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子供達はスピリチュアルな意味を自然に認知する

受け取った質問:トーラーに書かれている語句と物語を子供たちに説明する事は可能でしょうか?

私の答え:子供たちは、これに対し、大人たちよりも準備が整っています。彼らは知覚と知覚機能を発達させています。彼らが他の語句から成る言語を認知するのに、問題はありません。なぜなら、彼らはその語句を初めて耳にするからです。

あなたは子供にグラスを見せて「これはグラス」と言うことができます。あなたは、また、「グラス」とは人に於ける何らかの感覚(知覚)であると説明する事ができます。子供はこれらの概念を認知します。なぜなら、彼はこの世にある定義をまだ有していないからです。それか、あなたは、グラスとは私達が満たすガラスから成る器であり、それが彼または彼女が満たしたいと思っている人間の内面的な器であると言うこともできます。子供はこれを自然に認知し、彼がそれで困惑されることはありません。

この理由は、子供たちの認知(知覚)が大人たちのように二つに分かれてはいないからです。子供達は、私達が現在スピリチュアルワールドで発達することになっているのと同じように、この世で発達するのです。これは同じ道であり、同じ道筋です。

知覚範囲を広げる―正反対なもの両方が真実になることがある

イサクはアブラハムと正反対に成長する力であり、彼に反する助けとしてアブラハムに仕えます。私達は、スピリチュアリティが、以前に私達が考えていた1つだけの力ではないことを発見しはじめます。2つの正反対の意見が共存し、その両方が真実になることがあるということを理解する能力は、私達にはありません。それはまだ理解されていませんが、まさにこの衝突と争いの中で、真実が明きらかになるのです。私達は全てのものが分かり易く明確に定義されるべきだと考えます。

しかし、私達は物事において最初に知覚したときのような明快さがなくなることを実感しはじめます。私達が「イサク」の特質を扱いはじめ、それを是正しはじめるとき、物事において以前私達がエゴイズムだけを使って知覚していたときのような分かり易さがなくなることに気がつきはじめるのです。言い換えると、私達のエゴイズムを通して見た全てのものは、楽しむ願望と、願望の反対側にある喜びであったのですが、今や私達は左の線と右の線があることを知るのです。そのうえ、その両方が真実で正しいのかもしれなく、このことが私達の進歩を助けます。そのもう一方で、その両方は互いに矛盾し合うかもしれませんが、それにもかかわらず、その両方には創造のなかに居場所があるのです。その理由はそれらが両方ともクリエーターにつながっているからです。

実際には「イサク」と「アブラハム」の特質の両方は私達の内面に含まれています:クリエーターから離れて存在し、創造物としての存続を可能にする、自分自身の受け取りの特質があり、その上にはクリエーターから獲得する授与の特質があるということです。ということは、人間の内面の中には、いつまでもこれら2つの力の対立が存在し続けるのです。したがって、唯一イサクを高めることによって、アブラハムはクリエーターに関する自分の本当の位置を理解するようになるのです。これが何故「息子」(Ben)が、新たな段階、Binaである「理解」(Leavin)を意味するのかということの理由です。


すべては私達の特質なかで描かれている

『ゾハール』VaYaera(そして主が現れた)章 94節:彼らは人々の形で地上に降りてきたので、もちろん彼[アブラハム]は彼らを見た。彼らは確かに聖霊であったが、世界に降りて来るときは、空気と、覆う物と、包む物の要素をまとい、人々にとってまさに彼らの形で見えるのだ。

これには違う解釈の仕方があります。私達は現実を喜びを受け取りたいという願望のなかで知覚します。存在しているものとして私達が知覚するすべてのものは、物体のなかで顕現された喜びを受け取りたいという願望です。“物体のなかで顕現された”とはどういう意味でしょうか?その意味は、現実が私の存在する段階における感覚のなかで知覚されているということです。

この段階以上に知覚するには、人の特質の変化が必要とされます。私は自分の願望の中で、自分が光と相似している程度、光を知覚するのです。それは様々な像と形を私に映し出します。“私はこの世に存在する”とは、何を意味するのでしょうか? その意味は、光が私の特質の中で輝き、そのなかに私が見るものが自分の現実であるということです。

もし私が光にもっと照らされ、自分の特質が変化するなら、私は、光により近くて特質においてより高い段階に上昇します。光が私のより是正および改善された特質の中で輝くことで、光はさらに高いはしごの踏みこ、または上層世界、を私に知覚させます。すべてのものは人間の特質の中で描かれているのです。


カバラの科学の本質:概要

カバラの科学は、上層の力がこの世に降下する順序と、その上層の支配力(クリエーター)が人間に啓示されることに向かっていることを説明します。

個人の法則(particular):全人類に対する上層の力の共通の啓示の前にでさえ、この状態に到達できる選ばれた少数の個人がいます。

全員の法則(general):全人類は、その発達(進化)の終わりに、上層支配力の啓示に至り、それを獲得(達成・到達)しなくてはなりません。クリエーターを獲得する道を学びながら、カバラは、上から下への(つまり、無限の世界からこの世への)「5つの世界の降下の順序」を探るだけでなく、同様に、それらの世界の降下によってできた度合い(段階・階層・階段・梯子・階級・位階)を下から上へ昇ることによる「上層の力の獲得(達成・到達)」も探ります。

支配力の獲得はエゴイズムの是正次第であり、それは漸進的に私達の感覚のなかで感じられるようになります。上層力は、その上から下への降下によって制定された法則に従いながら、徐々に獲得されなくてはなりません。

カバラは私達が感じることのできない世界(領域)の勉強です。最初にカバリストはこの世界を感じ、そのあとに、その認知(知覚・認識)を呈します。上層世界を感じることができない人々は、カバラが抽象的で現実から分断されたものを研究対象にしていると考えます。しかし、それはむしろその逆です。カバラはリアルで達成(獲得・到達)可能な現実のみを説明するのです。

全ての物事は5つのパラレルワールドのなかで、上から下に向かって明かされ、これらの世界の違いはその構成要素である願望の特質のみにあります。しかしながら、それらの物体と形態(形状)は刻印の跡のように同じです。上層世界(根)の全詳細は、私達の世界(枝)に反映されています。根がその枝における全てをコントロールするのです。

枝の言葉(言語):枝の言葉はカバリストによってつくられました。そして、その言葉は私達の世界の各枝が有している上層世界にあるその根との繋がり(関係)に基づいています。しかしながら、この言葉は、その根を感じる人々によってしか理解されることがありません。上層力の獲得(達成・到達)に対する強い願望(切望・渇望・あこがれ)は、光を根から枝へと照射させ、これによってその枝がその根の度合いにまで是正(修繕・修復・更正)されるのです。

天国と地獄は私達が内面で経験する“フレーム”である

『ゾハール』VaYaera(そして主は現れた)章 258節:クリエーター が執行した洪水におけるDin(判決)とソドムにおけるDinは、両方とも地獄のDinimDinの複数形)であった。なぜなら地獄のなかの悪人は水と火によって判決を下されるからだ。

259節:ソドムは地獄の判決によって宣告された。「そして主はソドムに雨を降らせ、ゴモラには硫黄と火が天国のそとの主から下った」と記されているように。一つは水の刑に処され、一つは火の刑に処された。そしてその両方が地獄の刑である。そして地獄のなかの悪人には、これら二つの判別によって判決が下される。なぜなら水である雪の地獄があり、火の地獄があるからだ。

私達は、全ての差異の識別が自分たちの内面で行われているだけで、現実それ自体は不変であることを理解しなくてはなりません。私は今も無限世界にいるのです。そして、その存在している現実のなかで変わるものは何もありません。唯一変化するものは、自分の知覚、感覚、意識、理解、そして査定(評価)です。これらの変化とは、自分が感じるものなのです。

「すべての人はその人自身の欠点の度合いにまで判断する」と記されてます。言い換えると、私は無限世界に対する自分の査定に従いながら、自分の内面に像を描写しているということです。この理由から、天国と地獄、善と悪、火と水による判決というものが、静的かつ不変の像に対する自分の感じ方の異なるレベルであるのです。「私は、私のHaVaYaHを変えなかった」と記されてます。

私達は、不変状態に対する自分達の感じ方(態度・姿勢)で、内面に現実を描いています。全てのものは、無限世界・クリエーター・光・絶対的な授与に対する私達の特質、知覚、そして査定によって決まります。

天国、地獄、そして判決(審判)の様々な種類は、自分自身の内面で明らかにする全状態のことです。外側で変わるものは何もありません。すべてのものは、自分の意識又は視覚なかで生じる変化によって決定されます。言い換えると、全てが自分次第、内面にある価値観と特質と基礎によって決まるということです。

したがって、すべてのものは教育と自分の基礎を変えることを援助する社会によって決まります。このようにして私は、決して変わることのない現実に対するより正確な感じ方(態度・姿勢)を発達させることができるのです。内面の特質を変えれるように早くなればなるほど、1つの“フレーム”から次の“フレーム”へますます早く進むことができます。


光に同調する器具を造る

創造物が充足した状態に到達する前には、充足されたいという願望を獲得するプロセスが前もって必要です。この充足に対する期待をつくりだす平凡な例には、動物の求愛行為や私達が特別な食事のために“食欲をとっておく”ことなどがあります。充足されたいという願望をつくる準備段階は、充足そのものよりも常に重要です。なぜならそれが、そのうち経験するようになる喜びの種類と度合いを定めるからです。

スピリチュアリティーのなかでは、すべてが願望によって決まります。なぜなら、光(喜び)は永続的で限りがなく、完全に穏やかであるからです。それは常に私達の周りにある全空間を満たしています。私達に欠けているのは、それを受け取りたいという願望と、それを知覚させる道具です。

しかし、光を受け取りたいという願望は、食欲をそそる“スパイス”—“胡椒”、“塩”、“マスタード”、そしてその他の”調味料”—を加えることによって徐々に私達の中で造られています。それは“いちゃつく”ような遊びに似ています。クリエーターは繰り返し私達に喜びを味わせてはそれを取り上げて遊んでいます。この“遊び”は私達の将来の充足に対する正しい姿勢を造り洗練させます。

トーラーは“スパイス”(Torah Tavlin)と呼ばれます。なぜなら、それは私達に願望を啓示し、その育て方を教え、そしてそのあとに、その正しい満たし方を教えます。具体的に言うと、それは私達を待つ将来の正しい喜びと充足へと導くのです。現在私達はトーラーの助けを借りて正しい願望を造り上げようと努力しています—たとえ光が私達を取り巻いていても、トーラーなしで光を知覚できるようにはなれません。

私達には光を標的として明らかにさせる願望はまだありません。それは送信された信号を受信するために一定の周波数(波長)に同調しなくてはならないラジオに似ています。ラジオはその外の波を引きつけるために、外の波長に十分つり合う一定の波長を造らなくてはならないのです。

私達は学習によって小さな“スピリチュアル・フレーバーの味”を受け取り、私達を持ち上げる光を引き寄せます。そしてそのあとにそれは私達を落とします。それは時には気持ちよく、時にはあまり気持ちよいものではありません。しかし、このようにして私達は光のための器、光を知覚させる道具(感覚器官)を造ります。言い換えると、私達の外側にある光に類似する“波”を造るということです—唯一そのあとになってのみ、私達はそれを達成できるようになります。

その“器具”が用意されたらすぐにそれは光を受け取り始めます。これには何の秘密もありません。それが私達にとって不可思議に思えるのは、私達にはそれが見えず、私達の願望はまだそのための用意ができていないからです。私達の問題はこれだけです。私達の外側で隠されているものは何もありません—隠されていること(コンシールメント)は私達の内面にあるのです。

統一体に到達するための機会

共通の魂の破壊は本当に大きな事でした。クリエーターはその破壊を通じて私達に、私達が存在して私達自身を表現するための機会を与えました。結局のところ、もし共通の魂の各部分が互いから引き離されることがなかったなら、私達はクリエーターのイメージを描くことも、私達自身を他者に関連させて知覚することも不可能でしょう。さらには、1つの統一体の中で何かを識別することは不可能であるため、私達は光のなかで単に消えてなくなっていたでしょう。

創造物が1つの統一体のなかで存在することはできません―私達と私達以外のものがあるときにだけ、私達は存在できるです。私達の知覚は、私達の間に距離があるということの結果から生じています。私達は純粋な光または完全な暗闇の中で達成できるものは何もないのです。

これゆえに、破壊が私達に、存在における達成と体験の機会を与えるのです。もしそうではなく、私達が絶対的なものや完全な暗闇のなかにいるとするなら、私達には何も感知するものがなくなり、私達が存在していることも感じることはできないでしょう。この理由は、私達のすべての感覚が二つの反対のものに対する知覚に基づいているからです。例えば、物音と静寂、または、臭いと無臭などです。もし私達のすべての感覚器官の中が“静寂”であったら、私達は私達自身を認知できません。

したがって、破壊はまさに創造物に存在とそれ自身の知覚の機会を与えるために起きたのです。これはまさに神の特許です。私達は破壊が起きた場所の空間を埋めています。お互いの間にある光との距離のように一見映っている、その破片の間にある空っぽの空間を、私達は埋めているのです。しかし実際は、私達に最初と同じ統一状態に自主的に到達する機会を与えるために、クリエーターが1つの統一体から消え去ったのです。


濾過された現実

私達の利己的な願望は、その目的に現実をふさわしくするためにそれを濾過します。事実上、私達はフィルターを通して世界を見ています。言い換えると、私達は、世界、自然、社会、そして人々におけるその本当の姿を客観的に見ていません。もっと正確に言うと、私達はただ自分たちのエゴにとって利益になるもの、何がエゴにとって有益か又は有害かというようにしか見ていません。したがって私達は無限の現実の非常に小さい部分、“この世”しか感じません。なぜなら私達のエゴにとってそれ以上のものを知覚することは不可能であるためです。

ネガティブをポジティブにする

カバラの道を歩みはじめるとき、現実に対する私達の知覚が、内面の世界と外面の世界に分かれていることを徐々に理解するようになります。その外面の世界または外側の世界は自分たちと無関係であるように見えます。私達はその結果、例えば自分の子供を見る母親のように、外側の世界に対して優しい目を持ってすべてがすばらしいとは見ません。

しかし実際には、私達が二重の知覚をもつように創造されたことは有益であり、私達に自分たちのエゴイズムを外側に在るものとして扱かえるようにさせます。こうして、私達のエゴイズムに関連する過ちと堕落を、私達は知るようになり、突然それすべてが私達の内側にあるものと認識します。私達の外側で見られるすべての悪が、実は私達自身のものであると実感することは、本当に驚くべきことです。なぜなら、それは私達の焦点を、外側を是正しようとすることから、私達自身を是正したいと思うことへと、向けなおさせるからです。

この二重の知覚は、“無から”発生した創造の点と、光との間にある最初の対立から起こります。この対立が私達の知覚を二つの部分-内部と外部-に分裂させるのです。言い換えると、私達は自分たちを(あたかもそれが自分たちではないように)外側から見ているのです。そしてすべてを自分たちの内側で吸収するのです。しかし、自分たちの外側にあるものとして知覚された憎しみと悪が、実は私達自身のものであると認めるとき、私達はそれを魂の最も小さな閃き(心の中の点)に繋げ、その結果、クリ(Kli-器・容器)が是正されます。

それはネガをポジにする写真の現像と似ています。私達の見解を変えるほかに必要なことはありません。そしてこれによって、私達は“反射される光(the Reflected Light)”と呼ばれるものの中にすべてのものを見始めます。

私達の知覚は、音、味、視覚的映像、におい、そして他の身体的センサーを用いて造られます。さらに、私達の知覚は、食べ物、セックス、お金、権力、そして知識にたいする欲望のレベルも明示します。これらは私達の内側で明らかにしなければならない“外的な充足”です。したがって、私達のケリム(Kelim-Kliの複数形)だけでなく、光に対しても同じ原理を応用することができます。今のところ、これを理解することは困難ですが、スピリチュアリティーを感じはじめるにしたがって、このように世界を感じることができます。そうすればすべてが明白になります。

私達が観ているこの映画の終わりには何が起きるのか?

受け取った質問:いわゆる“外側の世界”の全部の像が、写真を拡大する機械のように私の脳の中で実際に映し出されているとするなら、この場合、私の脳はどこにあるのですか?それは私の内側にあるのですか、それとも外側ですか?

私の答え:あなたの質問をより根本的に表現するとこうなります:私達は実際には誰なのか?現在、私はあたかも物質的な身体を持っているのではないかと感じています。私はその中で生き、苦しみと喜びそして満足とむなしさを経験します。今のところ私は、そのようにそれを関連づけなくてはなりません。「トーラーは人間の言語を喋る」と記されてます。この意味は、クリエーターが私達の言葉で私達に話しかけ、私達の内側(内面)に様々な感情と印象を呼び起こしているということです。

いずれ私達はこの言語の全部と世界に対する過去の概念を捨て、古い像が完全に消える様子を目のあたりにすることでしょう。あなたの前に見えるもので残存するものは何もないという私の発言を信じてください!この幻覚は霧のようになくなり、現在あなたが目にしている像は映画が終わるように消えるでしょう。私達は新たな知覚を手にすることになり、それは現在の私達には全く理解できないものです。そして、私達は新たな世界-逆の世界-に到達することになります。