留まるからです。

隠蔽は私が暗闇に留まることを助けてくれます。それは不快ですが、私は隠蔽を通して自分自身を築くのです。その理由から、私たちが正しく前進しているのか、あるいは私たちの行いが報われるのかを見ることができないのです。報酬とは隠蔽の中を歩いていき授与の行為を試みることです。最大の報酬とはこれに対する報酬が見えないことなのです。

さもなければ、私たちはクリエータの支配から出て来れません。隠蔽の中でのみ、私たちは彼に外見上服従していないのです。彼は私たちを見張っていますが、私たちに、彼を明らかにする機会と、無限の世界の制約以後に形成された隠蔽の中での彼の行為の偉大さを明らかにする機会を与えます。

私たちは啓示 [クリエーターが明らかになる事] を求めません。それは人が生来の切望に動機づけられ、動物的な状態へ戻りたいということです。知ることとは私たちに起こりうる最悪のことなのです。もし私たちが知識を“理性の上の信仰”の後に獲得したなら、私たちは受け取りではなく、授与の特質の中で新しい知識を明らかにします。これは既に神性の知識なのです。

しかしながら、私たちはまず制約を行い、向こう側へと通過して、その前ではなく、そこで初めて新しい知識を明らかにするのです。

From the 1st part of the Daily Kabbalah Lesson 6/13/10, The Zohar

まやかしの支配から自由になる

私が受けた質問:それはどのようなゲームなのですか?それは友達を最も偉大と認めることですか?

私の答え:それはゲームではありません;それは隠匿を突き抜けることです。私のエゴイズムは他人から自分を、そして自分を他人から隠します:それは、私が無限の世界の全てを見ることを不可能にします。現在、私は無限の世界にいます。が、しかし、私が見るのは、非常に暗い状況です。私のエゴイズムは、醜くて、愚かで、怠惰で、嘘つきな人たちを描きます。しかし、現実にはそれらは全て間違っています;この状況は自分の中、私のエゴイズム内に存ずるのです。もし今、私の深く愛する子供が自分の横にいたなら、どう彼らを見るでしょうか?彼らは私に完璧に見えるでしょう。なぜなら“愛は全ての罪を補う”からです。私は彼らを、彼らの欠点全てを含め、愛するでしょう。

自分のエゴだけが、非難されるべきなのです:自分はそれの向こう側に何も見ません。私の脳の奥には、画面があります。私は、目を通して世界を見ているようですが、それは自分のエゴイズムのプリズムを通して入り、そして自分の脳内の画面に映し出されるのです。全ては私の態度次第であり、それを見るために自分がどう順応するか、なのです。なので、私はグループに対し、彼ら皆を、完全に是正された、今世代で最も偉大な人たちと見るように自分を順応しなければならないのです。

これはゲームなのでしょうか?いいえ、それは単にエゴイズムのまやかしを取り消すことです。それは理性的な行為なのです。私の向こうに、無限の世界があります。そして私は、たった今も既にその中にいるのです。もしあなたが、この平凡な、逆の状態に無限の世界を歪める、全ての殻(Klipot)を剥ぎ落とせば、あなたは無限を知覚するでしょう。

最初は、そのふりをしてみてください。努力してみましょう。私たちを、是正された、大きな、団結した、と見る努力をしましょう。この行為を通し、私たちはとても強力な囲む光を引き寄せ、それが私たちの性質を是正します。私たちはエゴイズムの代わりに、授与を獲得するのです。これはとてもシンプルな原理で、まったく現実的です;ここに神秘主義はありません。私たちは自らの努力で、私たちが是正された状態を見ようと試みて、その度合いで、私たちは是正されたシステムに含まれている、内面的な力を受け取るのです。私たちの願望がそれを作動するように促進するのです。これらが是正に向う、実践的な行動なのです。

From the 4th part of the Daily Kabbalah Lesson 6/10/10, “The Importance of the Association

偽りから光へ

私が受けた質問:私たちが完全に利己的な願望の中にいるのに、どうすれば今現在、是正を要求できますか?

私の答え:もちろん今現在、私たちは是正を要求できません。もし私が全くのエゴイストなら、どうして是正を求めることができるでしょうか?しかしながら、私に要求されていることは、少しの授与を、私がまだエゴイズムの中にいるとき、可能な限り要求することです。この意味は、あなたがLo Lishma(それは偽り、エゴ、あなたの快楽への願望の中、そして自己に関する思考の中)にいるとき、あなたは与えられるようになりたい、と微弱の叫びを上げるのです。

もちろん、それは偽りで、あなたは他人を愛し、彼らに授与したくはありませんし、そしてクリエーターに似ることを望んでいません。あなたは単純に、授与とは何なのかが分からず、この理由であなたはこのようなことが言えるのです。もしあなたがそれが何なのかを知ったら、あなたは即に逃げ出だしているでしょう。あなたが何を求めているのかを分からせないために、真理はあなたから隠されているのです。授与とは、それほどあなたの性質と反対であり、それはあなたの現在の願望と性質にしてみれば死なのです。

私たちは、カバラの科学で光と願望の関係を学びます。器、または願望があり、その反対側に光があります。この他に、別の状態があります。本物ではない、偽りの願望があり、その反対にある光は直接的ではなく、包囲的なのです。これがまさに私たちの現在の状態なのです。しかしながら、今のところは、まるで私たちが授与したいかのように、この光が授与の願望を私たちにもたらすことを求めるのです。それはこれのために作用するのです。

システムは、私たちが次の状態へ移行するのを望まない(それにもかかわらず、それを求めている)現在の状態から、次の状態へ達することが出来るように設計されているのです。私たちはそれを望み始め、受け取り、その中に存在できるのです。これは、破壊する以前にあった是正した状態からの、私たちの内面に残留している霊的遺伝子、Reshimot(レシモット)によって引き起こされます。これらのReshimotは、私たちから遠く離れているAtzilutの世界の光を目覚まします。私たちはこれらを引き寄せ、自分たちに影響させることが出来、そのあとになってやっと、それらは「囲む光(包む光—Surrounding Lights)」と呼ばれるようになるのです。

確かに、私たちは偽りの中にいて、授与、または隣人の愛を求めていません。それは本当です。トーラーは私たちにこの事実を隠しません。反対にそれは、クリエーターは隠されていている、また、霊的世界は隠されていていると伝えています。なぜなら、もしあなたがそれを見たなら、それを絶対望まないからです。

従って、霊性は、あなたが利己的な願望の中でも、それが自分にとって良いと想像できるように隠されているのです。あなたが、まるで霊性の世界を望むかのように、自分のための利己的な報酬を想像したとき、光はそれでもあなたに影響し、あなたの願望や思考を、受け取ることから与えることに変えるのです。このように作用するのです。まさに、このプロセスのためにシステムが設計されているのです。

この方法で、私たちの現状だけではなく、私たちがこの受け取りのレベルから最初の授与の段階へと上昇した時;Machsom(霊性への障壁)を渡った後でも、私たちは同じ原理で状態から状態へと上昇するのです:望ましくないものを望むによって。とはいえ、それらの段階では“人の魂が人を教える”となり、私たちはもう既に霊的世界にいるので、ある程度の補助を得られます。

From the 1st part of the Daily Kabbalah Lesson 6/2/10, The Zohar

授与への道の、心理的な障壁

スピリチュアルの目標を目指す道には、心理的な障壁があります。もし私が授与を獲得したいのであれば、私は授与の仕方、それ以外のことを尋ねてはなりません。尚又、これは自分のエゴイスティックな思考と願望で定義された授与ではありません。つまり、私は自分の現在の理解力の内から何かを要求することは出来ないのです;それは本当の授与と霊的状態の正反対となるからです。私が霊的状態へ移行し、霊的な特性を受理してのみ、私は新しい思考と、新しいハートでそこを調査し始めることが出来るのです。そうしたら、私は授与の願望の内で感じ、理解するのです。

私は単純に、授与のことを自分の利己的な願望の中からでは知ることが出来ないのです;それは無理です。実際に、霊性に入る第一の段階を“Machsomを渡る”(マクソム:霊的世界の前にある障壁)と呼ぶのは、正にこの理由からです。授与の性質の認識は、現在私の願望の中で起こっていることから全く切り離されていています。それなので、私が授与の性質を要求することは、理性を超えている(自分の現在の理解力を超える)のです。私はただ、この特性を、それの意味を分からなくても、どうしたら受け取れるのかを知りたいのです。現在、私はそれとの繋がりが全くありません、接点もなければそれを試す能力もありません。私は単にそれを、どのような形態であっても、上層から与えられるがままに受け取るのです。

そのような態度は真面目で、発達した、知性のある人に相応しくないと思われますが、しかしながら、それは全くの反対です。高度な知覚力、思考を持ち、私たちが体験するする全てのプロセスを会得している者たちは、自分のエゴイズムを調査し、私たちがそれに、どれだけ完全に制御され、奴隷にされているのかを分かっています。彼らは、自分たちの現在の願望と利己的な、制限された認識力と知力を切り離し、それを超越する以外に選択はないと理解しているのです。

そのため、レッスンの間、私は光が自分に作用することだけを求めるのです。それが私に何をするのかは構いません。私はまるで、何も理解しないで母親の腕の中に横たわり、彼女に完全に身を任せる幼児のようなのです。私は、このような上層の者への献身と無効を成し遂げなければいけません。“私を治して!”私は懇願します。これ以外、私は何も頼みません。

From the 1st part of the Daily Kabbalah Lesson 6/2/10, The Zohar