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愛と憎しみの間の小さな架け橋

質問:人生においてより幸せになるために、自分の性格や性質を変えるべきですか?

答え:いいえ、私たちがしなければならないことは、お互いに正しくつながることだけです。このつながりの中にクリエイターを発見することで、誰もが同じであり続けます。そのうえ人は、自分自身を曲げたり、あえて他のものになろうとする必要はなく、エゴをなくすことに従事する必要もないのです。エゴよりも高いところに自分と他者のつながりを復活させる、それだけで十分なのです。

質問:つながりとは何ですか? それに似たものがこの世界にありますか?

答え:あなたがある人を憎んでいて、そして同時に彼を愛している状態を想像してみてください。もし私たちがこの2つの態度の間で平均値を算出してその平均の態度に達するなら、それはつまりあなたの他者に対する態度と他者のあなたに対する態度の中間なのですが、それは正しい相互的つながりになるでしょう。

私たちは、自分達の態度が避けることのできない性質であり、変えることができなくて当然だと決めてかかっていますが、その上に相互的つながりの小さな橋を架けることができます。利己的な憎しみと利他的な愛の間の差が大きければ大きいほど、人はより高く上昇し、自分と他者との間に発見するクリエイターの偉大さはより際立ったものとなります。

質問:これらの関係は父と息子の関係に似ていますか?

答え:まったくもって違います。父と息子は動物レベルの関係性、つまり動物的な結びつきによってつながれています。

質問:なぜ正しい関係の手本がないのですか?

答え:なぜなら私たちは愛と憎しみという2つの感情を同時につなぐことができないからです。しかしこのような相互的な関係を築くために、私たちには志を同じくする人々のグループが与えられたのです。

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From the Kabbalah Lesson in Russian 3/13/16

スピリチュアルな歓びの秘密

質問:なぜあなたはスピリチュアル・ワールドに到達した喜びについて、ほとんど話さないのですか?

答え:喜びについて話そうとしても、残念ながらそれを言葉にして伝えるのは不可能です。

「もし常に人類が経験してきたか、もしくは経験している、これから経験するであろうこの世界のすべての喜びを合算しても、最も低いスピリチュアルレベルにおけるその10億倍素晴らしい上層の光と比べるなら、それはただの小さな火花にすぎない」と、カバリストは書いています。

私はそれを信じませんでしたが、それをよく調べて照合した結果、確信するようになりました。私はあなたにも同じようにすることを望みます。

コメント:人がいかに全人類の歴史上の喜びに対抗する準備ができているか、想像することしかできないのですね!

答え:人が受け取りの意図でなく、与える意図を持って動くとき、彼は、彼自身を通して世界の全ての喜びを受け渡すことができます。そして、その人は受信機ではなく導線になるため、「電気ショック」を受けることはありません。

彼は自分を通して他者に全てを受け渡すパイプのようなものなので、光そのものではなく、他者を満たすことで得られるものを楽しんでいます。これが秘密の全てです。

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From the Kabbalah Lesson in Russian 2/28/16

ハートとはレモンを搾るようなこと

より近づくことには、いくつかのフェーズがあります。第一フェーズでは、スピリチュアルワールドに到達するためにつながることを切望すればするほど、つながることができないと知ります。人は他者とつながってクリエーター(つながりの中に存在する授与の特質)を明らかにすることはできません。

その人は自分ではできないと分かるまで努力します。最初に発見することは、クリエーターの力がその人をすぐに助けることができるということです。だからその人は「彼以外に他は在らん」、これだけが自分に唯一必要なことだと言います。それに至る(そのことを悟る)ためには、一番目に、自分には選択肢がない、次に、なので創造された存在に対する愛という指示に従うことに自発的に同意し、それ故に、クリエーターに対する愛に達します。

創造された存在に対する愛の条件は、常にどのくらいクリエーターが明かされなくてはならないかによって働きます。カバリスト達だけにクリエーターが明かされていて、その他の人からは隠されていた時代もありました。よってこの作業は今日のとは違っていました。これは、時代によって一般の知恵と個人の知恵の間の結合に違いがあったことを意味し、このことについて「トーラーの意見は地主の意見と反対である」と書き記されています。

今日私たちは完全なる啓示(クリエーターが完全に明らかになること)に近づいていて、カバリスト達がそのことを私たちに告げています。その理由は私たちが自分たちでそのことを見付けることができないからです。単に外面的兆候からでは誰もそのことを特定できません。とはいえ日々世界は完全なる危機に向かって突き進んでいます。その危機とは人間社会の危機、つまり人と人のつながり(人間関係)の危機です。しかし、この世界には人間のつながり(関係)を正せる力は存在しません。

だからこそ私たちはカバリスト達が言うことに耳を傾けるべきなのです。まず私たちは、私たちがつながって一つのハートを持つ一人の人間になることをクリエーターが助けてくれることを理解しなければなりません。私たちのハートは異なるので、一つのハートになるようにつながるためには努力が必要です。それはあたかもレモンの果汁のすべてを搾りだすようなことです。つまりハートから出てくる邪悪な性向のすべてを搾り出すということです。そして残ったものに、お互いに与え合うという意図を加えます。そうすることによってクリエーターに与えます。

条件はとても簡単ではありますが、その条件を満たすのは不可能です。しなければならないことは明白です。自分のハートから利己的な性向をすべて搾り出したあとに、グループと、そして友達の一人一人と、そしてクリエーターとも同様に、良い関係を結ぶことができます。しかし、それはその人が友達で、私たちにそのようにつながる準備ができている場合のみのことです。そうなら私たちは一緒に私たちの間にある共通する一つのハートの中にクリエーターを発見します。

私たちの一人一人が上層の力そのものと同じくらい重要です。私たち一人一人が自身を愛と授与の力に変化する準備ができています。もし私たちがそのことを切に願い、そのことを日中に忘れないなら、習慣が第二の天性になり、自分たちだけではすることができなくクリエーターの助けが必要であるということに気がつきます。唯一彼(クリエーター)の助けを借りて私たちは自分たちの性質を無にし、それを超えてつながることができるのです。

From the Preparation for the Daily Kabbalah Lesson 6/3/14

世界ではなく自分自身を変える

質問:外の世界から来る騒乱に、私達は内的に同意(肯定)すべきでしょうか?

答え:一般的に、世界で起きていることに対する人の最初の反応は、全てを変えたいという願望です。世界を新しく再編したい、国境を変えたい、経済を健康にしたい、といった願望です。これは私達のエゴ(自我)の自然な反応です。それはまた、ある日突然それらの反応が全てナンセンスだと理解し始めるまで見られる、私達の姿です。

あなたは今まで、ある一つのシステムから他のシステムへの変化が状況を改善する手助けとなったことを見たことがありますか? 反対に、いつも結局はもっと悪くなるのです。最初のうちは全てが上手く行っているように見えます。私達が何事かを達成したのは明らかであり、万事が順調に運びます。しかし時が経つにつれて、事態は以前よりもずっと悪くなったことが分かります。これは当然です。なぜなら私達は是正・修復の方向へ進んでいないからです。

そこで今や私達に残されている手段は、唯一、私達の世界に対する間違った関係を認識することのみです。

世界で起こる全てのことは、クリエーター(創造主)への私達のアプローチ(接近)を通してのみ、是正することができます。なぜなら、全てのことは、私達を彼(クリエーター)により近づける目的で、彼からやってきているからです。私達は常にクリエーターから離れようとしています。もし私達がクリエーターを熱心に求める必要性を理解していれば、そのとき本当の意味で善なるものにアプローチし始めることでしょう。しかし、それでも結局、彼は、私達がエゴ(自我)の完全な認識に到達できるように、より遠くへ遠くへと私達を押しやります。

私達がいくらか自分自身を是正し始めるとき、私達は自分のエゴのより内部へと進みます。それはいわゆる「右の線」と「左の線」をたどる道であり、どのように歩むべきか私達は既によく理解しています。それは私達の内側に現れる危機にどう取り組むかの方法であり、この方法で私達は危機を修復します。これが私達のクリエーターへのアプローチの仕方です。

このアプローチ方法を通して、私達は私達自身(世界)を是正します。つまり、外部の経済や教育や情報やテクノロジーその他何ものにも手を触れることなく、私達はこの危機を取り除き一掃します。経済、教育、テクノロジー等々に手を加えることは、すべてナンセンスです。なぜならこれら全ての領域における変化や新組織は、事態が本質的に善くなることを保証しないからです。

しかし、私達がクリエーターに強くアプローチすればするほど、彼は私達をより遠くへ引き離しますが、その引き離しを通して、今まで隠れていた私達のエゴの悪が発見されます。そして、これに内的に対処することにより、私達は速やかに(世界の危機を引き起こしている)全ての悪を善へ移行させることができます。それゆえ世界や社会や生活すべての領域を外的に変えようと願う必要はありません。

私達に必要なことは、世界を変える基礎として人を変えることです。これが特別に私達が自ら学び、世界に説明し、他者に教える必要のあることです。

霊的発見までの9つの段階

私たちの目標は光との同等性と調和に到達すること、言い換えると、是正の完了、つまり永遠の愛と授与に到達することです。この状態は、光に似るために何が欠如しているのか理解するのに必要とされる特性に対する私たちの気付きと感覚、そして上昇を必要とします。それには内なる変化を経験しなくてはなりません。

すなわち、私たちの作業のすべては、いま自分が感じていることと、自分が正された状態で感じているであろうことを理解することです。いかなる状態でも私は光のように反応しなければなりません。

自分の人生の全瞬間において、私は光と釣り合った状態、つまり形態の同等性を切望しなければなりません。このためには、まず第一に光の特性を知ることが必要です。しかしそれまでは、私たちは隠されている状態(in concealment)に在り、光との同等性に到達してないかぎり、光を感じません。光を感じないなら、どうやって私は光に似ることが出来るのでしょうか?

ここで私たちを助けてくれるのが私たちのために創造された、この世という状態です。この世という状態が他の諸世界のいずれにおいても存在しないことは驚きです。ここ、この世では、たとえ私が完全に砕け散っている状態、つまり光と完全に正反対の状態にあるにせよ、そのすべてにもかかわらず、私のように光との同等性を探し求めている願望を発見する可能性があります。彼らは私のように上層からこの強い願望、この精子の1滴、つまりこの“心の点”を授かります。それなしには、この強い願望は呼び覚まされないでしょう。

この時点から、もう私たちは光に似た行為を始めることができます。つまり、私たちがお互いに交流する時に、私たち自身から光の行為と呼ばれるものの手本を作ることができるのです:授与、愛、相互扶助、相互協力、そして目覚め(気付き)。お互いを少し暖めるために、煽動するために、つまり友のなかに願望と羨望を起こさせるために、光が私たちにするそれらの行為をする機会があるのです。

光つまりクリエーターの代わりに、私たちにはグループが与えられます。クリエーターが人に幸運をもたらし「うけとりなさい!」と言うのです。言い換えると、クリエーターがその人を実験室へと連れて行き、私たちの砕け散った破壊された状態にも関わらず、それを通じて友だちの助けを借りて前進することができる型(モデル)に入れるのです。クリエーターがあなたを彼らのところに連れてくるのです。そして、今やあなたは行動しだします!

それ以外の全てはあなたにかかっています。つまり、あなたの作業の仕方と、あなたに授与するクリエーターと同じようにグループに対して関わることによって決まるのです。クループとの対話や相互作業を始める時、あなたはグループがどのようにあなたに影響を及ぼし、また、あなたがグループに影響を及ぼすのか明らかにするでしょう。それなら、一緒に上昇することが可能です。

そのように、私たちはグループの全員のために相互扶助と相互に影響し合うことを全員に義務付けるアーヴット(Arvut:お互いに保証しあうこと・相互保証)とよばれる状態に至らなくてはなりません。私たちは、友だち全員の前で光の授与を演じます。つまり友にクリエーターの授与を示すのです。そして友は、自分自身を正して光に似ることを望む被造物(創造物)のように、私たちに反応を示さなければなりません。

言い換えると各自が、グループと一体になること、グループとつながること、グループにくっつくこと、1つのハートとマインドを持つ一人の人に成ることを望むのです。つまり、私の何もかもがなくなるように、完全に友だちのなかに溶け込まなければなりません。私はグループの中に没入することを望むのです。それが各自がしなくてはならないことです。そして、このことに対して皆が皆を助けています。

この結果として、努力の最後の1滴の後に、私たちは1つのハートを持つ1人の人に本当になります。この1滴は食事の最後の一口に似ており、その後になって満腹状態が生じ、私たちは私たち自身を満たしたと感じるのです。こんなふうに私たちは完全なハヴァヤー(HaVaYaH, יהוה‎)、つまり10個のセフィロトを全部そろえます。ほら、最後のフェーズ、つまりマルフト・デ・マルフト(Malchut de Malchut)だけが、誰を相手にしているのか、なぜ、そして、どのようにふるまわなくてはならないのか、どのように構成されているのか、どのようにクリエーターが構成されているのか、もしクリエーターからすべてのもの(光と願望の両方)をもらうなら、それに応じて何をしなくてはならないのか、を感じ、理解し、知っているのです。

従って、アーヴットが第一段階です:つながってたった1つの統一体になること。そしてもうこれ以上することがないように思われます。しかしながら、それまでは、これらが単なる言葉にすぎないと私たちは知っています。「行為の結果は最初の考えの中にある」と言われるように。思いの上では既に私たちは最終結果に到達したいのですが、長くなりうる道を通らなくてはなりません。ほら、私は私自身を作り上げなくてはなりません。そして、そのとき初めて私はクリエーターを知るのです。

すべては上層から完璧な形に創造されますが、被造物(創造物)は、この完璧さを獲得し、クリエーターに気づき、クリエーターのようになり、クリエーターの深遠さの全部を理解し、すべての行為においてクリエーターに似なければなりません。ほら、もし被造物の状態がクリエーターとの完全なる同等性以下なら、クリエーターが被造物にとって有益であるとは考えられないのです。

私たちは、これらの段階のすべてを通らなければならなく、前の段階を終えない限り次の段階を経ることは出来ません。したがって、最初からアーヴットについて、つまりクリエーターとの形態の同等性について、つまり自然との調和について話しているのです:交接、抱擁、口づけ、クリエーターとの形態の同等性の表現のすべて、そして、それらすべてにもかかわらず、これらはすべてまだ言葉でしかなく、私たちは今やこの状態を築き始めるのです。すなわち、私たちは第二段階以降に入るのです。全般的に見て、霊的発見に至る9つの段階を発見することは可能です。

From the 1st part of the Daily Kabbalah Lesson 1/7/14, Lesson on the Topic: “Preparation for the Convention”

 

他者のために求める

質問:私の人生で最も重要なものとして何を識別しないといけませんか? 最初は何に注目すべきですか?

答え:あなたの注目すべき唯一のことは、他者のために祈るということです。そのことだけに集中すべきです。人々に1つになることで気持ちよくなってもらうこと(善を感じてもらうこと)です。なぜならクリエーターが人々を善へともたらし、クリエーターがそれを楽しむからです。

質問:私の人生の他の部分の問題はどうなのですか?

答え:あなたの祈りがまだ完全ではないように思われます。クリエーターはあなたにそれを完全なものにしてもらいたいのです。だからクリエーターはあなたをあちこちで「つつき」、あなたを目的地の方に向けるのです。もしあなたが、十分に敏感でない、あるいは無神経、または頑固であるなら、望まれる進路・軌道を与えるために「絵に修正」を加える必要があります。確かに、目的地に向ってさらに先へ前進するほど、是正もより正確であるべきです。だから一歩前進するたび、正確に正しい方向に導くために「突き」がより細かくなるのです。

質問:どうやってそれら(突き)を利用することができますか?

答え:私たちは愛を持ってそれらを受け入れる必要があります。結局のところ、それらは進路に沿ってあなたを導く航海者の指示のようなものです。それらなしで、どうやってなんとか成し遂げることができるのですか? あなたはどこで次に曲がるのか理解していますか、または感じますか? あなたにはこれらの痛い感覚が必要なのです:震え、フラストレーション、そして拒絶。

毎回あなたは友だちを通し、グループを通し、そして世界を通し、それらの助けを借りて目的地を目指して努力します。クリエーターのところへこの器全体を持っていくために、クリエーターだけに向って進路を維持しながら。その器は是正することができ、そのおかげで、その器はクリエーターに喜びをもたらすためという意図だけを持ち、クリエーターの喜びによって完全に満たされます。クリエーターが世界全体を善良さで満たすように世界全体がそれ自身を開きたいと望み、私たちはすべてのものをクリエーターに対する授与へと変化させることができるようになるでしょう。

どうやって私たちはこの授与に向って前進できるのでしょうか? これをどうやって学ぶことが出来るのでしょうか?―不快な物事を乗り越えて。もし現在あなたが自分にとって気持ちよいことをしないようにすることができなく、受け取りたいという欲求(願望)の中における心地よさの度合いを減らすことが出来ないならば、後でどうやって楽しみをやめることが出来ますか? だから私たちは発達の段階を経る必要があるのです。

質問:これが意味することは、楽しいことをやめることがより簡単になるように困難が私に生じるということですか?

答え:まったく違います。私たちはそれら(困難)を何か他のことに利用するのです。それらはあなたの感覚の中に生じます。それらはクリエーターの重要性(偉大さ)に気づいていない欲求(願望)のなかに現れるのです。もしあなたがをそれらの中にクリエーターの重要性を感じていたなら、痛みは感じていなかったでしょう。すべての不快な感覚は、ただクリエーターの重要性の欠如だけを隠します。あなたがクリエーターが重要であると感じれば、すぐにどんな不快感も消えてなくなります。同様に、自分の子供の体の調子がよいならば、母親にとって自分自身の状態は重要ではありません。「愛はすべての罪を覆う」と書き記されているように。

したがって、私たちは友だちのために、そして全世界のために祈らなければならないのです。しかしながら、ただ座って祈ることはできません。私はグループの中で作業して、必要な祈りに達しなければなりません。祈りは自分の全ての行為と全ての努力の結果です。私は自分の出来る唯一の手助けは、他者を唯一の目的地の方向に誘導することだけであると理解して、友だちと社会を助けるのです。

身体的な努力は、最終的に人々とのつながりを築いて、彼らを正しいアプローチを与えるメソッド(方法)に連れて来ることを目的としています。慈善行為それ自体は世界を良い方向へ変えません。そして政府もこのことにおいては無力です。だから私たちは宇宙のシステム(体系)を研究しなければならないのです。そして本当に効果的な手段が唯一1つだけあることを理解しなければなりません。それは人々ために祈るために彼らを結び付けることです。

From the 4th part of the Daily Kabbalah Lesson 1/9/14, Writings of Baal HaSulam

 

 

 

うぬぼれからの脱却

エゴイズムに対する取り組みは基本的にうぬぼれとの闘いです。すべては段階形式に配列されていて、人は自分の本当の位置と行為に気付いていません。エゴイズムは人が見ることを許さず、光の各行為をまるで存在しないかのように人から隠します。したがって、私たちは世界が勝手に回っていて、その管理者または計画者が存在しないと思います。すべては自由に、偶然に、どんな理由も目的も持たずに、ぐるぐる回っていると考えられています。

完全に隠された状態にいることから、人は自分がすべてを自分でしていると思うことに慣れています。環境からの助けを受けること以外に、より強くなって自分自身(自分の利己的な欲望)を少し超越し、外側から起きていることを見る機会はありません。そのあとで自分が実行しなかったこと、そして起きることのすべてに自分の努力や計画や自主性が含まれていなかったことを目にします。

したがって、私たちは絶えず誰が支配するのかをめぐって争っています:私たちのエゴイスティックな欲望、つまりファラオ(パロ)か、それともクリエーターか。この葛藤は、最も小さな境遇と人生に対する全態度に関することの両方で生じています。不純な力(クリパー)と神聖の間の議論はこのことのみに関してです。

不純な力の兆候は、うぬぼれです。すなわち自分自身が自分でどんなこともできると思う時です。実際のところ人には自由に選べることが1つしかありません。それは毎回正しい環境の中に含まれることです。人生において膨大な数の機会があるなかで、1つのことを除けば、行動の自由を与えるものは何もありません:まず第一に正しい環境の中に含まれること、そしてそのあとにそれを通じて、その中に含まれて自分が消えた、環境の活動を続けることです。

これが、うぬぼれ、慢心、そして間違った行為を回避する唯一の方法です。そしてそのあとにグループに加えて、神性にマルフートをつなげるために実際に何かをすることが出来るようになります。また、ただ自分を分析して裁くことは少しも助けになりません。環境の中に含まれることによってのみ、最も小さな行為でさえもスピリチュアルなものになるのです。

From the Preparation for the Daily Kabbalah Lesson 9/27/13

“労働は果てし無い、しかし報酬は大きい”

ラバシの記事『信仰』より:「ラビ・タルフォンは “日は短い、労働は果てしない、精をだして働く者は怠けている、しかし報酬は大きい、そして家の「主」は強要する(ピルケイ・アヴォット 2:20)。”と言っていた。」もし人が、「統治者」がいない首都はないということを信じ、「主」が存在することを確信しているなら、その人は強要されていると感じます。

クリエーターが私たちを目覚めさせない限り、私たちが自力で目覚めることはできません。その理由は私たちが、生命力を少しも持っていない物質からできているからです。よって私たちは創造物と呼ばれます。つまり私たちは上から支配されているということです。クリエーターが私たちを目覚めさせて初めて私たちは、“日は短い、労働は果てしない、精をだして働く者は怠けている、しかし報酬は大きい、そして家の「主」は強要する”ということを目にします。そのあとに私たちは働き始めます。

この時点で私たちの自由意志が“オン”になります。クリエーターは人の手を良い運命の上に置かせ、言います:「受け取りなさい!」言い換えれば、クリエーターの行為が最初なのです。その次に私たちが仕事を継続する番になります。その意味とは、クリエーターが私たちに与えるものを、私たちが受け取るということです。一方と他方、両方に対して努力することを許す構造を日常生活に与えるために、私たちは環境と勉強を整えなければなりません。

普段の仕事量と普及活動に対する責任に関係なく、私たちは決して原文の情報源とのつながりを断つべきではありません。絶えず情報源とのつながりをどうにかして維持する場合に限り、私たちは望ましくて予想された結果に至ります。労働は果てしない、しかし報酬は大きい、従って私たちはそれを受け取るための複数の器を用意しなければならないのです。

この全ては私たちに時間をいくつかに区分することを要求します:通常の生活、勉強、普及活動です。私たちは常にこの3つのこと全てに精を出し、それらのいずれに対しても決して避けたり見過ごすべきではありません。私たちがそれらの1つでさえおろそかにすれば、中間の線(middle line)から離れてしまいます。たとえ私たちがそれらに均等な時間を割り当てないとしても、依然、3つの部分すべての世話をしなければなりません。

私たちはこれらの問題点に個別の注意を払うべきです。とても重要な普及の任務があるときでさえ、勉強することを忘れるべきではありません。ただ普及活動で忙しいというだけで、授業を休むことに対する弁明の余地はありません。それは本当に悪いです。なぜなら「もしあなたが「私」を一日置き去りにするなら、「私」はあなたを二日間放置する」と言われているからです。それは危険です。普及活動の理由で勉強を止めれば、私たちの前進はいずれ損失になるでしょう。

From the preparation to the Daily Kabbalah Lesson 9/10/13

全てはグループから始まる

 私たちの作業は正確な配列に沿って組み立てる必要があります。

1.私がグループ(10人のグループ)に含まれる前に、全体、つまり一般の人々に取り掛かることはできません。

2.その中に含まれて初めて私は「取り囲んでいる光(オアー・マキフ(OM))」を受け取るのです。

3.そのあとに、私は全体、つまり人々に影響を及ぼします。それを “エデュケーション(教育)” と呼びます。

4.私たちは彼らと一つになります。

5.私は彼らの全体をグループに連れてきます。それを “世界の諸国” を “イスラエル” に連れてくると呼び、全員がクリエーターの発見を受けるに値します。

私はグループから全体へと移り(←)、全体からグループに戻り(→)、私たちは「取り囲んでいる光」を用いて「内なる光(オアー・プニミ(OP))」を受け取ります。なぜならその時、私たちがクリ(器)を、つまり受け取りたいという欲求を意図と一緒に持つためです。

私は単にその真ん中で見つかり、その行為を実行します。私は、グループの中で「ガルガルタ・ヴェ・エイナイム(GE)」と「アハップ(AHP)」である一般の人々と共に働き、自由選択(choice)が存在する「ティフェレット(Tiferet)」の真ん中の「上層の3分の1」に残されます。

従って、もし私がグループの中に含まれていないなら、始める場所はありません。私の歩みの一歩一歩は、この含まれている状態から始めなければならなく、これが最も重要な行為であり、すべての行為の根幹です。もし含まれている状態があるなら、行為の継続は可能です。もし含まれている状態がないなら、継続することは不可能です。なぜなら私はこの後に、自分自身の力ではなく、むしろ服従の結果、グループから受け取る、お互いの含まれた状態の力を通じて行動するからです。私の個人的な力はエゴイスティック(利己的)であり、自分のエゴの無化を通じることでしか、友だちの間で含まれることを通じることでしか(1)彼らから授与の力を受け取ることはできません。私はその友だちの助けを受け、一般の人々に取り掛かるのです(2)。

そしてその後に、私が“10人のグループ”と共にこれを行った方法に従って、またそれと共に働きます。社会(society)の内部に含まれることは、私が良いものすべてを与えたいと思う自分の赤ちゃんに含まれることに似ています。見下すような態度はしません。むしろ私は一般の人々の前にし、愛情をもって頭を下げるのです。

From the 4th part of the Daily Kabbalah Lesson 8/20/13, Talk About the Groups of Ten

正当化しなければならない頭金

世界はスピリチュアルな上昇に関して二つの部分に分かれています。1の部分は“心の点(・)”が既に目覚めた人々です。従って彼らはスピリチュアルな上昇への憧れを感じます。

彼らは人生の意味(彼らの根源を直接獲得したいという欲求)に興味があります。

これらの人々は私たち(ブネイ・バルーフ(BB))のところに来ます。一部の人々は私たちと共に留まり、一部の人々は去ってしばらくしてから戻ってきます。

両者は絶えず揺さぶられます。揺さぶられずして前進することができないためです。

まるでポンプが1つの場所から別の場所へと空気を送り込むように、まるで自動車の中のピストンのように、私たちも前進運動においてそのように前へ進み、行ったり来たり、行ったり来たりしているのです。

これは私たちがどこかに行っているという意味ではありません。私たちはどんどん高く上がるに連れ、少し高くなったり少し低くなったりして動くのです。

従って私たちは絶えず前へ進み、エゴを下から“すくい取り”、そのエゴを上げて是正します。それをなお一層深くすくい取り、上げて是正するのです。このように私たちは螺旋(らせん)のように徐々に前進します。しかし、その螺旋は上がったり下がったり、上がったり下がったりして徐々に広くなります。

上から下へ移動しない者は、なにも上に持ってくるものがありません。私たちはカバラの知恵でこう学びます:創造物の欲求は粉々に割れ、全ての欲求はベリア(Beria)、イェツィラ(Yetzira)、この世を含むアシィア(Assiya)と呼ばれる諸世界に分散しました。

よって、“心の点”(アジィルットのマルフート(Malchut of Atzilut))を持つ全ての人々は、下降して器を上げ、そして再び下降し、さらに大きな器をまたまた持ってこなければならなく、それ故、この動作を何度も繰り返すのです。

この全ては全部私たちのケリム(複数の器)、つまり私たちの欲求です。したがって是正の最後(完全なグマー・ティクン(Gmar Tikkun))までは、下の方への動きが常にあり、その動きは交互に始まっては止まり、是正されてないケリムがある場所へと徐々に戻ります。それは常にマイナスがプラスの反対側にあることを意味します。

従って、私たちは欲求を引き寄せ、それを上げて是正します。 私たちは知らずに下にある殆どの欲求を是正します。

様々な変化が世界にいる全ての人に起き、私たちは絶えず是正することで忙しいのです。

全ての変化、この世界で起きる全てのこと、誰もに起きること全ては、下方へ降りることと上方へ昇ること、つまり下降と上昇のおかげで起きるのです。

従って、この世の全ての人々は、したい、したくないに関わらず、無意識に是正のために働きます。

私たちは既に上層の器に属している“心の点”があるため、意識的に働いています。それから立ち去る時、私たちは螺旋のように絶えず下がったり上がったり、下がったり上がったり円を描きはじめます。

意識的な働きと無意識的な働きの間には大きな違いがあります。結局のところ、無意識に働く者は痛みを経験します。彼らは後ろからの圧力によって前へ押され、自分達が前進しているようには感じません。彼らは単に人生の様々な状況(痛みや苦しみ)の影響を受けて動かなければなりません。

私たちはそうではありません。私たちはこれを意識的に、はるかに効率的に行うのです。結局のところ、私たちは、他の人を押すように私たちを下から押す苦しみを超越し、私たちを最初から押すポジティブな力をこのネガティブなベクトルに加えようと試みます。

ポジティブな力の助けを借りて前進するためには、グループ内でつながらなければなりません。それに加え、私たちは共に勉強し、事前にグループの中に上層の世界(Upper World)に存在する全ての条件を設ける必要があります。

グループの規則、全てのグループの規範は、私達がまだエゴイズムの中にいる間に少なくともある程度、従おうと努力している上層世界の法です。私たちはそれが全てゲームであると把握しています。

私達はあたかもお互いを愛し、お互い、1つになること、つながりを切に求めているかのようにただ演じているのです。私たちはゲームをしています。恥じることは何もありません。ある者は「もしこれが本当でないなら、それをしない」と言いますが、これは誤りです。子供を考えてみてください。彼らにとって遊びはとても真剣なことです。他者との接触の中にスピリチュアルな世界を形成しようと試みるとき、それはとても真剣なことです。

それを切望する程度にまで、私は自分の中に新しいベクトル(絵の中の赤い矢印)を発達させ、後ろからの圧力を受けることなく、前方に魅力を感じはじめます。私は、例えば世界を前に押す危機や、私たち一人一人を押す様々な個人的問題のような周囲の様々な状況を待ちません。私はグループの力を装着し、グループの力はそれ自身に強い光を上層から引き寄せます。

実はこの強い光は、私たちの唯一のスピリチュアルな構造を構築します。そして今回、それは本当です。私たちが皆1つになるとき、私たちは光と同等になります。その理由は光も1つであるからです。

性質のつながり(関連性)、つまり形態の等価に従って光は私たちに入り、上層世界、次なる段階、次なる次元が私たちに明かされます。これが自分達自身で前進したいという欲求を受け取る人々とそれ以外の人々との違いです。

最初の部分(図1の黄色い部分)が私たち、“心の点”のある人々で、他の部分(下側)がその他の人々です。

近頃、これらの2つの部分の相互依存関係が明らかになっています。その理由は二番目の部分が最初の部分に無意識に引き込まれ、それ故に人間の歴史を通してその欲求の多くを無意識に是正したからです。

“心の点”を持たない人々は歴史を通して様々な状態を経験し、それ故に今日私たちにつながる程度にまで達しました。私たちは、上方への動き、上方への引き寄せを受け取り、彼らは私たちのとても近く、私たちの周りに居て、私たち皆が一緒に危機に瀕しています。これは全く同じ危機、クリエーターの不在の危機、上層の摂理の啓示の欠如です。しかし私たちにとって、この上層の摂理の欠如は深刻な問題で、私たちは「彼」を見つけたいと思い、前方へ引き寄せられます。しかし、私たちは世界がどんな状態に陥っているのかを見るので、彼らにとってそれはとても不愉快な後ろからの突きなのです。

まさにこれが、創造の目的(器の中で光を明かすこと)に魅力を感じる人々のために用意された唯一無二の機会です。彼らの有利な点は、もし彼らが光とのつながりを持たない世界の部分の是正のために働くならば、光が彼らの中を通って他者に渡るので、彼らが光に速く近づく機会を得るということです。

私たちの各々は、どういうふうに特別なのでしょうか? 私たちはどんな特別なことを人生でしたのでしょうか? 私たちにどんな特別な性質があるのでしょうか? 私たちに、そしてまた私にも、特別なことなど何もありません。“心の点”、つまり上層の光を明らかにしたいという欲求は、“前提条件”として、“頭金”として私たちに与えられたのです。もし私たちが他の人々のために働くならば、上層の光は必ず私たちに現れ、私たちの中を通って全人類に渡るでしょう。

従って、私たちはその条件が何なのか理解することが出来きます:「汝の隣人を汝自身のように愛せよ」と「1つの心を持つ1人の人のように」、私たちの間のつながりに達することなどなど。これらが光を明かすこと、つまり複数の器の是正に必要な正確な条件なのですが、それは様々な言葉で表現されます。

前の世代のカバリストたちはカバラの知恵を自分たちの是正に合わせて変え、私たちがいかなる場所において広くそれを利用できる準備をするために、それを彼らの著書の中に書き表しました。従って、彼らの著書は全て私たちに向けたものです。全ての前の世代には、ごく少数のカバリストたち(実際のところ数十人)しかいなかったからです。例えば16世紀の偉大なカバリストであるアリ(The Ari)には6~7人しか生徒がいませんでした。後に、イタリアのパドヴァに現れたもう1人の偉大なカバリストであるラムハル(Ramchal)には2~3人の生徒しかいませんでした。

現在、全世界で数千人の人々がカバラの知恵に興味をもっており、彼らはそれを必要としています。それなしでは、人生が単なる肉体の人生であるからです。実は私はそんなにも多くの人々がカバラを学んでいるとは思っていませんでした。人類全体に対して10~20人といった小さなブループしかないと思っていました。

カバラは私たち自身に光を引き寄せる知恵です。それをするために私たちは、上層の世界の構造、どのようにその全部分が整えられているのか、どのようにエゴイスティックな(利己的な)欲求がアツィルットのマルフートの是正に上昇するのか、どのようにそれらが一体になり、後にイェシスット(YESHSUT)のパーツフィム(Partzufim)、アバ・ヴェ・イマ(Abba ve Ima)、アリッフ・アンピン(Arich Anpin)、アティック(Atik)、それ故にエイン・ソフ(Ein Sof)の世界にまで上昇するのか学ばなければなりません。

しかし、それは私たちのためのものです。私たちは上層の光を引き寄せてそれと共に相互的に働き、それに頼り、それから受け取るためにカバラの知恵を必要としています。

一般大衆は上層の光を受け取るためにカバラの知恵を必要としていません。彼らは光と共に相互に働かないからです。しかし、それでも彼らは1つにならなければなりません。彼らはあらゆる面に圧力を与える全問題を取り除くものが1つである状態だと理解しなければなりません。彼らが知る必要のあることは1つだけです:もし私たちが1つになれば、私たちは全ての問題、全てのネガティブな状態(−)から脱するということです。

一般大衆向けの知恵はインテグラル・エデュケーションと呼ばれています。インテグラル・エデュケーションは、全てのマイナス効果(悪影響)を無力化する力が、1つである状態の中で明らかになるよう、1つになることの必要性について説きます。したがって、一般大衆にもグループが必要です。しかし、違う立場、違う形、違うスタイル、違う切望をもつグループです。単に人々の結束です。

彼らが1つになれば、より気持ちがよくなり、様々な弊害の全てが消えてなくなるということを彼らが理解する時、これが起きるでしょう。これがカバラの知恵とインテグラル・エデュケーションの違いです。

全体的に見ると、これらは地球上での人々の結束における同じ知恵の2つの部分です。それらは同じことについて説いているのです。“心の点”を持っているということから、上層の光を引き寄せ、それと共に相互に働ける人々だけが、その構造、相互の働き、上層の世界、光の上昇と光の下降を求める要求のレベルについて説明できます。彼らは上層の光の引き寄せを促すためにこれを必要とします。

他の人たちにそれは必要ありません。彼らは単に、1つになることを切望することだけが彼らに平和とよい暮らしをもたらすということを知る必要があるのです。これが彼らの欲求の中で彼らが感じることなのです。最終的に、両方が同じ状態に到達します。パーサ(Parsa)の下にある全ての欲求が上昇するからです。それが意味することは、それらがパーサの上にある光の中に組み込まれるということです(図2)。

これが私たちの将来の在り方、私たちの次なる次元、上層の世界です。従って人類は2つの部分に分かれており、各部分に独自の是正方法があるのです。

従って1つになること(インテグラル(統合)の方法を受け入れてそれを実行すること)は今日の世界にとって非常に重要です。私たちは、どれほど人類がそれを必要としているのかを理解し、それ(一般大衆に適しているカバラの知恵の主要部分)を広めなければなりません。

創造物の1つになる方法は、クリエーターが創造物の中で明かされることに向けられています。「彼」は私たちの中を通って一般大衆の中で明かされるのです。

私たちの中を通って(図1の赤い矢印)上層の光は彼らへ伝えられます。『ゾハールの書の前書き』は私たちにこのことについて伝えます。

インテグラル(統合)の方法を広めることはヨーロッパ(世界の他の部分よりも発達していることから、非常に多くの緊張を経てきた、多国間の危機の重圧が感じられる大陸)においても必要です。

もし私たちがここで危機を是正し、なんとかして人間の結束の知恵の普及を一般大衆に適している方法で促進できるなら、それはインテグラル・エデュケーションとインテグラル協力の形でという意味で、それは第一に私たちの前進を助けるでしょう。

こうして私たちは「彼」の粉々に割れた複数の器を是正するので、クリエーターに大きな満足をもたらします。そしてこれらの是正された複数の器の中で、創造の目的である「者(One)」を明らかにすることができます。従って、全ての人にとってインテグラル(統合)の方法はとても重要です。私たちはそれを子供たち、大人たち、そして高齢者のために開発します。私たちは一般の人々のために講座を開き、ワークショップや様々なイベントを開催します。私たちはそれが私たちにとっても、非常に重要であると考えます。なぜならもし私たちがそれに従事しないなら、私たち、つまりブネイ・バルーフが前進することは許されないからです。なぜなら私たちは残りの世界の人々のことを考えるという条件で、それを“頭金”として、単に受け取ったにすぎないからです。

From the 2nd Lesson of the European Convention In Germany 3/22/13