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治癒のプロセスのかぎは忍耐である

私達の利己的な願望を克服させる上層の光は、常に私達に影響を及ぼしています。しかし、そのうち私達は自分たちの力でその願望の外への脱出を続けなくてはならなくなります。光が私達を上昇させるとき、私達はそれをエジプトからの脱出のように感じます。しかし、もしエジプト(利己的な願望)が自分たちの中にあり、それが私達の真の性質であるとしたら、私達は本当にエジプトから脱出できるのでしょうか?

これは私達に疑問を投げかけます:私達が砂漠のなかにいるということの意味とは何なのか? それはエジプトが自分に戻ってきて、私がその全部分から外へと脱出しなくてはならないときのことです。これが砂漠の中での40年間の旅のことです。それは私が順次的に自分の願望を大きくさせて、それを認識するときのことです。1つそしてまた1つと順次的に臓器が発達する人間の胎児のように。最初の一部が発達し、そのあとにもう1つの部分がというように、発達は次から次へと一つの方向へと向かいます。様々な障害と問題を克服しながら。魂の成長プロセスは、母親の子宮のなかの胎児の成長プロセスに似ています。

私達は『ゾハールの書』があるという事実に感謝しなくてはなりません。なぜなら、それは毎日のように私達を変化させてくれる救済手段であるからです。しかし、私達はこの手段がフルに作用しだすまで、その結果を感じないでしょう。それは、数週間後になってやっと気分がよくなるような、毎日摂取しなければならない病人に処方された薬のように徐々に作用するのです。

 

エゴイズムがそれ自体の苦しみを引き起こしている

クリエーターが苦しみを送ることはありません。上層の光に似ていない願望が私の中で目覚め、私はこの相違(似ていないこと)を、健康、お金、名誉、権力、安心、配偶者、子供、そして世界全体に関する苦しみとして感じます。私は圧力と困苦と様々な問題を感じます。

誰に、または、何に責任があるのでしょうか? 光と反対である自分の願望にあるのです。それは苦しみの感覚を私の中で生じさせます。この感覚は光から送られてきているのではないのです。光は完全な静止状態(不変状態)にありますそれは善であり、悪人と高潔な人の両方に善をもたらします。光と似ていないのは自分です。自分の特質が光と異なっているのです。

例えば、もし私の中で10kgの願望が目覚めたとしたら、私は光とその10kg分同等にならなくてはなりません。つまり私は与えるためという意図をその願望の上に築かなくてはならないのです。そうすれば、私は自分の小さな無限世界の中に自分自身を見つけるでしょう。その後、願望は12kgに増大し、私は与えるための意図をさらに2kg分是正しなくてはならなくなります。そうすれば私は自分自身をもっと大きな無限世界で見つけることになります。このように是正プロセスは行われていきます。

私の利己的な願望は毎日大きくなっています。しかし、もしも私がその大きくなった願望を、他者とつなげ共通の魂の他の部分と一緒にクリエーターに与えようとするのではなく、ただ自分の利益のために他者を搾取することにもっと使いたいと思うのなら、私はその願望のなかに苦しみを感じます。エゴイズムはそれを包んでいる光に対する自分の反対状態に苦しむのです。私達は自ら自分たちに苦しみを生じさせているのです—それはクリエーターではありません。彼は完璧なので変わることができません。

今私は光の海に浸かっています。しかし、もし私が彼に類似しようと努力しないなら、私は今自分に明かされている考えと願望の程度にしたがって気分が悪くなります。そして明日は今日よりもさらにもっと気分が悪くなるでしょう。

自分を光に似させることをすべての瞬間において試みてください。光とは授与(与えること)および他者への愛ですそれは総結合状態です。私的な願望と個人の魂のすべては一つになり、この一つの大きな願望が光に類似するようになります。

どうやって私はこれを達成できるのでしょうか?どうやって私はこの過程の中で援助することができるのでしょうか? そのことについて考えはじめればよいのです。そうすればあなたの苦しみは解消されるでしょう。突然あなたは、光を切望していた自分の願望が本当に光に似ていることに気づくでしょう。あなたはこの点において、自分自身が光、クリエーターになったと感じるでしょう。あなたにはそのための方法と手段のすべてがあるのです。

魂は私達の内側にあるのか、それとも外側にあるのか?

受け取った質問:あなたはゾハールの書に記されているすべてのものを、私達自身の内側で発見しなさいと述べました。しかし、ゾハールは魂の是正についてしか述べていなく、また、私達はスピリチュアル・ワールドに入った時にしか魂を獲得しません。なら、どうすれば外側にあるものを、自分自身の内側で是正できるのですか?

私の答え:本当ですね。私達は時々スピリチュアリティーが私達の外側に存在しているといいます。その時の“私達の外側”とは“私達の欲望・願望の外側”という意味です。実際に、自己のすべては受け取りたいという欲望、自己満足したいという欲望です。したがって私はスピリチュアリティーが喜びを受け取りたいという欲望の外側に存在すると言うのです。

私達は距離や空間について述べているのではなく、特質について述べているのです。受け取りの特質に関していうと、そこにはスピリチュアリティーはありません。スピリチュアリティーはその外側にあるのです。したがって、私が“私達の外側”と言うとき、私は“現在の欲望の外側”を意味してます。

一方、私達はスピリチュアリティーが私達の内側に存在すると言います-現在の欲望よりもずっと深いところです。もし私が、食べ物、セックス、家族、お金、名声、そして権力に対するつかの間の欲望を貫通するなら -内側へどんどん深く行き、より内面的で、個人的で、重要で、永遠で果てしない欲望の中に入るのなら- 私はそこでスピリチュアルな世界とスピリチュアルな欲望を見つけます。

このスピリチュアルな欲望は、“心の中の点(point in the heart)”と呼ばれ、それは現在の自分の中で明かされている最も内部にある欲望です。なぜそれは、最も親密で偉大な欲望なのでしょうか?それがそうである理由は、その崇高な水準にあります。結局のところ、私達は全人生の目標と目的、そして人生が終わった後に何が残るのかということについて語っているのです。これらの最も親密で深い問いはその一つの点の内側に隠されています。

カバリストは「現在、それは単なる点である」と伝えます。しかし、私達がゾハールの書を読み、この点の内側を“掘る”とき、その内側に世界の全部-クロコダイル、家、星、太陽、月、人々、邪悪な人、高潔な人-が存在することが明らかになりはじめます。

この点は広がりはじめ、突然私達はゾハールが最も多様なスタイル-カバラの言語、物語の言語、歴史小説の形式、または、法と戒律を描写する形式-で説明するすべてのものがその内側にあることを発見します。ゾハールの書の全部は、この点の内側で何が起きるのかということだけについて述べられており、それを毎回特別なスタイルで表現します。

したがって、私はゾハールの書を読み、それが語っているすべてのことを自分の内側で認知したいのです。結局のところ、カバリストは「この点の内側に人の永遠的な部分がある」と言います。肉体は死んで分解しますが、この点はなくならずに残ります。したがって、それを明らかにすることは報酬になります。さらに私は次のように教えられます。「もしこの点を認知し、広げ、スピリチュアルなものをその内側で少しだけでも明かしはじめたなら、人はこの感覚とともに留まり、生と死はその人にとってなくなる」と。

この理由は、あなたが今すぐにでもこの点で自分自身を確認しはじめることができ、その内側に生を見るからです。このスピリチュアルライフは、あなたの欲望と強い願望のすべてがそこに濃縮されているように、あなたを捕らえ、あなたの注意を引きます。このため、あなたはこの肉体的人生に対し、それをより発達させて、あなたの心の点を明かし広げられるという程度にまでにしか、重きをおきません。

その次に、あなたはこの点がどんどんと大きくなる様子を突然見はじめ、その内側に現実の全体を明かします-以前まで感知できていなかった内面的な次元です。最初あなたは自分の内側に心の中の点があるとは感じませんでした。そして、そのあとでそれを感じました。今やあなたはその内側に世界全体を突然明らかにします。そこはあなたが永遠に存在しているところです。