Entries in the '' Category

そして夕となり、また朝となった 一日

スピリチュアルワールドのなかで光が現れることを「日中」と呼びます。ゆえに、「朝」の次に「正午」そしてその次に午後の祈りが来ます。楽しみたいという願望は人の中で大きくなり、様々な状態のなかを通り過ぎると、彼は感じます。「日中時間」は、新しい利己的な願望があまりにも大きくなり、光が制限されはじめ、太陽が沈みはじめるまで、続きます。その人にはHochmaの光を保持するのに十分な量のHassadimの光がもうありません。彼の楽しみたいという願望は是正される前に大きくなったのです。

その結果、もう彼が受け取りたいという願望と授与したいという願望の差異、または光と暗闇の差異、が識別できなくなった時、「夕」が始まります—すべての物が混ぜ合わさっているということです。彼のスピリチュアルなPartzufRosh-Toch-Sof(魂における頭、体、そして手足)がすべて同じ段階にある時、彼は“横たわった”(不活発な)状態に入ります。彼はどんな計算もできなくなり、計算しなくなるのです。

彼にできる唯一のことは彼の「無生物」段階を維持することです。よって彼は“眠りにつき”、これは死にとても近い状態です。「夜」と呼ばれる状態のときに、彼は再び「結束」—魂どうしのきずな及びクリエーターとの合体—を獲得します。そうすることで堕ちてる状態にあっても、上層の光が彼を持ち上げます。

この点から、私達は、スピリチュアルな段階に到達する前のこの準備段階で、どのように自分たち自身を暗闇に備えさせるのかということに対する結論を引き出す必要があります。可能な限り多くのつながり又は“支えるブロック”を造るために、自分たち自身をグループと真正な書物と勉強に束縛させることによってでしか、これを行うことはできません。私達がこのつながりを造るとき、「夜」が終わり、新たに「日中」が始まるでしょう。


インターネットとは他に類のないつながりの手段である

最近、システマチックな世界危機がもっと明らかになるにつれて、世界の機能性における正しいシステムを造ることの必要性を感じます。バール・ハスラムは、私達がこの社会を新しい状態に従いながら変革させていかなくてはならなく、それは自然が要求していることであると記しました。世界危機は私達が自然または“全体的相互連結”(general interconnection-全員がお互いとのつながりを持ち合うこと)のようにならなくてはならないことを明示しています。

私は自然のような愛と授与(与えること)の関係を徐々に実行することが可能であると見ています。これはバーチャルな領域で可能です—そこでは世界中のすべての人々がお互いにつながっていることを感じ、全員の生活を共に体験します。全てのコミュニケーションの手段の内でインターネットだけが、このつながりの場所を提供できます—これはテレビや新聞や本を通じることでは不可能です。

ワールドワイドウェブ、つまりインターネットだけが、子供そして大人も同じく教育する世界システムを造るための、普及と統一の要求を満たすことができます。唯一それだけが、共通の団結力を造るための、世界的なつながりを提供することができるのです。そうすれば、我々の全員がつながりの伝達経路を通じてお互いのことを感じ、スピリチュアルなつながりに到達します。


スピリチュアルな飢え

スピリチュアルな人生に到達するために、物質的な人生の中で気分悪くする必要はありません。これは、良い暮らしをするために必要な物の全てが、エジプトの奴隷であったユダヤ人に、与えられていたことの例から見て取れます。新しい王がエジプトに君臨し、7年間の飢きんが始まりました。しかし、これは物質的な飢えではなくスピリチュアルなものです。

彼らはファラオのためにピトムとラムセスというすばらしい都市を建設しました。“ファラオのため”とはどういう意味でしょうか? それは、それが彼らの“エゴイズムのため”になされたということです! 彼らはそれにとっての良い暮らしを築きました。しかし、突然すべてが空っぽであることが明かされました・・・そして、良い生活の全てが満たされているのにもかかわらず、私達はそんな人生から逃げる必要があるのです。

私はスピリチュアルな人生が物質的な人生よりももっと重要であり、それなしで生きるのなら死んだ方がましだと感じます。私はこの人生をもう生きることができません—私にはスピリチュアルな人生を明かす必要があるのです。したがって、私は暗闇そして砂漠の中へと走り去る覚悟があるのです。

この状態を“エジプトの外に出ること”と呼びます。それは自分の優先事項を変えて、それらを一般的に受け入れられているものと反対にする必要がある時のことです。だからといって、世界が肉体的な苦しみにそれ自身をさらす必要は全くないのです。正確に言うと、私達はスピリチュアリティーの欠如に苦しむべきであって、物質的な問題から苦しむべきではありません。

こん棒やムチを使って人をスピリチュアルワールドに行かせるこては不可能です。人々は身体的な問題があるとき、宗教や精神科医に頼ります。人はスピリチュアリティーを欠く必要があるのです。これは、その人の心の中の点がどれくらい早く明かされるのか、そして、どれくらい私達がカバラの科学を広められるのかによって決まります。

この知識を広げることなくして、スピリチュアルな救出が起きることは不可能です。人は自分自身の力でスピリチュアリティーを明かす方法を発明することはできません—人はそれをどうにかして受け取る必要があるのです。バール・ハスラムはカバラの科学を広めることを“メシアの角笛”(The Mseeih’s Horn)と呼びました。なぜなら、これなしに世界がよい方向に変革する機会が無いからです。


その時、新しい王がエジプトに起き上がった

『ゾハール』Shemot(出エジプト記)章 250節:彼らの部族が残りの国々と混ざることを恐れ・・・彼は、イスラエルを軽蔑しひどく嫌っていた傲慢なエジプトに、彼らを追放した。そして彼らは、アモリ人の不正が蔓延し、彼らが彼らの土地に来るまで、そこに居た。その理由は残りの国々と混ざる恐れがもうなくなったためである。

自分たちの心の中で中間線(the middle line)を築くとき、どう私達は望まれた状態にもっと近づくのでしょうか? 光、授与する者、又はクリエーター、との私達の類似である中間線は、まさに私達の内面で明かされる「エジプトへの追放」(エジプト捕囚・エジプトでの異郷生活・the Egyption Exile)と呼ばれる状態によって生じます。

自分の利己的な願望はあまりに大きくなり、私はその中にとじ込められ、それに制御されていると感じます。そのあとに私は、自分自身と自分の性質、自分自身と自分のエゴイズム、または、自分自身と自分の特性、を見分けはじめます。

私は自分の特性を変えたいと思っていますが、そうすることができません。私はその特性が自分に害を与えるのを見ます—私が自分自身、自分の人生、私の近くにいる人々の生活、そして全世界を堕落させていると、私は実感します。私は、自分で鎮めることのできない、永久に膨張し続けるエゴイズムの中に存在しているため、自分自身と残りのすべての人を危険にさらしています。それでも私は、それに対してどうすることもできないのです。

その後その人は、自分に働いている力が外来性の力であると実感しはじめる状態になります。その人はもうそれと関係しなくなり、それを自分の憎い敵として知覚しはじめます。このことを、“その時、新しい王がエジプトに起き上がった”(出エジプト記 1:8)と呼びます。人はこう感じはじめます:新たな支配力が明かされた、これは自分ではなく他の誰かがこの全てを自分のために用意していると。それは自然またはクリエーターかもしれませんが、その人ではないのです。その人はどうすれば自分がそれから自由になるのか知りません。

そのとき人は、まるで自分の脇から自分自身を見つめるように、自己の喜びを受け取る意志を、自分とは無関係なものとして見ます。その人は、クリエーターのことを、このすべてを自分のために準備・計画する者として、認識しはじめます。その人には既に、ファラオとクリエーターの両方に対して同じ姿勢があるのです。

その後その人は、内面的な分割—自分に起こることの全てを決定している上層の力が存在するという実感—を経験します。しかし、この啓示はそれ自体が独立して勝手に起きるものではありません。その人が実際にカバラの知恵に取り組み、その間における多数の学習時間、グループの中での結束、そして普及活動での作業の後にしか起こることはないのです。