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突破

私たちはこの世界で、自然によって完全に制御されている動物のレベルに存在しています。しかしある時点で私たちはこの人生は無意味で、取るに足らないということを明らかにし、高いレベルに上昇したいという欲求を経験します。それでも、どうすれば私たちは自動的で不随意な動物的存在よりも高いレベルに上昇出来るのでしょうか?私たちの動物的身体の生活を超越し、その肉体生活からの束縛を受けない「人間」に、どうやって成ることが可能なのでしょうか?

「人間」とはクリエーターと「類似」しているという意味です(ヘブライ語で人間を意味する言葉『アダム(Adam)』は、類似を意味する言葉『ドメー(Domeh)』に由来します)。私たちの新しい性質がクリエーターと同等になるように、新しい「人間」の性質を「動物」の中に構築するために、この上昇を実行するには、私たちは“改善する光”を自身に引き寄せなければなりません。これは、私たちに影響を及ぼして変化させる特殊な“上層の力”です。それゆえ私たちは上昇し、理解、感覚、能力、そして認識力を高めるのです。このようにして、私たちは「人間」と呼ばれる高いレベルに上昇するのです。

これは単なる機械的な上昇、又はより多くの知識を蓄積することでもありません。それは異なったレベルの性質に移行することなのです。私たちはそれがどう起こるのか理解していません。何故なら、私たちは皆現在、動物的身体の内側から世界を眺めているからです。私はこの動物の中に隠れていて、その目、耳、及び他の感覚を通してこの世界を知覚します。光が上から来て、私がこの動物的な着ぐるみとその感覚から解放され、人間の装いをまとうことを可能にしてくれるまで、世界を違うように見ることは出来ません。その後になって私は新しい現実を見て感じるのです。

現在私たちは自分たちがどのような現実に存在し、そして何処に至ればよいのか、分かっていません。これらの事柄の一つ一つは、それ以外のもう一つに基づかせることによってのみ査定、調査出来るのです。しかしながら、この全体のプロセスを始動させるために、二つの主要な助言が私たちに与えられています:カバリステイック・グループに入りカバラの本を勉強せよと。グループ、そして一緒に結合する願望を通して、私たちは自分たち自身から出てくることが出来、人間になれるのです。人間とは、他の人たちと繫っていて、隣人に授与する能力がある人のことです。私たちの願望の力と共に、本は光を私たちに引き寄せ、私たちが望むものを現実にします。このようにして私たちは人間のレベル、上層の者との同等性を獲得するのです。

私たちは皆、「動物」として留まるのではなく、人間になる願望を持っています。そして、私たちにはグループがあります。動物的感覚から出て、一緒に結合するための努力をする機会をそれは与えてくれるのです。私たちの繋がりが私たちを人間と呼べるようにするのです。共同の読書を通して私たちが引き寄せる上層の光がこの作業を完了させ、私たちの努力を新しい、本当の現実へと変えるのです。なので、この希望と共に一緒に勉強しましょう。

From the 2nd part of the Daily Kabbalah Lesson 7/27/10, The Zohar

全世界へ踏み出せ!

私たちは世界を自分たちの喜びを受け取る願望の内で体験します。私たちが視覚、聴覚、味覚、嗅覚、触覚などの感覚器で知覚できる全てのものは、私たちが内面から観察する景色となります。これが私たちが認識する現実なのです。

この限られた認識から、身体とその五つの感覚器に制限されていない認識へ出る方法はあるのでしょうか?結局、私たちの世界の映像と私たち自身は私たちの動物的身体に指示されているのです。全ては認識次第なのです。もしかしたら、身体の越えた向こうに無数の形態があるかもしれません。しかし私たちの身体はそれらを濾過し、それが処理のできるものだけを私たちに感じさせるのです。つまり、私たちが究極の現実を体験することは不可能なのです。もしそうであるのなら、もしかしたら身体が消滅した後に、私たちは本当の現実を見るのでしょうか?しかしながら、自分たちの感覚器は身体と一緒に消滅するのに、どうしてこれが可能でしょうか?

カバリストは、私たちが“自分の内側”で現実を体験するがために“この世”と呼ばれる部分的な認識に制限され、全体の現実を認識することが出来ないのである、と述べています。しかし、私たちは身体の“外側”の認識へと移ることができるのです。私たちの認識の範囲を変化させるある力があります。自分の外にある現実を経験することを可能にするのです。言いかえれば、私は自分自身ではなく、他人に集中し、彼らを自分より上に置くのです。

私たちが外側の現実のことを読むとき、それは私たちが徐々にそれを認識し始めるように影響を及ぼします。それは“労働して見つけ出した”と呼ばれます。私たちはこの新しい認識を獲得するために努力しなければならないのです。そのような努力を数ヵ月ほどすると、私たちは、自分たちの中で変化が起こっていることに気づき始めます。そして、私たちの他人の認識がどのように変化しているのかもです。

このプロセスを前進させる最も効果的な方法は、グループでゾハールの本を読むことです。私たちがどのぐらいそれを理解できるかに構わずです。大事なのはそれに影響されたいという私たちの願望であり、それは私たちが外側の現実を体験し始めることを徐々に補助するのです。

From the 2nd part of the Daily Kabbalah Lesson 7/23/10, The Zohar

和合とは新しい現実である

私が受けた質問:和合(ユニティ)とは何ですか?それは内面的な感覚ですか?それとも何かの力が明らかになることですか?

私の答え:和合とは、私たちには全く解らない、新しい現実のことです。それは私たちが今まで、知覚したことのない霊的な特性、つまり授与の特性を持つ新しい物質です。私たちがこの物質に含まれ、その中で生き始める時、私たちは、まるで別の惑星に自分たちを見つけるように、新しい次元を明らかにします。私たちはこの次元をこの物質の内側、つまり授与の中で明らかにします。

したがって、和合とは単なる相互的な繋がり、良い関係、自信という意味だけではないのです。それは、私たちの世界には存在しない、新しい特性が明らかになるということなのです。私たちがこの特性を獲得し、クリエーターと似通う時、私たちは全てを自分らの知性と感情の中で、彼(主)との結束にて明らかにします。

私たちは和合を達成する以外に何もすることはありません。それは私たちの能力の範囲内で出来るのです。このことに関して、“我等はやるであろう、我等は聞くであろう”と書かれています。この意味は、私たちは様々な行動を起こし、努力し、全力を尽すことが出来るということです。私たちは、カバリスト達が勧めるように、そしてまた、ラバッシュが彼の文章に書くように、一緒に勉強し、結束することができるのです。

しかしながら、私たちはこれにて成功は出来ません。私たちは“そして彼らはこの作業から叫んだ”と表現される状態に達しなければなりません。それは、私たちは和合しなければならないのに、それができない、という内面的な叫びです。この内面的な叫びの状態でのみ、それは起こります。それは真の祈り、真の叫びでなくてはなりません。

私たちは既に全体の土台を造り上げました。後は、私たちが和合の特性に達するだけです。他人との繋がりとして明らかになる、新しい物質が霊的な物質なのです。それはある程度、既に、破壊以前に存在していた、霊的な器なのです。私たちがそれを明らかにする瞬間、つまり私たちが霊的な存在状態を明らにすると、クリエータは明らかになるのです。

そのため、私たちの一人一人と全員が一日中可能な限り一緒に努力してこれだけを気にしなければならないのです。

From the 1st part of the Daily Kabbalah Lesson 6/13/10, The Zohar

高貴な感覚である恥

私が受けた質問: どうしたら私たちは恥を感じるようになり、エゴを制限できますか?

私の答え: 恥とはとても高貴な感覚で、それは私たちの行路の始めには生じません。この恥はクリエーター、与え主に対するものです。まさに彼が与え主で、私が受け取る側であるためです。

この世界では、恥を感じるのを避けるために、私たちは常に受け取ることを制限します。私たちは受け取ることを正当化せさずにはいられません; 私たちは自己尊厳の感情を”私”とし、それを保持することは命そのものよりも大切なことなのです。実際に、私たちは恥を抑止できるのなら死ぬ覚悟もできています。これが私たちの本性の基礎なのです。人は自らの”私”、自尊心を守るためならば進んで死と向き合います。

恥とは自分の”私”が取り消されたと感じることです。もし私が自分の願望と充足感を失っても、私は断絶したとは感じません。人は死んでも現実から完全に消えたとは感じません。彼は、彼自身のある部分を失ったと感じるだけです。まるで過去の何かを手放すように。

しかしながら、恥の感覚が生じると、自分の霊的な存在を取り消してしまいます。その内面的な感覚は、まるで自分が跡形も無く消えてしまうよな感じなのです。それは生と死を超越しています。それほど計り知れないことなのです。そして、それに耐えることは不可能です。人は自分の”私”を救うために、進んで自殺を図るでしょう。肉体は動物に過ぎず、私たちはそれを失うことを恐れていません。人が自らの生命を賭けるのはよくあることです。

クリエーターは絶え間なく私たちとゲームをして遊びます。一貫して整然と私たちの”私”を侮辱してきて、私たちは自分の主体性を保持する為の策を施すのを余儀なくされます。この人生と死を超越しなければならないという感情は、私が第二の性質を獲得するのを補助してます。私はそれを受け入れる覚悟があります。私は与えなさいと指示されます。私はそうする気です。現在の自分を失う必要があるのなら、私はその用意が出来ています!”私”の一点を保持できさえすれば。

この感覚は是正する光によってのみに与えられます。光は私たちに影響を及ぼし、私たちの最も核にある”Esh Mi Ayin” (無から創られた‐不存在からの存在)と呼ばれる点を目覚めさせます。これは快楽への願望の物質ではなく、もっと計り知れない何かなのです。

それを達成する唯一の道はカバリスティック・グループを通したカバラの勉強です。グループの中で私たちは無限の世界に存在する霊的結束の原型を築こうと努力するのです。この結束の条件を学ぶことにより、私たちはまさしくその状態へと昇進させる光を引き寄せるのです。グループとグループ内での勉強以外、方法はありません。

恥とは辛い感覚ですが、まさにその恥が私たちに救済をもたらしてくれるのです。

From the 2nd part of the Daily Morning Lesson 5/14/10, Preface to the Wisdom of Kabbalah

トーラーを授かるための準備:是正の光

トーラーとは是正の力で、それは私たちを変え、クリエーターと等しくします。私たちがクリエーターと類似することが出来たとき、私たちは“Adam”(アダム)と呼ばれ、各自は“Ben-Adam”(人間)と呼ばれます。アダムとはクリエーターと“類似する”(ヘブライ語 ‐Edame)という意味です。従って、“人間”とは私たちの世界に存在する何十億人の一人のことではなく、クリエーターとの同一化を成し遂げた者のことなのです。

しかしながら自分自身をクリエーターのレベルへと昇進させる、トーラーを実施するには、充分な欲求が必要です。私たちは、俗界的な関心事に飲み込まれています。私たち自身を次の次元へと昇進させるスピリチュアリティへの欲求を、どうしたら重要視できるのでしょうか? これはトーラーを授かる準備の一部です。クリエーターはトーラーを毎日与えていると書かれています。この意味は、それはいつも使える準備が整っていて、私たちの欲求次第であるということです。

従って、まず私は動物の段階から霊的世界という新しい世界へ上昇する欲求を育てなければいけません。しかしながら、もし私にこの欲求がないなら、私は動物のように生き、この手段にも気づかないでしょう。何故なら私はそれに対する必要性を感じないからです―私はこの世界の領域を超えた何かを欲しくも、理解もしたくありません。さもなければ、私はもう既に霊的世界へと前進していることでしょう。現時点では未だに、私は充分な欲求を持ち合わせていないがために、上層次元に入り込む、この方法を利用できないのです。従って私はトーラーを授かるための、自分の準備をしなければならないのです。

もし私が自分の中の「邪悪な性向」を明らかにし、クリエーター(愛と授与の特質および力)に達するために何を是正しなければならないのかを明白にできてのみ、私はこのトーラーという手段を授かる準備ができるのです。トーラーに従事するという意味は、それから是正する光を抽出するという意味です。私はそれを熱望し、それが私を是正することを要求する必要があります。私はまるで、救命の薬を授かるように本を開く必要があります。それが無ければ死んでしまう運命にあるように。このようにトーラーを勉強する人は私たちの世界で多くいるでしょうか?

From the 3rd part of the Daily Kabbalah Lesson 5/17/10, “What is the Preparation for Receiving the Torah?”

ラビ・シモンとの旅

受けた質問: なぜゾハールの著者たちは何度も同じ事を繰り返し説明するのですか?基本を説明したら先へと進んでも良いんじゃないですか?なぜ彼らは私たちにはっきりしている事、例えば、各要素は四つの部分から成り、それを三本の線でかけると、やがては十二の部分となる事をあんなに書くのですか?

私の答え: 何度も繰り返す事によって、ゾハールの著者たちは既にスクリーンと霊的な器(Kelim)を所持する者たちに、彼らがそれを読んでいる間、本書に記述してある働きを行う機会を与えるのです。人はこれらの働きを明らかにし、ラビ・シモンと一緒に、後者がゾハ-ルを書いていた時に行うのです。スピリチュアリティに時間は存在しないので読者は著者と繋がり、子供が大人を掴むように彼の手をしっかり握り、彼と一緒に歩みます。

ラビ・シモンは人を導き、彼に一つずつ働きと特性を見せ、説明し、同じ働きをさまざまな場所で繰り返します。なぜでしょう?その理由は私たちは毎回、自らの快楽を受け取る願望の一定の特性を是正しなければならないからです。

私たちにしてみれば既に充分だと思われます。一体、何回同じ事を復習すればいいのでしょうか?しかしそれは単に私たちがこれらの実際の違いが分からない、そしてまた知覚できないからなのです。名称や題名は同じに見えますが、毎回それらは内面的な定義の新たな見解なのです。こうゆう訳から、私たちはただゾハールの著者に付き添い、何が起こっているのかをより理解する為に彼らと繋がる努力を可能な限りすべきなのです。

From the Evening Zohar Lesson 5/5/10

聖なる書物の各文字に生きる

文字は欲求の形態です。クリエーターは楽しみたいという欲求だけを創造しました。そしてその欲求は受け取りと授与の様々な形態を習得します。それにもかかわらず、受け取りの形態はスピリチュアリティーのなかで存在する権利がありません。授与の形態については、クリエーターに類似するもの、すなわちBinaからMalchutまでの様々な授与の種類だけを私達は扱います。

全部を合わせて27個の文字があります:ZAT de Binaからの9個(アレフからテットまで)、Zair Anpinからの9個(ヨッドからツァディックまで)、Malchutのなかに含まれる4個(コフ、レーシュ、シン、タヴ)、そして語末に使われるParsaの上の5文字MaNTZePaCH。これらはクリエーターに、又は正しい行動の手本に似ている物質の形態です。

したがって、私達が本、語、又は文について話すとき、私達はパン生地のように常に変化して様々な形を習得する楽しみたいという欲求について話しているのです。このようにして、クリエーターのようになりたいと切望しながら、私達の欲求はその形態を変化させます。

トーラーの全ての文字を追い、その最初の言葉(はじめに―Beresheet)から最後の言葉(イスラエル)までの文字の並べ替えの全連なりの繰り返しを完了させるとき、人はこれらの形態の全てを獲得し、クリエーターと完全に類似するようになり、最終是正(Final Correction)に到達します。したがって「トーラーの全部をあなたの心に刻みなさい」と言われるのです。心(ハート)とは欲求のことです。トーラーの書、存在している創造物に対するクリエーターの授与の形態のすべて。私達はそれらを自分たちの欲求のうえに書き写さなくてはなりません。そうすれば、私達はクリエーターに類似するでしょう。

“目には目、歯には歯”

受け取った質問:全世界で知られるようになったトーラーのなかのことわざがあります:「命には命、目には目、歯には歯」です。 カバラの見地からすると、この意味は何ですか?

私の答え:同じ度合い、同じ段階、そして同じ形で今や破壊があった場所に是正が必要です。今私達は願望の堕落した場所を是正し、使用するのにふさわしくしなくてはなりません。破壊が起きた場所を正しく識別し、正確に同じ場所を是正する必要があります。何故なのでしょうか? 私達はそうすることにより以下を学びます。クリエーターが行ったこと、彼の計画の抜け目なさ、そして、私が彼の助けを要求し彼の作業から学ぶようになるために如何にして彼が全状態で私をつまづかせるのかということです。

是正における全作業はクリエーターの作業と呼ばれます。なぜなら、私が自分の堕落した場所を識別し、彼の手を引いてその場所に連れてきて、それを是正するよう彼に頼むからです。私は事前に、どうやってこの状態が是正されなくてはならないのか想像します。ひとたび彼がそれを是正してくれれば、私は彼を補完し、それによって彼と私が一緒に歩むのです。この様にクリエーターと私達は繋がっています。

もし私が自分の力だけでこの是正ができたなら、私が上層の力との繋がりを持つことはありません。もしクリエーターが私なしにそれをすることができたなら、私は誰なのでしょう? 私の存在の意味とは何なのでしょう? 彼と私がパートナーとして一緒に作業するには、このやり方しかないのです。

クリエーターは壊れた願望(Kelim)を嘆いています。一方では彼はそれを直したいのですが、他方では私の依頼、私の要求、そして何を直すのかそしてどこを直すのかといった正確な指示なしに彼にそうすることはできません。したがって彼と私はこの作業において真のパートナーになるのです。

From the 1st part of the Daily Kabbalah Lesson 5/4/10, The Zohar


朝のゾハールレッスン:2010/5/2 梗概

ゾハール』16~21節(梗概):トーラーの物語は、器の破壊を既に経た魂に対してなされる行為から始まります。それは破壊された破片の混合、そして、憎しみと拒絶への転落です。言い換えれば、トーラーは是正の準備が整った魂について述べているのです。

隠されている状態に居ることから、我々の世界の人は、自分に欠点があり惨めで、自分が敵意と憎しみで満ちていることを感じません。上層の光の影響だけが、即時の満足と喜びに完全に支配されている私達の真の性質を暴き、それを理解することを助けるのです。

それ自体からエゴイズムを取り除き、永続的な喜びの状態に至るには、クリーチャー(被造物・創造物)、Malchutは、その意図を「自身の為に受け取ること」から「与える為に受け取ること」というものに変えなくてはなりません。このことがBinaの属性を生じさせ、如何に受け取りたいという願望が与えることになるのかを明示します。

クリーチャーが願望(又は欲望)を“制限”し、それ自身を無にするとき、それはBinaの力の支配下に来ます。Binaとは母親であり、自分の娘であるMalchutに、授与という働きを教えているのです。MalchutBinaの中に含まれるようになればすぐに、母親は自分の娘に“衣類と貴重な装飾品”を譲ります。それらはHassadimの属性のことです。その影響下でクリーチャーは段々とクリエーターと似るようになるのです。

彼女(Malchut)が霊的成長をさらにすることにより、MalchutBinaの上に昇り、“Elokim(エロヒム)”の属性を獲得します。これは、彼女が自分のルーツに到達し始め、共通の魂の体系の中での彼女の居所、働き、義務を理解するようになることを意味します。

The Zohar Lesson in Russian 5/2/2010


一体化までの長い道のり

受け取った質問:人が一体化の必要性を認識し始めるまで、時々、何年もかかるのは、何故ですか?

私の答え:私達は歴史が始まった時からずっとこの過程の中に生きています。世代から次の世代へといった私達の全ての転生に於ける全ての発達は、私達が一体化(結束、団結、協調、統一、合一、和合)しなくてはならない状態にまで追いやるためにあります。私達の歴史の全体は、共通の魂(私達の霊的な器)の破壊から始まりました。この時以降、これらの破片はお互いにぶつかり合い、お互いを憎しむようになり、それらが誰で何処からきたのか、そして何故存在しているかも分からなくなりました。これらの破片にとって最も重要なことは、絶え間なく争い合うことです。

私達は徐々にそして段々と、私達のエゴイズム及び憎しみが原因で、私達が多くのものを逃しており、それがあまりにも多いので一体化しなくてはならないという完全な理解にまで来なくてはなりません。なぜでしょうか? その理由は、私達の発達過程において、私達が繋がっているということを、徐々に発見するからです。私達に可能なこととは、お互いに殺し合うことか、平和の中で一緒に暮らすことのどちらかしかないのです。

しかし、スピリチュアリティーに対して憧れを感じる人々にとって一つの問題があります。全世界はBeito(することになっている時間)の道に沿って一体化に前進しています。人は絶望的な状態に陥り、論理的に考えてから、世界が協調しなくてはならないことを悟ります。しかし一方では、私達にそれが不可能であることも明らかになります。これは全世界が感じていることです。これに対して、心の中の点が目覚めた人々は、私達が一つにならなくてはならないことと、そうしない限りスピリチュアリティーに到達することができないことを認識し始めますが、一体化の必要性は感じません。つまり、一体化の必要性を明らかにするが、その手段が欠けているためにその方法を知らない人々と、一体化を助ける手段を持っていても、そして、全世界に一体化の必要性が明らかになっても、その必要性を内面で感じない人々がいるということなのです。

これらの二つのグループ、外部と内部の部分、は一緒になって互いを拡大させる必要があることは明らかです。私達は彼らに一体化の方法を与え、彼らはちょうど赤ちゃんが親に自分に必要なものを伝えるように一体化の必要性を私達に与えます。そしてこれは親が赤ちゃんに必要なものを手にすることの手助けになります。

したがって、外部社会は一体化に対する内面的必要性の運搬人であり、私達は一体化の方法の所有者なのです。このようにして私達はお互いを補完します。

From the 1st part of the Daily Kabbalah Lesson 4/28/10, The Zohar