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来世

スピリチュアリティーの中では善か悪にしかなれない

受け取った質問: 自分の友だちに害を与えるとはどういう意味ですか?

私の答え:もしその人がカバラのグループの中の友だちであるのなら、あなたがその人と一つになる事について心配していないというだけで、あなたはその人に害を与えます。その理由は、あなたが共通の「船」に穴を開けていることになるからです。その船とは、私達の共通のスピリチュアルな器のことです。したがって、怠惰になって何もしないというだけで既に害を与えているのです。

もし自分が、私達が共有しているスピリチュアルなKliを拡大させようと努力していないのなら、そして、たとえそれがほんの少しだけ怠けているということであっても、自分は他者に害を及ぼします。しかし、私達は、自分が誰も叩いてもいなく、誰も殺してもいなく、誰からも盗んでもいないというのなら、全てが大丈夫であり、それ以外に何をしろというのだと思っています。私達は、完全に「善良な市民」であるという最中にでさえも、害を及ぼすことが可能であるということを理解していません。これではスピリチュアリティーの中ではまったく不十分です。スピリチュアリティーの中で、もし私が全瞬間を費やしながら共通のスピリチュアルな器を如何に構築するのかと心配していないのなら、他者に対する善い態度が、自分に欠けていることになります。私は共通のKliについての心配を忘れたその瞬間に、犯罪者になるのです。

これに中間の状態などはありません。そこには「善」または「悪」しかないのです。これは私達の繋がりの上層体系の法則です。

From the 3rd part of the Daily Kabbalah Lesson 04/27/10, “Matan Torah”


スピリチュアルな飢え

スピリチュアルな人生に到達するために、物質的な人生の中で気分悪くする必要はありません。これは、良い暮らしをするために必要な物の全てが、エジプトの奴隷であったユダヤ人に、与えられていたことの例から見て取れます。新しい王がエジプトに君臨し、7年間の飢きんが始まりました。しかし、これは物質的な飢えではなくスピリチュアルなものです。

彼らはファラオのためにピトムとラムセスというすばらしい都市を建設しました。“ファラオのため”とはどういう意味でしょうか? それは、それが彼らの“エゴイズムのため”になされたということです! 彼らはそれにとっての良い暮らしを築きました。しかし、突然すべてが空っぽであることが明かされました・・・そして、良い生活の全てが満たされているのにもかかわらず、私達はそんな人生から逃げる必要があるのです。

私はスピリチュアルな人生が物質的な人生よりももっと重要であり、それなしで生きるのなら死んだ方がましだと感じます。私はこの人生をもう生きることができません—私にはスピリチュアルな人生を明かす必要があるのです。したがって、私は暗闇そして砂漠の中へと走り去る覚悟があるのです。

この状態を“エジプトの外に出ること”と呼びます。それは自分の優先事項を変えて、それらを一般的に受け入れられているものと反対にする必要がある時のことです。だからといって、世界が肉体的な苦しみにそれ自身をさらす必要は全くないのです。正確に言うと、私達はスピリチュアリティーの欠如に苦しむべきであって、物質的な問題から苦しむべきではありません。

こん棒やムチを使って人をスピリチュアルワールドに行かせるこては不可能です。人々は身体的な問題があるとき、宗教や精神科医に頼ります。人はスピリチュアリティーを欠く必要があるのです。これは、その人の心の中の点がどれくらい早く明かされるのか、そして、どれくらい私達がカバラの科学を広められるのかによって決まります。

この知識を広げることなくして、スピリチュアルな救出が起きることは不可能です。人は自分自身の力でスピリチュアリティーを明かす方法を発明することはできません—人はそれをどうにかして受け取る必要があるのです。バール・ハスラムはカバラの科学を広めることを“メシアの角笛”(The Mseeih’s Horn)と呼びました。なぜなら、これなしに世界がよい方向に変革する機会が無いからです。


スピリチュアルワールドへの突入

『ゾハール』は私達すべてを含む上層システムについて伝えています。しかし、それを非常に細かく説明する必要はありません。なぜなら、私達は単にストーリーを追って、それが私達に影響を及ぼすのを待てばよいからです。そうすれば、まるで霧の中から現れるように、その描写がもっと明らかになります。それは、子供が自分の周りある様々なものに対して、それらの関係性や利用方法を学習し、段々にこの世界について知るようになるようなことです。

同様に、私達は新しい世界の中で自然にそのように育ちます。現在私達はその世界に近づきつつあり、それはより明らかに現れ始めています。最初は私達に何かが“聞こえ”始めます。そしてそのうち私達はこれらの音が何なのか分かりはじめます。このようにして私達はスピリチュアルワールドの感覚に入ります。

よって、多くの説明をすることは意味をなしません。なぜなら、スピリチュアリティーは知性の中ではなく、感覚の中、願望の中で明かさねばならないからです。私達はスピリチュアリティーを理論的に勉強して満足するのではなく、スピリチュアルワールドに入らなくてはならないのです。

魂は私達の内側にあるのか、それとも外側にあるのか?

受け取った質問:あなたはゾハールの書に記されているすべてのものを、私達自身の内側で発見しなさいと述べました。しかし、ゾハールは魂の是正についてしか述べていなく、また、私達はスピリチュアル・ワールドに入った時にしか魂を獲得しません。なら、どうすれば外側にあるものを、自分自身の内側で是正できるのですか?

私の答え:本当ですね。私達は時々スピリチュアリティーが私達の外側に存在しているといいます。その時の“私達の外側”とは“私達の欲望・願望の外側”という意味です。実際に、自己のすべては受け取りたいという欲望、自己満足したいという欲望です。したがって私はスピリチュアリティーが喜びを受け取りたいという欲望の外側に存在すると言うのです。

私達は距離や空間について述べているのではなく、特質について述べているのです。受け取りの特質に関していうと、そこにはスピリチュアリティーはありません。スピリチュアリティーはその外側にあるのです。したがって、私が“私達の外側”と言うとき、私は“現在の欲望の外側”を意味してます。

一方、私達はスピリチュアリティーが私達の内側に存在すると言います-現在の欲望よりもずっと深いところです。もし私が、食べ物、セックス、家族、お金、名声、そして権力に対するつかの間の欲望を貫通するなら -内側へどんどん深く行き、より内面的で、個人的で、重要で、永遠で果てしない欲望の中に入るのなら- 私はそこでスピリチュアルな世界とスピリチュアルな欲望を見つけます。

このスピリチュアルな欲望は、“心の中の点(point in the heart)”と呼ばれ、それは現在の自分の中で明かされている最も内部にある欲望です。なぜそれは、最も親密で偉大な欲望なのでしょうか?それがそうである理由は、その崇高な水準にあります。結局のところ、私達は全人生の目標と目的、そして人生が終わった後に何が残るのかということについて語っているのです。これらの最も親密で深い問いはその一つの点の内側に隠されています。

カバリストは「現在、それは単なる点である」と伝えます。しかし、私達がゾハールの書を読み、この点の内側を“掘る”とき、その内側に世界の全部-クロコダイル、家、星、太陽、月、人々、邪悪な人、高潔な人-が存在することが明らかになりはじめます。

この点は広がりはじめ、突然私達はゾハールが最も多様なスタイル-カバラの言語、物語の言語、歴史小説の形式、または、法と戒律を描写する形式-で説明するすべてのものがその内側にあることを発見します。ゾハールの書の全部は、この点の内側で何が起きるのかということだけについて述べられており、それを毎回特別なスタイルで表現します。

したがって、私はゾハールの書を読み、それが語っているすべてのことを自分の内側で認知したいのです。結局のところ、カバリストは「この点の内側に人の永遠的な部分がある」と言います。肉体は死んで分解しますが、この点はなくならずに残ります。したがって、それを明らかにすることは報酬になります。さらに私は次のように教えられます。「もしこの点を認知し、広げ、スピリチュアルなものをその内側で少しだけでも明かしはじめたなら、人はこの感覚とともに留まり、生と死はその人にとってなくなる」と。

この理由は、あなたが今すぐにでもこの点で自分自身を確認しはじめることができ、その内側に生を見るからです。このスピリチュアルライフは、あなたの欲望と強い願望のすべてがそこに濃縮されているように、あなたを捕らえ、あなたの注意を引きます。このため、あなたはこの肉体的人生に対し、それをより発達させて、あなたの心の点を明かし広げられるという程度にまでにしか、重きをおきません。

その次に、あなたはこの点がどんどんと大きくなる様子を突然見はじめ、その内側に現実の全体を明かします-以前まで感知できていなかった内面的な次元です。最初あなたは自分の内側に心の中の点があるとは感じませんでした。そして、そのあとでそれを感じました。今やあなたはその内側に世界全体を突然明らかにします。そこはあなたが永遠に存在しているところです。

スピリチュアルな発達は赤ちゃんから学べます

受け取った質問:私がゾハールで説明されている内面的特質を少しも理解していなく、それと繋がることもできない場合、私はどうそれを見つけることができますか?

私の答え:私達は、自分がどんな世界に存在しているのか知らないが、成長に必要なものすべてを提供する母親や身内の愛情を抱いた手の中にいる赤ちゃんに似ています。赤ちゃんはただ成長したいと思わなくてはならないだけで、自然はこの欲求を赤ちゃんに与え助けてくれます。

私達の世界において、つまり動物レベルにおいて、この欲求は赤ちゃんに自然に備わっています。この世界の中における人間の身体的発達を含む動物レベルに加えて、無生物と植物レベルにおいてでさえ、成長したいという自然的欲求が存在しています。しかしながら、もし私達が人間レベル-スピリチュアリティ-において成長したいのなら、その欲求は私達から生じなくてはなりません。

無生物レベル、植物レベル、そして動物レベルの発達は自然に起きます。この程度まで、私達-この世界の中にいる人々-はこれらすべてのレベルにおいて発達し終えました。そして、過去から現在において私達の欲求も同じレベルにおいて発達しました。しかし、今や私達は“スピーキング(言葉を話す)”レベル、または“人間”レベルへと上昇しなくてはなりません。人間レベルとは、私達が自分たちの力で発達して目標を達成しなくてはならないという意味です。私達の身体的欲求(食べ物、セックス、家族)と社会的欲求(富、権力、知識)のすべてに基づきながら、私達は自分たちの力でスピリチュアリティに対する強い欲求を発達させなくてはなりません。私達は心の点(the point in the heart)によって始まりますが、そのあとは、環境からの助けを借り、その発達を押し進め続けなくてはなりません。

これを行うには、私達にはグループが必要です。なぜなら、それしか心の点を発達させる欲求を与えることができないからです。この欲求で“武装”しながら、私達はグループと一緒にゾハールの書を読み始めるのです。読んでいる間、私達は発達したいと思わなくてはなりません。そこでの“発達”とは、未来の状態または感覚をゾハールの書の中で見つけることを意味します。私達が現在探しているものはこれだけです。

この他に私達がしなくてはならないのは、待つことだけです。したがって、だた成長したいと願ってください。大人になりたいと自然に思う赤ちゃんのように。赤ちゃんを落ち着かせて、彼に成長しないよう、または成長したいと要求しないよう説得させることができるか試してみてください。あなたはそれが不可能であることに気づくでしょう。なぜなら、自然は彼に成長するよう打ち勝ちがたい力で駆り立てるからです。私達はこのように根気強くスピリチュアリティに対して努力しなくてはなりません。私達は常に私達自身の内側で捜し求めていなくてはなりません。そしてどんなときも落ち着つくことなく、変化し続けなくてはなりません。そうすれば、私達は確かに成長するでしょう。これが私達に求められている唯一の条件です。

そのシステムは存在していますが、私達は欲求で、つまり内面の強い願望でそれを動かさなくてはなりません。この内面的圧力が私達から生じないかぎり、そのシステムは私達を感化しません。言い換えると、それは私達を目覚めさせるために、苦しみを通して私達を感化するでしょう。しかしこの方法で私達は一歩も前進することはありません。上層から送られてくる苦しみを手段として。私達は、下から、つまり私達から、生じる私達自身の欲求を手段にすることでしか進歩できません。

私達は絶え間ない困難と問題を受け取っているかもしれませんが、同じ場所で動けなくなっていることの理由は、これらの問題が私達にとって、正しいグループと融合して発達したいという欲求を獲得するのに十分でないからです。困難にもかかわらず、私達は同じ場所で立ち続けるでしょう。困難があるというだけでは、それは発達の兆候ではありません。それどころか、それは私達がまだ一歩も前進していないことの兆候なのです。