Entries in the 'ゾハール' Category

いくつかの基礎概念

クリエーターは、アダム・ハリション(Adam HaRishon)の共通魂(common soul)と私達が呼ぶ、全魂の繋がりの内側に存在しています。その共通魂の各部である私達が、お互いに繋がりはじめるとき、私達はその破壊された魂のシステムを是正してよみがえらせます。そうすることで私達は、人体の中の臓器が無数の繋がりを通じて繋がっているのとまったく同じように、すべての部分が相互に連結する多次元のネット(網)を作りあげます。

魂の繋がりは、かつて、クリエーターに与えることのために存在していました。その状態のなかで、すべての魂は“1つの心を持った1人の人(one man with one heart)”として、1人のクリエーターのために繋がっていました。これが次の節の意味です。「彼と彼の名前は1つである。」これは、無限の世界のなかでクリエーターと創造物が1つの総体を成していた状態を指しています。しかし、この繋がりは破壊されました。すべてのひとが愛他的な意図を失ってしまったからです。この結果としてクリエーターは消え去り、光の感覚も同様になくなりました。

魂が互いとの繋がりを失ってしまったこの状態が、“破壊・崩壊(the breaking)”または、(スピリチュアリティーからの)“追放(the exile)”と呼ばれるものです。これが私達の現在の状態です。このシステムの内部にいるすべての人は分断された個人であり、自分の小さな世界しか知覚できません。その人はスピリチュアル・ワールド(霊的な世界・精神世界)を知覚しません。なぜなら、それは私達の繋がり(絆)のなかでしか知覚できないからです。私たちのあいだに繋がりがないとき、私達は物質世界だけしか知覚しません。

上記から読み取れる基礎概念:

・魂がお互いに利己的に-自分自身のために-繋がっているとき、彼らはこの世界を知覚します。

・魂がお互いに授与(与えること)をするために繋がっているとき、その繋がりの内側にスピリチュアル・ワールド-来世-を明かします。

・お互いとの利己的な繋がりの内側で私達が明かす生が、私達の現在の物質的な人生です。

・お互いとの正しい繋がりの内側で私達が明かす生が、クリエーターの啓示と呼ばれるものです。私達は自分たちの周りにある空気を感じるのと同じように、上層の力-クリエーター-を感じるでしょう。彼は私達を宇宙の他の部分と繋げるでしょう。

したがって、すべては私達の互いとの繋がりにかかっています:それが利己的なものであるのか、それとも授与(与えること)のためであるのかということです。

私達は約一ヶ月後にイスラエルで開催される大規模なコングレスに集まる予定です。イスラエルはまさに破壊が起きた場所であり、最初に是正されることが必要な場所です。したがって、このコングレスは私達全員と全世界に影響をもたらすほどの、非常に強力なものになることができます。なぜなら、私達は授与の特質をもたらし、それを利己的な欲望により近づけさせるからです。

現在私達が学習しているゾハールの助けを借りて私達が結びつくことを願いましょう。ゾハールとは手段であり、それを通じて私達は改善させる上層の光を呼び寄せ、私達を繋げることができるのです。

魂は私達の内側にあるのか、それとも外側にあるのか?


受け取った質問:あなたはゾハールの書に記されているすべてのものを、私達自身の内側で発見しなさいと述べました。しかし、ゾハールは魂の是正についてしか述べていなく、また、私達はスピリチュアル・ワールドに入った時にしか魂を獲得しません。なら、どうすれば外側にあるものを、自分自身の内側で是正できるのですか?

私の答え:本当ですね。私達は時々スピリチュアリティーが私達の外側に存在しているといいます。その時の“私達の外側”とは“私達の欲望・願望の外側”という意味です。実際に、自己のすべては受け取りたいという欲望、自己満足したいという欲望です。したがって私はスピリチュアリティーが喜びを受け取りたいという欲望の外側に存在すると言うのです。

私達は距離や空間について述べているのではなく、特質について述べているのです。受け取りの特質に関していうと、そこにはスピリチュアリティーはありません。スピリチュアリティーはその外側にあるのです。したがって、私が“私達の外側”と言うとき、私は“現在の欲望の外側”を意味してます。

一方、私達はスピリチュアリティーが私達の内側に存在すると言います-現在の欲望よりもずっと深いところです。もし私が、食べ物、セックス、家族、お金、名声、そして権力に対するつかの間の欲望を貫通するなら -内側へどんどん深く行き、より内面的で、個人的で、重要で、永遠で果てしない欲望の中に入るのなら- 私はそこでスピリチュアルな世界とスピリチュアルな欲望を見つけます。

このスピリチュアルな欲望は、“心の中の点(point in the heart)”と呼ばれ、それは現在の自分の中で明かされている最も内部にある欲望です。なぜそれは、最も親密で偉大な欲望なのでしょうか?それがそうである理由は、その崇高な水準にあります。結局のところ、私達は全人生の目標と目的、そして人生が終わった後に何が残るのかということについて語っているのです。これらの最も親密で深い問いはその一つの点の内側に隠されています。

カバリストは「現在、それは単なる点である」と伝えます。しかし、私達がゾハールの書を読み、この点の内側を“掘る”とき、その内側に世界の全部-クロコダイル、家、星、太陽、月、人々、邪悪な人、高潔な人-が存在することが明らかになりはじめます。

この点は広がりはじめ、突然私達はゾハールが最も多様なスタイル-カバラの言語、物語の言語、歴史小説の形式、または、法と戒律を描写する形式-で説明するすべてのものがその内側にあることを発見します。ゾハールの書の全部は、この点の内側で何が起きるのかということだけについて述べられており、それを毎回特別なスタイルで表現します。

したがって、私はゾハールの書を読み、それが語っているすべてのことを自分の内側で認知したいのです。結局のところ、カバリストは「この点の内側に人の永遠的な部分がある」と言います。肉体は死んで分解しますが、この点はなくならずに残ります。したがって、それを明らかにすることは報酬になります。さらに私は次のように教えられます。「もしこの点を認知し、広げ、スピリチュアルなものをその内側で少しだけでも明かしはじめたなら、人はこの感覚とともに留まり、生と死はその人にとってなくなる」と。

この理由は、あなたが今すぐにでもこの点で自分自身を確認しはじめることができ、その内側に生を見るからです。このスピリチュアルライフは、あなたの欲望と強い願望のすべてがそこに濃縮されているように、あなたを捕らえ、あなたの注意を引きます。このため、あなたはこの肉体的人生に対し、それをより発達させて、あなたの心の点を明かし広げられるという程度にまでにしか、重きをおきません。

その次に、あなたはこの点がどんどんと大きくなる様子を突然見はじめ、その内側に現実の全体を明かします-以前まで感知できていなかった内面的な次元です。最初あなたは自分の内側に心の中の点があるとは感じませんでした。そして、そのあとでそれを感じました。今やあなたはその内側に世界全体を突然明らかにします。そこはあなたが永遠に存在しているところです。

円はスピリチュアルな完璧さの象徴です


受け取った質問:スピリチュアリティーにおける物質と形態(または形状)とは何ですか?無限の世界(the World of Infinity)の願望とは何ですか?なぜあなたはそれをいつも円として描くのですか?

私の答え:円はスピリチュアルな完璧さと平等を象徴してます。より低いものまたはより高いものもありません。そして、他の何かの左または右というのもありません。すべてのものとすべてのひとが、円心との関係性において等しいのです。

物質とは願望(欲望)であり、形態とは私が欲している特定なものです。形態の等価(同等性)とは私達が同じものを欲しいときであり、形態の違いとは私達が違う物を欲しいときです。それぞれ異なる特定な願望のすべては、まだ無限の世界に存在していますが、それらは共に合体して同等になります。なぜなら、それらは互いに与えること、統合すること、そして互いに理解し合うことを望んでいるからです。実際は、各自がその内側に他者を包含しているのです。

当然、私の仕事は自分自身を無限の世界に変化させることになります。私は無限の世界の一部です。そして共通の魂(common soul:すべての魂の集合体)の小さな臓器になります。そして他者と繋がるには、私は彼らの願望のすべて-無限の世界全体の願望-を吸収する必要があります。私はそのすべてを自分のものにするため、その円と等しくなってすべてを自分の中に包含する必要があります。そのあとに、私は全員の欲しいものを理解し、それを提供できるようになるでしょう。自分の無限の愛をすべての人に表現できるようになるでしょう。

共通魂の各部分は、他の部分すべてをそれ自身の内側に包含しなくてはなりません。しかし、私達はどのようにしてこれをすることができるのでしょうか?この理由から、器の破壊が生じたのです。すべての破片が共に混ぜ合わさって、互いの中に統合されるようになるためです。今やすべての人は、他者から成っています。これを知ると、私達は、その破壊に対して正当な評価ができ、それが私達を何処に導いたのか、そしてどんなに重要であったのかを理解します。その破壊がなかったとしたら、私は他者を理解することも、彼らの願望を吸収することも、そして彼らと繋がって無限の世界に到達することもできなかったでしょう。

ゾハールの書に対する個人の努力

私は自分の内側でクリエーターと自分の魂の全部分を見たいと願います:ケテル(Keter)、ホフマー(Hochma)、ビナー(Bina)、ダアト(Daat)、ヘセド(Hesed)、ゲヴラー(Gevurah)、ティフェレット(Tifferet)、ネツァハ(Netzah)、ホッド(Hod)、イェソッド(Yesod)、マクフート(Malchut)、そしてそれらの相互的な繋がり。これらの特質を、アブラハム(Abraham)、イサク(Isaac)、エサウ(Esau)、イシュマエル(Ishmael)、ヤコブ(Jacob)、そして12人の兄弟(12 brothers-ヤコブの12人の息子)、ヨセフ(Josef)、ダビデ(David)、ソロモン(Solomon)とも呼ぶことができます。そして、それらは全側面からヨブ(Job)やファラオ(Pharaoh)などの善と悪の力によって覆われています。

私達はこのスピリチュアル・ボディ(spiritual body-霊体)を3本線だけでなく、多次元的なものとして想像する必要があります。それは人体に多様なシステムがあるようなことに似ています:リンパ系、神経系、循環系、そして他のまだ知られてさえいない多数のシステム。さらに、これらは、それらを中を通って流れているエネルギー、液体、そして化学物質なのです。スピリチュアル・ボディにはさらに多くの構成部分との繋がりがあります。なぜなら、その部分部分に多種多様な性質と繋がりと形態が様々なレベルすべてにおいてあるからです。

それを実際に感じるようになるまで私達にはこれを学ぶことはできません。それを学ぶことができると思っている人は愚か者です。私達には、全てが授与の為に働くこの統合したシステムの中で存在したいと願う必要があるだけです。そのシステムの中で私達はクリエーターと創造を見つけるでしょう-実際には全ての物がその内側にあります。私達は「人間は小さな世界である」という原理に従ってそれを考察しなくてはなりません。

しかし、私達はこの私達の世界や肉体的な体について述べているのではありません。“人間”とは自分のことであり、“小さな世界”とはゾハールの書とその物語のことです。

欲望と特質:定義


受け取った質問:欲望(願望)と特質(性質)の違いは何ですか?欲望とは何ですか?特質とは何ですか?

私の答え:欲望とは創造を構成している物質であり、それは常に受取りをします。それについて他に言及することはありません。特質とはその物質(欲望)がとる形です。形は、欲望の働き方、欲望がその働きから期待するもの(その意図という意味)とその目的を決定します。自分自身の為にか、それともその外側にいる誰か(他者とクリエーター)の為にかということです。この物質は喜びを受け取りたいという欲望ですが、環境や状況などによって、様々な形の働きが遂行でき、様々な状態になれます。

例えば、私は完全な授与(与えること)の特質である“アブラハム”の特質という事実にもかかわらず、誰かに制御されているという理由から、私には授与する機会がない。私には授与する相手がいない、または、周りの人々は私が授与する事を望んでいないという状況に居るのかもしれません。

これが特質と呼ばれるものです。特質とは、喜びを受け取りたいという欲望が、ある特定の外面的な形で働き、その形に包まれる(または、その形を装う)ことを意味します。主要な10個のセフィロート(Sefirot)というものが存在し、その他すべてのスピリチュアルな“物体”は、それらを内包する形または特質です。

ゾハールを読むとき、私達は私達の中にヨブ、ファラオ、そしてクリエーターといった様々な特質を認識します。これらすべては特質であり、私達の受け取りたいという欲望に包まれています。私達が想像できるどんなものも、単に喜びを受け取りたいという欲望です。したがって、私達の視点からは、クリエーターも喜びを受け取りたいという欲望の特定の形です-照らしている、高尚、高い、すばらしい、全ての人に授与しているというように。私達は彼のことをこのようにしか想像できません。なぜなら、私達は受け取りたいという欲望以外のどんな物質も有することができないからです。

徐々に、私達がどのくらいこれらすべての特質を私達の内側で識別しようと試みるかによって、包む光(Surrounding Light)の影響を受けます。その結果、スピリチュアルなシステムがますます内側で明確になりはじめ、私達はこれらの特質を正しく知覚しはじめます。必要なのは辛抱だけです。

この現実のスクリーンの後ろに隠れているもの


受け取った質問:ゾハールは私達の世界について述べているのではないと理解しています。しかし、どうやって私達はそれが述べてる願望(欲望)を日常の生活に役立たせることができますか?

私の答え:ゾハールは私達の世界についても述ています。ただし、人はコンピューターのスクリーンに映るイメージのように私達の世界を地上的なイメージの形で想像しているのにたいし、ゾハールは私達の内面でその映像を作り上げている力について述ているのです。ゾハールを読むに従って人は徐々に自分自身と世界を、上層の力(または特質)の投影として理解し始めるでしょう。

映像とそれを描いている力との繋がりを見ることは、人にこの映画のクリエーターと、彼の計画と、彼について理解させます。人は、彼との一体化に達するにつれて、自分自身の内側から彼を理解するようになります。

さらに、人は日常生活のうえでさえ、その同じ事について考えることを試みるべきです。そして、そうすることで人はこの世界またはこの現実とそのメーカーであるクリエーターとのとぎれない明確な繋がりを徐々に獲得するでしょう。

ゾハールの書は皿洗いしながらでも作用します


私達はゾハールをただ読むだけで、正しい感覚と必要な要求に到達します。なぜでしょうか?

私達は一方でその光の源にたいして正確に照準を定めないかぎり、また、この光線の中に入って集団の願望に到達する為に他のすべてのひとと団結しないかぎり、成功することはないと学びました。その条件に関しこれは正しいことです。しかし、もう一方で私達が学習し努力し様々な状態を体験する時、その間に光が私達に働き影響を及ぼします。

私達は“浄化すること”で時間を加速することができ、これがベストです。しかし、どんな場合やどんな状況、たとえ主婦が家での雑用に仕えてお皿洗い(ヘブライ語のお皿のことも“ケリム”と呼びます)をしながらでも、その間に私達のテレビチャンネルかインターネットのゾハールの放送を聞いているのなら、その人は自分のスピリチュアルなケリムの世話もしてることになります。

このようにこの本は作用するのです。私達に必要なものは辛抱だけです!

一人で達成できることは何もない


私は自分一人では、存在していません。全魂の単一体と呼ばれるメカニズムに自ら自分自身を注ぎ込んでやっと存在するのです。この理由から私はゾハールの書を通して自分自身を開きたいと思っているのです。なぜならゾハールの書の力が、まだ私に無縁に見える自分の全部分を繋げるために送られてくるからです。

ゾハールの書は厳密にこの為に意図されたものであり、この使い方以外に自分がその一筋の光の下に来ることはできません。この光線はレーザーのようにとても細く、1ミリでも向きを変えればそれを見ることはできません。その光線を影響を受けるには、この光線のなかに正確に居なくてはなりません。

カバリストは私達にこの条件についてつぎのように説明します。もし私達がすべての魂と正しい方法で繋がったなら、私達は私達自身をこの光線のなかに置くことになる。団結が崩壊すれば、すぐにすべての人が崩壊し、全方向に散らばる。この光線の他に私達を団結させれるものはない。

これはスピリチュアルな梯子のすべての階で起きることであり、私達はこの光線に沿ってでしか、それを登ることができません。私達がお互いのことを離してしまえば、すぐにすべてのものは崩壊し、その一筋の光は私達を団結できなくなります。私達の団結を保存できる力はこれにしかないのです。よって、この団結の為に私達はこの光を引き寄せることを願うのです。私達が繋がるにはクリエーターが必要であり、これはこの“改善する光”を引き寄せなくてはならないことを意味します。

どのようにして私達はこの団結を感じることができるのでしょうか? 私達はゾハールを読んでいるあいだにこの団結を要求しなくてはならず、ゾハールはこの団結を私達に与えなくてはなりません。これが、なぜカバリストがこの書物を書いたのかということの理由です。そして私達には次のことを尋ねる権利があります。「私達は望もうが望むまいが、団結することになっています。しかしその団結とはどこにあるのでしょうか? なぜゾハールは私達に効果をおよぼしていないのでしょうか?」と。もし私達の全員がこのことを一緒になって考えたなら、それは大きな関心事になり、私達はひと時も忘れることができなくなるでしょう。そうすればそれは成功します。しかし一人では、私達のだれもがなにも達成することはありません。

スピリチュアルな発達は赤ちゃんから学べます


受け取った質問:私がゾハールで説明されている内面的特質を少しも理解していなく、それと繋がることもできない場合、私はどうそれを見つけることができますか?

私の答え:私達は、自分がどんな世界に存在しているのか知らないが、成長に必要なものすべてを提供する母親や身内の愛情を抱いた手の中にいる赤ちゃんに似ています。赤ちゃんはただ成長したいと思わなくてはならないだけで、自然はこの欲求を赤ちゃんに与え助けてくれます。

私達の世界において、つまり動物レベルにおいて、この欲求は赤ちゃんに自然に備わっています。この世界の中における人間の身体的発達を含む動物レベルに加えて、無生物と植物レベルにおいてでさえ、成長したいという自然的欲求が存在しています。しかしながら、もし私達が人間レベル-スピリチュアリティ-において成長したいのなら、その欲求は私達から生じなくてはなりません。

無生物レベル、植物レベル、そして動物レベルの発達は自然に起きます。この程度まで、私達-この世界の中にいる人々-はこれらすべてのレベルにおいて発達し終えました。そして、過去から現在において私達の欲求も同じレベルにおいて発達しました。しかし、今や私達は“スピーキング(言葉を話す)”レベル、または“人間”レベルへと上昇しなくてはなりません。人間レベルとは、私達が自分たちの力で発達して目標を達成しなくてはならないという意味です。私達の身体的欲求(食べ物、セックス、家族)と社会的欲求(富、権力、知識)のすべてに基づきながら、私達は自分たちの力でスピリチュアリティに対する強い欲求を発達させなくてはなりません。私達は心の点(the point in the heart)によって始まりますが、そのあとは、環境からの助けを借り、その発達を押し進め続けなくてはなりません。

これを行うには、私達にはグループが必要です。なぜなら、それしか心の点を発達させる欲求を与えることができないからです。この欲求で“武装”しながら、私達はグループと一緒にゾハールの書を読み始めるのです。読んでいる間、私達は発達したいと思わなくてはなりません。そこでの“発達”とは、未来の状態または感覚をゾハールの書の中で見つけることを意味します。私達が現在探しているものはこれだけです。

この他に私達がしなくてはならないのは、待つことだけです。したがって、だた成長したいと願ってください。大人になりたいと自然に思う赤ちゃんのように。赤ちゃんを落ち着かせて、彼に成長しないよう、または成長したいと要求しないよう説得させることができるか試してみてください。あなたはそれが不可能であることに気づくでしょう。なぜなら、自然は彼に成長するよう打ち勝ちがたい力で駆り立てるからです。私達はこのように根気強くスピリチュアリティに対して努力しなくてはなりません。私達は常に私達自身の内側で捜し求めていなくてはなりません。そしてどんなときも落ち着つくことなく、変化し続けなくてはなりません。そうすれば、私達は確かに成長するでしょう。これが私達に求められている唯一の条件です。

そのシステムは存在していますが、私達は欲求で、つまり内面の強い願望でそれを動かさなくてはなりません。この内面的圧力が私達から生じないかぎり、そのシステムは私達を感化しません。言い換えると、それは私達を目覚めさせるために、苦しみを通して私達を感化するでしょう。しかしこの方法で私達は一歩も前進することはありません。上層から送られてくる苦しみを手段として。私達は、下から、つまり私達から、生じる私達自身の欲求を手段にすることでしか進歩できません。

私達は絶え間ない困難と問題を受け取っているかもしれませんが、同じ場所で動けなくなっていることの理由は、これらの問題が私達にとって、正しいグループと融合して発達したいという欲求を獲得するのに十分でないからです。困難にもかかわらず、私達は同じ場所で立ち続けるでしょう。困難があるというだけでは、それは発達の兆候ではありません。それどころか、それは私達がまだ一歩も前進していないことの兆候なのです。

正しい器だけが真の充足を受け取れます


ゾハールは、この世界に属する通常の感覚または知性を満たす為のものではなく、私達の心の点を明かす為のものであると、私達は理解しなくてはなりません。この本を開いて絶望する理由は、私達にそれを感じることができないから、または理解することができないからです。しかし、あなたはどのような感覚または理解を期待しているのでしょう?ゾハールは特異な仕方であなたに影響を与え、それはあなたの思っている仕方とは異なります。

あなたは樽、またはバケツ(利己的な欲望)を用意し、実際は利己的な充足を望んでいるのに、スピリチュアルな充足なようなものでそれらが満たされることを期待しています。しかし、ゾハールはあなたに特殊な受け取りをする器を与えます-授与をする非利己的な器と、それに相当する充足-授与の喜びです。

これらは誰もが経験する正常なフェーズで、徐々に自分のクリ(Kli)と態度と期待する充足を明らかにします。その結果、すべての間違った信念がいつか消え去り、正しい充足の用意が整った正しいクリを明確にします。