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ゾハールを理解する鍵

もし私達がゾハールの書を理解したいなら、私達の間の関係をイメージしなければなりません。つまり私達の行為と努力に従って、どのようにつながりの強度が高まったり弱まったりするかということです。
私達を一緒に結びつけるネットワークについて、TES(タルムード・エセル・セフィロート)の中に詳細に記述されています。ケテル、ホフマー、ビナー、ゼイール・アンピンそしてマルフート。またはアティックのパルツフィーム、ケテルであるアリフ・アンピン、アッバとイマそれはホフマーとビナーです。そしてゾーン、それはゼイール・アンピンとマルフートです。

私達はこのネットワークによりつながっています。このネットワークが明らかになればなるほど、私達はより高く昇ります。明らかになることが少なければ少ないほど、私達は下降します。このように私達は(世界を)操作しています。

それで、私達の仕事の全ては、私達がその中に存在している、この10のセフィロートとの可能な限り強いつながりを喚起することです。そのとき、一人一人が自分自身を、これら10セフィロート全てを操作するマルフートとして見るでしょう。それは各セフィロート全てが最終的な形、エイン・ソーフ(無限)世界における形を採るまで続きます。

それで、TESと、特にゾハールの書は、私達に次のことを見させるために書かれました。それは私達が上層システムのマルフートの中にいるということです。その地点から、私達はシステム全体を呼び起こすことを望みます。

私達は一つのネットワークの部分であり、このネットワークに刺激を与えなければなりません。そうすると各自が印象を受けて他者を感じるようになるでしょう。それと同時に、このシステム全体の操作方法を調査し理解することもできるようになるでしょう。

From the 4th part of the Daily Kabbalah Lesson 6/02/13, “The Book of Zohar, Introduction”

ゲームのルールを変更せよ

変化は改善する光によってのみ起こり得ます。この光は我々がいる状態を実現することを促進させるために勝手に訪れます。それは絶え間なく我々を照らしながらその照度を強めます。言い換えれば、それは絶え間なく明るくなり、レシモット(思い出すこと・回想)を明らかにし、変化させ、強めます。そして、こうして我々は自分たちが変化していると感じます。

我々が何かをしたいとき、何かを明きらかにするとき、技術を開発するとき、そして、進展するとき、それらはすべてレシモットに従っています。レシモットが我々をやむを得ず行動させるのです。突如としてニュートンは重力の法則を発見し、突如としてアインシュタインは相対性理論を展開し、さらにまた他の科学者が現れては新しい発見をし、そのように世界は進展します。良い人や悪い人、異なる人々が現れ、あたかも彼らが世界を進展させているように思えます。そのように我々は光の影響下でレシモットが発達するさなか暮らしているのです。

しかし、我々は、この光が我々の利己的な欲求を強めるために照らすのではなく、利己的な欲求を変え、是正し、授与したいという欲求に変化させるために照らすよう、この光を呼び起こすことを望みます。我々は自分たち自身の力で「努力」というものをしなくてはなりません。我々が自分たち自身の欲求を変えなくてはならないので、この行為は自発的なものです。我々の中で、つまり我々の欲求の中で隠されているスピリチュアルなスパークを用いて我々は我々の変化を起こしており、それは、物事が違った形になれること、我々が自分たちの欲求の異なった使い方ができること、そして、他者を利用するのではなく他者のために行動して他者への愛と授与を達成できることの理解を助けます。

光は我々のレシモットを照らし続け、我々にできることは自分たちに対するその影響を変えることだけです。もし我々がなんとかしてこの問題を理解して取り上げるのなら、我々の中で引き起こされるレシモ(レシモットの単数形)を我々が受け取りの形ではなくて授与の形で使うために実現させる程度にまで、我々のために明るくなる光は、我々の中に変革を遂行することによって、そのような結果をもたらします。

したがって、すべては我々次第です。たとえ我々が、どのような状態にあろうと、つまり絶えず我々の中で明かされるレシモットの内にあろうと、どれくらい我々が受け取りではなく授与の形でレシモットを本能的に実現したいのかによって決まるのです。

もし我々がレシモットを本当に実現したいなら、我々の行為は少なくとも二つの部分に分かれます。まずは、我々が自分たち同士のつながりに取り組むために集合します。我々が達成したい我々同士のつながりは、全体魂を作るための粉々になった魂たちのつながりに似ています。これが私たちのゴールであるためです。これは欲求からの見方、つまり器からの見方です。光の見地からすると、我々は1つの光に我々の中で明るくなること、我々をつなげること、我々のためにクリエーターを明らかにすることを望みます。すなわち、我々のあいだで明かされる、授与の総体的に集合した力のことです。

これが、なぜ我々がカバラの本の中でつながろうとする人々から成るグループ内で実行される行為について読むのかということの理由です。ゾハールの書がこれらの行為、このシステムについて最も完璧な方法で言い表すので、全ての本のなかで最も効果的なのはゾハールの書です。

From the 2nd part of the Daily Kabbalah Lesson 8/26/12, The Zohar

エゴよ、私はお前のものではない

質問:どうやって私たちはゾハールを読んでいるときに自分たちの意図を確認できますか?

答え:もし私たちがゾハールの書を正しく使うことを願うのなら、ゾハールの書は私たちにやって来る光の源です。したがってカバラの本を勉強している間、私は常にいくらかのイルミネーションを呼び出していますが、それは私の努力の、そして、用意ができていることの激しさに応じてやって来ます。もし私が肉体上の何かを手に入れるために、または、来世を個人的な特権として勝ち取るために勉強するなら、光はその影響によって私の中によりいっそうの暗闇を作り出します。私は、何のためにこのシステムが私に与えられたのか、私は何をしなくてはならないのか、そして、どのように私は他者を扱うべきなのかということの理解からだんだん離れていきます。愛とつながりについての素晴らしい言葉を読む時でさえ、私はもはや帰属感を感じず、つながりを目にせず、文章を読み取る方法が分かりません:それを私のハートに入れさせるのかどうか。これは、夜に養われ夜明けを予期しないコウモリのように私が勉強することを意味します。

しかし、もし私が他者とつながろうとし、これがその方法論を学ぶ理由であって、シナイ山でそれを受け取るための条件を保持して守ることによって、皆と一緒に「一つのハートを共有する一人の人間」に成ることを切望し、相互保証に参加するために、兄弟愛を達成するために、そして、それを通じることでクリエーターへの愛を達成するためにということなら、光は私を前進させ始めます。これはもう段階ごとに克服するという普段の道ではありませんが、私は徐々にその中に悪い粉々になった状態を発見し始めます。

利己的な勉強は私から私のエゴを隠し、私は自分自身を高潔として見ます。一方、正しい勉強によって、私は自分が悪の中にどっぷり浸かっていることを発見します。光が私に明らかにする最初のものは私の悪い性質であり、私はそれに応じて作業しなくてはなりません。悪を発見することによって、私は前よりもさらに悪い気持ちを感じます。では、私には何ができるのでしょうか? 結局のところ、私は私の性質に従って気分が悪い時は逃げたいのです。

もしかすると私は勉強を止めて、グループから離れるべきかもしれない? もしかすると私は絶望を感じるべきかもしれない? あるいは、もしかすると私は悪の認識を知ることを許されて喜ぶべきかもしれない? それは私にとって法則、招待であるべきです:もし私がこの不快感(気分の悪さ)を乗り越えられるのなら、私は受け取ることを超えて授与を切望するでしょう。

私のエゴの中で明かされる苦しみが、私がエゴために作業していないことを示すので、私は打撃を受けることを好みます。私は不快感を感じますが、それらを克服してユニティーを目指します。私は苦痛を和らげるために逃げることはしません:私は自分自身を閉ざさない、私は落ち込まない、私は勉強をやめない。それどころか、私は友達と一体になる途中にて、あらゆる方向からやって来る全ての困難を、クリエーターによって送られているものとして受け入れます。彼(クリエーター)以外には何も存在しないのです。

私はどんな状態も私の前進のためになるものとして受け入れます。私はそれらを無効にしたくありません。そして私は不快感を中和するために勉強し続けます。私は実のところそれを望んでいるのです。それがその乗り越え方、理性よりも上になることに私を正確に集中させるので、私はそれが継続することを望みます。全てはゴールに正しく集中することを助け、それらの中で作業することによって明らかに前進するといった制約や枠組みを作るので、私は喜んで全ての問題や妨害、状況の圧力、外的な嘲り、様々な苦しみを受け入れます。

こうして私の内側に授与の器を受け取りの器よりも上に構築します。それらは成長し続けます。そして、苦しみ続けます。その間、私は、それらよりも1つ上の段階に在り、完全な信仰、ビナーの属性を達成し、私の受け取りの器を授与するために使い始めるまで、クリエーターとのつながりを持ち続けたいのです。

しかしその一方では、また、私は独り善がりの考えがあってはならない段階に上がったので気持ちを落ち着かせるつもりはありません。それどころか、私はますます上向きに切望し、喜びを受け取る準備でさえできていますが、それは私自身を満たすためではなく、クリエーターの願望を満たすためです。

これはすべて私たちの作業です。私はこの道に沿って本当の源、私に授与の力を与える利己的な欲求が必要です。それは利己的な欲求の中で明らかになる問題や苦悩を私が克服した結果です。そして、私はそれが全てクリエーターによってもたらされることをはっきり分かっています。

From the 2nd part of the Daily Kabbalah Lesson 8/16/12, The Book of Zohar

光とは何か?

質問:カバリストが語る光とは正確に何ですか?

答え:私達の現実には「光」と呼ばれる力が存在します。この力は隠されていて、それを感じる事は出来ません。しかし、もしあなたがカバラの英知を勉強するなら、あなたはこの光を呼び覚ます事が出来るようになり、それはあなたに作用し始めます。

“カバラの英知を勉強する”という意味は何でしょう?既にクリエーターに到達した人々、すなわち彼との特質の同等性を獲得した人々が存在し、彼らは、彼らが上層の世界の中で上層の力との関係性に於いて発見した存在の様々な状態を説明しました。

当然、彼らの書物を読んでいる間、そこに書かれたことは何も理解できません。なぜなら、あなたが同じ世界の中に居なく、そのことについて何も知らないからです。たとえその文書がこの世界と全く異なるスピリチュアルな世界について伝えていても、あなたはあなた自身の世界の中で想像できることだけを聞きます。

カバリストの文書を読んでいる間、もしあなたが上層の世界に行きたいと、あなたの中にある全てを持ってして願うのなら、あなたは強い欲求を通じて上層の世界から特殊な力を呼び起こします。この力が「光」と見なされているものです。

あなたがそれを呼び起こす事ができる理由は、あなたには上層からのスパーク(火花)があり、それがあなたが生まれた時に植え付けられたからです。その後、上層の世界から光が訪れ、それを照らします。

したがって、もし光を呼び起こし、スパークにそれを作用させたいと望むのなら、カバラの文書を読み、これに専念してください。それ以外には何も必要ありません。あなたには、書物に書かれている事を理解することも、抜け目のない頭脳を有することも、特別に幸運であることも、必要ないのです。必要なのは、あなたが普通の人であり、カバリストが説明する世界が常にあなたのスパークに作用してほしいという願いを持っていることだけです。そうすれば、彼らの語っている事をあなたが急に感じ始めるまで、スパークは徐々に成長するでしょう。

ゾハールの書を勉強している間に、私達に必要な事が、まさにこれなのです。しかし、この光の力が人に訪れるのは、彼が上層の世界の中にありたいと努力する場合だけです。つまり授与のなかに居たいと切望したらの話です。

しかし、どうやって私は授与の中にいるという意味を知るのでしょうか? カバリストは言います:もしあなたがグループのなかでゾハールの書を読み、あなたが、お互いに何の違いもない、1つの生物として、他者と繋がっていると心に描くのなら、また、もしあなたが、あなたを照らす力に対する、1つの願い、1つの意図、1つの強い欲求を持っているのなら、この唯一無二の分割されない力が、あなたの1つに統合された欲求に作用し、あなたは、あなたに作用してあなたを助長している、この上層の力を本当に明らかにするでしょう。これが、創造物に対するクリエーターの啓示と呼ばれるものです。

したがって、光が私達に作用できるよう、私達を是正できるよう、そして私達の内部で現れるように、光を明らかにしたいという私達の欲求の中で、私達が一体となっているという意図を持ち、私達はグループでゾーハルを読んでいるのです。

From the 2nd part of the Daily Kabbalah Lesson 10/8/10, The Zohar


グループとは自分の影です

グループとは私のコピー、私の影です。まさに私がクリエーターの影のように。私は自分が友だちの中に投入するよりも遥かに多くを彼らから受け取ります。それは彼ら又は彼らの行動によるのではなく、自分の彼らに対する態度だけによるのです。この環境もクリエーターです。それは「彼」(クリエーター)と一緒に働くために「彼」が私に与えた機会なのです。実際には私の外側にはクリエーターしか存在しないのに、その間まるで私の外側に何かが存在しているような錯覚を私に創ったことによって。

この理由から私たちは常にその環境を目覚めさせなくてはならないのです。私が環境を通じてクリエーターと一体化するために、環境と一つになりたいと願うよう、その環境が私に影響を及ぼすといった状態を、私たちが獲得するまで。環境なしに私がクリエーターに到達することは出来ません。なぜなら、環境とは、私が環境を通じることでクリエーターのイメージを観るといった外部的な手段であるからです。

もし私がグループと一つになりたいと望まないなら、私は少しもゴール、クリエーターを目指して進んでいません。結局のところ、私の隣人とはだれでしょうか? それはスピリチュアリティの中で私を二つの部分、私と私の隣人に分けた破壊の力なのです。何のためにでしょうか? それは私がクリエーターと一体化するために自分に欠けているものを認識・識別させるためです。

たとえこの環境が自分にとって異質・無関係・無縁に見えるとしても、私がこの環境をもっと自分の近くに持ってこれるならすぐに、もっとクリエーターに近づくことが出来るようになります。クリエーターは私にわざと二重の知覚・認知を授けました。私が自分の一部をよそ者として、そして、憎らしいものとして、目にするために。

それが何故「隣人を自分のように愛しなさい」ということがトーラーの最も重要な規則であるのかということの理由です。これが光の唯一是正するものです。そして、これ以外に是正させるものはないのです。もしあなたがこの是正を求めないのなら、あなたの全努力は無駄になります。それ以外のすべては、役に立たない荒野のなかへの叫びなのです。

From the 2nd part of the Daily Kabbalah Lesson 10/5/10, The Zohar

クリエーターとの対話を始めなさい

人に対して主に要求されることは、クリエーターがその人に呼びかけるときの適切な反応です。クリエーターが最初です。クリエーターがいつも始めるのです。人はその結果です。人は願望に及ぼされるクリエーターの影響に対する反応なのです。私は願望の反応、それに及ぼされる光の影響に対する反応です。上層の光は1-2-3-4、HaVaYaH(ハヴァヤー:ユッド-ヘイ-ヴァヴ-ヘイ)という4つの段階を通じ、上層から私たちのところに送られて来ます。創造された存在にとって、クリエーターとの繋がりはそれ以外にありません。

したがって、私たちはクリエーターのアピールに適切に反応しようと努力すべきなのです。つまり、いつなんどきでも私たち自身と世界に対する我々の知覚に対して適切に反応しなければならないのです。私たちは生活の中で休みなく続くクリエーターとの対話に気づくべきです。彼は、最初の文字「ユッド」の先端(Kutso Shel Yod)とHaVaYaHの最後の文字「ヘイ」の間に繋がりを創りました。私たちの世界と私たちはこの繋がりの中にあるのです。

「ユッド」という文字の初期点と最後の文字「ヘイ」の間にある繋がりは、全部で5つの世界、125の段階を含むことができ、その後にはクリエーターとの繋がりは感じられません。私たちが最初の段階、125番、アスィヤ(Assiya)の世界のマルフト(Malchut)に上昇すれば、すぐにその繋がりは明かされます。その後は、私たちが最上段階、無限の世界に上昇するまで、124番、123番・・・と段階が後に続くのです。

そしてこの全てはHaVaYaHの中、文字「ユッド」の始まりと最後の「ヘイ」の間にあるのです。このHaVaYaH(クリエーターとの自分の繋がり)は、まるで霧(隠蔽:the concealment)が消えるかのように、ますます鮮明になり始めます。

私は「彼以外には何もない」という原理に従い、全てを彼に繋げようと努力しながら、私に及ぼされる彼の影響に反応し、自分自身をクリエーターへと向かわせることにより、その繋がりの啓示を達成します。どうすれば最も適切で効果的なやり方でその反応を示せるのでしょうか?いかなる状況にいようとも正確にクリエーターに向けられた最も効果的な反応とは、友達と一緒に“クリエーターにアピールする”共同行為を実行しようと努力することです。

しかし、そのアピールが効果的になるのは、そのアピールがHaVaYaHを通じて戻るよう向けられているときだけです。これは真正なカバラの情報源を読むことによって達成されます。HaVaYaHの中で何が起きるのかということについて読むとき、あなたはMalchut(マルフト)をKeter(ケテル)に向かわせます。つまり、あなたが自分の一体化を根源へと向かわせるのです。

私たちが一体化する程度まで、私たちはMalchutの中に存在します。これは私たちが一緒になる場合に限ってのことです。そして、私たちが一緒に『ゾハールの書』を読むとき、私たちは反射された光を通じてHaVaYaHを打ち上げ、それをその始まり、文字「ユッド」に戻したいと願うのです。結局のところ、カバラの書物が私たちに伝える事とは、Keter・「ユッド」とMalchut・下の方の「ヘイ」の間の繋がりについてだけです。

したがって、私たちがHaVaYaHの中の繋がりの理解と啓示を欠いて読む時、私たちはこの繋がりを私たち自身の上に目覚めさせ、このシステムの啓示を引き起こすのです。

From the 2nd part of the Daily Kabbalah Lesson 7/28/10, The Zohar


突破

私たちはこの世界で、自然によって完全に制御されている動物のレベルに存在しています。しかしある時点で私たちはこの人生は無意味で、取るに足らないということを明らかにし、高いレベルに上昇したいという欲求を経験します。それでも、どうすれば私たちは自動的で不随意な動物的存在よりも高いレベルに上昇出来るのでしょうか?私たちの動物的身体の生活を超越し、その肉体生活からの束縛を受けない「人間」に、どうやって成ることが可能なのでしょうか?

「人間」とはクリエーターと「類似」しているという意味です(ヘブライ語で人間を意味する言葉『アダム(Adam)』は、類似を意味する言葉『ドメー(Domeh)』に由来します)。私たちの新しい性質がクリエーターと同等になるように、新しい「人間」の性質を「動物」の中に構築するために、この上昇を実行するには、私たちは“改善する光”を自身に引き寄せなければなりません。これは、私たちに影響を及ぼして変化させる特殊な“上層の力”です。それゆえ私たちは上昇し、理解、感覚、能力、そして認識力を高めるのです。このようにして、私たちは「人間」と呼ばれる高いレベルに上昇するのです。

これは単なる機械的な上昇、又はより多くの知識を蓄積することでもありません。それは異なったレベルの性質に移行することなのです。私たちはそれがどう起こるのか理解していません。何故なら、私たちは皆現在、動物的身体の内側から世界を眺めているからです。私はこの動物の中に隠れていて、その目、耳、及び他の感覚を通してこの世界を知覚します。光が上から来て、私がこの動物的な着ぐるみとその感覚から解放され、人間の装いをまとうことを可能にしてくれるまで、世界を違うように見ることは出来ません。その後になって私は新しい現実を見て感じるのです。

現在私たちは自分たちがどのような現実に存在し、そして何処に至ればよいのか、分かっていません。これらの事柄の一つ一つは、それ以外のもう一つに基づかせることによってのみ査定、調査出来るのです。しかしながら、この全体のプロセスを始動させるために、二つの主要な助言が私たちに与えられています:カバリステイック・グループに入りカバラの本を勉強せよと。グループ、そして一緒に結合する願望を通して、私たちは自分たち自身から出てくることが出来、人間になれるのです。人間とは、他の人たちと繫っていて、隣人に授与する能力がある人のことです。私たちの願望の力と共に、本は光を私たちに引き寄せ、私たちが望むものを現実にします。このようにして私たちは人間のレベル、上層の者との同等性を獲得するのです。

私たちは皆、「動物」として留まるのではなく、人間になる願望を持っています。そして、私たちにはグループがあります。動物的感覚から出て、一緒に結合するための努力をする機会をそれは与えてくれるのです。私たちの繋がりが私たちを人間と呼べるようにするのです。共同の読書を通して私たちが引き寄せる上層の光がこの作業を完了させ、私たちの努力を新しい、本当の現実へと変えるのです。なので、この希望と共に一緒に勉強しましょう。

From the 2nd part of the Daily Kabbalah Lesson 7/27/10, The Zohar

全世界へ踏み出せ!

私たちは世界を自分たちの喜びを受け取る願望の内で体験します。私たちが視覚、聴覚、味覚、嗅覚、触覚などの感覚器で知覚できる全てのものは、私たちが内面から観察する景色となります。これが私たちが認識する現実なのです。

この限られた認識から、身体とその五つの感覚器に制限されていない認識へ出る方法はあるのでしょうか?結局、私たちの世界の映像と私たち自身は私たちの動物的身体に指示されているのです。全ては認識次第なのです。もしかしたら、身体の越えた向こうに無数の形態があるかもしれません。しかし私たちの身体はそれらを濾過し、それが処理のできるものだけを私たちに感じさせるのです。つまり、私たちが究極の現実を体験することは不可能なのです。もしそうであるのなら、もしかしたら身体が消滅した後に、私たちは本当の現実を見るのでしょうか?しかしながら、自分たちの感覚器は身体と一緒に消滅するのに、どうしてこれが可能でしょうか?

カバリストは、私たちが“自分の内側”で現実を体験するがために“この世”と呼ばれる部分的な認識に制限され、全体の現実を認識することが出来ないのである、と述べています。しかし、私たちは身体の“外側”の認識へと移ることができるのです。私たちの認識の範囲を変化させるある力があります。自分の外にある現実を経験することを可能にするのです。言いかえれば、私は自分自身ではなく、他人に集中し、彼らを自分より上に置くのです。

私たちが外側の現実のことを読むとき、それは私たちが徐々にそれを認識し始めるように影響を及ぼします。それは“労働して見つけ出した”と呼ばれます。私たちはこの新しい認識を獲得するために努力しなければならないのです。そのような努力を数ヵ月ほどすると、私たちは、自分たちの中で変化が起こっていることに気づき始めます。そして、私たちの他人の認識がどのように変化しているのかもです。

このプロセスを前進させる最も効果的な方法は、グループでゾハールの本を読むことです。私たちがどのぐらいそれを理解できるかに構わずです。大事なのはそれに影響されたいという私たちの願望であり、それは私たちが外側の現実を体験し始めることを徐々に補助するのです。

From the 2nd part of the Daily Kabbalah Lesson 7/23/10, The Zohar

和合とは新しい現実である

私が受けた質問:和合(ユニティ)とは何ですか?それは内面的な感覚ですか?それとも何かの力が明らかになることですか?

私の答え:和合とは、私たちには全く解らない、新しい現実のことです。それは私たちが今まで、知覚したことのない霊的な特性、つまり授与の特性を持つ新しい物質です。私たちがこの物質に含まれ、その中で生き始める時、私たちは、まるで別の惑星に自分たちを見つけるように、新しい次元を明らかにします。私たちはこの次元をこの物質の内側、つまり授与の中で明らかにします。

したがって、和合とは単なる相互的な繋がり、良い関係、自信という意味だけではないのです。それは、私たちの世界には存在しない、新しい特性が明らかになるということなのです。私たちがこの特性を獲得し、クリエーターと似通う時、私たちは全てを自分らの知性と感情の中で、彼(主)との結束にて明らかにします。

私たちは和合を達成する以外に何もすることはありません。それは私たちの能力の範囲内で出来るのです。このことに関して、“我等はやるであろう、我等は聞くであろう”と書かれています。この意味は、私たちは様々な行動を起こし、努力し、全力を尽すことが出来るということです。私たちは、カバリスト達が勧めるように、そしてまた、ラバッシュが彼の文章に書くように、一緒に勉強し、結束することができるのです。

しかしながら、私たちはこれにて成功は出来ません。私たちは“そして彼らはこの作業から叫んだ”と表現される状態に達しなければなりません。それは、私たちは和合しなければならないのに、それができない、という内面的な叫びです。この内面的な叫びの状態でのみ、それは起こります。それは真の祈り、真の叫びでなくてはなりません。

私たちは既に全体の土台を造り上げました。後は、私たちが和合の特性に達するだけです。他人との繋がりとして明らかになる、新しい物質が霊的な物質なのです。それはある程度、既に、破壊以前に存在していた、霊的な器なのです。私たちがそれを明らかにする瞬間、つまり私たちが霊的な存在状態を明らにすると、クリエータは明らかになるのです。

そのため、私たちの一人一人と全員が一日中可能な限り一緒に努力してこれだけを気にしなければならないのです。

From the 1st part of the Daily Kabbalah Lesson 6/13/10, The Zohar

高貴な感覚である恥

私が受けた質問: どうしたら私たちは恥を感じるようになり、エゴを制限できますか?

私の答え: 恥とはとても高貴な感覚で、それは私たちの行路の始めには生じません。この恥はクリエーター、与え主に対するものです。まさに彼が与え主で、私が受け取る側であるためです。

この世界では、恥を感じるのを避けるために、私たちは常に受け取ることを制限します。私たちは受け取ることを正当化せさずにはいられません; 私たちは自己尊厳の感情を”私”とし、それを保持することは命そのものよりも大切なことなのです。実際に、私たちは恥を抑止できるのなら死ぬ覚悟もできています。これが私たちの本性の基礎なのです。人は自らの”私”、自尊心を守るためならば進んで死と向き合います。

恥とは自分の”私”が取り消されたと感じることです。もし私が自分の願望と充足感を失っても、私は断絶したとは感じません。人は死んでも現実から完全に消えたとは感じません。彼は、彼自身のある部分を失ったと感じるだけです。まるで過去の何かを手放すように。

しかしながら、恥の感覚が生じると、自分の霊的な存在を取り消してしまいます。その内面的な感覚は、まるで自分が跡形も無く消えてしまうよな感じなのです。それは生と死を超越しています。それほど計り知れないことなのです。そして、それに耐えることは不可能です。人は自分の”私”を救うために、進んで自殺を図るでしょう。肉体は動物に過ぎず、私たちはそれを失うことを恐れていません。人が自らの生命を賭けるのはよくあることです。

クリエーターは絶え間なく私たちとゲームをして遊びます。一貫して整然と私たちの”私”を侮辱してきて、私たちは自分の主体性を保持する為の策を施すのを余儀なくされます。この人生と死を超越しなければならないという感情は、私が第二の性質を獲得するのを補助してます。私はそれを受け入れる覚悟があります。私は与えなさいと指示されます。私はそうする気です。現在の自分を失う必要があるのなら、私はその用意が出来ています!”私”の一点を保持できさえすれば。

この感覚は是正する光によってのみに与えられます。光は私たちに影響を及ぼし、私たちの最も核にある”Esh Mi Ayin” (無から創られた‐不存在からの存在)と呼ばれる点を目覚めさせます。これは快楽への願望の物質ではなく、もっと計り知れない何かなのです。

それを達成する唯一の道はカバリスティック・グループを通したカバラの勉強です。グループの中で私たちは無限の世界に存在する霊的結束の原型を築こうと努力するのです。この結束の条件を学ぶことにより、私たちはまさしくその状態へと昇進させる光を引き寄せるのです。グループとグループ内での勉強以外、方法はありません。

恥とは辛い感覚ですが、まさにその恥が私たちに救済をもたらしてくれるのです。

From the 2nd part of the Daily Morning Lesson 5/14/10, Preface to the Wisdom of Kabbalah