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来世

自由:永遠を獲得する

バール・ハスラムの論文「The Freedom(自由)」は以下の言葉で始まります。「石にHarut(彫られている);それをHarut(彫られている)ではなく、Herut(自由)と発音せよ。彼らが死の天使から解放されることを示すために。」この世でスピリチュアルな上層世界をまだ感じることができなく、単に他の動物のように自分の人生の心配しかしないとき、その人には何が必要なのでしょうか? この時の人の主な心配事は生と死です。自由が死の天使からの解放を意味すると記されたことには理由があります。その理由は、カバラの科学が永遠を獲得する方法であり、それは根本的にすべての人にとって重要であるということです。

人類は無意識に自分たちから死の問題を隠します―この問題に解決策はないが、それは私達の全員を無価値な存在にまで縮小します。この世における私達の全行為(文化、教育、仕事)は、死の必然性に目を向けないためになされます。私達はそれを遠くに追い払い、まるでそれが存在しないかのように、それについて考えないようにします。しかしながら、この問いが現れるとき、死を止めることに対してできることがないため、人は完全なる無力感に陥ります。私達はどんな事も対処すること及び達成することが可能です、一つのこと以外―永遠の命。

死の必然性は自分という人間を打ち消します。したがって、人類が無意識に従事する全てのことは、一つの考えから来ています。仮に私達が死ぬことがなかったとしたら、どのぐらい私達が人生に対し違った見解を持つのか、私達は理解していません。私達の存在、現実、そして他者に対する感じ方や態度は、全く違うものになることでしょう。

毎日のカバラレッスン 2010年4月15日 第三部 論説『自由』より)

知覚範囲を広げる―正反対なもの両方が真実になることがある

イサクはアブラハムと正反対に成長する力であり、彼に反する助けとしてアブラハムに仕えます。私達は、スピリチュアリティが、以前に私達が考えていた1つだけの力ではないことを発見しはじめます。2つの正反対の意見が共存し、その両方が真実になることがあるということを理解する能力は、私達にはありません。それはまだ理解されていませんが、まさにこの衝突と争いの中で、真実が明きらかになるのです。私達は全てのものが分かり易く明確に定義されるべきだと考えます。

しかし、私達は物事において最初に知覚したときのような明快さがなくなることを実感しはじめます。私達が「イサク」の特質を扱いはじめ、それを是正しはじめるとき、物事において以前私達がエゴイズムだけを使って知覚していたときのような分かり易さがなくなることに気がつきはじめるのです。言い換えると、私達のエゴイズムを通して見た全てのものは、楽しむ願望と、願望の反対側にある喜びであったのですが、今や私達は左の線と右の線があることを知るのです。そのうえ、その両方が真実で正しいのかもしれなく、このことが私達の進歩を助けます。そのもう一方で、その両方は互いに矛盾し合うかもしれませんが、それにもかかわらず、その両方には創造のなかに居場所があるのです。その理由はそれらが両方ともクリエーターにつながっているからです。

実際には「イサク」と「アブラハム」の特質の両方は私達の内面に含まれています:クリエーターから離れて存在し、創造物としての存続を可能にする、自分自身の受け取りの特質があり、その上にはクリエーターから獲得する授与の特質があるということです。ということは、人間の内面の中には、いつまでもこれら2つの力の対立が存在し続けるのです。したがって、唯一イサクを高めることによって、アブラハムはクリエーターに関する自分の本当の位置を理解するようになるのです。これが何故「息子」(Ben)が、新たな段階、Binaである「理解」(Leavin)を意味するのかということの理由です。


天国と地獄は私達が内面で経験する“フレーム”である

『ゾハール』VaYaera(そして主は現れた)章 258節:クリエーター が執行した洪水におけるDin(判決)とソドムにおけるDinは、両方とも地獄のDinimDinの複数形)であった。なぜなら地獄のなかの悪人は水と火によって判決を下されるからだ。

259節:ソドムは地獄の判決によって宣告された。「そして主はソドムに雨を降らせ、ゴモラには硫黄と火が天国のそとの主から下った」と記されているように。一つは水の刑に処され、一つは火の刑に処された。そしてその両方が地獄の刑である。そして地獄のなかの悪人には、これら二つの判別によって判決が下される。なぜなら水である雪の地獄があり、火の地獄があるからだ。

私達は、全ての差異の識別が自分たちの内面で行われているだけで、現実それ自体は不変であることを理解しなくてはなりません。私は今も無限世界にいるのです。そして、その存在している現実のなかで変わるものは何もありません。唯一変化するものは、自分の知覚、感覚、意識、理解、そして査定(評価)です。これらの変化とは、自分が感じるものなのです。

「すべての人はその人自身の欠点の度合いにまで判断する」と記されてます。言い換えると、私は無限世界に対する自分の査定に従いながら、自分の内面に像を描写しているということです。この理由から、天国と地獄、善と悪、火と水による判決というものが、静的かつ不変の像に対する自分の感じ方の異なるレベルであるのです。「私は、私のHaVaYaHを変えなかった」と記されてます。

私達は、不変状態に対する自分達の感じ方(態度・姿勢)で、内面に現実を描いています。全てのものは、無限世界・クリエーター・光・絶対的な授与に対する私達の特質、知覚、そして査定によって決まります。

天国、地獄、そして判決(審判)の様々な種類は、自分自身の内面で明らかにする全状態のことです。外側で変わるものは何もありません。すべてのものは、自分の意識又は視覚なかで生じる変化によって決定されます。言い換えると、全てが自分次第、内面にある価値観と特質と基礎によって決まるということです。

したがって、すべてのものは教育と自分の基礎を変えることを援助する社会によって決まります。このようにして私は、決して変わることのない現実に対するより正確な感じ方(態度・姿勢)を発達させることができるのです。内面の特質を変えれるように早くなればなるほど、1つの“フレーム”から次の“フレーム”へますます早く進むことができます。


光に同調する器具を造る

創造物が充足した状態に到達する前には、充足されたいという願望を獲得するプロセスが前もって必要です。この充足に対する期待をつくりだす平凡な例には、動物の求愛行為や私達が特別な食事のために“食欲をとっておく”ことなどがあります。充足されたいという願望をつくる準備段階は、充足そのものよりも常に重要です。なぜならそれが、そのうち経験するようになる喜びの種類と度合いを定めるからです。

スピリチュアリティーのなかでは、すべてが願望によって決まります。なぜなら、光(喜び)は永続的で限りがなく、完全に穏やかであるからです。それは常に私達の周りにある全空間を満たしています。私達に欠けているのは、それを受け取りたいという願望と、それを知覚させる道具です。

しかし、光を受け取りたいという願望は、食欲をそそる“スパイス”—“胡椒”、“塩”、“マスタード”、そしてその他の”調味料”—を加えることによって徐々に私達の中で造られています。それは“いちゃつく”ような遊びに似ています。クリエーターは繰り返し私達に喜びを味わせてはそれを取り上げて遊んでいます。この“遊び”は私達の将来の充足に対する正しい姿勢を造り洗練させます。

トーラーは“スパイス”(Torah Tavlin)と呼ばれます。なぜなら、それは私達に願望を啓示し、その育て方を教え、そしてそのあとに、その正しい満たし方を教えます。具体的に言うと、それは私達を待つ将来の正しい喜びと充足へと導くのです。現在私達はトーラーの助けを借りて正しい願望を造り上げようと努力しています—たとえ光が私達を取り巻いていても、トーラーなしで光を知覚できるようにはなれません。

私達には光を標的として明らかにさせる願望はまだありません。それは送信された信号を受信するために一定の周波数(波長)に同調しなくてはならないラジオに似ています。ラジオはその外の波を引きつけるために、外の波長に十分つり合う一定の波長を造らなくてはならないのです。

私達は学習によって小さな“スピリチュアル・フレーバーの味”を受け取り、私達を持ち上げる光を引き寄せます。そしてそのあとにそれは私達を落とします。それは時には気持ちよく、時にはあまり気持ちよいものではありません。しかし、このようにして私達は光のための器、光を知覚させる道具(感覚器官)を造ります。言い換えると、私達の外側にある光に類似する“波”を造るということです—唯一そのあとになってのみ、私達はそれを達成できるようになります。

その“器具”が用意されたらすぐにそれは光を受け取り始めます。これには何の秘密もありません。それが私達にとって不可思議に思えるのは、私達にはそれが見えず、私達の願望はまだそのための用意ができていないからです。私達の問題はこれだけです。私達の外側で隠されているものは何もありません—隠されていること(コンシールメント)は私達の内面にあるのです。

統一体に到達するための機会

共通の魂の破壊は本当に大きな事でした。クリエーターはその破壊を通じて私達に、私達が存在して私達自身を表現するための機会を与えました。結局のところ、もし共通の魂の各部分が互いから引き離されることがなかったなら、私達はクリエーターのイメージを描くことも、私達自身を他者に関連させて知覚することも不可能でしょう。さらには、1つの統一体の中で何かを識別することは不可能であるため、私達は光のなかで単に消えてなくなっていたでしょう。

創造物が1つの統一体のなかで存在することはできません―私達と私達以外のものがあるときにだけ、私達は存在できるです。私達の知覚は、私達の間に距離があるということの結果から生じています。私達は純粋な光または完全な暗闇の中で達成できるものは何もないのです。

これゆえに、破壊が私達に、存在における達成と体験の機会を与えるのです。もしそうではなく、私達が絶対的なものや完全な暗闇のなかにいるとするなら、私達には何も感知するものがなくなり、私達が存在していることも感じることはできないでしょう。この理由は、私達のすべての感覚が二つの反対のものに対する知覚に基づいているからです。例えば、物音と静寂、または、臭いと無臭などです。もし私達のすべての感覚器官の中が“静寂”であったら、私達は私達自身を認知できません。

したがって、破壊はまさに創造物に存在とそれ自身の知覚の機会を与えるために起きたのです。これはまさに神の特許です。私達は破壊が起きた場所の空間を埋めています。お互いの間にある光との距離のように一見映っている、その破片の間にある空っぽの空間を、私達は埋めているのです。しかし実際は、私達に最初と同じ統一状態に自主的に到達する機会を与えるために、クリエーターが1つの統一体から消え去ったのです。


濾過された現実

私達の利己的な願望は、その目的に現実をふさわしくするためにそれを濾過します。事実上、私達はフィルターを通して世界を見ています。言い換えると、私達は、世界、自然、社会、そして人々におけるその本当の姿を客観的に見ていません。もっと正確に言うと、私達はただ自分たちのエゴにとって利益になるもの、何がエゴにとって有益か又は有害かというようにしか見ていません。したがって私達は無限の現実の非常に小さい部分、“この世”しか感じません。なぜなら私達のエゴにとってそれ以上のものを知覚することは不可能であるためです。

私達の世界は偉大なるアーティストによって描かれています

私は、私の頭の中のスクリーンに映画が映し出されるように全世界を私に描いている力に助けてもらって現実を見ています。これらの映像は3次元で、生気に満ちあふれていて、肉感的です。ともかくこれが、私の知覚の仕方であり、それらが私に与えている印象です。しかし、実際には、それらは単なる力または願望です。

 結局のところ、そのすべてのものを知覚しているのは私です。私は自然の無生物段階、植物段階、動物段階、そして人間段階を自分の願望の内部で知覚します。これらすべての形は私の中にあり、願望の様々な段階にあるのです。私は無生物な自然を私の無生物な願望で知覚し、植物的な自然を私の植物的な願望で知覚し、その他も同様です。

 クリエーターの力は様々な形を私の願望の内部に描き出し、私はそれらを私の世界として知覚します。この力が私の中-私のマインドのスクリーン-に世界を描くのです。私のために世界を描くこの力は、授与の力・クリエーターの力です。私はすべての形を彼・与える者から受け取ります。

 彼に類似する形もあれば、彼とは反対の他の形もあります。それらが合わさって私の世界は構成されてます。こうした理由からこの世界はとても多面的であり、私はその中に多種多様な物体を見るのです。各物体にはポジティブな面とネガティブな面があります。これはどこから来ているのでしょうか? その理由は、クリエーターは物質を着飾って、これらすべての形を私の中に創造し、それらが私の物質-エンジョイしたいという願望(快を得たいという願望)-の4つの段階に印象を刻み込んでいるからです。彼はこのようにして徐々に私に物質と物質の形状(Haskala HomritHaskala Tzuratit)について教えるのです。

 私が目にするこの世界、そしてその多数の形状も、クリエーターによって私に与えられたものです。私の物質の内部で彼はこのように私に世界を説明します。私の目の前に現れる世界はクリエーターの姿・形ですが、それは自分に関連していて、自分の状態に一致するものです。物質は自分のものですが、形状は彼のものです。これが、なぜ私が私自身の中にクリエーターを獲得できるのかということの理由です。

すべてのもの、スピリチュアルな世界やクリエーターでさえあなたの中にあるのです

受け取った質問:なぜ私達はスピリチュアルな領域を知覚できないのですか?

 私の答え:私達は、スピリチュアルな領域を感じることを可能にするスピリチュアルな特質を持っていません。私達はそうしたという願望を持っていますが、その願望は受け取りと吸収を用いてスピリチュアリティーを感知しようとするのにたいし、スピリチュアルな知覚とは私達に欠如している授与の特質に基づいているのです。しかしながら、私達の目指すものとはその獲得です。

 私はクリエーター(私の外側に存在しているなんらかのもの)をモデルにして私自身を作らなくれはなりません。私は彼を知らないし、彼についてのことも知りません。私にできることは、私自身を彼にある程度似ている存在に変化させることだけです。そのあとで、私は私自身を、与えることをするクリーチャーとして感じはじめるでしょう。これがスピリチュアリティーを獲得するということの意味です。

 スピリチュアリティーとは、授与の“形”を私自身の中に築くことです。この“形”こそが、私達が呼んでいるクリエーターであり、スピリチュアルな世界のなかの魂を通じて私達が獲得するものです。自分以外にこの形を作れる人はいません。なぜなら、私は私自身の外側にあるものをなにも感じないからです。カバリストは私に伝えます:「現在のあなた自身を切り詰めなさい、あなたの願望を縮小しなさい、そしてそのあとで、それらを受け取りの為ではなくて、与える為に使いなさい。」

 あなたはこれをなんとか成し遂げましたか?もしできたのなら、今なにを感じますか?あなたの新しい知覚が“スピリチュアルな世界”、“クリエーター”、“魂”と呼ばれるものです。それでもまだあなたは、あなた自身の外側にあるものをひとつも感じません。あなたは単にあなたの願望のあたらしい形を感じるのです。これこそが私達が呼んでいる“スピリチュアルな領域”です。

 私の願望を創造した、私の外側にあるものは存在するのか? 私はこの質問の答えを知りません。しかし私は、私の“外的な”願望も私の内的な願望を通して感じられていて、私の外側にあるものを通じて感じられることは絶対にないということを知っています。

 私達は物質的な現実またはスピリチュアルな現実も知覚することができますが、どちらの場合にしても、私達はどんなものもそれを構成している物質とその形状を通じて知覚するのです。よってどちらの世界においてもその知覚のされ方には違いがありません。私はこの物質的な世界が私の外側に存在していると想像していますが、実際にはそれは内側にあります。同様に、私はクリエーターとスピリチュアルな世界が私の外側に存在していると後ほど想像するでしょうが、これも内側にあるのです。それは単に私の願望を構成する物質が新たなシェイプ、新たなイメージ、または新たなシルエットを装っているだけなのです。