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ゾハールは枝の言語で語っている

『ゾハール』“Chayei Sarah(サラの人生)”章12節:・・・このゆえに、悪人たちはDumahの帳簿から消し去られた。なぜなら彼は悪人たちが含まれない中間線からしか計算に入れないからだ。したがって、誰が死者の復活の際に彼らを望むのだろうか?死者の復活の間、天使Matatは墓地のなかで勘定をDumahから受け取る。しかし誰が死者の復活のために、Dumahが勘定に入れなかったそれらの邪悪な者たちを望むのだろうか?

受け取った質問:この文章には“死者”や“墓地”といった言葉があり人に恐怖を与え困惑させる可能性があります。これらの言葉を読み取るための正しいやり方とは何ですか?

私の答え:私達は他のカバラの書物のほとんどがそうであるように、『ゾハール』も枝の言語で書かれていることを理解しなければなりません。その方法は知識を与えるだけでなく、より重要なことですが、印象も私達に伝えるのです。これは私達が正された状態を達成するためにスピリチュアルワールドから是正の光を引き寄せれるようにするためです。

私達は肉体やこの物質世界について述べているのではありません。また私達は“手や足”を直そうとしてはなりません―身体的な心配は普通の医者に治療してもらうべきです。正確に言うと、『ゾハール』は魂の是正について述べているのです。したがって、たとえ『ゾハール』にこの世の言葉が使われていても、それらすべてはスピリチュアルな概念について遠回しに言及しているのです。それらは私達の内面的な力と特質に関することです。

私が今学びたいことは、これらの特質です。私がそうするのは、私のどの部分が“病んでいて”、どの部分が正されなければならないのかということを理解するためです。私がそうするのは、それを是正したいと望むことが私に必要になるからです。それが『ゾハールの書』の目的なのです。


クリエーターからの妨害に感謝せよ

受け取った質問:朝のレッスンの『ゾハール』の部分では、自分は何も理解してないと感じますが、それにも関わらず、その資料にあこがれとつながりを感じます。

しかしながら、夜のレッスンでは、自分に何をすればよいのか分かりません。その資料とのつながりが全く感じられません。日常問題の思いに押しつぶされて、レッスンに集中できないのです。どうすればその資料に集中することができますか?そのような状態のときに行うことのできる、即座な自動的な行為はありますか?

私の答え:妨害と格闘する自動的な行為とは、それを送っているクリエーターに感謝することです。結局のところ、“彼以外には誰もいない(There is none else beside Him)”のです。彼はあなたのためにこれらの妨害を造っています―彼はあなたの心と頭をコントロールしているのです。当然、彼はどんな時に何をあなたに送ればよいのか一番よく知っています。彼がこれらすべてのものをあなたに送るのは、あなたに日常の活動、問題、心配について考えずにはいられなくし、まさにあなたを困惑し、迷子にし、集中できなくし、注意をそらさせるためです。

何故でしょうか? もしあなたが、困惑、多くの問題、妨害、これらすべてがある中で、すべての力の集め、テキストの小さな断片でさえ、たったわずかな瞬間でも捕らえてつながることができたなら、その中にあなたの報酬があるからです。一方、もしあなたが明晰な頭でレッスンに出席し、まるで自分が事実上スピリチュアルワールドのなかに高く舞い上がっているかのように感じているとしても、あなたはまったく正しい場所に居ないかもしれません。実際、あなたの努力とは、あなたの小さな“ヘビ(利己的な願望)”があるにもかかわらず、スピリチュアルワールドに少しでもつながろうと試みることにあるのです。これがまさにあなたに必要なことです。

その後、突然、大いなる啓示が起こるでしょう。まさに苦難および立ち去ること(departures)からクリエーターの啓示に到達するのです。“トーラーはシオン(光が立ち去ること)から出現するだろう”と記されているように。

したがって、もしあなたの頭が働いてない、又は機嫌が悪いなら、レッスンに来て『ゾハール』を聞いても無駄だとは思わないで下さい。その考えは完全に間違っています―あたなの頭の明晰さ又は心理状態は重要ではありません。もしあなたが疲れ果てていて、困惑し、つながりが感じられなく、本当に苦労しながらもなお、資料とできる限りつながろうと努力をしているなら、たとえそれが瞬間的な小さなつながりであったとしても、あなたは自己の大きなインスピレーション状態の時よりさらに多くを手に入れます。この理由は、インスピレーションは上層から与えられ、それはあなたをただ風船のように膨らますだけだからです。一方、本当の利益とは、妨害にもかかわらず一生懸命に努力することから生まれます。


ゾーハルの全単語から是正を絞り出す

『ゾーハル』“Bamidbar(荒野の中で)”章36節:・・・南はHesedであり、東へとしっかりつかみ、枝とその根のようにそれに依存している。これがそうである理由は隠されたDaatが太陽の始まりであり、その本質は“太陽”と東と呼ばれるTifferetであるからだ。しかし、Yod-Heyへの上昇をもてばそれはDaatになる。上層のAVIのなかのDaatの始まりのなかに、Hesedの開示のための根が造られ、それにより上層のAVIが交わりHesed(愛と慈悲)を引き出す。

私達は是正と救済策を『ゾーハル』のすべての単語から絞り出さなくてはなりません。光は私達の特性をその根源に従って変化させます。これが『ゾハールの書』を読むときの私達の姿勢であるべきなのです。一方、私達は、読んでいる内容をさらに明瞭に理解する努力が必要です。すべてのものは最初のハヴァヤー(HaVaYaH – ヘブライ語のアルファベットでYod-Hey-Vav-Heyと書く)から始まるのです。基本的な構造は直射する光(the Direct Light)の4つの段階(フェーズ)と、これらの段階で着飾るすべてのものです:4つの文字、3本の線、そしてそれらから受け取りをするMalchut。すべてのものはこの関係性から発生しているのです。

まず第一に、私達は『ゾーハル』のすべての単語が香油や塗り薬のように私達のなかに染み込むよう、私達自身の中にある破壊が是正されることを切望しなければなりません。結局のところ、トーラーは願望の“調味料”として、その是正のための救済策として造られたのです。私がそれを明らかにするためにその文章とのつながりを求めるとき、それは開かれて統一体として私に結合します。

夜明けをもたらすもの

『ゾハール』Ve’Eleh Toldot Itzhak(これらはイサクの世代たちだ)章165節:Sitra Achraの支配は夜にしかないことから、エサウの統治は亡命の間だけである、それは夜、我々にとって夜と同じように暗いということを意味する。これが何故天使がヤコブと戦い、夜に彼と争ったのかということの理由だ、そして朝がきたとき天使の力は衰え、彼は彼に勝つことができなかった。そしてそれからすぐにヤコブは圧倒した、なぜならヤコブの支配は日中であるからだ。

私達は日中のHochmaの光の存在が夜明けをもたらすと思っています。しかしそうではありません。正確に言うと、日中にはHassadimの光が存在していて、したがってHochmaの光が啓示されるのです。夜の場合、Hochmaの光はHassadimの光に覆われずに輝いています。一方、日中の場合、それはHassadimの光に覆われて輝いています。日中とはHassadimの付加であり、だから光があるのです。夜にはHassadimは存在しません、よって闇があるのです。Hassadimの光はHochmaの光の存在を出現させるのです。

治癒のプロセスのかぎは忍耐である

私達の利己的な願望を克服させる上層の光は、常に私達に影響を及ぼしています。しかし、そのうち私達は自分たちの力でその願望の外への脱出を続けなくてはならなくなります。光が私達を上昇させるとき、私達はそれをエジプトからの脱出のように感じます。しかし、もしエジプト(利己的な願望)が自分たちの中にあり、それが私達の真の性質であるとしたら、私達は本当にエジプトから脱出できるのでしょうか?

これは私達に疑問を投げかけます:私達が砂漠のなかにいるということの意味とは何なのか? それはエジプトが自分に戻ってきて、私がその全部分から外へと脱出しなくてはならないときのことです。これが砂漠の中での40年間の旅のことです。それは私が順次的に自分の願望を大きくさせて、それを認識するときのことです。1つそしてまた1つと順次的に臓器が発達する人間の胎児のように。最初の一部が発達し、そのあとにもう1つの部分がというように、発達は次から次へと一つの方向へと向かいます。様々な障害と問題を克服しながら。魂の成長プロセスは、母親の子宮のなかの胎児の成長プロセスに似ています。

私達は『ゾハールの書』があるという事実に感謝しなくてはなりません。なぜなら、それは毎日のように私達を変化させてくれる救済手段であるからです。しかし、私達はこの手段がフルに作用しだすまで、その結果を感じないでしょう。それは、数週間後になってやっと気分がよくなるような、毎日摂取しなければならない病人に処方された薬のように徐々に作用するのです。

 

同じ道の上をゆく二人の天使

『ゾハール』Ve’Eleh Toldot Itzhak(これらはイサクの世代たちだ)章172節:ヤコブがクリエーターを信頼していたことと、彼の流儀がクリエーターの名前のためであったため、彼の敵は彼と講和した。そして、エサウの権威と力であったサムエル(Sam’el)はヤコブと講和した。そして、彼がヤコブと講和したことから、彼は彼に恩恵を感謝し、そのあとにエサウもまた彼と講和した。

しかしエサウが彼の上位に任命された任命を受けた人サムエルと講和してなかった同じ期間、エサウは彼と講和しなかった。これがそうである理由は、すべての場所において、下の力は上の力によって決まるからだ。そして、上にいる違反者上で任命を受けた彼らを支配する大臣たちが弱まらないかぎり、下のこの世界のなかの違反者を弱めることは不可能なのだ。

人が、自分に反して働く力、クリエーターの作業に抵抗する力、そして自分の創造の目的地の到達を阻止する力が存在していると思うことは禁じられています。そのようなものは存在しません。すべての力、右と左の線の両方は、同じ目的で共に働いています。私達は、害悪が私達にやってきて私達を滅ぼし道に迷わすと信じていますが、それは真実ではありません。害悪は私達に過ちを見せ、私達がいつ目的に反することをやっているのかを示すために存在しています。それは創造の目的地への道で人に同行する善と悪の両方の天使の使命です。

上層の法廷は1つの質問しかしない

受け取った質問:『ゾハール』を読んでいる全時間の間の数秒しか是正をもたらす包む光(the Surrounding Light)について考えられなかったとしたら、私はどうすべきですか?

私の答え:これはよくありません。人が死んで上層の審判の法廷に行く伝説があります。彼はそこで「あなたはトーラーに従事して救済を待ちましたか?」と尋問されます。そこで聞かれることはこれだけで、それ以外にはありません。トーラーとは改善する光(the Light that Reforms)のことです。あなたはこれを願いましたか、それともしませんでしたか?結局のところ、あなたがこの世界に送られてきたのは、これだけの理由からです。あなたの全人世で考慮されることはこれだけです。

あなたはカバラを勉強しながら、熱い願望を持っているのかもしれませんが、それはあなた自身の功績ではありません。それはクリエーターがあなたに与えたものです。彼があなたをカバラのグループにつれてきて、その手段を与えたのです。しかし、そのあとに何が起こりましたか?あなたに影響を及ぼしたシステムの中で、あなたは自分自身で何をしましたか?あなたは救済、是正を願いましたか?これはあなたがいずれ答えなくてはならないことです。

私達が『ゾハール』の朗読を終えた直後に、あなたは読み上げられていたことの内側にいたと言うことができますか?勉強している最中にこれについて考えても、それはもう手遅れです。なぜならすべてはその準備(カバラの勉強に臨むための心構え)によるからです。あなたは準備を終えた状態で願望と欲求を熱くさせてレッスンに来なくてはなりません。まるであなたが医者に行き、「先生、何でもいいのでお薬をください!そうでないと私は手遅れになります私はこのぐらい気分が悪いのです」と尋ねるかのように。あなたがこの心構えでレッスンにくれば、あなたは勉強中に救済を待つでしょう。しかし、もしあなたが隣人に対する愛を探していなく、また、あなたが自分の悪意、自分のエゴイズム、他者と一体になることに対するあなたの無力さを感じていないという理由で、初めから薬がほしいという欲求を持たないでそこに来るなら、あなたは勉強中にそのことについて思い出すこともないでしょう。

あなたは『ゾハールの書』を開く前でさえ、これらの欠乏、あなたの邪悪な性向を明かさなくてはなりません。なぜなら、あなたが『ゾハール』を開くときには、何を変えるのにももう遅すぎるからです。私達の作業のすべては、準備をしているときに行われます。すべてのことは、ただそれだけにかかっています。『ゾハール』で苦痛を和らげたいという願望を満たすためには、あなたは既に苦痛を感じている状態でいなくてはなりません。勉強時間の最中にあなたは隣人とのつながりを求めることになっていると人為的にそれを思い出そうとするではなく。あなたはクリエーターを騙すことはできません。彼はあなたの心の中を読み、あなたがそこにあることを疑うことさえもしない、とても深い内面の願望を覗いているのです。それまでは、クリエーターはこう考えます。あなたにこの願望に対する答えを与えるべきか、それとも与えないべきかと。もしそれがあなたの霊的な進歩の援助になり、あなたの内面に中間線が作られるのなら、光はあなたを助けるでしょう。しかしそうでないなら、光はあなたを反対側から押して前に進ませ、あなたがついに正しくすべてをつなげて真の答えを受け取るまで、あなたは苦しまなくてはなりません。

ヘビから知恵を学ぶ

『ゾハール』 “Ve’Eleh Toldot Itzhak(これらはイサクの世代たちだ)”章30節:ヤコブはエサウがあの斜めのヘビ(Slant Serpent)を握りしめることを知っていた。この理由から、彼はもう一匹の斜めのヘビのように彼の全行為にならった、彼の反対側で、利口に抜け目なく。

まさに受け取りたいという願望が私達を抜け目なくさせます。それは私達に如何にその同じ願望を扱って、それを欺くかを教えます。結局のところ、与えたいという願望には知恵または知性がありません―Hochmaの光(知恵の光)がないのです。Hochmaの光は喜びを受け取りたいという願望に向けたものなのです。したがって、特にヘビは利口です。私達は右線のために知恵をヘビから学ぶ必要があります。これを“彼に逆らう助け”と呼びます。その理由は、ヘビそのものが私達に右線とその扱い方を教えてくれるからです。それは私達にその殺し方、その毒液から薬だけを抽出する方法、そしてこの薬を与えるという意図のためにどう扱えばよいのかを教えます。

『ゾハールの書』は何を教えるのか?

『ゾハール』は私達に何を教えてくれるのでしょうか? カバラの科学から私達が知っていることは、クリエーターが1つの願望(欲望)を創造し、その中からさらなる発達が生じたことです。この1つの願望は非常におびただしい数の個人の願望を網羅しており、それらの互いをつなげて1つの体系(システム)、アダムと呼ばれる共通の魂を作り上げています。

その次に、クリエーターは彼の計画にしたがい、その同じ願望の部分間にあったつながりを破壊し始めました。よって、それらはお互いとのつながりを失い始めました。そして病気になった生物のように、臓器の正常な相互伝達が停止しました。病気で身体のバランスが失われるとき、体温や血圧の上昇、血液の化学的変化などの症状がみられます。それは体がそれ自体でその調和(バランス・均衡)がとれなくなるという病です。

何故クリエーターは魂たちに対してこのようにふるまうのでしょう?それは私達に堕落や不正を感じさせて、それを是正させるためです。1つの体系を構成する私達という部分間のつながりが損なわれたこの状態、またはこの病気は、私達の初期状態のなかへと染み渡り、私達はお互いとのつながりがしだいに弱まることを感じ始めます。このつながりの損失は、無限からの下降の125段階を構成し、私達が互いと無限に結ばれている状態から、その結びつきが完全になくなる状態にまで下降させます。また、125段階の下降の間にある“Parsa”(division・分割)という段階では、さらにより大きな不正が生じ、一度はあったポジティブなつながりではなく、ネガティブなつながりが生じます。したがって、そのとき各々の人は他者を自分の利益のために利用したいと思うようになります。その生物は単純に死ぬのではなく、それ自身を完全にむさぼり食ってしまうのです。

この受け取りたい、そして他者を利用したいという願望の中への下落(下降)は、私達が完全にお互いとのつながりを失う状態になるまで続きます。授与(与えること)の為というポジティブなつながりと、受け取りの為というネガティブなつながりもこれに含まれます。私達はスピリチュアリティーに対して完全に不一致な状態で存在しており、それに対するなんの知識や実感も持っていません。これは私達がお互いから分離したことの結果です。

それゆえ、私達の感じているものが“この世”、想像上の現実なのです。なぜそれが想像上のものなのでしょうか? その理由は、クリエーターが故意に、彼の存在しない錯覚状態を私達のために創造したからです。私達には、私達の間のつながり、または絆を修復しなくてはならないことを理解する機会が与えられています。私達のつながりが強まる程度にしたがい、私達の魂はこの世界だけの感覚から無限の世界の感覚へと上昇するようになります。従って、私達の間のつながりを回復させることが上昇をつくることになるのです。

この理由から、私達がすべての魂たち(創造物の個々の部分のすべてを合わせて)とつながった状態をどの程度想像できるかによって、『ゾハールの書』に対する私達の感謝も増すようになります。結局のところ、『ゾハールの書』は無限の段階で書かれました。『ゾハールの書』の著者達は、125段階のすべてを上昇し、その高いところからこの作品を書きました。そして、そこで彼らは1つにつながっていたのです。同様に、私達が『ゾハールの書』を勉強するとき、私達は内面で一体化したいという願望を感じる必要があります。私達には特別なこつや秘訣などは必要ありませんが、すべては私達のお互いとのつながりの中で達成されることだけを覚えておかなくてはなりません。

実際には、『ゾハールの書』の中で語られていることは、魂の一体化についてだけです。それは“アダム”という総体的な体系の中での私達の全魂とのつながりと、如何に私達がすべての魂を一体化させ、是正された健全で正常に機能する体系をつくるのかということを説明します。ゾハールの語ることはこれだけなのです。

ゾハールの言語は何でもできる

ゾハールの言語は何でもできると記されてます。それは正確に何を意味しているのでしょう?

私達は1つに体系(システム)に存在しています。この体系は上層からの破壊の後にバラバラになった個人の魂から成っています。私達の間にある空間は、心の中の点(point in the heart)の外側にあり、私達はその空間の中でスピリチュアルワールドを感知するためのKli(器)を造っています。この器はクリエーターが創造物に明かされるために必要です。これは私達の存在すべての目的だけでなく、カバラの科学の目的でもあります。

私達の意図は、この器が光と類似して授与の器になれるほど十分に強い繋がりを、私達の間に造ることに向けられるべきです。この器が最も低いレベルで光に最小量でも類似すれば、すぐに光が形状の等価の法則に従って現れます。私達のすべての会合、コングレス、全作業は、私達がこの共通の器を造るだけのために意図されています。

この共通の器を造ることにおいて、とても興味深い現象があります。当然のことながら、私達の全員が、お互いとの繋がり、協力関係、相互保証、“1つの心を持った1人の人間”として一体化することだけを考えなくてはなりません。これが、この器を造ってその中にクリエーターを明かすための条件です。さもなければ彼が明らかになることはないでしょう。

また、他者が依然としてこの共通の器を造ることを遅らせていながら、自分が多大な努力でその作業に取り組むということは不可能です。その啓示に必要な努力を惜しんでいることに、他者がその全行程を窒息させる原因があるのです。自分が多大な努力をして、器をその完全な能力にまで至らせているのに、この状態も自分の努力の結果もまだ感じないということならありえます。

最終的に、すべての人はこの共通の魂の器のなかで相互依存関係にあるのです。これを相互保証と呼びます。よいにしろ悪いにしろ、どの人もみんなすべての人に対して責任があります。すべての人がこの作業において互いに支援しあい、励ましあい、助け合うことが可能であることは、よい方向です。これをポジティブな相互保証と呼びます。

ネガティブな相互保証とは、繋がりを望んでいるか否かに関係なく、すべての人が互いに結ばれているときのことです。この理由は体系が無限の第一状態(Alephの状態)において、すでに造られていたことにあります。しかし、もし私達が怠惰で不注意であれば、すべての人は他者にネガティブな影響をも及ぼします。これは他者にも進歩に対する願望の消失を感じさせることになり、真の目標が不明瞭になります。

それでも、カバリストはゾハールの言語は何でもできると言います。私達の進歩のすべては体系の中に記録されて残っており存在しています。たとえそれが明かされなくても、私達の努力はスピリチュアルワールドの中で失われません。それどころか、私達の努力のすべては体系の中に残って保存されます。

私達の共通の器が最も小さなレベルで光(授与・与えること)のようになる準備ができたなら、すぐに光は明かされます。私達は、友達の数およびスピリチュアルワールドを感知する共通の器を造るための彼ら全体のユニティー両方について話しているのです。

したがって、私達は正しい意図およびすべてのものが私達のつながりの中で造られ、すべての人が友達を気づかわなくてはならないといった感覚をもって『ゾハールの書』の学習にアプローチしなくてはなりません。