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我々の世界の目的とは何か

我々が発達し終わった時に、我々は完全な充足と共に、限りのない受け取りの状態、そして、善と永遠と完璧さと力を限りなく明らかにする状態に達しなければなりません。これがこれから先に我々を待ち受けているいるものです。しかし、それには、クリエーターが我々に向けて示す意図と同一な意図を我々がクリエーターに向けて示すために受け取り始めるという条件があります。

我々の世界(クリエーターが隠されている状態)が創造された目的とは、我々が、これらの状況下で、与えられた環境と共に、我々を受け取り(盗み、悪意、対抗意識、ねたみ、憎しみ)から、授与と愛の感覚、そして、自分自身を超越するという感覚へと転換させる、人間間の交流スキルを発達しようと努力するためです。

人が自分自身を本当に超越するなら、人は自分の周りの世界を満たす光・この世に存在しているクリエーター・全体の光・愛と授与の総体的特質を知覚し始めます。そして、その人は自身の動物的な体から分離し、この広大で終わりのない、愛と善に満たされている状態の雰囲気(空気)の中に単に「浮かび漂う」のです。

これが次なる状態であり、我々はその状態へと上昇しなくてはなりません。これは決して我々の世界を破壊しません。我々はそこに徐々に入り、我々の世界と共にそれを感じ、感覚に於いて次の段階(度合い・程度)へと変化します。

From the Sunday Virtual Lesson Series 11/6/2011

来世

人間と猿 - カバラモーメント 2011.5.24

マフソムを渡る

受けた質問:“マフソムを渡る”とはどういう意味ですか?

私の答え:マフソム(私たちを霊性から隔てている障壁)を渡るという意味は内側の現実を感じることです。“ハートの中の点”が現れ、最小限の“量”(10個のセフィロート)を手に入れます。これらのセフィロートの中で私は新しい現実を知覚して感じます。私は光がどのように自分に入り出ていき様々な感覚を引き起こすのか感じます。それは意識と理解の中の最小の変化に始まりますが、私は“内側”で何が起こっているのかを見ることが出来るのです。私達の世界に関しては、私はそれを新しい(霊的)世界の背景に見始めます。

そのような存在における二元性は障害になりません。それどころか、それは私に二つの世界、つまり枝と根の関係性を感じさせて理解させてくれます。自分のハートの中の点の内側で私は様々な行為、それがどんなに小さな行為であろうとも感じます。私は未だ光が入り、出て行くという意味を理解できませんが、私は何かが何度も来て去ることを感じます。感じるけど何が起きているのか分からない新生児のように、私は未だ正確に何が起こっているのかを理解しません。

光がついたり、消えたりしていると仮定してみましょう。新生児はそれが光と闇と呼ばれていることを知らずにただある現象を観察します。私には、光が入り、出て行くにつれ、それは(光が入るにつれて)上層の世界の感覚を与え、そして私たちの世界は(光が出て行くにつれておこる)単なるそれの印象なのです。さらにいうと、私は類似した特質を発達させる私の能力の度合いまで、その中でどんどん順応し始めます。

From Mega Congress Lesson 5, 7/25/10

全世界へ踏み出せ!

私たちは世界を自分たちの喜びを受け取る願望の内で体験します。私たちが視覚、聴覚、味覚、嗅覚、触覚などの感覚器で知覚できる全てのものは、私たちが内面から観察する景色となります。これが私たちが認識する現実なのです。

この限られた認識から、身体とその五つの感覚器に制限されていない認識へ出る方法はあるのでしょうか?結局、私たちの世界の映像と私たち自身は私たちの動物的身体に指示されているのです。全ては認識次第なのです。もしかしたら、身体の越えた向こうに無数の形態があるかもしれません。しかし私たちの身体はそれらを濾過し、それが処理のできるものだけを私たちに感じさせるのです。つまり、私たちが究極の現実を体験することは不可能なのです。もしそうであるのなら、もしかしたら身体が消滅した後に、私たちは本当の現実を見るのでしょうか?しかしながら、自分たちの感覚器は身体と一緒に消滅するのに、どうしてこれが可能でしょうか?

カバリストは、私たちが“自分の内側”で現実を体験するがために“この世”と呼ばれる部分的な認識に制限され、全体の現実を認識することが出来ないのである、と述べています。しかし、私たちは身体の“外側”の認識へと移ることができるのです。私たちの認識の範囲を変化させるある力があります。自分の外にある現実を経験することを可能にするのです。言いかえれば、私は自分自身ではなく、他人に集中し、彼らを自分より上に置くのです。

私たちが外側の現実のことを読むとき、それは私たちが徐々にそれを認識し始めるように影響を及ぼします。それは“労働して見つけ出した”と呼ばれます。私たちはこの新しい認識を獲得するために努力しなければならないのです。そのような努力を数ヵ月ほどすると、私たちは、自分たちの中で変化が起こっていることに気づき始めます。そして、私たちの他人の認識がどのように変化しているのかもです。

このプロセスを前進させる最も効果的な方法は、グループでゾハールの本を読むことです。私たちがどのぐらいそれを理解できるかに構わずです。大事なのはそれに影響されたいという私たちの願望であり、それは私たちが外側の現実を体験し始めることを徐々に補助するのです。

From the 2nd part of the Daily Kabbalah Lesson 7/23/10, The Zohar

まやかしの支配から自由になる

私が受けた質問:それはどのようなゲームなのですか?それは友達を最も偉大と認めることですか?

私の答え:それはゲームではありません;それは隠匿を突き抜けることです。私のエゴイズムは他人から自分を、そして自分を他人から隠します:それは、私が無限の世界の全てを見ることを不可能にします。現在、私は無限の世界にいます。が、しかし、私が見るのは、非常に暗い状況です。私のエゴイズムは、醜くて、愚かで、怠惰で、嘘つきな人たちを描きます。しかし、現実にはそれらは全て間違っています;この状況は自分の中、私のエゴイズム内に存ずるのです。もし今、私の深く愛する子供が自分の横にいたなら、どう彼らを見るでしょうか?彼らは私に完璧に見えるでしょう。なぜなら“愛は全ての罪を補う”からです。私は彼らを、彼らの欠点全てを含め、愛するでしょう。

自分のエゴだけが、非難されるべきなのです:自分はそれの向こう側に何も見ません。私の脳の奥には、画面があります。私は、目を通して世界を見ているようですが、それは自分のエゴイズムのプリズムを通して入り、そして自分の脳内の画面に映し出されるのです。全ては私の態度次第であり、それを見るために自分がどう順応するか、なのです。なので、私はグループに対し、彼ら皆を、完全に是正された、今世代で最も偉大な人たちと見るように自分を順応しなければならないのです。

これはゲームなのでしょうか?いいえ、それは単にエゴイズムのまやかしを取り消すことです。それは理性的な行為なのです。私の向こうに、無限の世界があります。そして私は、たった今も既にその中にいるのです。もしあなたが、この平凡な、逆の状態に無限の世界を歪める、全ての殻(Klipot)を剥ぎ落とせば、あなたは無限を知覚するでしょう。

最初は、そのふりをしてみてください。努力してみましょう。私たちを、是正された、大きな、団結した、と見る努力をしましょう。この行為を通し、私たちはとても強力な囲む光を引き寄せ、それが私たちの性質を是正します。私たちはエゴイズムの代わりに、授与を獲得するのです。これはとてもシンプルな原理で、まったく現実的です;ここに神秘主義はありません。私たちは自らの努力で、私たちが是正された状態を見ようと試みて、その度合いで、私たちは是正されたシステムに含まれている、内面的な力を受け取るのです。私たちの願望がそれを作動するように促進するのです。これらが是正に向う、実践的な行動なのです。

From the 4th part of the Daily Kabbalah Lesson 6/10/10, “The Importance of the Association

この世界はただのスタート地点である

クリエーターはこの物質的世界を創っていません。それは私たちの想像の中にしか存在しません。なぜなら、私たちはエゴイズムの境界の内にいるからです。私たちが授与へと移行した瞬間、上層の現実(私たちが実際に存在し、発達しているところ)は私たちにその姿を露にします。

私たちに常時、スピリチュアリティを獲得することにおける選択の自由を与えるために、この下層の物質的世界は存在し続けます。この世界で私たちは仕事へ行ったり、買い物へ出かけますが、私たちは永住している場所、家、そして家族があると知っています。スピリチュアリティでも同じことが当てはまります:私たちが永久に存在する場所があるのです。私たちは霊性の階段を上がったり下がったりしますが、最も低いレベルの存在(私たちの世界)は私たちに常に約束されているのです。

この世界は架空であって、私たちの想像の中以外、存在しません。それは私たちに、授与のための行為を自ら行うのを可能にしてくれる、基本的な地点なのです。クリエーターは皆全員に同じ映画を見せるため、私たちが同じ現実内に存在することを可能にしているのです。その理由のため、最も高等なカバリストも、最も低脳な愚か者も、同じ物質的世界を知覚するのです。

聡明な人は世界の見方が少し違い、理解も深い、とされていますが、一般的に私たちは皆、同じ映像を見ます。ある人が特殊な特質を持っているとしてもそれは変わりません。なぜならそれと霊性には何も共通点がないからです。

From the 1st part of the Daily Kabbalah Lesson 5/26/10, The Zohar

魂のホログラフィック・ピクチャー

クリエーターは私たちの魂に団結を要求してきます。堕落の全体は、私たちのお互いへの隔たり、そして他人同士と感じることから構成されています。その一方、是正とは私たちが自分たちを一つの体と知覚することにあります。しかしながら、もし私たちが自分たちのことを単に、別々の部分が一緒になって働いていると知覚したなら、それでは不十分なのです。

自分は全員の中に、そして全員は他の全員の中に合併しなければならない。そして、そのように永遠までし続けなければならないのです! それは、各自の成分が他の全てを含む、ホログラフィーの絵と似ています。

私たちは未だ、知覚的にこれを想像できません。なぜなら私たちはそのような状況と全く反対であるからです。器の破壊により、私たちはお互いと完全に離れていると感じています。他の皆と結合し、総一体となる“私”無しに、どうやってお互いに合併し合うことができるのか、私たちには理解すらできません。

私たちのハートの点が結合するとき、この物質的身体の架空的な現実は消えていきます;私たちの願望しか残りません。私たち各自が、自分たちの統一化をより正しく想像しようと試みるほど、唯一の本当の現実の絵に近づきます。私たちはただ、それに接近し、明らかにすればいいのです。このようして私たちは徐々に、自分たちを囲む物質的な幻想から癒えていくのです。

From the 1st part of the Daily Kabbalah Lesson 5/30/10, The Zohar

内部の衝突型加速器

私が受けた質問: 私たちが生きる映画の境界を超えて何かを出来ますか? 私たちに台本を“改善”することは出来ますか?  

私の答え: 台本の傍らに、“内面的な科学”を探求する機会があなた自身を学ぶ事によってもたらされます。私たちは心理学、文化、社会学、または政治などの“外面的な科学”に勉強を制限するべきではありません。これら全ては私たちが認識する世界の“外面的な形態”です。これらの科学は世界の事をあまり語らず、私たちが数々の誤りを犯す理由なのです。これらの科学はこの世界の法則を明らか出来ず、そしてまた、私たちが経験する変化の方向を示してくれないのです。

心理学者、社会学者、政治家、その他の者は個人的な基準と目標、見解に従った“外面的”な状況を描いているのです。それがゆえに私たちはカバラの知恵が絶望的に必要なのです。なぜならそれは私たちをもっと深く、“基本的な分子”のレベルまで内へと向わせる事を可能にし、私たちを成す真正の物質を調査出来るからです;それは主観的な心理的空想より真理に近いのです。

もし私たちが自らの内へと更に深く向かい、私たちの中で何が起こっているのかを最も深いレベルで理解し始めたとき、私たちは過ちをを犯す事がなくなります。玉ねぎの皮の層のように私たちを覆う殻、様々な外側の世界の形態を全て突き破れば、私たちは自らを信用する事を学ぶ事が出来、何が、又なぜ起こっているのか、何が私たちを前進させるのか、何が有益で何が有害なのかを理解できます。

これは人が内を見る能力を得た場合のみ可能になります。“外面的な科学”の領域以内でこの結果を成し遂げる為には自らの内面的な視界を使って粒子加速器を造らなければなりません。衝突型加速器は自分の内にあるのです。衝突型加速器として機能すべく、私は自らの内で作動する力を知覚できる程の正確さを達成する必要があります。

これがカバラの知恵によって達成可能になる事です。この段階に到達してのみ創造物の起源、その中における私たちの立場、私たちが何処へ向かい、何処へたどり着くのか-私たちの全体の進路が理解できるのです。そうする事によって私たちは自らを正しい方向に向け、誤りを犯す事を止めます。

From the 1st part of the Daily Kabbalah Lesson 4/15/10, The Zohar

自由:永遠を獲得する

バール・ハスラムの論文「The Freedom(自由)」は以下の言葉で始まります。「石にHarut(彫られている);それをHarut(彫られている)ではなく、Herut(自由)と発音せよ。彼らが死の天使から解放されることを示すために。」この世でスピリチュアルな上層世界をまだ感じることができなく、単に他の動物のように自分の人生の心配しかしないとき、その人には何が必要なのでしょうか? この時の人の主な心配事は生と死です。自由が死の天使からの解放を意味すると記されたことには理由があります。その理由は、カバラの科学が永遠を獲得する方法であり、それは根本的にすべての人にとって重要であるということです。

人類は無意識に自分たちから死の問題を隠します―この問題に解決策はないが、それは私達の全員を無価値な存在にまで縮小します。この世における私達の全行為(文化、教育、仕事)は、死の必然性に目を向けないためになされます。私達はそれを遠くに追い払い、まるでそれが存在しないかのように、それについて考えないようにします。しかしながら、この問いが現れるとき、死を止めることに対してできることがないため、人は完全なる無力感に陥ります。私達はどんな事も対処すること及び達成することが可能です、一つのこと以外―永遠の命。

死の必然性は自分という人間を打ち消します。したがって、人類が無意識に従事する全てのことは、一つの考えから来ています。仮に私達が死ぬことがなかったとしたら、どのぐらい私達が人生に対し違った見解を持つのか、私達は理解していません。私達の存在、現実、そして他者に対する感じ方や態度は、全く違うものになることでしょう。

毎日のカバラレッスン 2010年4月15日 第三部 論説『自由』より)