Entries in the 'スピリチュアルワーク' Category

過去を後悔するより悪いことはない

恥と愛は私達の発達の主要な動力です。それらは互いに正反対の同じ力であり、マイナスの無限とプラスの無限に似ています。

もしあなたが自分自身を恥じて過去を後悔するなら、それは不浄な活動、すなわちクリパーです。なぜなら、それはあなたが、クリエーターの他に存在するものはない、という事実に賛同しないことを意味するからです。

クリエーターの他に存在するものはない、とは物事の最終的な結果が「彼」に依存していることを意味するだけではなく、あなたの経験する全ても「彼」が始めから計画していた、ということを意味します。それは、あなたが自分に訪れる全ての状態をどのように通過し、その後どのように後悔するかまでも含みます。

今のあなたは、過去の全てを行ったのは「私」でありクリエーターではないと考えたこと自体を後悔する代わりに、起こったことをただ後悔しています。これは、あなたがクリエーターとの固着状態にないということです。

もしあなたが何か過去を修正したいと望むなら、そのとき、あなたはクリエーターに固着していません。つまり、あなたは「彼」のみが世界を支配していることを受け入れていません。あなたに唯一必要なことは、悪い出来事に対しても良い出来事と同じように感謝することです。そしてあなたが、たとえ一瞬でもこれに対処(感謝)できるようになると、次の瞬間には、あなたはその過去について(自分がクリエーターを除外していたことに)より大きく後悔するようになるでしょう。

私達は最後にはこの恥の属性を調査しなければなりません。私達がこの調査を完了するまで、次の段階へ移行することはありません。人は常に自分自身を責めすぎていますが、これは、その計画、その行為、その行為の結果、そしてあらゆる事柄が、一つの源から来ることを理解することに失敗した結果です。あなたはクリエーターの業(わざ)には同意すべきです。あなたは「彼」があなたに対して行うことの印象を感じるべきです。そうすればこれら全ての経験において、あなたは、利己的な願望の感覚を越えて、「彼」との固着状態に留まることができるでしょう。

From the 1st part of the Daily Kabbalah Lesson 9/11/13, Writings of Baal HaSulam

正しい意図による小さな善行為

質問:私達はどのようにしてクリエーターに満足をもたらすことができますか?

答え:クリエーターに満足をもたらす、とは「彼」を発見することを意味します。これが「彼」に満足をもたらし、また人類全てにも満足をもたらします。クリエーター(創造主)と被造物の満足とは器を満たす光のことです。それは受取りたいという願望が満たされることから来る喜びであり、また、授与の姿勢から来る喜びです。つまり第一段階は物質のレベルであり、第二段階はスピリチュアルなレベルです。これがクリエーターの目標 ―諸々の器を充分に満たすこと― であり、それが創造主と被造物双方に満足をもたらします。そしてその中で、双方はお互いに固着します。

正しい意図があれば、行動は少なくてもよいのです。それは量の問題ではありません。もしあなたがもっと心の準備に時間を掛ける必要があるなら、それは価値あることです。それにより人々はつなげられます。つまり、もしあなたが接触する一定の人々に話をし、影響を与え、スピリチュアルな感覚を運ぶ「内なる光」を伴って正しく事が為されるなら、それは後になって、私達から話を聞いた彼らから、更に彼ら自身が接触する他の人々に広がっていきます。そのようにして、その影響の広がりは全ての人に及びます。人々は自分で自覚することなく、そのように行います。

しかし、もしそれがただの物質的・外面的行為に過ぎないとき、人々は刺激され、声を上げて泣いたり、叫んだりすることが起こるかもしれませんが、それはポップスター(人気歌手)のパフォーマンスに熱狂するファンの群れと同じようなものです。また人々は、例えばトロツキーのような才能ある雄弁家の(共産主義による世界革命のような)スケールの大きい立派な言葉に影響されがちです。しかしこれはいかなる肯定的な結果にも導かず、むしろ破壊へと導くものです。それで、全ての行為の前には心の準備が最も大切なのです。その準備とはクリエーターに満足をもたらす意図のことです。

これが終日、私が考えるべき唯一のことです。どのようにして私の意図を自分の仕事に加えようかと考えることです。なぜならこれが成功の秘訣だからです。

From the Preparation to the Daily Kabbalah Lesson 8/26/13

なぜ今日恐竜はいないのか?

もし私達が、クリエイター(創造主)に授与し「彼」に満足を与えるために、私達の利己的な願望の上に一つの共有されたつながりを造り、自分自身をその中に無化するならば、そしてまた私達が一般の人々との仕事、その仕事の中で私達は、クリエイターが私達を通して彼らに授与できるよう彼らを私達に近づけて、私達を通して彼らをクリエイターに近づけることを望んでいるのですが、そのような仕事のためにこの全て(つながり)を使うならば、そのとき私達は全ての高位の「諸世界」、全体システムを発見するでしょう。それは人間の外側には存在せず、むしろ私達の間にのみ存在します。

そして同時に、自然界の鉱物、植物、動物もまた私達の内側にあることを発見します。突然、私達は自分達の内側にキリン、ライオン、全ての野生動物、あらゆる植物、そして全ての人間たちを発見します。これら全ては私達の属性のただの複製(コピー)です。

かつて昔、私達は今とは異なる他の属性を持っていました。その時には、見たところ世界には恐竜たちが生息していました。しかし今ではその属性は変わってしまい、その恐竜たちは姿を消してしまいました。私達の時代においては、私達の中の属性は急速に変換しつつあり、多くの植物や動物の種が絶滅しかかっているのを目撃しています。世界では毎日150種消えていると言われています。つまりそのような速いペースで私達の「受取りたい願望」は変化し、発達し、進歩しているということです。

私達には、植物や動物のレベルでは何も変化していないように見えます。しかし本質的には自然の中で毎日たいへん大きな変化が起こっています。なぜなら、それら全体は一人の人間の中に包含されているからです。自然それ自体は私達の内的な特質の複製にすぎないのです。

From the 1st part of the Daily Kabbalah Lesson 8/21/13, Writings of Baal HaSulam

民衆の悲しみを感じる人は全て慰めに値する

カバラの知恵の実践面における実現は、私達の世代から始まります。その実現とは、この世でクリエーターが創造物に対して明かされることです。今や私達は全人類と一緒に、是正の完成のため、一つのクリ(器)すなわち一つの欲求を発見しつつあります。これは目下の世界的危機と、イスラエルや世界全体での私達の普及活動のおかげです。たとえもし私達が人々から最も小さな欠乏を受け取るとしても、彼らの欠乏と私達の欠乏の間のつながりのおかげで、私達は一緒になって、これら全てをスピリチュアルな世界へ持ち上げることができます。

人々は物質的なものを欲しがります。単純なことです。しかし彼らの欲求は「是正する光」の助けなしでは是正することが不可能なように造られています。これが現在の危機の形態です。どの欠乏も、その種類に関わらず、砕かれており、利己的であり、この世界の次元には解決法がないことが明らかにされています。

その是正のためには「光」を必要とします。そしてその光は、皆の間の相互包含から引き出されるものであるため、人々の間の様々な方向での正しいつながりが要求されます。さらにそれは自然の鉱物、植物、動物との関係も含んでいます。この全てが一緒につなげられなければなりません。そしてお互いにつながりを完成させねばなりません。それができた時のみ是正が起こります。

それゆえ、今の危機が人間の努力を通じて是正され得ないことは明らかです。むしろ、私達が人々の欠乏を受け入れて、これらを持ち上げるときに、私達は聖なる仕事をしています。つまりそれはクリエーターと創造物の導管役としての奉仕であり、「司祭の王国と聖なる国家」と呼ばれるものになることです。この形において私達は歴史上初めて完全に集合的なクリ(器)を構築する機会を持ちます。それは一つの針の穴であり、また光を入れるためのクリであり、AHPから欠乏を受け取ることを通して、GEの授与する欲求にそれらをつなげ、祈り(MAN)と組み合わせることで、それらをエイン・ソフの光(オール・エイン・ソフ)まで上昇させます。

次のように言われています。「民衆と共に悲しむ人は全て民衆の慰めを受けるに値する。」それはつまり、誰でも民衆の悲しみとニーズを受け取り、それらを持ち上げる人は、真っ先に「是正する光」を受けるに値するということです。そしてその光は彼を通して、彼が気遣う人々に届けられます。

From the Preparation for the Daily Kabbalah Lesson 8/14/13

「金の子牛」を造ってはならない

私達は他者とつながる必要がある、ということを人に納得してもらうことは大変難しいことです。たとえその人が既にカバラを勉強し始めていたとしても同様です。彼はこのつながりへのいかなる願望も必要性も持ちません。反対に、普通の人の方がむしろ隣人や他者に近付くことでしょう。なぜなら結局、生活をより安全なものにするために良好な関係を維持し衝突を避ける方が、彼にとって有利であると感じるからです。

しかし上層の力や世界を発見したい、人生の意味を知りたいという個人的な願望が目覚めた人は大変個人主義的になります。彼は誰ともつながりたいと思いません。というのも本質的な問いは彼の心の内側で見出されると感じるからです。それゆえ彼がつながりについて耳を貸すことは大変困難です。彼にはそれが子供の遊びのように見え、どんな形であれ理解できません。

そのようなわけで、今日私達がこのテーマについて話し始めることに成功したことは、とても喜ばしいことです。私達は最も基本的で重要な点を見出す間際に来ました。もし私達がいつでも常にこの点に気を付けるなら、その後はそれを通して、その中において、つまり私達の間のつながり(コネクション)の中において、万事何もかもが明らかにされるでしょう。

私達のつながりとは言わば黒い点です。その黒い点は、私達がもう一つの世界へ通り抜ける際の障壁であり、「針の穴」であり、それについてクリエーターはこう言っています。「私のために針の穴のような出入り口を開けよ」。一つのハートにつながった後で、一つの願望の中で、私達は一つの点の中につなげられます。私達の点の全てが一つの点の中につなげられ、それが針の穴のような出入り口を造り上げます。もし私達がこの通りに自分自身を準備するのなら、そのとき私達は新しい世界への通路を開きます。そして最も高いレベルが私達に明らかにされるでしょう。それがスピリチュアルな梯子(はしご)の最初のステップです。

このつながりへの必要性がトーラーを受け取るための準備です。上層の力の手助け無しで私達だけでこのつながりを実現できないことは明らかです。そのため私達にできる仕事は、つながりへの必要性を感じて共通の祈りを打ち立てることです。

つながりに到達する必要性を除いて、個人的にも集団的にも私達には他に祈るものを持たないということは論理的な事柄です。つながりを求める祈りがあれば、私達は、私達が必要とする全ての肯定的な結果(成り行き)を見出します。しかしもし私が、私はもっと知らなければならない、私はもっと成功しなければならない、或いはもっと愛することさえしなければならないと自分勝手に決意するなら、それは単に私のプライドを示すものです。必要なのはただつながりだけを求めることです。そしてこれより他のものを求めることは無意味です。これが私達共通の祈りとなります。

あの「多数の祈り」も別ではありません。それもただ統一(ユニティ)についての祈りです。この祈りと私達共通の祈りとの違いはありません。というのも、その結果は正確に各レベルの梯子の位置に従うからです。私達はこの梯子をより高く登らねばなりません。私達はそれらの位置に落ち着くことはありません。むしろ私達はすべての人との間にますます強いつながりを確立しなければならないし、そうすることを決意するのみです。

これは私が見返り報酬を求めないという意味です。必要物は自ずからやってきます。私に必要なものは社会の中で見つけられます。換言すると私達のつながりの中で見つけられます。そして私達はただつながりを探求するのみになります。これはとても単純な真実なのですが、私達のエゴはいつでも新しく頭をもたげてくるので、あらぬ方向へ滑ったり転んだりし続けます。その度に何度も何度も私達は「多数の祈り」へ立ち戻るように自分自身を強制します。そしてその祈りにおいて、私達は一つの要求の中、一つに統合します。

いわゆる「金の子牛」とは、単なる自分のエゴを満足させるための個人の仕事を指すのではありません。トーラーの中ではこれについて全く何も言っていませんが、この「金の子牛」とは、単純につながりを願う気持ちのかわりに、自分自身のために霊的進歩の形態を確立したいという個人的欲求のことです。「心の点」(ポイント・イン・ザ・ハート)は他の全ての心の点と集合しながら、シナイ山頂へ登って行きます。山頂でトーラーを授かるためです。トーラーとは改正する光のことです。そうしてトーラー授与後、山の麓(ふもと)に集っていた全ての願望・欲求達は、皆同じ「心の点」につながって、そのつながりの点の中に消え去っていきます。

しかしこの全てにも関わらず、ある人は自分自身で何かを決意すること、クリエーターへの奉仕において進歩するために自分にとっては絶対必要であると考えるある種の私的な要求を付け加えることに引っ張られます。これが「金の子牛」と呼ばれます。これはこれでとても高い霊的(スピリチュアル)なレベルです。しかし、始めから終わりまで、是正の完成に到達するために私達はどのように道を踏破しなければならないかについて、トーラーで説かれている全体的な方法とは、ただつながりの強さだけによるものであり、その他はありません。

From the 1st part of the Daily Kabbalah Lesson 7/26/13, Writings of Baal HaSulam

太陽の光と夜の闇

トーラー「出エジプト記」第22章1−2節:もし、夜、泥棒が押し入るところを見つけられて、打たれて死んだならば、打ち殺した者にはその血の責任はない。もし、太陽が人の上に輝いていたならば、打ち殺す者には血の責任がある。彼は必ず償わなければならない。

この泥棒とは私達のエゴのことです。この泥棒は常にいつでも人の内面に掘り進み、奪っていこうとします。もしエゴ(泥棒)が無意識に、「夜」に、つまりこれら全てのことがその人には理解されず明らかでない時に、これを為すならば、そのとき、その人はこの泥棒(自分のエゴ)を殺す権利を持ちます。何故ならこのようにして、その人自身の是正(correction)が果たされるからです。

しかし「輝く太陽」が共にあるとき、あなたはエゴを殺す必要はありません。あなたに必要なのはエゴを是正することです。もしあなたが不適切にそれと関係するならば、あなたは今の段階から落ちることになります。それはあなたが(霊的に)死ぬことを意味します。あなたは殺されます。この為、あなたにはあなたのエゴを殺す権利はなく、その泥棒を是正・矯正する必要があるのです。利己的な行為から利他的な行為へとです。ただ殺すだけというのではありません。

2つの偉大な是正期間、または行為の2分類というものがあります。

・「あなたがされることを欲しないことを他人にしてはならない。」
これは利己的な状態にある人が(エゴ(利己心)の抑制された)中立的な状態へ移行する期間です。

・「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。」
これはあなたがすでに他者のために良い行為をしている期間であり、あなたが自分自身のために望んでいることを他者のためにも願っている状態です。

このようなわけで、もし人が「夜」に行動するのなら、彼は依然として本当の是正の準備はまだできておらず、そのための力もありません。しかし、もし彼が(自分の)エゴと格闘する場合には、彼はそれを殺す権利を持っています。その意味はエゴを単純に無力化するということです。そのとき私はそのエゴを持たなくなります。しかし、もし彼が「真昼間」、すなわち上層の光が彼の上に輝き、彼に力を与える時に働こうとするならば、彼はエゴを是正する必要があります。エゴを殺すのではありません。この昼の状態でエゴを殺す場合は、彼は夜に振る舞えたと同じようには振る舞えません。これによって彼は自分自身を(霊的に)殺します。つまりより低い段階へと落ちるという意味です。

From KabTV’s “Secrets of the Eternal Book” 5/20/13

世界の知覚を変える反転

質問:もし私達がひっきりなしに物質的な圧力、消費社会の圧力にさらされているならば、どのようにして私達はスピリチュアルに前進することができるのでしょうか?

答え:誰があなた達にこれを与えているのでしょうか? それは上層の力(フォース)、自然の統合された力です。この力が全てをコントロールし、私達共通の運命における全ての紆余曲折を満たしています。

人はこのことを忘れて、クリエーターの代わりに他の誰かを非難しようとする時があります。社会は批判されるべきものではありません。彼(クリエーター)だけが批判されるべきです。しかしながら、私達はどうやって彼を批判することができるというのでしょうか? いかにして絶対的な愛と授与の状態にある上層の力が悪でありうるでしょうか? 事実は「あなた」がこのように知覚しているということです。なぜならあなたのエゴイスティックな意図が(世界を)反転させているからです。それで、あなたはあなたを取り巻く世界全体を悪として知覚するのです。

実際は、私達を取り巻く世界全体は無限の優しさと愛です。あなたの意図(インテンション)を変えてごらんなさい。そうすればどこにも何も問題はなくなるでしょう。

他方で、私達は、私達が抱えているその問題に感謝しなければなりません。何故ならそれらはあなたが変化するために必要な物が何かを、正確に示してくれるからです。

From the Convention in St. Petersburg 7/11/13, “Preparatory Lesson”