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痛みを感じる丸太

バール・ハスラム、「ゾハールの完成のためのスピーチ」:あなたがクリエーターとの形態の等価(同等性)を達成する時―彼の全行為は与えることそして他者に利益を与えること、そのようにあなたも、全ての行為が与えることそして他者に利益を与えることだけになる。これが完全なるディヴィクット(密着)である。

質問:“形態の等価(同等性)”とは何ですか? もし私が“受け取る意志”ならば、どうやって私は形態において等しくなれますか?

答え:仮にあなたが私に似たいとします。私はあなたと遊び、あなたに対してある形で現れ、あなたは私のようになろうとします:あなたは私がすることをし、私のように考え、私のように話します。翌日に私はより進歩した形で現れ、あなたは話し方と振る舞い方と考え方において私にもっと適応しなければなりません。私はあなたに模範を示し、あなたはそれらに従わないといけないのです。これを「形態の等価(同等性)」といいます。

ここであなたはこう尋ねるかもしれません:「しかし、クリエーターが見えないなら、どうやって彼に似ることができますか?それ(旧約聖書)は「汝の神、主に立ち帰れ」と伝えます。どうやって彼のもとへ帰れますか?どうやって彼にますます似ることができますか?せめて模範を示して下さい・・・。」

頼みなさい。あなたがクリエーターのようになることができるように、彼に模範を示すよう、そして、彼が誰で何であるか示すよう頼みなさい。もし頼まないなら、あなたは彼のようになりたくないことを意味します。あなたにとって本当に必要なものが模範だけの時、あなたはそれを受け取るでしょう。

質問:私は猫を飼っています。私は猫に私の知る全てのことを教えることができますが、猫はいずれ私のようになるでしょうか?

答え:猫に「心の点」はありません。猫に教えることはできません。あなたは猫を手なずけることしかできません。猫を何らかにすることはできますが、猫を人間にすることはできません。なぜなら“人間”(アダム)とは“クリエーターと似ている”(ドメー)を意味するからです。猫にはそのための出発点、初めのスパーク、つまり「心の点」がないのです。

もし器の破壊の間に受け取る意志の中に入った心の点がなかったとしたら、私たちも動物のレベルまでしか発達しなかったでしょう。しかし、私たちがこのフェーズを完了させるとき、スピーキングのレベルの点が私たちの中で吹き出すように現れます。これが今日人類に起きていることなのです:人類は“動物”のレベルにおいて進化の終わりに到達したのです。

全てはゼロから、カオス(混沌)から始まりました。そして自然において静物のレベル(still nature)が現れ、その後に植物のレベル(vegitative nature)が現れ、そしてその後に動物のレベル(animate nature)が現れました。もしスピーキングの点が動物のレベルになかったとしたら、スピーキングのレベルに属する人間(Adam)は、どこへも進化せず、全てはここで終わるでしょう。

これが世界での驚きと問題なのです:人々は彼らが新たなレベルに直面していることを理解していません。彼らが理解しない理由は彼らにそれが見えないからです。それは触れられません。それはスピリチュアルなのです。前のレベルの全ては具象的なのに、スピーキングのレベルは具象的ではありません。

もし私が自然における静物のレベルであるなら、自分のより高いレベルを認識することはできません:植物のレベルと動物のレベルのことです。下位と上位の両方に見ることのできるつながりはありますが、人間のレベルが何なのか私には全くわかりません。また、人間のレベルに上昇することは私にとって大きな謎です。私に何ができるのでしょうか?私にはそれをつかむ方法も模範もなく、それはまさに未知なのです。

これこそが、世界中の人々が何が起きているのか理解できない理由および将来の上昇のメッセージをを受け入れることのできない理由なのです。

最初、クリエーターによって創造された欲求(または願望)は、心の点(・)、ガルガルタ・ヴェ・エインアイム(GE)としての機能を果たす部分でした。これを“イスラエル(Israel)”といい、それは“ヤシャー・エル”(クリエーターへ真っ直ぐ)ということを意味します。アブラハム(Abraham)はこの部分に属す人々を古代のバベル(Babel)から連れていきましたが、心の点のない(without (・))他のバビロニア人はバベルに残りました。

そしてその後に、粉々に砕け散ること(shattering)、つまり破壊(destruction)により複数のイスラエルの点は陥落し、欲求の物質とミックスされました。これがイスラエルの人々の国外追放(exile)です。つまり特質の相互的な取り入れ(mutual incorporation)によって今日の全ての人が心の点を持つようになったことです。

そうはいっても、人々の目の前に進化のもう一つのフェーズ、“動物”のレベルよりも質が高く本質的で強力なもう一つのレベルがあることを心に描くことはとても難しいことです。地球の表面に植物しか見ることができないと想像してみてくだい。この光景に次なる動物のレベルである鳥や魚、そして人とその文明を加えると、なんという違いでしょう。

現在、私たちは新しいレベルに直面しているのに、誰もそれを理解していなく、誰もそこへと上昇する必要性に気づいてません。

質問:心の点が全てのことを決めるなら、私を今日のピノキオに例えることは可能ですか?

答え:心の点がなければ、あなたは“丸太”になるでしょう。しかし、この丸太の中には何か他のものがあります。したがってゼペットがそれを斧で切り始めた時にそれが大声を上げるのです。これが“心の点”で、それが人間の声を出すのです。私たちの中の他の全てのものはまさに“丸太”にすぎません。

次なるレベルは無からは形成されません。したがって発達する必要を感じる人々が我々、ブネイ・バルーフ(BB)に来るのです。上昇する性向を持ち、愛(love)によって前進するために。他の人々(others)はこのレベルに達するために「苦難の道」に沿って発達しなくてはならないでしょう。

もし心の点が目立たなく、人々がその存在に気づかないなら、苦しみだけが彼らを前に進ませるでしょう。心の点は人々を前に引き寄せますが、苦しみ(suffering)は人々を後ろから押します。それはダイポール(双極子)に似ており、全ては何があなたを動かすかによります―それがトーラー(Torah)なのか、それとも苦しみ(suffering)なのかということです。

From the 4th part of the Daily Kabbalah Lesson 2/3/13A Speech for the Completion of The Zohar”

新しい世界への窓

人は生まれつき自分のみを愛します。これが私たちの性質であり、それに対してどうすることもできません。私たちは常にその中に生き、そこから踏み出すことはできません。私たちの全ての行いは自分自身だけのためです。さもなければ前に進めません。したがって私には、自分の性質に逆らって振る舞う、その性質を変化させる外からの力が必要なのです。

私の全ての思考やエネルギーは、自分を満たして安楽を得るために働き続けています。しかし、私の中に自分の性質から外へと押す一点があり、動物のレベルから上昇し、クリエーターへと到達、つまり人間のレベルを獲得させるのです。私の中のこの点のみが人間のレベル、クリエーターのレベルに属しています。なぜなら“人”はクリエーターと類似しているからです。

私は完全に物質的世界に属していますが、この一点だけはスピリチュアルに属しています。もしそれが目覚めなかったら人間はただこの世界で生きて、何にもそれ以上のことを疑うことはないでしょう。彼はこの物質的な人生で満足します。しかし、もしこの点が彼のハートのなかで目覚めると、この世界に居心地の悪さを感じ、そこから上昇しようと努力します。彼は二つの力から影響を受けます:1つは物質的世界から外へと彼の背中を押す力。そしてもう1つは、前から、つまり霊的世界からその人を引っ張る力です。

自分自身(人のエゴイズム)を放棄し、自分の性質を越えないなら、クリエーターとの付着には到達できません。私はどちらかの性質と関わりたいのかを決めなければなりません:クリエーターの性質か、それとも創造物のそれか、つまり、授与か受け取りかを選ぶということです。

与えることは私たちの性質とは正反対なため、物質的なものから霊的なものへと移動する方法は1つしかありません:カバリスティック・グループです。グループは計りしれない力をもっています。なぜなら私たちは一緒に努力して、全員が人が生まれてきた目的を成し遂げることを妨げる、利己的な願望を取り消すからです。その目的とはクリエーターに類似することです。クリエーターとは授与の力、愛、そして自己の無化です。このために私は、自らの性質を反転させることを可能にしてくれる“てこ”のような働きをするグループを、外面的な異質の力として必要とするのです。

この力が大きくなって活気づくには、グループは強く団結して、スピリチュアルな目的を果たす願望をもって燃えなければなりません。そうしたら、その中にいる全員がこの力を利用することが可能になり、エゴイスティックな愛の服従の外に出ます。

From the 3rd part of the Daily Kabbalah Lesson 5/20/10, Article “The Purpose of the Association –2”

魂は私達の内側にあるのか、それとも外側にあるのか?

受け取った質問:あなたはゾハールの書に記されているすべてのものを、私達自身の内側で発見しなさいと述べました。しかし、ゾハールは魂の是正についてしか述べていなく、また、私達はスピリチュアル・ワールドに入った時にしか魂を獲得しません。なら、どうすれば外側にあるものを、自分自身の内側で是正できるのですか?

私の答え:本当ですね。私達は時々スピリチュアリティーが私達の外側に存在しているといいます。その時の“私達の外側”とは“私達の欲望・願望の外側”という意味です。実際に、自己のすべては受け取りたいという欲望、自己満足したいという欲望です。したがって私はスピリチュアリティーが喜びを受け取りたいという欲望の外側に存在すると言うのです。

私達は距離や空間について述べているのではなく、特質について述べているのです。受け取りの特質に関していうと、そこにはスピリチュアリティーはありません。スピリチュアリティーはその外側にあるのです。したがって、私が“私達の外側”と言うとき、私は“現在の欲望の外側”を意味してます。

一方、私達はスピリチュアリティーが私達の内側に存在すると言います-現在の欲望よりもずっと深いところです。もし私が、食べ物、セックス、家族、お金、名声、そして権力に対するつかの間の欲望を貫通するなら -内側へどんどん深く行き、より内面的で、個人的で、重要で、永遠で果てしない欲望の中に入るのなら- 私はそこでスピリチュアルな世界とスピリチュアルな欲望を見つけます。

このスピリチュアルな欲望は、“心の中の点(point in the heart)”と呼ばれ、それは現在の自分の中で明かされている最も内部にある欲望です。なぜそれは、最も親密で偉大な欲望なのでしょうか?それがそうである理由は、その崇高な水準にあります。結局のところ、私達は全人生の目標と目的、そして人生が終わった後に何が残るのかということについて語っているのです。これらの最も親密で深い問いはその一つの点の内側に隠されています。

カバリストは「現在、それは単なる点である」と伝えます。しかし、私達がゾハールの書を読み、この点の内側を“掘る”とき、その内側に世界の全部-クロコダイル、家、星、太陽、月、人々、邪悪な人、高潔な人-が存在することが明らかになりはじめます。

この点は広がりはじめ、突然私達はゾハールが最も多様なスタイル-カバラの言語、物語の言語、歴史小説の形式、または、法と戒律を描写する形式-で説明するすべてのものがその内側にあることを発見します。ゾハールの書の全部は、この点の内側で何が起きるのかということだけについて述べられており、それを毎回特別なスタイルで表現します。

したがって、私はゾハールの書を読み、それが語っているすべてのことを自分の内側で認知したいのです。結局のところ、カバリストは「この点の内側に人の永遠的な部分がある」と言います。肉体は死んで分解しますが、この点はなくならずに残ります。したがって、それを明らかにすることは報酬になります。さらに私は次のように教えられます。「もしこの点を認知し、広げ、スピリチュアルなものをその内側で少しだけでも明かしはじめたなら、人はこの感覚とともに留まり、生と死はその人にとってなくなる」と。

この理由は、あなたが今すぐにでもこの点で自分自身を確認しはじめることができ、その内側に生を見るからです。このスピリチュアルライフは、あなたの欲望と強い願望のすべてがそこに濃縮されているように、あなたを捕らえ、あなたの注意を引きます。このため、あなたはこの肉体的人生に対し、それをより発達させて、あなたの心の点を明かし広げられるという程度にまでにしか、重きをおきません。

その次に、あなたはこの点がどんどんと大きくなる様子を突然見はじめ、その内側に現実の全体を明かします-以前まで感知できていなかった内面的な次元です。最初あなたは自分の内側に心の中の点があるとは感じませんでした。そして、そのあとでそれを感じました。今やあなたはその内側に世界全体を突然明らかにします。そこはあなたが永遠に存在しているところです。

“心の点”と向かい合う

誰でも、最低でも一生のうち一度は、“心の点”の目覚めを経験します。しかし、普通の人は、自分の嫌な気持ちや空しさが地上的な原因からきていると思っています。人はその原因が、自分の中で魂が目覚めていて、成長したいことを自分に要求しているのだとは理解しません。

 大抵の人々は、様々なライフサイクルで送られて来るこれらの瞬間に注意を払いません。彼らはこれらの瞬間が魂の成長をはじめるように彼らに促がしているとは理解しません。彼らはそれどころか、それらがありふれた現実的な原因によるものだと思っていて、高尚な目的によるものだとは思わないのです。

 しかしながら、人が何度もこのように呼び覚まされると、自分が嫌な気持ちでいる理由を理解するようになります。この気づきのことを“悪の認識”と呼びます。人は、自分の嫌な気持ちの原因が空しさにあるのではなく、自分の偽りと自分に真実が欠如していることにあると気づきます。人はあまりにも強くこれを感じ、真実を聞く準備ができます。それがどんなに苦しいことであったとしても。

 その後人は、不満に耐える覚悟ができ、真実に近づくために自分のエゴイズムを制限することを選ぶようになります。人が難しい疑問で頭を悩ませているとき、そして精神的な重荷や無力感を感じるときは、それが魂の啓示の始まりであると理解しなくてはいけません。この時点で人には魂を発達させること以外に、選択肢はなくなります。なぜなら、そうしないことが苦しみをただ長引かせることになるからです。