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猛犬に注意!

質問:私は他者に憎しみを感じながら、まるで自分より強い「動物」が自分の内側に隠れているように感じます。どうやってそれを支配する力を得ることができますか?

答え:エゴを支配する力の獲得は、一つの条件下においてのみ可能です:自分たちをコントロールするその「動物」のせいで失うものが、どれほど多いのか分かったとしたらという条件です。私達は自分たちのエゴによって支配されており、それは良くて優しい世界における永遠で完ぺきな人生を、私達に達成させません。

もし私が自分のエゴが自分からどれほど盗み、そして、自分からどれほど取り、自分に何も与えないことが分かったとしたなら、私はそれを憎むでしょう。しかし私はそれを嫌ってもいないし、愛してさえいるのです。私は自分をそれと同一視します。なぜなら実際に自分の全人生はそれを満たすことであるからです。どのようにして私は自分のエゴを自分の死であると感じることができるのでしょうか。

私にできる最も重要なことは、スピリチュアリティに対する重要性、つまり与えることと他者との一体化の重要性を高めてもらうために、グループ・環境に入ることです。なぜなら特にこのおかげで人間レベルの人生を明らかにするからです。もし私が環境から印象付けられ、環境が自分に影響を及ぼすことができるのなら、私は自分のエゴに打ち勝つために十分な力を獲得します。

私達の作業と努力のすべては、悪(私達の利己的な願望)の認識に達するために欠かせません。現在それは自分にとって有益に見えます:望めば望むほど、より多く稼げ、ますます権力を獲得し、もっと盗める。もっと、もっと、もっと・・・。私達の社会の中で大きなエゴを持っている者たちは、より成功しているように見えるのです。

この世の中で良い人生を手に入れることは、スピリチュアルな美しい人生を自身から奪い、ここ、この世界の中で良い人生を描いて私に嘘をつくのだと、自分自身に言い聞かせないといけません。これは、私を本当の意味で洗脳し、私に影響を及ぼし、私を説得することのできる環境の中でのみ可能なことです。環境の考えが私に強い影響を与えるため、私は自分のエゴイズムの力を超越したくなります。

その後、今まで感じたことのなかった異なるレベルで人生を経験し始めるでしょう。それは一瞬にして起きます。つまり移り変わりがないという意味です。私が絶えず自分自身をできる限り満たしたかったとき、私は自分の中ではなく自分の外側に人生が存在しているとすぐに感じます。それどころか、私は何も吸収することのできないこの“動物”から脱出するときに人生を感じるのです。

この第一歩を踏み出すことにより私は上層の世界をすぐに明らかにします。“上層の世界”とはいったい何でしょうか。現在私が生きている現実を“この世”と呼びます。私が自分自身の外側で感じる現実、私の友達とのつながりの中で感じる現実、人間同士とのつながりの中で感じる現実を“上層の世界”と呼ぶのです。なぜなら、それは動物レベルよりも高尚な人間レベルであるからです。

From Lesson 1, Convention in Spain, 6/3/2011

感受性 - カバラモーメント 2011.5.12

天秤のはかりを「結束」の方に傾ける

質問:カバラの勉強において、いつ何時でも、自分が正常に前進しているのかどうか、そしてその道から逸脱しなかったかどうかをどのようにして分かることが出来るのでしょうか?

答え:私はまるでつりあいの取れた天秤の上に乗っているかのように一瞬一瞬エゴイズムか心の中の核心(心の点)かを選ばなくてはなりません。そして毎回天秤のはかりを「心の核心(心の点)」と結束の方に傾かせなくてはなりません。結束するという行動以外には何もないのです。

我々は勉強、そして様々な行動をしたいと思います。我々はそうすることによって無意識のうちに結束から逃げてしまうのです。私自身もこれを経験しました。私にこれが聞こえ始めるようになるまで、かなりの時間がかかりました。

私は勉強することや資料を整理したり系統化することがとても好きでした。結束に向けて取り組む以外、想像できることは全てやりました。結束が私たちの責務であることを認識しはじめることと、この知覚を掘り下げて考えることに慣れることが早ければ早いほど、早くこの習慣は第の天性になります。

我々は友達の内面世界―結束とクリエーターを目指す強い願望―を感じることを求めるようになるために常に自分自身を訓練する必要があります。私の目標が彼らの内面であるなら、彼らの外見に気付くことがなくなります。

結局のところ、我々は自身の愛する家族の顔を重要視しません。我々は家族の魂と性格と情緒を感じるのです。同様に、私と同じ目標を目指している友人の願望を常に感じるようにしようとする必要があります。私はこの願望とつながりたいのです。

友達の外見や性格のあり方は関係ありません。気にすることはたった一つだけです:友達の強い願望が何であるのかということ。これは男性にとって最も難しいことで、正確にこの部分に男性の作業の本質があるのです。女性はより簡単にそういう知覚に切り替えることができます。なぜなら女性は外面的な様子を男性ほど重要視しないからです。

From Lesson 2, WE! Convention 4/2/2011

愛についてもう一度

質問:友達への愛とは何ですか?

答え:愛とは1つの共通の欲求に於けるユニティーです。カバラは以下の例を挙げます:ビナーがハフェツ・ヘセド(Hafetz Hesed-自分自身のために何も求めないこと)の状態に達する時、ビナーはマルフトに降りて来て一体化し、ビナーの全ての力をもってマルフトの欲求を満たすために、マルフトの欲求を吸収する。

それが愛と呼ばれるものです:誰か他の人の欲求を吸収し、何でもあなたに出来ることでそれを満たすこと。人は1つしかない枕を譲らなくてはならないと記されています。それは私達が到達する必要のある愛の顕示です。

しかし、どうやってそれを達成できるのでしょうか?私達は物質世界の中で一人一人に全ての基本的生活必需品があるようにしなくてはならず、そしてスピリチュアルな世界の中において一人一人が私達の共通の欲求(Kli、器)のなかにある全てのものを受け取ることを確実にしなくてはなりません。

私達全員を1つの欲求として見なし、それを生き生きした状態に保つために全てのことをすることがとても重要です。各自はそれが自分にかかっていて、しかも、この世界のための天秤を罪の皿から慈悲の皿へと傾かせることが自分の手の内にあると感じなくてはなりません。このように私達はマルフトと呼ばれる上層の光、すなわちクリエーターが明かされる場所を作り出します。しかし、その究極的な目的がクリエーターに満足を与える事であると忘れないようにしなくてはなりません。

しかし、クリエーターに対してそれをする事は容易ではありません。私達にはまだ彼の光の確かな感覚がありません。よって私達は最低限、どうやって彼が隠れている場所に、彼を求める欲求の全てが集合した場所に、喜びをもたらすのかということについて考えるべきなのです。「創造物への愛からクリエーターへの愛へ」と記されているように。創造物への愛は、実際は、最も総合的な一体化した欲求です。

私達が復活させたいと望む私達の魂の関係を友達への愛と呼びます。友達とは、スピリチュアルな内なる繋がりに達するために物質レベルで集まった個人たちなのです。私達は既にそれについての全てを知っています。今はそれをただ実行するときなのです。

それについての無数の言葉が語られてきましたが、それらの言葉はその人のいる状態に従って毎回新しく知覚されます。私達はそれらを私達自身の内側へとより深く吸収する必要があるだけなのです。そうするとそれは明確になるでしょう。

この事において根気が必要とされます。それは私が待つことに賛成し、全てのことを後回しにする、明日にするということではありません。今日できる全ての努力をする根気を持って下さい。しかし、もし成功の兆候が見られないなら、それは今にも起きるという自信を持ってください。

From the Daily Kabbalah Lesson 12/10/2010, Baal HaSulam, Letter 13, 1925

光とは何か?

質問:カバリストが語る光とは正確に何ですか?

答え:私達の現実には「光」と呼ばれる力が存在します。この力は隠されていて、それを感じる事は出来ません。しかし、もしあなたがカバラの英知を勉強するなら、あなたはこの光を呼び覚ます事が出来るようになり、それはあなたに作用し始めます。

“カバラの英知を勉強する”という意味は何でしょう?既にクリエーターに到達した人々、すなわち彼との特質の同等性を獲得した人々が存在し、彼らは、彼らが上層の世界の中で上層の力との関係性に於いて発見した存在の様々な状態を説明しました。

当然、彼らの書物を読んでいる間、そこに書かれたことは何も理解できません。なぜなら、あなたが同じ世界の中に居なく、そのことについて何も知らないからです。たとえその文書がこの世界と全く異なるスピリチュアルな世界について伝えていても、あなたはあなた自身の世界の中で想像できることだけを聞きます。

カバリストの文書を読んでいる間、もしあなたが上層の世界に行きたいと、あなたの中にある全てを持ってして願うのなら、あなたは強い欲求を通じて上層の世界から特殊な力を呼び起こします。この力が「光」と見なされているものです。

あなたがそれを呼び起こす事ができる理由は、あなたには上層からのスパーク(火花)があり、それがあなたが生まれた時に植え付けられたからです。その後、上層の世界から光が訪れ、それを照らします。

したがって、もし光を呼び起こし、スパークにそれを作用させたいと望むのなら、カバラの文書を読み、これに専念してください。それ以外には何も必要ありません。あなたには、書物に書かれている事を理解することも、抜け目のない頭脳を有することも、特別に幸運であることも、必要ないのです。必要なのは、あなたが普通の人であり、カバリストが説明する世界が常にあなたのスパークに作用してほしいという願いを持っていることだけです。そうすれば、彼らの語っている事をあなたが急に感じ始めるまで、スパークは徐々に成長するでしょう。

ゾハールの書を勉強している間に、私達に必要な事が、まさにこれなのです。しかし、この光の力が人に訪れるのは、彼が上層の世界の中にありたいと努力する場合だけです。つまり授与のなかに居たいと切望したらの話です。

しかし、どうやって私は授与の中にいるという意味を知るのでしょうか? カバリストは言います:もしあなたがグループのなかでゾハールの書を読み、あなたが、お互いに何の違いもない、1つの生物として、他者と繋がっていると心に描くのなら、また、もしあなたが、あなたを照らす力に対する、1つの願い、1つの意図、1つの強い欲求を持っているのなら、この唯一無二の分割されない力が、あなたの1つに統合された欲求に作用し、あなたは、あなたに作用してあなたを助長している、この上層の力を本当に明らかにするでしょう。これが、創造物に対するクリエーターの啓示と呼ばれるものです。

したがって、光が私達に作用できるよう、私達を是正できるよう、そして私達の内部で現れるように、光を明らかにしたいという私達の欲求の中で、私達が一体となっているという意図を持ち、私達はグループでゾーハルを読んでいるのです。

From the 2nd part of the Daily Kabbalah Lesson 10/8/10, The Zohar


それをして下さいとクリエーターに頼みなさい

私達は、私達がクリエーターにそれをしてくださいと求める以外に、何もしてはならないということを忘れます! それどころか、私達は、どうやってが自分のハートを強制して開くべきか、どうやってが他者と繋がることが出来るのか、または、どうやって他者が自分に繋がることが出来るのか、と考えます。しかしながら、私達はこれについてまったく考えるべきではないのです!私達は繋がりを私達の利己的な頭(知性)の中で想像します。けれども、私達の考えていることとそれは、全く似ていないのです。

これは上層の世界の段階です―私達は新しい現実を明らかにしているのです!私達は、求めることだけ、それだけをしなくてはならないのです!私達は、すべてが要求・依頼の理由で起こることを学びます。私達は祈り―マン(MAN)―を上げ、その反応として包む光―マッド(MAD)―がやって来てすべてを是正するのです。そして一方、私達はその是正の間にただ居るだけでよいのです。すべては上層からやってきます。私達に関しては、要求、嘆願、そして強い願望が必要なのです。

この点に問題があります:私達はクリエーターに頼るのか、それとも、すべてを独立して(自主的に)行うのか?これが、私達が過ちをおかし、何年も行き詰まり、呼びかけ、要求、依頼以外にはなにもないということを理解するために方向を、少しさえも変えることが出来なくなる点なのです!

この依頼を達成するために私達は努力しなくてはなりませんが、それはこれだけを遂行するためです。もし私達が独立して愛と友情に基づく正しい社会システムを構築しようと試みようとしても、これは、私達がゴールから遠ざかっていること、つまり私達が本心を表していなく、お互いを嫌っていて、ユニティーに全然近づかないということ、を理解させる長い道のりになるでしょう。

カバラは私達をとても正確な分析にもたらさなくてはなりません:もう一人の人と繋がろうとするな、これはあなたには出来ません、あなたも彼もエゴイストです。上層の光のみが、それを出来るのです。上層の光はやって来て私達を一緒に結合しなくてはなりません。上層の光だけです!

したがって、お互いの繋がりを探さないでください。なぜなら「夫と妻と彼らの間のシェヒナ」と記されているからです。その意味は、私が居て、私の友が居て、私達の間にクリエーターがいるということです。「上層の中で和解する彼は、我々の中で和解する」(Oseh Dhalom BeMromav, Hu Yaseh Shalom Aleinu)。

私達を一緒に繋げる力を持たないで、私達がお互いに向き合うときは、いつでも偽の呼びかけです。私達がハグするとき、私達はハグしたくありません。あるいは、この世界のレベルでそれをするのです。私達は本当にお互いから、愛、ユニティー、または友情を要求してますか?それはこの世界の段階においてだけです。私達の誰が、もう1人の人の保証人、またはその彼自身のでさえに、成れることが出来るのでしょうか?そのための力は私達のどこにあるのでしょうか?私達は、私達の間の空間のすべてを満たす上層の者を通じてでしか、お互いのことを切望することが出来ないのです。

もし私達が彼に空虚を満たし、私達をつなげ、そしていつも私達の間に居て下さいと要求するなら、それは簡単に起こるでしょう。カバラの科学は、私達をこの正しい姿勢・心構え・態度に至らすことを意図されて作られています。一方、私達は自分らの利己的な性質の内側に居るため、そのことから常に逃げてしまいますが。

「彼以外にはなにもない」ということを忘れずにいましょう!クリエーターが行為を実行するのです。しかし、それが起きるためには、私達が彼の行為よりも先に願望を持たないといけないのです。これを「契約を行う」と呼びます。私達がクリエーターとの契約を締結するのです:私達が要求し、そして、彼がそれ実行します。

小さな子供が歩いて大人を彼らの後ろに引くのと同様に、私達は、上層の力が創造した性質を是正するよう、上層の力を引いているのです。そうすれば、私達はクリエーターと同等に成れます。私達は相互保証を達成することも、それを本当に願うことでさえもできません。私達がユニティーについて話し始めるや否や、私達はその条件を覚えておかなくてはいけません:「イスラエル、光、そしてクリエーターはひとつである。」私自身、私の隣人、そして私達の間のクリエーター。私達三人が一緒になってでしか、真の和解と完成は達成できません。

まさに、グループに於ける1つになりたいという強い願望がすぐに、私達がすべての助けをクリエーターに頼まなくてはならないという理解を、私達にもたらすでしょう!

From Lesson 8 , World Kabbalah Convention 2010,  11/11/10

エゴを欺きなさい。さもないとそれがあなたを欺くでしょう。

私が利己的な奴隷の境遇から出るときに入る「砂漠」が、グループです。

相互授与のなかに居ることと、みんなに授与するという事実から喜びを感じることが、自分にとって、真の「砂漠」および「苦しみのパン」(マッツァー:ユダヤ人が過越祭に食べる無酵母のパン)です。

もし私が授与から利己的な喜びを受け取ることができれば、私は受け取るために喜んで与えるでしょう。しかし、私は、何の個人利得なしに「授与するため」に与えることはできません。私はこのように振る舞うことが出来ません。私は“授与の燃料”で指の一本も動かすことができないのです。私はこのことからなんの栄養も受け取りません、よって、どのようにしてエンジンは、燃料なしに、電気なしに、動くことができるのでしょうか?

利己的な受け取りは、私にあらゆる種類の多大なエネルギー(カロリー、ワット、ジュール)を与えますが、授与は何も与えません。私は受け取るために自分の手を動かしますが、それが授与であると知ればすぐに、私は凍りつき、それいじょう動けません。その瞬間、その行為のまっ最中に、それが授与に向けられていることに私が気づくとき、私は凍りつき、動かなくなり何も出来ないのです。あなたは「頑張れ!やれ!あともう一歩だ!」と私に向かって叫ぶことができますが、私はそれを聞き入れることが出来ません。

したがって、私達のエジプト(エゴ)から私達がスピリチュアリティの世界の美しさを見て、それを望みはじめることが出来ないのです。グループだけが私達にスピリチュアリティの重要性をしみ込ませます。それは私達のエゴを欺き、スピリチュアリティの中が気持ちいいとエゴに信じさせるのです。

私達が内部的につながっていて、お互いに影響を及ぼし合っていることから、私はこのうそを真実であるとみなします。私の高慢と情欲と野望を巧みにあやつりながら、喜びを私に約束した肉体上の世界のうそを真実とみなしていたように。私は突然、自分の利己的な所有物の全て―魚やお肉の入っているかめでいっぱいの“ピトムとラムセスの開花している都市”―を捨てる覚悟があるほど強くスピリチュアリティを望み始め、1袋の小麦粉を背負い砂漠へと逃げるのです。

だから私達の作業のすべては、スピリチュアリティの世界が世の中で最善のものであると、お互いを納得させることにあるのです。これはその通りです。たとえ私達の現在の利己的な願望との関係上、スピリチュアリティが完全な砂漠で悲しみのパンであったとしても。

したがって、下降の諸状態のなかで絶望しないでください。なぜならそれらが本物の状態であり、突破の前に生じることになっているからです。一方では、私が状況を現実的に評価し、自分が授与したくないと実感します―私はそれが大嫌いであり、それに憤慨します。しかしながら、それは非常に重要なので、私はどんなことがあってもそれに到達したく、スピリチュアリティのない人生を、死よりも悪いと見ます。私 に於けるこの考え方(心構え・姿勢・態度)は、社会によって生み出されます。

From the 4th part of the Daily Kabbalah Lesson 10/31/10, “This is for Judah”

私たちは自由の身でしょうか、それとも機械の中のただの歯車でしょうか?

意志の自由は最も重要なトピックです。なぜなら、それが私たちの生活における主要な問いを提示するからです:私たちは、自然の何か他の部分のように、完全に上層からコントロールされているのでしょうか? 私たちは、全てのものが上層からの支配、つまり自然(クリエーター)の支配の下で機能していることを目にします。自然を超えるものは何もありません。私たちは支配の力を何らかの働き・作用において見分けることができます。しかし、他のものにおいて、それらの支配の力は隠されています。

若いとき私たちは、私たちが自分たちの人生を支配するのだと考えますが、成熟し人生の経験を積むにつれ、人生が私たちをコントロールしているのであって、その逆ではないと理解するようになります。確かに、物理学的、化学的、生物学的といった自然の全レベルを操作している厳密かつ不変な法則を私たちが発見するとき、どこに意志の自由の可能性があるのでしょうか? また、もし法則が私たちに見えない場所があるとするなら、それは、絶対的な確実性をもって働く法則がそこに存在しないのではなく、私たちがまだそれを明かしていないという意味なのです。

どうすれば何の法則からも影響を受けない、制御されていない自然の部分が存在することができるのでしょうか? これは絶対に不可能です! 私たちは、自然を明らかにする全ての箇所において、厳密な規則性を発見します。

すると、選択の自由とは何なのでしょうか? それは決定論的な自然の法則に支配されることなく、自分が好きなようにする可能性でしょうか? 選択の自由はどこからもたらされるのでしょうか? 自然の中に於いて[法則に]従わない“白い斑点”はありえるのでしょうか?

私たちの全ての見かけ上の自由とは、厳重な監視下で自分の部屋で遊ぶよう残されたにもかかわらず、自分が自由であると考えている小さな子供の錯覚であるということが分かります。つまり、自由意志とは私たちの無知のみによって説明されているのです。そして、これは私たちが自由と呼ぶものでしょうか? すると、人間とは何でしょうか?、完全に上層からコントロールされていて、それに気がつくことさえもない、自然のもう1つの部分でしょうか? もし私たちが操り人形でしかないのなら、私たちは善も悪もしません。私のすることの全てが法則に従っているとき、私に求められることはありえるのでしょうか?

私が突然したいと望むことの全ては、外側および内側から私を操作・制御する生まれながらの本能です。もし私たちが創造の中の単なる普通の「歯車」でしかないなら、褒美も罰もありえません。しかし、もし全部の存在が“製造中に包装されたゲーム”なら、そのすべての意味とは何なのでしょうか?

その意味とは、何よりもまず、それでもまだ意志の自由があるのかどうか、それが何処にあるのか解明する必要があるということです。結局のところ、もしここに本当に選択があるなら、高得点を取ることも、全てを失うことも可能であるのです。

したがって、意志の自由はカバラに於ける主要なテーマです。なぜなら、それが次の段階の始まりだからです:私たちには自由があるのかどうか、そしてもしあるなら、それを最大限の恩恵を受けるよう、どうやってどこに対して利用できるのかということです。

From the 4th part of the Daily Kabbalah Lesson 10/8/10, “The Freedom”

なぜ私は努力をするのか、そして私は何を見つけるのか?

バール・ハスラム、シャマティ161番『トーラーの授与の事(The Matter of the Giving of the Torah)』:「私は努力をした、そして見つけなかった、信じない。」私たちは「私は見つけた」の意味を理解しないといけません。見つけるための何があるのでしょうか? クリエーターの視点の中の恩恵を見つけることに対する懸念を見つけてください。

「私は努力をした、そして見つけた」と、是正の方法を実現することについて記されてます。これはなんて変わったモットーなのでしょう。「努力をした」は、私は理解できますが、「見つけた」の部分はとても不明確です。

もし私が他者への愛を達成するために自分自身を是正するなら、他者および他者との繋がりに向けられたこの善い態度(心構え)に於いて、私はただ誰かを見つけるのではなく、クリエーター彼自身(すべてのものを1つの全システムに結び合わせる、全てを含んだ自然の力)を見つけます。すべては努力にかかっています。私はシステム全体を集め、他者との関係を構築し、正しい繋がりを確立し、そしてそれを暗闇のなかで感じようとしながら、自分自身を注ぎ込み、汗水を流して働かなくてはなりません。

これにおいて私は努力をし、最後にシステムの複数の部分が1つになる瞬間に、クリエーターを見つけます。ゆえに、私は万有の力を明かし、それが自分の内的な生命の力になるのです。そして、もし私が努力をせず、この探求を行わないのなら、私は全ての魂を1つにするために必要な理解と印象を欠くことになるでしょう。

まだ私たちはこの事を明らかにしていませんが、まさにすべての細胞が全身体の世話をするのと同じように、このシステムを獲得し、それを制御する方法を習得するのは、実に自分次第なのです。それと同じ原理は全ての創造に適用されています:ホログラムのように、各要素は他のすべての要素および全システムと相互に繋がっているのです。これが完全・完ぺきなのです。

この理由から、是正方法を実現することに於いて、努力を惜しむことは不可能です。なぜなら、そうでないと、私は内側ですべてと繋がり、すべてを理解し、すべてを吸収することが絶対にできないからです。

しかし、スピリチュアリティに於いて、いくらその人が好意をもたれている状態といった報酬を受けているとしても、やはりその人は後でその全額―すべてのひとが与える努力の量―を支払わなくてはならないのです。もしそうでないなら、その人はクリ(Kli:器)を失うことになります。

From the 1st part of the Daily Kabbalah Lesson 10/8/10, “The Matter of the Giving of the Torah”

真の悪

質問:クリエーターとの付着は何を暗示しますか?

答え:付着は大きな是正、性質または「形態」の同等性に基づく一体化です。私たちは、受け取る意志それ自体の構成要素を変える必要はありません。しかし、この構成要素は「悪」、クリエーターと反対、とみなされる利己的な形態(意図)を有しています。

自然の無生物、植物、そして動物が、悪でありクリエーターと反対とみなされないのと同様、受け取る意志それ自体が悪でクリエーターと反対であるとはみなされません。また人は、自分がクリエーターと反対であると感じるまで、その人に「悪の性向」があるともみなされません。

最初は、あなたの願望の意図または「形態」がクリエーターと反対であると知ることが必要です。もしそうでないなら、人には悪はありません:その人は単に本能に従って行動しているだけです。カバラに於いて、悪とは、クリエーター、善、または光と反対の性質として定義されます。人は、善の性質(特質・属性)、繋がり、そして愛がその人に明かされたときに、悪を感じることができ、自分自身がクリエーターと反対であると見ます。

その時点で人は「人間」になります。その時にどれだけこの人間が悪いかに関係なく。そして、これはカバラの知恵の勉強が伴ったときにだけ起こることです。その時以前に、人や世界のすべてのエゴイストに是正するものはありません。是正が必要なのは、形態ではないのです。

私とクリエーターの間にある断絶・違反のみに対して是正が必要なのです。私はクリエーターと反対な形態を「彼」と似ている善いものへと変形させなくてはなりません。そして、私たちが「彼」と相互授与において同等となるときに、記されているように、私たちは「付着」(Dvekut)と呼ばれる繋がりを獲得します。この内面的作業(悪または壊れている状態の啓示とその是正)は、グループがカバラを勉強している最中に引き寄せられる光を手段としてしか起きません。

その人の複数の肉体化(Gilgulim)の中の一つに於いて、突然人は心の中への“銃弾”、なにか新しい非物質主義の人生にその人を引き寄せる“スパーク”を感じます。その人は、ありきたりで地上的な生活を超越したく、勉強とグループに来ます。時間が経つにつれ、その人は自分が授与と比べて、どれほど不十分であるのかと感じ始めます。その瞬間から、その人は自分の性質がクリエーターと反対であることを悟るのです。その時になって初めて、「自己の悪の認識」がその人のなかで現れたと言えることができるのです。

しかし人々はたいてい「悪」とは単に社会に於ける悪い人と考えており、すべての人がクリエーターと一つになることに対して反していることだとは考えません。カバラは地上的な悪(おばあちゃんが道路を渡るのを助けないことや、物乞いにお金をあげないこと)を是正しません。この悪が是正されることは完全に不可能です―私たちが霊的な悪をなくすまで、地上的な悪は増大しつづけていくだけです。

From the 4th part of the Daily Kabbalah Lesson 10/7/10, “The Love for the Creator and Love for the Created Beings”