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クリエーターからの欲求

どのように欲望を使うことを避けるのか?

受け取った質問:“欲望を使うことを避ける”とはどういう意味ですか?

私の答え:欲望の使用を避けるということは、ただ自分自身を抑制させるとか、“自分の口を塞ぐ”というのとは対照的に、その使用を欲しないということです。例えると、医師が甘いものを食べることを禁止するとして、本当はそれを欲しいのに自分自身を制限しなくてはならないということです。

スピリチュアリティにおいて“欲望を避ける”ということとは、自分の中で他にもっと重要な物に焦点をあてることによって、この欲望に勝る力を見つけるということです。この欲望を使う選択をしないということです。そうでなければ、この決心に価値はありません。

この意味は、医師が突如甘い物の摂取を許したとしても、それに自分が便乗しないということです。これはそれを食べたくないという意味ではなく、単に自分がこの欲望を使うことをしていないということです。

この説明が難しい理由は、物質世界に住む私達には、このような計算が欠けているからです。私達の計算のすべては一つの次元でおこなわれています:どっちの喜びの方がより重要かということです。一方、スピリチュアル・ワールド(精神世界・霊的な世界)での計算は、二つの次元で行われます:自分か、またはクリエーターかと、より重要な方を決断するのです。私は自分のどんな欲望にも勝るクリエーターに対する重要性を持たなくてはなりません。それを使いたくない、それを使いたくない理由がクリエーターに対する重要性であるというように。

では、どうやってこれをすればよいのでしょうか? クリエーターの啓示を要求すればよいのです。欲望の使用を回避できる力を彼に頼めばよいのです。そうすれば、啓示されるクリエーターの光のなかで、自分自身を欲望よりも上の位置に留めておくことができるでしょう。その欲望はなくなりませんが、それを克服し、それを使いたいとは思いません。しかし、光が引いたとしたら、即に自分はもう一度欲望のなかに落下し、それを使いたくなるでしょう。その時は何も自分を止める事はできません。改善する光(the Light that Reforms)が送られてくるとき、それは磁石のように自分を空中に浮かせます。その光だけが自分をスピリチュアリティのなかに留まらしてくれるのです。それは私を照らし、引き寄せ、喜びを受け取りたいという欲望を克服させ、私をその上に上昇させます。

この意味が、“欲望の使用を避ける”ということです。欲望は依然として存在し続けますが、それを使わないということです。

私達はこの世界で欲望の実用性に沿ってその計算を行います。もし体重を落とす必要があるときは、食べる事をやめるか、自分自身を抑制し特定の欲望を使わないようにします。その訳は、罰を恐れているからです。スピリチュアリティにおける欲望を使用しない理由は一つしかありません。それはクリエーターの偉大さです。そして、私はこの理由から自分の欲望を受け取りから授与(与えること)へと引っくり返すのです。

スピリチュアルな発達は赤ちゃんから学べます

受け取った質問:私がゾハールで説明されている内面的特質を少しも理解していなく、それと繋がることもできない場合、私はどうそれを見つけることができますか?

私の答え:私達は、自分がどんな世界に存在しているのか知らないが、成長に必要なものすべてを提供する母親や身内の愛情を抱いた手の中にいる赤ちゃんに似ています。赤ちゃんはただ成長したいと思わなくてはならないだけで、自然はこの欲求を赤ちゃんに与え助けてくれます。

私達の世界において、つまり動物レベルにおいて、この欲求は赤ちゃんに自然に備わっています。この世界の中における人間の身体的発達を含む動物レベルに加えて、無生物と植物レベルにおいてでさえ、成長したいという自然的欲求が存在しています。しかしながら、もし私達が人間レベル-スピリチュアリティ-において成長したいのなら、その欲求は私達から生じなくてはなりません。

無生物レベル、植物レベル、そして動物レベルの発達は自然に起きます。この程度まで、私達-この世界の中にいる人々-はこれらすべてのレベルにおいて発達し終えました。そして、過去から現在において私達の欲求も同じレベルにおいて発達しました。しかし、今や私達は“スピーキング(言葉を話す)”レベル、または“人間”レベルへと上昇しなくてはなりません。人間レベルとは、私達が自分たちの力で発達して目標を達成しなくてはならないという意味です。私達の身体的欲求(食べ物、セックス、家族)と社会的欲求(富、権力、知識)のすべてに基づきながら、私達は自分たちの力でスピリチュアリティに対する強い欲求を発達させなくてはなりません。私達は心の点(the point in the heart)によって始まりますが、そのあとは、環境からの助けを借り、その発達を押し進め続けなくてはなりません。

これを行うには、私達にはグループが必要です。なぜなら、それしか心の点を発達させる欲求を与えることができないからです。この欲求で“武装”しながら、私達はグループと一緒にゾハールの書を読み始めるのです。読んでいる間、私達は発達したいと思わなくてはなりません。そこでの“発達”とは、未来の状態または感覚をゾハールの書の中で見つけることを意味します。私達が現在探しているものはこれだけです。

この他に私達がしなくてはならないのは、待つことだけです。したがって、だた成長したいと願ってください。大人になりたいと自然に思う赤ちゃんのように。赤ちゃんを落ち着かせて、彼に成長しないよう、または成長したいと要求しないよう説得させることができるか試してみてください。あなたはそれが不可能であることに気づくでしょう。なぜなら、自然は彼に成長するよう打ち勝ちがたい力で駆り立てるからです。私達はこのように根気強くスピリチュアリティに対して努力しなくてはなりません。私達は常に私達自身の内側で捜し求めていなくてはなりません。そしてどんなときも落ち着つくことなく、変化し続けなくてはなりません。そうすれば、私達は確かに成長するでしょう。これが私達に求められている唯一の条件です。

そのシステムは存在していますが、私達は欲求で、つまり内面の強い願望でそれを動かさなくてはなりません。この内面的圧力が私達から生じないかぎり、そのシステムは私達を感化しません。言い換えると、それは私達を目覚めさせるために、苦しみを通して私達を感化するでしょう。しかしこの方法で私達は一歩も前進することはありません。上層から送られてくる苦しみを手段として。私達は、下から、つまり私達から、生じる私達自身の欲求を手段にすることでしか進歩できません。

私達は絶え間ない困難と問題を受け取っているかもしれませんが、同じ場所で動けなくなっていることの理由は、これらの問題が私達にとって、正しいグループと融合して発達したいという欲求を獲得するのに十分でないからです。困難にもかかわらず、私達は同じ場所で立ち続けるでしょう。困難があるというだけでは、それは発達の兆候ではありません。それどころか、それは私達がまだ一歩も前進していないことの兆候なのです。

木でさえも欲しいものを知っています

受け取った質問:自然には様々な原材料があります。金属、木、石、その他です。それらは完全に受動的な物です。私が見るに、それらはすべて無生物です。しかし、願望とはもっと能動的(活動的)なものです。なら、なぜあなたはそれらを願望と呼ぶのですか?

 私の答え:鉛筆は、木からできています。そして木はその形またはその構造-原子間のつながり-を維持することを望んでいます。もしあなたがそれに何かをしようとすれば、それはあなたの変化に屈することを望みません。それはその形を維持しようとし、抵抗します。あなたがそれを壊すには、つまり木の持つ自分の身を守ろうとする願望と自己を保存しようとする願望を壊すには、たくさんの労力が必要になります。

 この原材料は一つの力です。この原材料の特性を測ることによって、あなたはその原材料のもつ外的な影響に対する抵抗力を測ります。その特質と状態を変化させるには、更なる力を加えることが必要なのです。これを願望または物質と呼びます。