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天秤のはかりを「結束」の方に傾ける

質問:カバラの勉強において、いつ何時でも、自分が正常に前進しているのかどうか、そしてその道から逸脱しなかったかどうかをどのようにして分かることが出来るのでしょうか?

答え:私はまるでつりあいの取れた天秤の上に乗っているかのように一瞬一瞬エゴイズムか心の中の核心(心の点)かを選ばなくてはなりません。そして毎回天秤のはかりを「心の核心(心の点)」と結束の方に傾かせなくてはなりません。結束するという行動以外には何もないのです。

我々は勉強、そして様々な行動をしたいと思います。我々はそうすることによって無意識のうちに結束から逃げてしまうのです。私自身もこれを経験しました。私にこれが聞こえ始めるようになるまで、かなりの時間がかかりました。

私は勉強することや資料を整理したり系統化することがとても好きでした。結束に向けて取り組む以外、想像できることは全てやりました。結束が私たちの責務であることを認識しはじめることと、この知覚を掘り下げて考えることに慣れることが早ければ早いほど、早くこの習慣は第の天性になります。

我々は友達の内面世界―結束とクリエーターを目指す強い願望―を感じることを求めるようになるために常に自分自身を訓練する必要があります。私の目標が彼らの内面であるなら、彼らの外見に気付くことがなくなります。

結局のところ、我々は自身の愛する家族の顔を重要視しません。我々は家族の魂と性格と情緒を感じるのです。同様に、私と同じ目標を目指している友人の願望を常に感じるようにしようとする必要があります。私はこの願望とつながりたいのです。

友達の外見や性格のあり方は関係ありません。気にすることはたった一つだけです:友達の強い願望が何であるのかということ。これは男性にとって最も難しいことで、正確にこの部分に男性の作業の本質があるのです。女性はより簡単にそういう知覚に切り替えることができます。なぜなら女性は外面的な様子を男性ほど重要視しないからです。

From Lesson 2, WE! Convention 4/2/2011

グループとは自分の影です

グループとは私のコピー、私の影です。まさに私がクリエーターの影のように。私は自分が友だちの中に投入するよりも遥かに多くを彼らから受け取ります。それは彼ら又は彼らの行動によるのではなく、自分の彼らに対する態度だけによるのです。この環境もクリエーターです。それは「彼」(クリエーター)と一緒に働くために「彼」が私に与えた機会なのです。実際には私の外側にはクリエーターしか存在しないのに、その間まるで私の外側に何かが存在しているような錯覚を私に創ったことによって。

この理由から私たちは常にその環境を目覚めさせなくてはならないのです。私が環境を通じてクリエーターと一体化するために、環境と一つになりたいと願うよう、その環境が私に影響を及ぼすといった状態を、私たちが獲得するまで。環境なしに私がクリエーターに到達することは出来ません。なぜなら、環境とは、私が環境を通じることでクリエーターのイメージを観るといった外部的な手段であるからです。

もし私がグループと一つになりたいと望まないなら、私は少しもゴール、クリエーターを目指して進んでいません。結局のところ、私の隣人とはだれでしょうか? それはスピリチュアリティの中で私を二つの部分、私と私の隣人に分けた破壊の力なのです。何のためにでしょうか? それは私がクリエーターと一体化するために自分に欠けているものを認識・識別させるためです。

たとえこの環境が自分にとって異質・無関係・無縁に見えるとしても、私がこの環境をもっと自分の近くに持ってこれるならすぐに、もっとクリエーターに近づくことが出来るようになります。クリエーターは私にわざと二重の知覚・認知を授けました。私が自分の一部をよそ者として、そして、憎らしいものとして、目にするために。

それが何故「隣人を自分のように愛しなさい」ということがトーラーの最も重要な規則であるのかということの理由です。これが光の唯一是正するものです。そして、これ以外に是正させるものはないのです。もしあなたがこの是正を求めないのなら、あなたの全努力は無駄になります。それ以外のすべては、役に立たない荒野のなかへの叫びなのです。

From the 2nd part of the Daily Kabbalah Lesson 10/5/10, The Zohar

ワンネスの125段階

私達はどうすればお互いと結束し合うことが出来るのでしょうか?それは人が自分の欲求を持ちながら友人の中で存在し、[同時に]その人の中にその友人が存在する場合に限り可能なのです。皆が他人の欲求を吸収し、それに取り組まなければなりません。そうする事により彼らは結ばれるのです。彼らの欲求は同じ目標に向っている為、彼らの相互的な作業により、前進する為の共同的な力を作るのです。この力は彼らの向上を保証し、それはArvut(相互責任・相互保証)と呼ばれます。

結束は、私があなたの欲求の一部を授かり、それを私のものとして経験し、私の欲求の全てがそれを満たす為に仕える時に起こります。更に、あなたの欲求は目標に辿り着くことである為、私はあなたをそれに導き、同時にあなたが私を導くことになります。このように私達の欲求は共通の目標の中で結束するのです。このゆえに「あなたの欲求を彼のものにせよ、そうすれば彼はあなたの欲求を彼のものにする。」と書かれているのです。

これが私達の繋がりの度合いを確かめる為の基準です。私達の間の隔たりは125の度合い(階段)、私の利己的な欲求の125の部分に達しています。しかし徐々に、それを「あなたの為」の行為を通じて是正して行くにつれ、私は授与の為の作業の中であなたに近づくのです。

これが「自分を愛するように他人を愛す」と呼ばれるものです。言い換えれば、私はあなたの欲求を使用し、それの前で私の欲求を無効にするのです。そうする事により私は自分の欲求を是正します。私の欲求は残存しますが、あなたに辿り着く為にこれほどの距離を行ったので、私は自分の欲求を授与的なものにしたのです。何も変わってはいません;私は単に意図を追加しただけです。そして、私達の間の距離は消えたのです。私が自分の意図によりそれを一掃した為です!

そして、この「他人」は何が欲しいのでしょう?彼はあなたと全く同じようにクリエーターとの結合を達成したいのです。なので、あなたが彼に手伝うべき事は一つしかありません:クリエーターと一つになる事です(あなたと一緒に)。このたった一つの意図が私達皆を一つに結合するのです。

このゆえに、私達は皆一つのボートに乗っていて、それは一つの方向に向かう、と言うのです。私があなたに近づくほど、私はクリエーターに近づくのです。

From the 1st part of the Daily Kabbalah Lesson 9/3/10, Shamati #50

突破

私たちはこの世界で、自然によって完全に制御されている動物のレベルに存在しています。しかしある時点で私たちはこの人生は無意味で、取るに足らないということを明らかにし、高いレベルに上昇したいという欲求を経験します。それでも、どうすれば私たちは自動的で不随意な動物的存在よりも高いレベルに上昇出来るのでしょうか?私たちの動物的身体の生活を超越し、その肉体生活からの束縛を受けない「人間」に、どうやって成ることが可能なのでしょうか?

「人間」とはクリエーターと「類似」しているという意味です(ヘブライ語で人間を意味する言葉『アダム(Adam)』は、類似を意味する言葉『ドメー(Domeh)』に由来します)。私たちの新しい性質がクリエーターと同等になるように、新しい「人間」の性質を「動物」の中に構築するために、この上昇を実行するには、私たちは“改善する光”を自身に引き寄せなければなりません。これは、私たちに影響を及ぼして変化させる特殊な“上層の力”です。それゆえ私たちは上昇し、理解、感覚、能力、そして認識力を高めるのです。このようにして、私たちは「人間」と呼ばれる高いレベルに上昇するのです。

これは単なる機械的な上昇、又はより多くの知識を蓄積することでもありません。それは異なったレベルの性質に移行することなのです。私たちはそれがどう起こるのか理解していません。何故なら、私たちは皆現在、動物的身体の内側から世界を眺めているからです。私はこの動物の中に隠れていて、その目、耳、及び他の感覚を通してこの世界を知覚します。光が上から来て、私がこの動物的な着ぐるみとその感覚から解放され、人間の装いをまとうことを可能にしてくれるまで、世界を違うように見ることは出来ません。その後になって私は新しい現実を見て感じるのです。

現在私たちは自分たちがどのような現実に存在し、そして何処に至ればよいのか、分かっていません。これらの事柄の一つ一つは、それ以外のもう一つに基づかせることによってのみ査定、調査出来るのです。しかしながら、この全体のプロセスを始動させるために、二つの主要な助言が私たちに与えられています:カバリステイック・グループに入りカバラの本を勉強せよと。グループ、そして一緒に結合する願望を通して、私たちは自分たち自身から出てくることが出来、人間になれるのです。人間とは、他の人たちと繫っていて、隣人に授与する能力がある人のことです。私たちの願望の力と共に、本は光を私たちに引き寄せ、私たちが望むものを現実にします。このようにして私たちは人間のレベル、上層の者との同等性を獲得するのです。

私たちは皆、「動物」として留まるのではなく、人間になる願望を持っています。そして、私たちにはグループがあります。動物的感覚から出て、一緒に結合するための努力をする機会をそれは与えてくれるのです。私たちの繋がりが私たちを人間と呼べるようにするのです。共同の読書を通して私たちが引き寄せる上層の光がこの作業を完了させ、私たちの努力を新しい、本当の現実へと変えるのです。なので、この希望と共に一緒に勉強しましょう。

From the 2nd part of the Daily Kabbalah Lesson 7/27/10, The Zohar

和合とは新しい現実である

私が受けた質問:和合(ユニティ)とは何ですか?それは内面的な感覚ですか?それとも何かの力が明らかになることですか?

私の答え:和合とは、私たちには全く解らない、新しい現実のことです。それは私たちが今まで、知覚したことのない霊的な特性、つまり授与の特性を持つ新しい物質です。私たちがこの物質に含まれ、その中で生き始める時、私たちは、まるで別の惑星に自分たちを見つけるように、新しい次元を明らかにします。私たちはこの次元をこの物質の内側、つまり授与の中で明らかにします。

したがって、和合とは単なる相互的な繋がり、良い関係、自信という意味だけではないのです。それは、私たちの世界には存在しない、新しい特性が明らかになるということなのです。私たちがこの特性を獲得し、クリエーターと似通う時、私たちは全てを自分らの知性と感情の中で、彼(主)との結束にて明らかにします。

私たちは和合を達成する以外に何もすることはありません。それは私たちの能力の範囲内で出来るのです。このことに関して、“我等はやるであろう、我等は聞くであろう”と書かれています。この意味は、私たちは様々な行動を起こし、努力し、全力を尽すことが出来るということです。私たちは、カバリスト達が勧めるように、そしてまた、ラバッシュが彼の文章に書くように、一緒に勉強し、結束することができるのです。

しかしながら、私たちはこれにて成功は出来ません。私たちは“そして彼らはこの作業から叫んだ”と表現される状態に達しなければなりません。それは、私たちは和合しなければならないのに、それができない、という内面的な叫びです。この内面的な叫びの状態でのみ、それは起こります。それは真の祈り、真の叫びでなくてはなりません。

私たちは既に全体の土台を造り上げました。後は、私たちが和合の特性に達するだけです。他人との繋がりとして明らかになる、新しい物質が霊的な物質なのです。それはある程度、既に、破壊以前に存在していた、霊的な器なのです。私たちがそれを明らかにする瞬間、つまり私たちが霊的な存在状態を明らにすると、クリエータは明らかになるのです。

そのため、私たちの一人一人と全員が一日中可能な限り一緒に努力してこれだけを気にしなければならないのです。

From the 1st part of the Daily Kabbalah Lesson 6/13/10, The Zohar

一人で達成できることは何もない

私は自分一人では、存在していません。全魂の単一体と呼ばれるメカニズムに自ら自分自身を注ぎ込んでやっと存在するのです。この理由から私はゾハールの書を通して自分自身を開きたいと思っているのです。なぜならゾハールの書の力が、まだ私に無縁に見える自分の全部分を繋げるために送られてくるからです。

ゾハールの書は厳密にこの為に意図されたものであり、この使い方以外に自分がその一筋の光の下に来ることはできません。この光線はレーザーのようにとても細く、1ミリでも向きを変えればそれを見ることはできません。その光線を影響を受けるには、この光線のなかに正確に居なくてはなりません。

カバリストは私達にこの条件についてつぎのように説明します。もし私達がすべての魂と正しい方法で繋がったなら、私達は私達自身をこの光線のなかに置くことになる。団結が崩壊すれば、すぐにすべての人が崩壊し、全方向に散らばる。この光線の他に私達を団結させれるものはない。

これはスピリチュアルな梯子のすべての階で起きることであり、私達はこの光線に沿ってでしか、それを登ることができません。私達がお互いのことを離してしまえば、すぐにすべてのものは崩壊し、その一筋の光は私達を団結できなくなります。私達の団結を保存できる力はこれにしかないのです。よって、この団結の為に私達はこの光を引き寄せることを願うのです。私達が繋がるにはクリエーターが必要であり、これはこの“改善する光”を引き寄せなくてはならないことを意味します。

どのようにして私達はこの団結を感じることができるのでしょうか? 私達はゾハールを読んでいるあいだにこの団結を要求しなくてはならず、ゾハールはこの団結を私達に与えなくてはなりません。これが、なぜカバリストがこの書物を書いたのかということの理由です。そして私達には次のことを尋ねる権利があります。「私達は望もうが望むまいが、団結することになっています。しかしその団結とはどこにあるのでしょうか? なぜゾハールは私達に効果をおよぼしていないのでしょうか?」と。もし私達の全員がこのことを一緒になって考えたなら、それは大きな関心事になり、私達はひと時も忘れることができなくなるでしょう。そうすればそれは成功します。しかし一人では、私達のだれもがなにも達成することはありません。

スピリチュアルな発達は赤ちゃんから学べます

受け取った質問:私がゾハールで説明されている内面的特質を少しも理解していなく、それと繋がることもできない場合、私はどうそれを見つけることができますか?

私の答え:私達は、自分がどんな世界に存在しているのか知らないが、成長に必要なものすべてを提供する母親や身内の愛情を抱いた手の中にいる赤ちゃんに似ています。赤ちゃんはただ成長したいと思わなくてはならないだけで、自然はこの欲求を赤ちゃんに与え助けてくれます。

私達の世界において、つまり動物レベルにおいて、この欲求は赤ちゃんに自然に備わっています。この世界の中における人間の身体的発達を含む動物レベルに加えて、無生物と植物レベルにおいてでさえ、成長したいという自然的欲求が存在しています。しかしながら、もし私達が人間レベル-スピリチュアリティ-において成長したいのなら、その欲求は私達から生じなくてはなりません。

無生物レベル、植物レベル、そして動物レベルの発達は自然に起きます。この程度まで、私達-この世界の中にいる人々-はこれらすべてのレベルにおいて発達し終えました。そして、過去から現在において私達の欲求も同じレベルにおいて発達しました。しかし、今や私達は“スピーキング(言葉を話す)”レベル、または“人間”レベルへと上昇しなくてはなりません。人間レベルとは、私達が自分たちの力で発達して目標を達成しなくてはならないという意味です。私達の身体的欲求(食べ物、セックス、家族)と社会的欲求(富、権力、知識)のすべてに基づきながら、私達は自分たちの力でスピリチュアリティに対する強い欲求を発達させなくてはなりません。私達は心の点(the point in the heart)によって始まりますが、そのあとは、環境からの助けを借り、その発達を押し進め続けなくてはなりません。

これを行うには、私達にはグループが必要です。なぜなら、それしか心の点を発達させる欲求を与えることができないからです。この欲求で“武装”しながら、私達はグループと一緒にゾハールの書を読み始めるのです。読んでいる間、私達は発達したいと思わなくてはなりません。そこでの“発達”とは、未来の状態または感覚をゾハールの書の中で見つけることを意味します。私達が現在探しているものはこれだけです。

この他に私達がしなくてはならないのは、待つことだけです。したがって、だた成長したいと願ってください。大人になりたいと自然に思う赤ちゃんのように。赤ちゃんを落ち着かせて、彼に成長しないよう、または成長したいと要求しないよう説得させることができるか試してみてください。あなたはそれが不可能であることに気づくでしょう。なぜなら、自然は彼に成長するよう打ち勝ちがたい力で駆り立てるからです。私達はこのように根気強くスピリチュアリティに対して努力しなくてはなりません。私達は常に私達自身の内側で捜し求めていなくてはなりません。そしてどんなときも落ち着つくことなく、変化し続けなくてはなりません。そうすれば、私達は確かに成長するでしょう。これが私達に求められている唯一の条件です。

そのシステムは存在していますが、私達は欲求で、つまり内面の強い願望でそれを動かさなくてはなりません。この内面的圧力が私達から生じないかぎり、そのシステムは私達を感化しません。言い換えると、それは私達を目覚めさせるために、苦しみを通して私達を感化するでしょう。しかしこの方法で私達は一歩も前進することはありません。上層から送られてくる苦しみを手段として。私達は、下から、つまり私達から、生じる私達自身の欲求を手段にすることでしか進歩できません。

私達は絶え間ない困難と問題を受け取っているかもしれませんが、同じ場所で動けなくなっていることの理由は、これらの問題が私達にとって、正しいグループと融合して発達したいという欲求を獲得するのに十分でないからです。困難にもかかわらず、私達は同じ場所で立ち続けるでしょう。困難があるというだけでは、それは発達の兆候ではありません。それどころか、それは私達がまだ一歩も前進していないことの兆候なのです。

自然は万物のバランスを支配しています

受取った質問:あなたは人間の是正について話します。しかし自然界の動植物段階には何が起きているのですか? どのようにしてそれらは創造主との合一に至らさられるのですか?

私の答え:人間のエゴイズムは全ての悪における唯一の原因です。人間と自然との正しい相互関係とは、その人の文化に沿った普通の生活を営むのに必要なものだけを自然から摂取し、それ以上はしないことです。普通の生活に必要な分量を超える余剰は皆のものになります。

このルールは1つの生物を構成している部分間の繋がり方に似ています:心臓、肺、肝臓、腎臓、その他全ての部分が生きるのに必要なエネルギーをもらいます。それにもかかわらず、それらは存続するのに必要な量を超えて消費することはなく、全ての部分が全体に利益があるように働いて機能しています。

人間社会 – 私達が構成している”生物” – の中でも、私達はこれと同じように行動しなくてはなりません。もし一人の人間が必要以上に消費すれば、その人は自分自身とその他の全員に被害を与えることになります。必要なもの以上に消費することをエゴと呼ぶのです。

自然のなかにおける”人間”としての段階がどのように自然との調和を達成できるのか、私達は他の段階 – 無生物、植物、動物 – から学ぶ必要があります。

人には家族、住居、仕事、収入、余暇、年金、保険が必要です。しかし必要なものを超えて余計に取得することは自然とのバランスを崩し、世界を破壊することになります。どうなろうとも、自然が依然として私達にそれとのバランスの達成を強要しつづけることに変わりありません。

家族全員が自分以外のみんなに頼っています

受取った質問:個人の福祉が社会の福祉にかかっているという概念は、あらゆる子供教育の基本です。残念ながら、結局のところこの規則は決して守られません..。

私の答え:“完全にそろった人類、グローバルな人類”、”バタフライエフェクト”、”相互保証”、”相互授与”といった概念の混同を避ける為にも、1つのイメージを思い描くことがベストです:私達の皆が1つの家族であるということ。家族の中の全員が自分以外のみんなに頼っています。もし家族の一員の気分が悪くなれば、その気分も家族全員によって共有されます。

同じように、今日の各個人の福祉もすべての人にかかっています。このような理由から私達は他者のケアに自分を捧げなければならないのです。なぜなら私達の一人一人が1つの家族の一員であるためです。

人類とは閉鎖系です

受取った質問:私達の魂はお互いに繋がっていて1つの体系を成しています。しかし、どのようにして私達はポジティブな影響を憎悪に満ちている集合意識に与えることができるのですか?

私の答え:それを実現させるには、私達には選択肢がなく、私達が自己消滅の危機および死んだのほうがましな人生に近づいていて、その回避ができないことを実感する必要があります。このように実感することが人々に団結したいと思わせるのです。人間の性質 – 快楽を求める利己的な願望 – がそうすることを促し私達をそこに差し向けます。それが気分のよくなる唯一の方法なので人々は団結を願うようになります。

私達は現在でもすでに”何かを得るために与えること”ができます。例えば、お店で必要なものを手に入れるためにお金を払うことです。このような単純な売買もちいさな犠牲です。動物界または幼い子供にはこのようなことはありません。言い換えると、これは人間の本能から発生したことではないということです。

しかし、すべての人が自分に他者との正しい関係を築く責任があると理解しなくてはなりません。そして人との正しい繋がり(関係)とは何なのかを学ぶために可能なかぎりどんな努力もすべきです。人類とは閉鎖系(クローズドシステム)であり、すべての閉鎖系のように、すべてのものが和合と均衡と調和を維持し、サポートする方向に向かなくてはなりません。もしもそれらが崩れれば、その体系のなかの全員が被害を被り苦しむことになります。そのような体系の一部がそれ以外の部分を犠牲にしてよい気分になるということは、不可能です。

これが私達の有している英知であり、この英知を人々に教えて広めなくてはなりません。私たちが現在住んでいる世界でどのようにふるまうことが正しいのか、世界のすべての人が新しい行動のルールを学ばなくてはならないのです。