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コンピューターの画面上の魂


受け取った質問:コンピューターの画面上でグループを見るだけで、どう私は彼らとの結びつきを強めることができますか?

私の答え:今週末にグローバルなカバラコングレスが、世界の数十カ所で同時に開催されます。数百人集まる所もあれば、数十人の所もあるでしょう。世界中全部を合わせると、数千人の人々になるでしょう。そして、それら全ての人々は一体感を感じたいと望んでいます!

私達は心の点を結ぶことでしか一つになれないことを理解しなければなりません。全てのレッスン、食事、セミナー、コンサート、そして全てのことに一緒に参加しましょう。しかし、もっとも重要なことは私達の思考です。

私は自分と同じ願望を分かち合う世界中にいる数千人の人々と一緒にいるのだと覚えておかなくてはなりません。思考と願望は物理的な距離に制限されません。それらは無限の速度で広がる力であり、誰にも止められません。思考と願望の力は宇宙のどんなものよりも強力です。

したがって、もし私達が共に一つになろうと試みるなら、必ず私達の内側に変化を呼び起こすでしょう。私はそれが起きることを強く望みます。今日我々の世界グループには、全ての人が“壁”を飛び越えてスピリチュアル・ワールドのなかに渡るのを助けるだけの強さがあります。もし私達が共にそれをしようとするなら、それが起きるのに必要な機会が十分あります。それはすべて私達が進んで結束しようとする意欲と、一人でこの繋がりをつくる能力を有している人が誰もいないということの理解によります。

私達の状態はちょうどシナイ山のそれと同じです。私達には条件が与えられています:一つのハートを持つ一人の人間として一つになれと。しかし全員がこれが不可能であることを理解しています。私達はシナイ山(ヘブライ語でシナは“憎しみ”を意味します)の周りに立っています。憎しみの山は私達を互いから引き離します。それは私達全員を分断します。しかし私達には心の点があります。それらはこの山の麓に集められ、何もできずにいます。

これが、なぜ私達がトーラー -光- を私達に与えるようクリエーターが明かされることを要求するのかということの理由です。もし自分一人で他者に繋がる能力が私にあったとしたら、クリエーターは必要ありません。彼は悪の性向を創造しました。それは私がこの山の麓にいる間に明らかにする悪です。私達の大きな願望にも、これが私達の唯一の救いでその他には進むべき道がないという理解にもかかわらず、私達が共に一つになることか不可能であることを私達は気づいてます。

その結果、私達はトーラーを是正手段として要求するようになります。しかし、これは、分断された部分すべてを組み合わせることによって私達を一つのスピリチュアルな共有の容器に一体化させる上層の力(Upper Force)にしか可能にできないことです。

そしてそのあとで、クリエーターはクリーチャー(創造物・被像物)に明かされます。これを“トーラーの授与”と呼び、そこでクリエーターは私達の相互保証の立会人または保証人としてふるまいます。この相互保証を支えるのはまさに彼です。彼は、私達を互いに結びつける授与の力の集積なのです。

そのときから、私達は砂漠の中での40年間の旅に出発したことになり、私達自身でスピリチュアルな共有の容器(Kli)の形成を継続します・・・。

欲望と特質:定義


受け取った質問:欲望(願望)と特質(性質)の違いは何ですか?欲望とは何ですか?特質とは何ですか?

私の答え:欲望とは創造を構成している物質であり、それは常に受取りをします。それについて他に言及することはありません。特質とはその物質(欲望)がとる形です。形は、欲望の働き方、欲望がその働きから期待するもの(その意図という意味)とその目的を決定します。自分自身の為にか、それともその外側にいる誰か(他者とクリエーター)の為にかということです。この物質は喜びを受け取りたいという欲望ですが、環境や状況などによって、様々な形の働きが遂行でき、様々な状態になれます。

例えば、私は完全な授与(与えること)の特質である“アブラハム”の特質という事実にもかかわらず、誰かに制御されているという理由から、私には授与する機会がない。私には授与する相手がいない、または、周りの人々は私が授与する事を望んでいないという状況に居るのかもしれません。

これが特質と呼ばれるものです。特質とは、喜びを受け取りたいという欲望が、ある特定の外面的な形で働き、その形に包まれる(または、その形を装う)ことを意味します。主要な10個のセフィロート(Sefirot)というものが存在し、その他すべてのスピリチュアルな“物体”は、それらを内包する形または特質です。

ゾハールを読むとき、私達は私達の中にヨブ、ファラオ、そしてクリエーターといった様々な特質を認識します。これらすべては特質であり、私達の受け取りたいという欲望に包まれています。私達が想像できるどんなものも、単に喜びを受け取りたいという欲望です。したがって、私達の視点からは、クリエーターも喜びを受け取りたいという欲望の特定の形です-照らしている、高尚、高い、すばらしい、全ての人に授与しているというように。私達は彼のことをこのようにしか想像できません。なぜなら、私達は受け取りたいという欲望以外のどんな物質も有することができないからです。

徐々に、私達がどのくらいこれらすべての特質を私達の内側で識別しようと試みるかによって、包む光(Surrounding Light)の影響を受けます。その結果、スピリチュアルなシステムがますます内側で明確になりはじめ、私達はこれらの特質を正しく知覚しはじめます。必要なのは辛抱だけです。

この現実のスクリーンの後ろに隠れているもの


受け取った質問:ゾハールは私達の世界について述べているのではないと理解しています。しかし、どうやって私達はそれが述べてる願望(欲望)を日常の生活に役立たせることができますか?

私の答え:ゾハールは私達の世界についても述ています。ただし、人はコンピューターのスクリーンに映るイメージのように私達の世界を地上的なイメージの形で想像しているのにたいし、ゾハールは私達の内面でその映像を作り上げている力について述ているのです。ゾハールを読むに従って人は徐々に自分自身と世界を、上層の力(または特質)の投影として理解し始めるでしょう。

映像とそれを描いている力との繋がりを見ることは、人にこの映画のクリエーターと、彼の計画と、彼について理解させます。人は、彼との一体化に達するにつれて、自分自身の内側から彼を理解するようになります。

さらに、人は日常生活のうえでさえ、その同じ事について考えることを試みるべきです。そして、そうすることで人はこの世界またはこの現実とそのメーカーであるクリエーターとのとぎれない明確な繋がりを徐々に獲得するでしょう。

私達の欲望の鏡


受け取った質問:私が鏡を見るとき、自分自身の像が見えます。そして、私はその像を扱うことも、また、それと意思の疎通を取ることもできないのは明白です。しかし、私達がこの現実を目にするとき、私達自身を本質的に見ます、または、私達の欲望(願望)の像を見ます。

私の答え:この理由からバール・ハスラムは人の欲望が二個の部分に分かれていると言うのです。内側に知覚される部分と、外側にあるように見えるもう一つの部分です。人は一方で自分自身を、もう一方で世界を知覚します。この誤った、反対の形の知覚は故意に創造されました。私達がその外側にある部分を“内的な”知覚に移転させる為にです。

事実、自分自身も含め外側にあるすべてのものは、実際、自分の内側で知覚されます。一つの欲望、一つの世界以外に存在するものはありません。

私達は、この肉体的な現実、または、“自分自身”と“この世界”というように分けられた感覚を是正すべきではないのです。それは現実の最も低いレベルです。私達はそうではなく、スピリチュアルな梯子の段を登って両方の部分をひとつに一体化させなくてはならないのです。現在の私達がいるこの現実とは、現実の最後で最低のレベルであり、私達が霊的に上昇してもそれが変わることはありません。それが変化し消えてなくなるのは“是正の最後”においてです。是正の最後とは、この世界が全体の是正、一体化した欲望のなかの一体化した感覚-“無限の世界”-に突入したときのことです。

それまでは、私達の世界の像は変わりません。“光”はそれに影響を及ぼしません。しかし、光は両方の部分、内的な部分と外的な部分をひとつに一体化する為にマルフート(Malchut)、つまり欲望に影響を及ぼします。その光は他の全欲望-私達の自由意志が及ぶスピリチュアルな欲望-にも影響を及ぼします。これらは私達が扱う欲望であり、是正(修繕、修復)しなくてはなりません。しかし、私達の住んでいるこの世界に是正するものはありません。私達が是正(修復)しなくてはならないこととは、魂と魂の間にある繋がり(絆)だけです。これが私達の欲望が一体化してひとつになる場所であり、そのなかで私達はクリエーターを明かすのです。

自分自身と自分を取り囲んでいる世界を知覚させている欲望の層は、是正の最後までそのまま残存します。125段目のレベルに到達し全体の最後の是正を獲得する最も偉大なカバリストでさえ、依然としてこの世界をあなたと同じように知覚します。彼も身体を治すには医者にいかなくてはならないし、この世界の全体を使って現実を内的なものと外的なものに分離されたものとして見なくてはなりません。たとえ彼が実際はそうでないことを知っているにも関わらず、彼は肉体の感覚器官を通してこのように現実を見ます。その理由は、この現実のレベルが最後の是正のまさに最後まで変わることがないからです。

私達が観ているこの映画の終わりには何が起きるのか?


受け取った質問:いわゆる“外側の世界”の全部の像が、写真を拡大する機械のように私の脳の中で実際に映し出されているとするなら、この場合、私の脳はどこにあるのですか?それは私の内側にあるのですか、それとも外側ですか?

私の答え:あなたの質問をより根本的に表現するとこうなります:私達は実際には誰なのか?現在、私はあたかも物質的な身体を持っているのではないかと感じています。私はその中で生き、苦しみと喜びそして満足とむなしさを経験します。今のところ私は、そのようにそれを関連づけなくてはなりません。「トーラーは人間の言語を喋る」と記されてます。この意味は、クリエーターが私達の言葉で私達に話しかけ、私達の内側(内面)に様々な感情と印象を呼び起こしているということです。

いずれ私達はこの言語の全部と世界に対する過去の概念を捨て、古い像が完全に消える様子を目のあたりにすることでしょう。あなたの前に見えるもので残存するものは何もないという私の発言を信じてください!この幻覚は霧のようになくなり、現在あなたが目にしている像は映画が終わるように消えるでしょう。私達は新たな知覚を手にすることになり、それは現在の私達には全く理解できないものです。そして、私達は新たな世界-逆の世界-に到達することになります。

想像は成長を促します

クリエーターは私達に、私達が内側から私達自身を知覚しているということだけでなく、私達の周りには私達を見て私達に注目している人々がいるということも信じさせています。しかし、これは幻想であり、偽りです。存在しているものは私達の内側(内面)にあるだけで、外側には何も存在していません。では、なぜ私達にはこれらの付加された外的な印象があるのでしょうか?その理由は、それらを通してクリエーターが私達のケリム(KelimKliの複数形。器・容器のという意味。つまり受け取りの意志、欲望のこと。実際に創造されたものはこれだけです。)を拡大し、私達を動物のレベルからその上の人間のレベル-“アダム”(アダムとは“クリエーターの様な”と解釈されます)の階級-に押上げながら私達の新たなレベルを構築する為です。すべては私達をクリエーターに類似させる為なのです。

 私達は、クリエーターが私達の外側に存在すると考えており、さらには私達が私達の外側にいる人々と接触、コミュニケート、交流していると考えてもいます。私達はクリエーターを私達の目の前に想像しますが、のちに私達はクリエーターを内側に移転し、“彼”(クリエーター)と結合します。そのあとは、私達の目の前に何もなくなります。私達が彼と一緒になって統一体になるからです。

 しかし、それまでは、私達は彼が私達の外側に存在するものとして想像します。これは人を誤らせるような外観であり、私達のケリムを“外的なもの”と考えさせ、私達の欲望(願望)のアヴィウット(Aviut-粗悪さ、粗野さ、粗大さという意味。英語では“coarseness”と訳される)をいっそう獲得させます。こうようにしてエゴ(私達が私達自身を他者に関連させて知覚させる欲望、または他者が私達に関連させて知覚させる欲望)は、私達が“上層の者”の特質を獲得する手助けをし、私達は彼のようになるのです。私達が唯一しなくてはならないことは、このイメージ(像)を外側から内側に移行させることです。そうすれば私達は彼と結合します。

 それでも、まったく違うことが是正の最後(Gmar Tikkun)のあとに起こるかもしれません。カバリストは私達の是正の最後とは単に新たな状態の始まりであると記述しています。私達の欲望(願望)を正すことによって新たなフェーズが始まるということです。これは時間が証明することでしょう。

他者を裁くことは自分自身に判決を下すことに等しい

クリエーターは受け取りと授与の対立を認識できるよう故意に私達の知覚(認知・理解)を内部と外部に分けました。もしすべての物事が自分の内側だけでしか感じなかったとしたら、その対立の理解は不可能でしょう。私達は犬が自分のしっぽをを追いかけるように回転し同じ場所に留まるだけになります。

 例えば、嘘をついてしまう欠陥や、他者を支配しようとすること、そして傲慢や、たまに盗みを働くことなど、私達の各々には多数の好ましくないネガティブな特質があります。たとえ自分はこれらすべての特質が大嫌いだとしても、それらはすべて自分自身のものです。したがって自分で自分を無罪にしているのです。しかし、もし他人が同じことしているのを見つけようものなら、自分はその人を今すぐにでも殺してやろうと思います。もしもすべての物事をいつも自分の内側に感じていたら、自分自身の外または自分のエゴの外へ出て授与の側に行くことは不可能でしょう。

 「だれもが自分自身の欠陥の程度に従って他者を裁く。」この意味は、これらの特質を自分の外側にあるものとして認知することにより、その本当の形が分かるということです。もしそれらが自分の中にあったとしたら、客観的にそれらに対して自分を関係づけることはできません。それらが自分のことであるためです。例えば、子を持つ母親に、その子は頭が悪いまたは、かわいくないと納得させることができるか試してみてください。それは不可能です。母親はいつまでも自分の子が世界で一番かわいくて、頭がよくて、やさしい子供だと思うことでしょう。

 しかし、自分は外側にある特質を自分とは無関係であると位置づけるため、それらに対して憎悪や嫌悪を持って考察します。よってこれらの特質(実際は自分自身の特質です)の真の姿を見ることができます。自分で偏見なくそれらを見ることができ、それらを正しくかつ思慮深く批判することもできます。そして自分のエゴは、厳しい裁判官が事の細部にまでわたって注意を払って堕落した本当の特質を明らかにするように、この分析の手助けをします。

 しかしながら、私は後々これらすべてが自分のものであったことを明らかにします。それらは私の内側に存在します。しかし、自分の他者全員にたいする極端な嫌悪のため、私は自分自身の堕落状態の程度に従ってすべての物事を見ているのです。それでも他者には何の罪もありません!一人は泥棒だった、もう一人は嘘つきだった、そして私が彼ら全員を嫌ったことは正しかったというのは、単純に自分にはそのように思えたというだけです。しかし今や私には、自分のエゴイスティックな欲望(願望)にその本当の原因があったことが見えます。それでも外面的な視覚は、自分の目を開けさせ欠陥の認識を可能にさせました。後々それらすべてが自分の内側に存在していることを習得するために。

ゾハールの書は皿洗いしながらでも作用します


私達はゾハールをただ読むだけで、正しい感覚と必要な要求に到達します。なぜでしょうか?

私達は一方でその光の源にたいして正確に照準を定めないかぎり、また、この光線の中に入って集団の願望に到達する為に他のすべてのひとと団結しないかぎり、成功することはないと学びました。その条件に関しこれは正しいことです。しかし、もう一方で私達が学習し努力し様々な状態を体験する時、その間に光が私達に働き影響を及ぼします。

私達は“浄化すること”で時間を加速することができ、これがベストです。しかし、どんな場合やどんな状況、たとえ主婦が家での雑用に仕えてお皿洗い(ヘブライ語のお皿のことも“ケリム”と呼びます)をしながらでも、その間に私達のテレビチャンネルかインターネットのゾハールの放送を聞いているのなら、その人は自分のスピリチュアルなケリムの世話もしてることになります。

このようにこの本は作用するのです。私達に必要なものは辛抱だけです!

一人で達成できることは何もない


私は自分一人では、存在していません。全魂の単一体と呼ばれるメカニズムに自ら自分自身を注ぎ込んでやっと存在するのです。この理由から私はゾハールの書を通して自分自身を開きたいと思っているのです。なぜならゾハールの書の力が、まだ私に無縁に見える自分の全部分を繋げるために送られてくるからです。

ゾハールの書は厳密にこの為に意図されたものであり、この使い方以外に自分がその一筋の光の下に来ることはできません。この光線はレーザーのようにとても細く、1ミリでも向きを変えればそれを見ることはできません。その光線を影響を受けるには、この光線のなかに正確に居なくてはなりません。

カバリストは私達にこの条件についてつぎのように説明します。もし私達がすべての魂と正しい方法で繋がったなら、私達は私達自身をこの光線のなかに置くことになる。団結が崩壊すれば、すぐにすべての人が崩壊し、全方向に散らばる。この光線の他に私達を団結させれるものはない。

これはスピリチュアルな梯子のすべての階で起きることであり、私達はこの光線に沿ってでしか、それを登ることができません。私達がお互いのことを離してしまえば、すぐにすべてのものは崩壊し、その一筋の光は私達を団結できなくなります。私達の団結を保存できる力はこれにしかないのです。よって、この団結の為に私達はこの光を引き寄せることを願うのです。私達が繋がるにはクリエーターが必要であり、これはこの“改善する光”を引き寄せなくてはならないことを意味します。

どのようにして私達はこの団結を感じることができるのでしょうか? 私達はゾハールを読んでいるあいだにこの団結を要求しなくてはならず、ゾハールはこの団結を私達に与えなくてはなりません。これが、なぜカバリストがこの書物を書いたのかということの理由です。そして私達には次のことを尋ねる権利があります。「私達は望もうが望むまいが、団結することになっています。しかしその団結とはどこにあるのでしょうか? なぜゾハールは私達に効果をおよぼしていないのでしょうか?」と。もし私達の全員がこのことを一緒になって考えたなら、それは大きな関心事になり、私達はひと時も忘れることができなくなるでしょう。そうすればそれは成功します。しかし一人では、私達のだれもがなにも達成することはありません。

スピリチュアルな発達は赤ちゃんから学べます


受け取った質問:私がゾハールで説明されている内面的特質を少しも理解していなく、それと繋がることもできない場合、私はどうそれを見つけることができますか?

私の答え:私達は、自分がどんな世界に存在しているのか知らないが、成長に必要なものすべてを提供する母親や身内の愛情を抱いた手の中にいる赤ちゃんに似ています。赤ちゃんはただ成長したいと思わなくてはならないだけで、自然はこの欲求を赤ちゃんに与え助けてくれます。

私達の世界において、つまり動物レベルにおいて、この欲求は赤ちゃんに自然に備わっています。この世界の中における人間の身体的発達を含む動物レベルに加えて、無生物と植物レベルにおいてでさえ、成長したいという自然的欲求が存在しています。しかしながら、もし私達が人間レベル-スピリチュアリティ-において成長したいのなら、その欲求は私達から生じなくてはなりません。

無生物レベル、植物レベル、そして動物レベルの発達は自然に起きます。この程度まで、私達-この世界の中にいる人々-はこれらすべてのレベルにおいて発達し終えました。そして、過去から現在において私達の欲求も同じレベルにおいて発達しました。しかし、今や私達は“スピーキング(言葉を話す)”レベル、または“人間”レベルへと上昇しなくてはなりません。人間レベルとは、私達が自分たちの力で発達して目標を達成しなくてはならないという意味です。私達の身体的欲求(食べ物、セックス、家族)と社会的欲求(富、権力、知識)のすべてに基づきながら、私達は自分たちの力でスピリチュアリティに対する強い欲求を発達させなくてはなりません。私達は心の点(the point in the heart)によって始まりますが、そのあとは、環境からの助けを借り、その発達を押し進め続けなくてはなりません。

これを行うには、私達にはグループが必要です。なぜなら、それしか心の点を発達させる欲求を与えることができないからです。この欲求で“武装”しながら、私達はグループと一緒にゾハールの書を読み始めるのです。読んでいる間、私達は発達したいと思わなくてはなりません。そこでの“発達”とは、未来の状態または感覚をゾハールの書の中で見つけることを意味します。私達が現在探しているものはこれだけです。

この他に私達がしなくてはならないのは、待つことだけです。したがって、だた成長したいと願ってください。大人になりたいと自然に思う赤ちゃんのように。赤ちゃんを落ち着かせて、彼に成長しないよう、または成長したいと要求しないよう説得させることができるか試してみてください。あなたはそれが不可能であることに気づくでしょう。なぜなら、自然は彼に成長するよう打ち勝ちがたい力で駆り立てるからです。私達はこのように根気強くスピリチュアリティに対して努力しなくてはなりません。私達は常に私達自身の内側で捜し求めていなくてはなりません。そしてどんなときも落ち着つくことなく、変化し続けなくてはなりません。そうすれば、私達は確かに成長するでしょう。これが私達に求められている唯一の条件です。

そのシステムは存在していますが、私達は欲求で、つまり内面の強い願望でそれを動かさなくてはなりません。この内面的圧力が私達から生じないかぎり、そのシステムは私達を感化しません。言い換えると、それは私達を目覚めさせるために、苦しみを通して私達を感化するでしょう。しかしこの方法で私達は一歩も前進することはありません。上層から送られてくる苦しみを手段として。私達は、下から、つまり私達から、生じる私達自身の欲求を手段にすることでしか進歩できません。

私達は絶え間ない困難と問題を受け取っているかもしれませんが、同じ場所で動けなくなっていることの理由は、これらの問題が私達にとって、正しいグループと融合して発達したいという欲求を獲得するのに十分でないからです。困難にもかかわらず、私達は同じ場所で立ち続けるでしょう。困難があるというだけでは、それは発達の兆候ではありません。それどころか、それは私達がまだ一歩も前進していないことの兆候なのです。