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光との最初の遭遇

受け取った質問:あなたの初めてのスピリチュアルな体験、初めての上層の光との遭遇を説明してください。この感覚は何に似ていますか?

私の答え:初めての霊的な体験はすべての人に共通します。なぜなら一般的に人々が同じ状態を経験するからです。人が初めて光と遭遇するとき、彼又は彼女は世界全体が、どんな限りもない一つの暖かい力のような愛で満ちていると感じます。それは暖かくて優しい感覚であり、世界全体がそのように知覚されます。人は自分の周囲にいつもの世界を目にしますが、空気がより濃く、より暖かく、より優しくなったと感じます。そっと優しく扱われているといった感覚があるのです。

そういうものが人に来る最初のスピリチュアルな感覚です。一般的に人はそのことを忘れてしまいます。しかしそれにも関わらず、それは人に何らかの証拠と支えを与え、その人の中に新しい知覚の器(Kelim)を構築し、前進を可能にするために起きるのです。

上層から与えられるこの最初のスピリチュアルな体験の後、これと同じ感覚を自主的に達成するのに人は多大の努力をしなくてはなりません。その後、10億倍も強い感覚が次に来ますが、そのときまでにはすっかりそれらを支配し、理解し、これらの感覚を扱えるようになっています。

まさに初めての印象も含め、そこから始まるこれらすべての印象は、発達している心の中の点の内部で人が感じるものです。それは生理的現象又は心理的及び精神的現象の領域の中ではなく、霊的な知覚の器(Kli)の中にあるのです。

From the 8th lesson at the World Zohar Convention 5/9/10


スピリチュアリティーの中では善か悪にしかなれない

受け取った質問: 自分の友だちに害を与えるとはどういう意味ですか?

私の答え:もしその人がカバラのグループの中の友だちであるのなら、あなたがその人と一つになる事について心配していないというだけで、あなたはその人に害を与えます。その理由は、あなたが共通の「船」に穴を開けていることになるからです。その船とは、私達の共通のスピリチュアルな器のことです。したがって、怠惰になって何もしないというだけで既に害を与えているのです。

もし自分が、私達が共有しているスピリチュアルなKliを拡大させようと努力していないのなら、そして、たとえそれがほんの少しだけ怠けているということであっても、自分は他者に害を及ぼします。しかし、私達は、自分が誰も叩いてもいなく、誰も殺してもいなく、誰からも盗んでもいないというのなら、全てが大丈夫であり、それ以外に何をしろというのだと思っています。私達は、完全に「善良な市民」であるという最中にでさえも、害を及ぼすことが可能であるということを理解していません。これではスピリチュアリティーの中ではまったく不十分です。スピリチュアリティーの中で、もし私が全瞬間を費やしながら共通のスピリチュアルな器を如何に構築するのかと心配していないのなら、他者に対する善い態度が、自分に欠けていることになります。私は共通のKliについての心配を忘れたその瞬間に、犯罪者になるのです。

これに中間の状態などはありません。そこには「善」または「悪」しかないのです。これは私達の繋がりの上層体系の法則です。

From the 3rd part of the Daily Kabbalah Lesson 04/27/10, “Matan Torah”


スピリチュアリティーの中では全てが反対である

バール・ハスラム著 『Beit Shaar HaKavanot(意図の門楼)』:最初にはZair AnpinNukvahが二つの大きな光として、背中合わせで同じ段階に立ち、Nukvahには裏側の十個のSefirotのスピリチュアルなPartzufがあったことから、創造の四日目に月が欠けた。[これはNukvahがスピリチュアルな器を含んでいたことを意味します。では何故彼女には光が欠けていたのでしょうか?] 月は、二人の王は同じ王冠(Keter)を使うことができないと不平を言った。彼女は「行け、そして自分自身を小さくしろ!」と告げられた。こうして、彼女は以前住んでいたZair AnpinYesodの下の箇所に戻った。

Malchut(創造物)は彼女がZair Anpinのようになれると思いました。しかし、彼女は彼のようには輝くことはできませんでした。彼女は光をZair Anpinのように受け取るためにBinaへ上昇しましたが、そうすることができませんでした。これはZair Anpinには授与の特質があるという理由からでした。彼の性質はHassadimの光であり、彼はHochmaの光が無くても完璧さを感じるのです。彼はいつでも好きな時にHochmaの光で輝きます。なぜなら彼には常にHassadimの光があるからです。

しかしながら、MalchutにはHassadimの光がなく、彼女はHochmaの光のなかで彼女の存在を暗闇として感じます。これが創造物の不平を成すものです(Kitrug Yareach―月の不平):「私はまさに無限世界の高さへ上昇できる。しかし私にはHassadimの光―授与の光―がない。ゆえに私のためにHochmaの光は輝くことはなく、私はより大きな暗闇を感じるだけだろう。」

私達はいつ私達が暗闇にいることを明らかにするのでしょうか? それはまさに私達が上に持ち上げられているときです。私達がわずかに上の方へ持ち上げられるとき、そのことが私達に正された願望―Hassadimの光―が欠けていることを感じさせます。私達はこれを暗闇として知覚するのです。

私達が暗闇を感じるのは、私達が落ちるからではなく、上昇するからです。しかし、それは私達がHassadimの光—愛と授与の光—の衣をまとわずに上昇するという理由からです。私達の考える下降(下落・堕落・落ち込み)とは実際には上昇(向上・進歩・高揚)です。しかし、それは是正されていないものです。同様に、私達にとって上昇に思えるものとは実際には下降です。なぜなら私達が受け取りの願望の中に与えられている物を受け取るからです。したがって、スピリチュアルワールドのなかでは全てが逆なのです。

スピリチュアルな飢え

スピリチュアルな人生に到達するために、物質的な人生の中で気分悪くする必要はありません。これは、良い暮らしをするために必要な物の全てが、エジプトの奴隷であったユダヤ人に、与えられていたことの例から見て取れます。新しい王がエジプトに君臨し、7年間の飢きんが始まりました。しかし、これは物質的な飢えではなくスピリチュアルなものです。

彼らはファラオのためにピトムとラムセスというすばらしい都市を建設しました。“ファラオのため”とはどういう意味でしょうか? それは、それが彼らの“エゴイズムのため”になされたということです! 彼らはそれにとっての良い暮らしを築きました。しかし、突然すべてが空っぽであることが明かされました・・・そして、良い生活の全てが満たされているのにもかかわらず、私達はそんな人生から逃げる必要があるのです。

私はスピリチュアルな人生が物質的な人生よりももっと重要であり、それなしで生きるのなら死んだ方がましだと感じます。私はこの人生をもう生きることができません—私にはスピリチュアルな人生を明かす必要があるのです。したがって、私は暗闇そして砂漠の中へと走り去る覚悟があるのです。

この状態を“エジプトの外に出ること”と呼びます。それは自分の優先事項を変えて、それらを一般的に受け入れられているものと反対にする必要がある時のことです。だからといって、世界が肉体的な苦しみにそれ自身をさらす必要は全くないのです。正確に言うと、私達はスピリチュアリティーの欠如に苦しむべきであって、物質的な問題から苦しむべきではありません。

こん棒やムチを使って人をスピリチュアルワールドに行かせるこては不可能です。人々は身体的な問題があるとき、宗教や精神科医に頼ります。人はスピリチュアリティーを欠く必要があるのです。これは、その人の心の中の点がどれくらい早く明かされるのか、そして、どれくらい私達がカバラの科学を広められるのかによって決まります。

この知識を広げることなくして、スピリチュアルな救出が起きることは不可能です。人は自分自身の力でスピリチュアリティーを明かす方法を発明することはできません—人はそれをどうにかして受け取る必要があるのです。バール・ハスラムはカバラの科学を広めることを“メシアの角笛”(The Mseeih’s Horn)と呼びました。なぜなら、これなしに世界がよい方向に変革する機会が無いからです。


スピリチュアルワールドへの突入

『ゾハール』は私達すべてを含む上層システムについて伝えています。しかし、それを非常に細かく説明する必要はありません。なぜなら、私達は単にストーリーを追って、それが私達に影響を及ぼすのを待てばよいからです。そうすれば、まるで霧の中から現れるように、その描写がもっと明らかになります。それは、子供が自分の周りある様々なものに対して、それらの関係性や利用方法を学習し、段々にこの世界について知るようになるようなことです。

同様に、私達は新しい世界の中で自然にそのように育ちます。現在私達はその世界に近づきつつあり、それはより明らかに現れ始めています。最初は私達に何かが“聞こえ”始めます。そしてそのうち私達はこれらの音が何なのか分かりはじめます。このようにして私達はスピリチュアルワールドの感覚に入ります。

よって、多くの説明をすることは意味をなしません。なぜなら、スピリチュアリティーは知性の中ではなく、感覚の中、願望の中で明かさねばならないからです。私達はスピリチュアリティーを理論的に勉強して満足するのではなく、スピリチュアルワールドに入らなくてはならないのです。

私達に必要なものはハサディムの光だけです

受け取った質問:なぜホフマー(Hochma-知恵)の光を明かすことができないのですか?

私の答え:なぜなら、人にはハサディム(Hassadim-慈悲)の光が無いからです。人にあるものは受け取りたいという欲望だけであり、それはホフマーの光から喜びを受け取ることができないため、ホフマーの光の中で人は良い気分(気持ち)になれません。ホフマーの光は利己的な欲望や願望の中では感じ取れないのです。それはハサディムの光-授与するという意図(直射光における4つのステージの中のビナー-Bina)-が存在する分量だけしか明かすことができません。

人は無限のクリ(Kli-容器、受け取りをする意志)とその中に無限のホフマーの光を持つことができますが、もし人にハサディムの光がないなら、完全な暗闇-“地獄”と呼ばれる状態-を経験します。ホフマーの光の小さな閃きでさえ、ハサディムがないのなら、人はそれを苦しみ、病気、災害、危機、のように感じます。

私達はクリエーターの慈悲によって、ハサディムの光に包まれたホフマーの光の小さな感覚を与えられています。これは私達に命の感覚を与えます。だから私達はハサディムの光を獲得して最大限のホフマーの光の啓示に到達するために、存在して発達することができるのです。

クリエーターは私達と“遊ぶ”ことによって私達を成長させます。彼が私達にホフマーの光を照らすとき、私達の気分(気持ち)は悪くなります。しかし、それがなされる理由は、ハサディムの光(スクリーン、Ohr Hozer-反射光、授与の意図と愛)が必要であることを私達に理解させるためです。そのあとに、私達はスクリーンで直射光を反射することにより、ハサディムの光に包まれたホフマの光を明かすでしょう。

長い年月をかけ、ホフマーの照らしの度合いによって決まる打撃(苦難)を受けることによって人は問うようになります。「なぜ私は苦しんでいるのか?なにが起こっているのか?人生の意味とは何なのか?」と。そのあとで、その人はグループ、先生、そしてカバラの学習に導かれ、そこでその人は自分に必要なものがハサディムの光だけであると徐々に分かるようになります。

この理由から、カバラの科学は私達に授与のスクリーン(授与の意図と愛、Ohr Hassadim-ハサディムの光)の築き方を教えるのです。私達がどれくらい授与することができるかによって、クリエーターも授与する者(One who Bestows)として私達に啓示されます。ゲストとホストの事例のように。

「そして暗闇は光として輝くだろう」

受け取った質問:スピリチュアリティーにおける光と暗闇の違いは何ですか?

私の答え:人がハザディムの光(Light of Hassadim-慈悲の光)を暗闇の中へともたらすとき、その人は暗闇がホフマの光(Light of Hochma-知恵の光)であることを明らかにします。カバラではこのように暗闇と光の違いを定義します。

夜とはハサディムの光がないとき、そして日中とはハサディムの光があるときのことです。ホフマの光は常に存在しています。なぜならホフマは本質的にクリエーターであるからです。

したがって、それは常に100%輝いているのです。しかし、第一の制限(Tzimtzum Alef)のあと、ホフマの光は人がハサディムの光(授与をするという意図)を引き起こす程度に従って明かされるようになりました。

したがって、今日私達が感じている暗闇と苦しみもクリエーターから送られてきているのです。それらは上層の光(Upper Light)が私達に近づいてきていることを示していますが、私達はそれを暗闇、悪、そして問題として感じます。その理由は私達が依然としてそれと反対であるからです。

私達の人生全体は上層が下層と遊んでいること

人生の困難のすべては私達に影響を与える上層の光が引き起こしています。私達はその光を私達のエゴイスティックな欲望(私達の正されていないケリム)の中で、光としてではなく暗闇として感じます。そして「なぜ私達の気分がとても悪いのか?」と問う自分たちに気づきます。

 私達が本質的に問うていることは、私達の状態の理由についてです。私達がその答えを見つけるためには、私達の特質(性質)が上層レベル(上層の者のアハップ-AHP)と反対であることがその理由であると明らかにしなくてはなりません。私達が霊的に進歩するにつれて私達の質問も徐々に変わり、最終的に私達は上層の者に対して「何をすればよいのか示してください!」と求めるまでになります。そして私達は彼が与えるどんな条件や状況も受け入れるようになります。

 今日私達は史上初めてエゴイスティックな形で世界とひとつに繋がり、このことが私達をクリエーターと反対にしました。これ以前までの私達は各自が個人的に数千年間発達してきました。そして私達は上層レベル(上層の者のアハップ)と反対ではありませんでした。なぜなら彼(支配している力)は一つで不可分なのに対し、私達(支配されている側の人たち)はお互いに繋がっていなかったからです。

 しかし今や私達が一つのシステムとして繋がったことにより、私達は上層の者(または上層の者のアハップ)と反対であることを明らかにしつつあります。彼は一つであり、私達も一つになりましたが、彼とは反対です。彼は私達の正された形の表れであり、私達はそれを私達の正されていないエゴイスティックな形に対比させて見ています。私達が危機と苦難を感じる原因は、私達の反対の性質にあるのです。

 私達が変わることを願い、上層の者に私達を正してもらって、彼と似るようになることを求めるのは、私達次第です。そのあとで私達は、光の感覚(授与と愛のフィーリング)に満たされ上層の者のレベルに上昇するでしょう。

 この道の上での成功と、それを早めて心地よいものにする私達の能力は、世界で起こっているすべての物事が私達と遊んでいるクリエーター-上層の下層とのゲーム-であると、私達がどれぐらい注意深く忘れないでいられるかによります。

クリエーターの啓示は現代の呼びかけです

カバラのメソッドを実現してクリエーターに近づかないかぎり、人々の気分が良くなることはないという状態にまで世界は来ました。クリエーターは明かされなくてはなりません。これが現代の呼びかけです。

 もし私達がクリエーターに近づけば、気分は良くなります。もしそうでなければ、気分は悪くなります。これは自然の力もしくは私達がその様に成らなくてはいけないグローバルな法則によって決定されています。なぜなら私達の全員がひとつのシステムのなかに存在しているからです。そして、そのことを自然、クリエーター、グローバル・システム、あるいはひとつの魂と呼ぼうが、それは問題とされません。

光の力で憎しみの山の上に登る

人間とは何なのか? 人間とは、エゴイズムとすべての人に向けられた憎しみの山です。もしも光がこの憎しみの山(シナイ山)に影響を与えたとしたら、光は人をその山の上に引き上げます。

 まさにエゴイズムがあるため、人には上に登れるものがあり、そして、光の影響下で、そのエゴイズムはそれ自身を授与のために用いて、喜びを受け取れる準備が整うのです。

 光がすべてのことをするのです。人は高い世界の段階に上昇した最も高潔な人になることができますが、もし光がその人への影響を止めたとしたら、その人は瞬く間に最初のエゴイズムの中に落下します。その他の代替手段はありません。私達は利己的な人間性に制御されるか、または光によって制御されるかのどちらかなのです。

 これは永遠に続きます。だから、どんな霊的状態にいようが、常に光が自分に影響を及ぼすために、その光を手放してはならないのです。