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全てを備えた繋がりのシステム

私が授与の為の是正を切望する事ができるのは、唯一環境がこの事において私を支援してくれるときだけです。授与をしたいという欲求は、唯一自分が他者と繋がっている時に顕現して機能します。よって私には彼らの支援が、「相互保証(mutual garantee)」という形で必要になります。私が彼らを支援する程度にまで、彼らは私を支援します。これは一つのシステムです。わたしがそれを稼働する程度にまで、私はそれから得るのです。

グループに加わって他者と繋がりたいと望む事で、私は反対に自分に向けられた反応を誘発します。その他者が私達の繋がりに於ける正しい形を、私がそれに気づく事さえもないまま、私に受け取らせてくれます。私達が一つのネットワークの中に住んでいるという理由から、彼らは私に、私達が有する繋がりのタイプを示してくれるのです。

この繋がりは、授け与えたいという単なる欲求ではありません。それはむしろ、私達の絆を強固にする保証です。これは私の依頼によって生じるのです。そのあとで、私は自分が用意した器(Kli)- 613(Taryag)の要素から成る、用意された繋がりのシステム – を持って、彼らに依頼します。私はそのことを知らないまま、その全システムを起動させます。したがって、私達はお互いに繋がることにより、私達の間にシステムの全体を受け取ります。

「相互保証(mutual guarantee)」とは、とても深い概念です。それは生命と、私達の繋がりに於ける内面的なシステムについて言及しているのです。私達がしなくてはならないこととは、単にそれを私達の内側から取り出して、使い始めるということです。

そうでないなら、自分は他者と繋がりたいと叫ぶことはできますが、そのやり方をどうやって知る事ができるのでしょうか? 自分は全ての人とその一人一人に繋がる方法を理解しているのでしょうか? その訳は、自分が彼らを目覚めさせることによって、彼らが自分に対して影響を及ぼし、我々の繋がりの形態を自分に受け取らせるからです。彼らはその事について気づいているかもしれませんが、それは重要な事ではありません。どっちにせよ私達は、この繋がりのシステムを起動させるのです。

From the 1st part of the Daily Kabbalah Lesson 4/25/10, The Zohar

全世界は自分を補助する為に創造された

受け取った質問:もし私がレッスン後、一日中スピリチュアリティに集中出来ない場合、どうすればいいでしょうか?

私の答え:人は色々な時期を経験します。カバラを何時間勉強しても充分と感じない時もあれば、それから離れ、努力する事を止めてしまう時もあります。

しかしながら、長期的には全てが私たちの為に可能なかぎり最良な方法で手配されているという事が見えてきます。そしてもし私たちが自分の自由時間を正しく使えば、クリエーターは私たちが勉強した事を現実化するための時間を更に用意してくれます。私たちはあらゆる問題に遭遇します:私たちの作業から気を散らすもの、上司との問題、共感しない環境、さらには私たちの思考や欲求の中に於いて気を散らすものも。これらの困難にもかかわらず、なおまた私たちはスピリチュアリティと繋がっていなければならないと感じます。

クラスが終わると、私たちはスピリチュアリティから得た印象をぬぐい消し困惑させる「大きな世界」に戻らなければなりませんが、これらの環境は私たちの向上に最も効果的なのです。私たちはスピリチュアルな世界と繋がり続ける努力をし、これら全ての問題の根源を心に焼き付けておく必要があります。それらがなぜ私たちに送られてくるのか、それに加えて、私たちは何に付着する事になっているのか、そしてその理由、つまり「善をする善である、彼以外に他は在らん」ということを覚えておくことです。私たちは愛する大切な人とまめに連絡取り合うように、常にクリエーターとの内なる繋がりを感じなければなりません。

この状態を保持する努力をして下さい。あなたはこれら全ての不運な状況はクリエーターがあなたへ、仮想的世界の中での苦しみと幻想を通じて彼と繋がる機会を与えてくれていると感じ始めるでしょう。

あなたはこの世界が「作り上げられたもの」で、それが単なる外側にある殻であるという事を理解し始めるでしょう。困難は自分の中で常に変化する欲求の形態であるという事を感じようになるでしょう。それらはクリエーターに「接続」しなくてはならない欲求であり、もしそうしたなら、それらの欲求はスピリチュアルな形態に変化します。

From the 1st part of the Daily Kabbalah Lesson 4/13/10, The Zohar

私を捜すものは、私を捜しだす

受け取った質問: もし私がゾハールのレッスン中、5分間も集中出来なかったらどうすればいいでしょうか?それらの全てを自分の中の何処を探せばいいのかが分かりません。

私の答え: あらゆる手段を使ってゾハ-ルに説明してある全ての特質を自分の中で捜し続けましょう。もし病気の人にこの本文にはどうすれば健康になり、心配事、破産など他の問題らから逃れられるかの情報が記載されてると告げたなら、彼は貪欲に本文を“飲み込もう“とし、語句を全て吸収しようと努力するでしょう。もし彼が脅えていて本文に救済を 捜し求めていたのであれば、彼はもし本が外国語で書いてあってもそれを理解しようと努力するでしょう。

しかし、スピリチュアリティの欠乏は私たちを脅かせません。環境のみがこの願望を私たちの中にもたらしてくれます。

なので、もしあなたが自分の中の何処を探していいのかが分からなくても、とにかく探し続けましょう。想像してください、あなたは新たな、暗い知らない場所に入り込んでいて、何も見えないのです。あなたにはフラッシュライトがあり、毎回何かが聞こえるたびにあなたはフラッシュライトを向け、何かを見つけ出す事を期待しています。

大人として、私たちは知性を満たしながら勉強します。しかし、知覚は知性では発達しません。しかしながら子供の頃、私たちは聞く事と見る事によって発達してきました。見た事、聞いた事を理解せぬままです。これがなぜ私たちが知覚と知性を発達させて来たかの理由です。私たちは物語を聞かされたり、色々な物を見せられてきましたがそれらを理解する事は出来ませんでした。物事の関連の説明されましたが、私たちは把握できませんでした。しかしながら、まさに私たちの理解しようとする努力により、私たちは動物から人間になったのです。

このゆえに現在、私が新たな感覚と心を発達させようと励んでいるとき、私は”それ“が何なのかを理解しないままゾハールを読みます。しかしながら、自分の努力が内在する新しい能力を明らかにし、やがて私は以前自分から隠されていた何かを知覚、理解し始めるのです。

上層世界は私たちの間にあります。私たちはこの世界の人間から、上層世界の“人間“へと発達し続ける事のみが必要です。それを知覚できる様になる為にあらゆる努力をしましょう。そうやって感覚は発達していきます。知覚でき始めるようになった後、思考も働き始めます。

From the 1st part of the Daily Kabbalah Lesson 4/11/10, The Zohar

スピリチュアルな達成の波に乗る

受け取った質問:ゾハールを読んでる最中、次の瞬間に何も思い出せないとしたら、知識は私達に何を与えるのですか?

私の答え:知識は私達に何も与えません。現在私は何かを知っていますが、明日にはそのことを全て忘れます。なぜ忘れるのでしょうか? もし私の願望(KelimKli(器)の複数形)が変化するなら、私の新しい願望の内側で、以前に知っていたことを明日には思い出せないでしょう。なぜなら、私は以前の願望の内側に、その時はもう居ないからです。

私は唯一感覚だけを通じることによって、一つの段階からもう一つの段階へ知識を伝達できるのです。私達の状態には波のようなプロセスが含まれています:知識〜感覚〜知識〜感覚。私がある段階で自分の願望を是正したということにしましょう。私はこの段階での願望是正に従い、現実に対する何らかの感覚と知識を得ます。どの世界のどの段階に自分がいるのかということの実感を得るのです。

そのあとに、新たな願望が現れます。前の段階は消え、私は暗闇に包まれます。私に残るものとは何でしょうか? すべての人は、暗闇の感覚が自分に来る時、そのすぐ後に前の感覚のすべてが消え、もうそれらが扱えなくなることを知っています。しかし、もしあなたがこの新しい段階、この新たな暗闇を扱い始めるなら、あなたの努力が新しい光を呼び寄せ、その光があなたに来てあなたを是正します。その後にあなたは新たな状態に行き、そこでのあなたには、より高度な新しい知識に基づく、以前の知識に対するより深い理解があります。

したがって、あなたはどんなときでも知識を考慮に入れるべきではありません。それはいつもそこにあり、必ず是正された願望に入るのです。最も重要なのは、願望を是正することです。そうすれば、そのなかで明かされる必要のあるどんなものも、明かされるでしょう。しかし、このことについて心配することは、意味をなしません。

これが、なぜ正しく勉強する人が、何も覚えないでレッスンを後にするのかということの理由です。彼らは一般的な印象を持って教室から出て行きます。この印象は、彼らの理解の中ではなく、感覚の中に記録されるのです。それは感覚の記憶に残るのであり、知性に於ける記憶ではありません。

私は思考力を見下しているのではありません。実のところ、私は知識と真剣な研究に惹かれます。しかし、人が“心の中の点”を通じて勉強するとき、彼の感覚が十分に発達するまでは、彼が勉強している内容を理解することも覚えることもありません。感覚が十分に発達した後に、彼は自分の感覚で理解しはじめるのです。そのあとに、彼は“彼が感じていること”を理解するのです。

結局は、何年もかけて勉強してきたことは消え、“勉強結果”が見えないということになります。その結果とは、あなたの知識の中で示されるべきではなく、是正の光(Ohr Makif・包む光)があなたの特質を是正することに於いて示されるべきなのです。あなたの特質の中という意味です。

これは、4年間から6年間かけて何らかの分野のエキスパートになり、そのあとにもう二三年間かけて博士論文を書くといった大学の勉強とは、とても異なることです。カバラを10年間学んだ人の明確な知識とは何処にあるのでしょうか? 彼は何を得たのでしょうか? 彼にはそれについて見せれるものが何もないようにみえます。その理由は、彼が啓示を達成するまで、新しい特質の中に毎日新しく生まれ変わるからです。

彼が啓示を達成するとき、すぐにそれは彼の段階に記録されます。そうすれば、彼が上昇状態のとき、彼は題材に於ける精通と知識を本当に有します。しかし下降状態のときには、彼は闇に包まれ、彼の経験だけが彼を持ちこたえさせます。(バール・ハスラムの論文”What Is Support in the Torah, in the Work“を参照してください。)

人は、私達が最後の是正(Final Correction)に到達するまでは、状態が大きく変化し、是正のレベル又は高さだけを考慮に入れるべきであるということを理解しなくてはなりません。知識はいつまでも人の段階に応じてその人に伴っています。

追放と救いの本当の意味を発見せよ

エジプトへの追放(エジプト捕囚、the Egyptian exile)とは何でしょうか? それは自分自身に対する愛が現れることです。したがって、エジプトからの脱出とは、初めて自分の隣人を愛することができるときなのです。

私が他者に対する愛を獲得したいと本当に切望すれば、私はエジプトの外に出て来れます。バール・ハスラムが『イェフダのため』という彼の論文のなかで書いたように、来るべき救いの本質は、人が依然として追放状態にいる間に、はっきりしなくてはなりません。あなたは自分が望んでいるものを理解しなくてはならないのです。あなたは何を追放状態と見なすのですか? あなたは何から追放されたのですか?

もし追放の意味が自分が自己愛の奴隷になることで、救いとは他者に対する愛の力——統一体の中でクリエーターを明かすために、一体化してアダムが破壊される前の一つの魂の状態になる能力——を獲得した時であるということが分かるのなら、あなたは本当に追放を感じ、救いの準備ができています。そして、そのあとに救いはあなたに訪れるのです!

もしあなたが自分の願望を準備したなら、改善する光があなたに訪れ、あなたをエゴイズムの外へと導きます。すべては自分の中の利己的な心配の外にある自由へと脱出したいというあなたの願望によります。これが追放の目的であり、これが何故私達がまだ救いの準備ができていないのかということの理由です——なぜなら、それはこの為だけに存在しているからです。スピリチュアリティーとは授与(与えること)です。もし私達がそれを望むのであれば、それは私達が自由になる準備ができていることを意味します。

現在私達は、私達自身の追放状態を長引かせています。なぜなら、私達はそれを異郷生活そして奴隷の境遇とは思わないからです。私達はその中に居ながらして、気持ちよいのです。私達は単に金、権力、そして他の充足源を、もっと欲しがっているだけなのです。私達は独りにさせてもらいたく、隣人に対する愛のことについて聞かされたくはありません。私達はこの愛を欲しくないのです!

地獄とは、授与する能力がないことです。天国と地獄とは、それらに対する人々の通常的な概念とはだいぶ異なります。人々はどちらも欲しくありません。そして、そのどちらも自分達の内面で感じません。これは人が邪悪でも高潔でもないことを意味します——その人は追放状態にいない単なる動物(獣類)です。

邪悪な人は自分がエゴイストであることを知っており、高潔——授与していること——になりたいと思います。したがって彼は自分の是正されてない状態のことを「地獄」と呼びます。高潔な人とは、授与と愛の特質を獲得した人であり、自分が天国にいると感じるのです。

困惑を恐れるな

受け取った質問: あなたがスピリチュアル世界の仕組みを説明すればするほど私は混乱してしまいます。 なぜこのような事が起こるのでしょうか?
 
私の答え: 例えば、私が医師に行き、彼に自分の外面的な症状を告げている所を想像して下さい。 医師は私に医療検査を受ける事を求め、その結果を調べ、他の医師と論議します。 私は、彼らが私自身の事、自分の感覚、健康の事を話し合っているのでありながら、何も理解することが出来ません。 この理由は、彼らは私の内面的、複合的なレベルで、実際に私の中で起こっている事を論議しているからです。
 
その後、彼らは私にピルを与えてくれます;その中身も私には不明です。 私は単純に、彼らとその処方されたピルが自分を救うと信用して飲みます。 もちろん、彼らは専門的な医療的論議で私を困惑させ、私はそれらを決して聞くべきではなかった。 それにもかかわらず、私たちの世の中では、医師の言う事に対する自身の理解にかまわずピルは作用します。
 
ここ、勉強の間では私はカバリスティックな医師たちが自分の事について書いた事を読みます:一人のカバリストは同士に魂らが改善しなければいけないシステムの中で、内面的に何が起こっているかを説明しています。 もちろん私には一切理解できません! けれども私はこの物語とそれら自体に夢中になり、理解したい、感じたいと望む為、私はそれらと接続し、それに似通っていくのです。
 
もし私が彼らのような医師になりたいのであれば、私は私と彼らとのコネクションを利用して学びます。 もし私が混乱を感じながらもその本質を把握したいと望み、もし私がこの本が自分の魂の是正の事を説明していると感じるのであれば、私に選択の余地はありません。 私は彼らの言語(医療分野でラテン語が使われている様に)を学ばなければならず、その後に私は彼らの話している事を理解出来るようになるのです。
 
カバリストはこれらの本を他の同カバリストたちの為に書きました。 彼らは彼らの間で理解できる言語で話し合います。 なぜならこの言語は色々な世界の事や霊的概念を説明するからです。 現時点では、私は彼らが意味する事を全く理解できません。
 
しかし、もし私が彼らが教える事を理解したいと熱望し、その中に存在したい、感じたいと励むのなら、私はこれらの本を開き、入り込もうと試みるのです。 理解度のレベルは重要ではありません。 重要な事は、外面的な知性で理解しようとする試みではなく、むしろ感情と一緒に入り込みたいという私の望みです。 私は啓示を求めなければいけません。
 
私は彼らが書いている事を確かめなければいけません。 彼らは自らが見て感じた事を説明しているので、私はそれを感じる事を望まなければならないのです。 これが、なぜ自分の理解力、洞察力、感情らの不足が自分を前へと押し進めるだけか、の理由です。

全てのものは相対的である、追放と救いでさえも

追放と救いは相対的なものであり、それはその人が何処から落ちたのか、そして何処へ落ちたのかによります。私がスピリチュアリティーから追放されているということを感じることができるのは、私がスピリチュアルワールドを感じ、自分がそれから分断されていることを感じる時に限ってのことです。しかし、もし自分が何から分断されているのかについて感じないのであれば、これを追放と呼ぶ事はできません。なぜなら、何から自分は追放されたのでしょうか?

スピリチュアリティーに関して、バビロンの追放はエジプトからの脱出よりもさらに高い状態でした。しかしそれは追放と呼ばれています。それが多大なる苦しみを生じさせたためです。

私がスピリチュアルな階級から堕ちたことについて、いつ後悔するのでしょうか? それはまさに私がスピリチュアリティーのなかに存在するときです。なぜなら、それ以外に自分はそれを評価することができるのでしょうか? 私はいつになったら、愛、授与、正しい繋がり、そして他者に対する自分の愛におけるクリエーターとの類似性がある状態から、自分が堕落したことを後悔するのでしょうか? いつ私は自分が追放状態まで堕落したと言える事ができるのでしょうか? それは私が既にそれらすべての特質を会得しながらも、それらが十分ではなく、納得ゆかないものとして見るときです。

追放の感覚はとても高尚な状態です。なぜなら、それは私が他者に対する授与と愛の特質を欠いているということから苦しむ時であるからです。


勉強は難しければ難しいほどよい

私達の考えと願望はお互いに繋がっています。したがって、たった今、私達がゾハールの書を勉強している間に、もし誰かが怠惰になっているのなら、これが残りのすべての人を衰弱させます。この人はこの行為に対する罰を受け、勉強を続けることが彼にとってもっと難しくなります。

私達は皆1つの共通の船に乗っています。私は、それに穴を開けているのか、それとも、自分の能力の限りをつくして私達の共有している船を自分の意図で進ませているのかのどちらかです。

私にエネルギーがなければないほど、私にとってそれはますます難しいものになります。それでも、もし私がこれらすべての障害を乗り越えるのなら、私は光を呼び起こすという共同の努力に、自分の大きな努力を提供することになります。それによって私は自分以外のすべての人に影響を及ぼし、この影響が彼らを通じて自分に戻ってきます。その結果、私は最後に勝利者になります。

したがって、それが勉強中に難しければ難しいほど、それはますます良くなるのです。私は自分の責任を感じなくてはなりません。なぜなら、私達の全員が「相互保証」と呼ばれるグループ契約にサインをしたからです。そして、この事実は私に行動する義務を負わせなくてはなりません。

自分独りでゾハールの書を読むことはできません—自分には環境が必要です。この環境とは、世界中で勉強しながら、この勉強結果を期待している人々のことです。クリエーターは世界の様々な場所にいる数百万の人々を目覚めさせました。今、その人々は私達と一緒にゾハールの書を読んでいます。

テレビまたはパソコンのモニターの前に座っているすべての人は、もし彼がこの瞬間に怠惰になっているのなら、彼が他の全ての他者に影響を及ぼすことを理解しなくてはなりません! この違反は彼に戻ってきて彼が私達全員に及ぼした害と同じ程度に彼を目的の達成から遠ざけます。

したがって、その勉強は自分の個人作業ではないのです。今、私達の全員が、私達の船を目的地に近づけさせる「包む光」(the Surrounding Light)を引き寄せようと努力しています。友が欲しがるのなら最後の枕をも与えるという友愛の度合いを人は獲得しなければならないと記されています。

今考えてください:あなたの友達がスピリチュアルな目的地に向かって前進したいと思っています。そして彼とあなたの二人が同じ方向に一緒に進んでいます。しかし、突然あなたは彼を置き去りにします! これほどの裏切者はどんな罰を受けるに値しますか?

そして夕となり、また朝となった 一日

スピリチュアルワールドのなかで光が現れることを「日中」と呼びます。ゆえに、「朝」の次に「正午」そしてその次に午後の祈りが来ます。楽しみたいという願望は人の中で大きくなり、様々な状態のなかを通り過ぎると、彼は感じます。「日中時間」は、新しい利己的な願望があまりにも大きくなり、光が制限されはじめ、太陽が沈みはじめるまで、続きます。その人にはHochmaの光を保持するのに十分な量のHassadimの光がもうありません。彼の楽しみたいという願望は是正される前に大きくなったのです。

その結果、もう彼が受け取りたいという願望と授与したいという願望の差異、または光と暗闇の差異、が識別できなくなった時、「夕」が始まります—すべての物が混ぜ合わさっているということです。彼のスピリチュアルなPartzufRosh-Toch-Sof(魂における頭、体、そして手足)がすべて同じ段階にある時、彼は“横たわった”(不活発な)状態に入ります。彼はどんな計算もできなくなり、計算しなくなるのです。

彼にできる唯一のことは彼の「無生物」段階を維持することです。よって彼は“眠りにつき”、これは死にとても近い状態です。「夜」と呼ばれる状態のときに、彼は再び「結束」—魂どうしのきずな及びクリエーターとの合体—を獲得します。そうすることで堕ちてる状態にあっても、上層の光が彼を持ち上げます。

この点から、私達は、スピリチュアルな段階に到達する前のこの準備段階で、どのように自分たち自身を暗闇に備えさせるのかということに対する結論を引き出す必要があります。可能な限り多くのつながり又は“支えるブロック”を造るために、自分たち自身をグループと真正な書物と勉強に束縛させることによってでしか、これを行うことはできません。私達がこのつながりを造るとき、「夜」が終わり、新たに「日中」が始まるでしょう。


その時、新しい王がエジプトに起き上がった

『ゾハール』Shemot(出エジプト記)章 250節:彼らの部族が残りの国々と混ざることを恐れ・・・彼は、イスラエルを軽蔑しひどく嫌っていた傲慢なエジプトに、彼らを追放した。そして彼らは、アモリ人の不正が蔓延し、彼らが彼らの土地に来るまで、そこに居た。その理由は残りの国々と混ざる恐れがもうなくなったためである。

自分たちの心の中で中間線(the middle line)を築くとき、どう私達は望まれた状態にもっと近づくのでしょうか? 光、授与する者、又はクリエーター、との私達の類似である中間線は、まさに私達の内面で明かされる「エジプトへの追放」(エジプト捕囚・エジプトでの異郷生活・the Egyption Exile)と呼ばれる状態によって生じます。

自分の利己的な願望はあまりに大きくなり、私はその中にとじ込められ、それに制御されていると感じます。そのあとに私は、自分自身と自分の性質、自分自身と自分のエゴイズム、または、自分自身と自分の特性、を見分けはじめます。

私は自分の特性を変えたいと思っていますが、そうすることができません。私はその特性が自分に害を与えるのを見ます—私が自分自身、自分の人生、私の近くにいる人々の生活、そして全世界を堕落させていると、私は実感します。私は、自分で鎮めることのできない、永久に膨張し続けるエゴイズムの中に存在しているため、自分自身と残りのすべての人を危険にさらしています。それでも私は、それに対してどうすることもできないのです。

その後その人は、自分に働いている力が外来性の力であると実感しはじめる状態になります。その人はもうそれと関係しなくなり、それを自分の憎い敵として知覚しはじめます。このことを、“その時、新しい王がエジプトに起き上がった”(出エジプト記 1:8)と呼びます。人はこう感じはじめます:新たな支配力が明かされた、これは自分ではなく他の誰かがこの全てを自分のために用意していると。それは自然またはクリエーターかもしれませんが、その人ではないのです。その人はどうすれば自分がそれから自由になるのか知りません。

そのとき人は、まるで自分の脇から自分自身を見つめるように、自己の喜びを受け取る意志を、自分とは無関係なものとして見ます。その人は、クリエーターのことを、このすべてを自分のために準備・計画する者として、認識しはじめます。その人には既に、ファラオとクリエーターの両方に対して同じ姿勢があるのです。

その後その人は、内面的な分割—自分に起こることの全てを決定している上層の力が存在するという実感—を経験します。しかし、この啓示はそれ自体が独立して勝手に起きるものではありません。その人が実際にカバラの知恵に取り組み、その間における多数の学習時間、グループの中での結束、そして普及活動での作業の後にしか起こることはないのです。