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終わりのない道

バール・ハスラム「ゾハールの書の序章 第55項」:これは彼が、彼自身の受け取る意志の純粋さの程度に従って、NRNHYと呼ばれる、光と魂の段階を達成するからである。そして彼が達成する段階それぞれにおいて、その段階の光が彼の浄化を助ける。このようにして、彼は、創造の思想の最終目的の楽しさを達成するまで、各段階を上昇する。

質問:「与えるために受け取る」レベルは、全ての魂にとって重要ですか?

答え:イエスでもありノーでもあります。それは(魂の)合体によって間接的に達成されることも可能です。なぜなら私達は、完全で統合された一つのアナログなシステムについて話をしているからです。そのシステムの中では、全ての人が他の全ての人に繋がっており、ホログラフィー画像のように全ての人の中にシステム全体のパターンが存在しています。

重要な点は、この画像の中で私の役割は何か、ということです。私はこの全体的な「身体」において、「脚」なのか「頭」なのか「心臓」なのか、それとも他の器官なのでしょうか?私は確実に全てを達成するでしょう、しかしまた私は独立して操作することにより、このシステムの私の役割部分を活発に達成します。

私は私自身の欠乏を持っており、また他の全ての人から獲得する欠乏もあります。私の要因に由来する私自身があり、そして他の全員が存在します。そのため私達の達成は全く同じものではありません。全ての人が、一個の全体として、システム全体を達成し、アイン・ソフ(無限)の中に存在します。しかし同時に、全ての人が、誰もが異なる開始点にいるために、他者を「妬み」ます。このことも仕事と是正を要求します。

その後、私達は、しばらくの間私達はそれについて何も知らない、あるレベルに上昇します。発達は続き、どこかで消えます。器は成長し私達の知らない何かへ変化しなければならないでしょう...

質問:なぜ人は創造の思想を達成しなければならないのでしょうか?

答え:なぜなら、それが上層のクリエイターの欲求だからです。創造の思想とはクリエイターです。

私達の言葉は不正確ですが、私達はそれを使わなければなりません。クリエイターと呼ばれる、達成不可能なリアリティがあると言われています。彼は達成不可能です。しかし創造の思想が存在し、それは私達に対する彼の態度を意味します。

彼の私達についての思想の結果として、何かが成されました。彼は受け取る欲求を創造し、それについて様々異なる事を成しました。しかしポイントは私達はこの受け取る欲求に留まるべきということではありません。欲求と光は唯一の2つの属性-受け取りと授与-です。彼は、最終的にはそれら両者の上に私達を上昇させるために、それらを選択しました。

これは私達が受け取りの上に上昇するだけでなく、授与の上にも上昇することを意味しています。なぜなら誰も他者無しには存在できないだろうからです。私達は彼の創造の思想を理解し、今日私達が語ることができないものまでより高く上昇しなければなりません。なぜなら私達はそれが何か知らないからです。

これは私達を未知の終わりへ導く達成の道です。私達の欲求において、それより高い何ものも達成することはできません。ここで私達はギマール・ティクン(是正の終了)を超えたものについて話しています。そうだとしても、私達はこれが真にクリエイターに相応しいゴールの場所であることを理解しなければなりません。私達が通過するプロセスを明らかにすることによって、私達は、彼の私達に対する態度は彼の存在するレベル以下ではなく、それについて私達は何も知らない、と言わなければなりません。というのも私達の枝が派生するところの根でさえ、それから引き出されてはいないからです。

それで、これを知ることで、私達はまた今日私達がどこにいるかを理解すべきです。

From the 4th part of the Daily Kabbalah Lesson 8/01/12, “Introduction to the Book of Zohar

まやかしの支配から自由になる

私が受けた質問:それはどのようなゲームなのですか?それは友達を最も偉大と認めることですか?

私の答え:それはゲームではありません;それは隠匿を突き抜けることです。私のエゴイズムは他人から自分を、そして自分を他人から隠します:それは、私が無限の世界の全てを見ることを不可能にします。現在、私は無限の世界にいます。が、しかし、私が見るのは、非常に暗い状況です。私のエゴイズムは、醜くて、愚かで、怠惰で、嘘つきな人たちを描きます。しかし、現実にはそれらは全て間違っています;この状況は自分の中、私のエゴイズム内に存ずるのです。もし今、私の深く愛する子供が自分の横にいたなら、どう彼らを見るでしょうか?彼らは私に完璧に見えるでしょう。なぜなら“愛は全ての罪を補う”からです。私は彼らを、彼らの欠点全てを含め、愛するでしょう。

自分のエゴだけが、非難されるべきなのです:自分はそれの向こう側に何も見ません。私の脳の奥には、画面があります。私は、目を通して世界を見ているようですが、それは自分のエゴイズムのプリズムを通して入り、そして自分の脳内の画面に映し出されるのです。全ては私の態度次第であり、それを見るために自分がどう順応するか、なのです。なので、私はグループに対し、彼ら皆を、完全に是正された、今世代で最も偉大な人たちと見るように自分を順応しなければならないのです。

これはゲームなのでしょうか?いいえ、それは単にエゴイズムのまやかしを取り消すことです。それは理性的な行為なのです。私の向こうに、無限の世界があります。そして私は、たった今も既にその中にいるのです。もしあなたが、この平凡な、逆の状態に無限の世界を歪める、全ての殻(Klipot)を剥ぎ落とせば、あなたは無限を知覚するでしょう。

最初は、そのふりをしてみてください。努力してみましょう。私たちを、是正された、大きな、団結した、と見る努力をしましょう。この行為を通し、私たちはとても強力な囲む光を引き寄せ、それが私たちの性質を是正します。私たちはエゴイズムの代わりに、授与を獲得するのです。これはとてもシンプルな原理で、まったく現実的です;ここに神秘主義はありません。私たちは自らの努力で、私たちが是正された状態を見ようと試みて、その度合いで、私たちは是正されたシステムに含まれている、内面的な力を受け取るのです。私たちの願望がそれを作動するように促進するのです。これらが是正に向う、実践的な行動なのです。

From the 4th part of the Daily Kabbalah Lesson 6/10/10, “The Importance of the Association

偽りから光へ

私が受けた質問:私たちが完全に利己的な願望の中にいるのに、どうすれば今現在、是正を要求できますか?

私の答え:もちろん今現在、私たちは是正を要求できません。もし私が全くのエゴイストなら、どうして是正を求めることができるでしょうか?しかしながら、私に要求されていることは、少しの授与を、私がまだエゴイズムの中にいるとき、可能な限り要求することです。この意味は、あなたがLo Lishma(それは偽り、エゴ、あなたの快楽への願望の中、そして自己に関する思考の中)にいるとき、あなたは与えられるようになりたい、と微弱の叫びを上げるのです。

もちろん、それは偽りで、あなたは他人を愛し、彼らに授与したくはありませんし、そしてクリエーターに似ることを望んでいません。あなたは単純に、授与とは何なのかが分からず、この理由であなたはこのようなことが言えるのです。もしあなたがそれが何なのかを知ったら、あなたは即に逃げ出だしているでしょう。あなたが何を求めているのかを分からせないために、真理はあなたから隠されているのです。授与とは、それほどあなたの性質と反対であり、それはあなたの現在の願望と性質にしてみれば死なのです。

私たちは、カバラの科学で光と願望の関係を学びます。器、または願望があり、その反対側に光があります。この他に、別の状態があります。本物ではない、偽りの願望があり、その反対にある光は直接的ではなく、包囲的なのです。これがまさに私たちの現在の状態なのです。しかしながら、今のところは、まるで私たちが授与したいかのように、この光が授与の願望を私たちにもたらすことを求めるのです。それはこれのために作用するのです。

システムは、私たちが次の状態へ移行するのを望まない(それにもかかわらず、それを求めている)現在の状態から、次の状態へ達することが出来るように設計されているのです。私たちはそれを望み始め、受け取り、その中に存在できるのです。これは、破壊する以前にあった是正した状態からの、私たちの内面に残留している霊的遺伝子、Reshimot(レシモット)によって引き起こされます。これらのReshimotは、私たちから遠く離れているAtzilutの世界の光を目覚まします。私たちはこれらを引き寄せ、自分たちに影響させることが出来、そのあとになってやっと、それらは「囲む光(包む光—Surrounding Lights)」と呼ばれるようになるのです。

確かに、私たちは偽りの中にいて、授与、または隣人の愛を求めていません。それは本当です。トーラーは私たちにこの事実を隠しません。反対にそれは、クリエーターは隠されていている、また、霊的世界は隠されていていると伝えています。なぜなら、もしあなたがそれを見たなら、それを絶対望まないからです。

従って、霊性は、あなたが利己的な願望の中でも、それが自分にとって良いと想像できるように隠されているのです。あなたが、まるで霊性の世界を望むかのように、自分のための利己的な報酬を想像したとき、光はそれでもあなたに影響し、あなたの願望や思考を、受け取ることから与えることに変えるのです。このように作用するのです。まさに、このプロセスのためにシステムが設計されているのです。

この方法で、私たちの現状だけではなく、私たちがこの受け取りのレベルから最初の授与の段階へと上昇した時;Machsom(霊性への障壁)を渡った後でも、私たちは同じ原理で状態から状態へと上昇するのです:望ましくないものを望むによって。とはいえ、それらの段階では“人の魂が人を教える”となり、私たちはもう既に霊的世界にいるので、ある程度の補助を得られます。

From the 1st part of the Daily Kabbalah Lesson 6/2/10, The Zohar

エゴイズムがそれ自体の苦しみを引き起こしている

クリエーターが苦しみを送ることはありません。上層の光に似ていない願望が私の中で目覚め、私はこの相違(似ていないこと)を、健康、お金、名誉、権力、安心、配偶者、子供、そして世界全体に関する苦しみとして感じます。私は圧力と困苦と様々な問題を感じます。

誰に、または、何に責任があるのでしょうか? 光と反対である自分の願望にあるのです。それは苦しみの感覚を私の中で生じさせます。この感覚は光から送られてきているのではないのです。光は完全な静止状態(不変状態)にありますそれは善であり、悪人と高潔な人の両方に善をもたらします。光と似ていないのは自分です。自分の特質が光と異なっているのです。

例えば、もし私の中で10kgの願望が目覚めたとしたら、私は光とその10kg分同等にならなくてはなりません。つまり私は与えるためという意図をその願望の上に築かなくてはならないのです。そうすれば、私は自分の小さな無限世界の中に自分自身を見つけるでしょう。その後、願望は12kgに増大し、私は与えるための意図をさらに2kg分是正しなくてはならなくなります。そうすれば私は自分自身をもっと大きな無限世界で見つけることになります。このように是正プロセスは行われていきます。

私の利己的な願望は毎日大きくなっています。しかし、もしも私がその大きくなった願望を、他者とつなげ共通の魂の他の部分と一緒にクリエーターに与えようとするのではなく、ただ自分の利益のために他者を搾取することにもっと使いたいと思うのなら、私はその願望のなかに苦しみを感じます。エゴイズムはそれを包んでいる光に対する自分の反対状態に苦しむのです。私達は自ら自分たちに苦しみを生じさせているのです—それはクリエーターではありません。彼は完璧なので変わることができません。

今私は光の海に浸かっています。しかし、もし私が彼に類似しようと努力しないなら、私は今自分に明かされている考えと願望の程度にしたがって気分が悪くなります。そして明日は今日よりもさらにもっと気分が悪くなるでしょう。

自分を光に似させることをすべての瞬間において試みてください。光とは授与(与えること)および他者への愛ですそれは総結合状態です。私的な願望と個人の魂のすべては一つになり、この一つの大きな願望が光に類似するようになります。

どうやって私はこれを達成できるのでしょうか?どうやって私はこの過程の中で援助することができるのでしょうか? そのことについて考えはじめればよいのです。そうすればあなたの苦しみは解消されるでしょう。突然あなたは、光を切望していた自分の願望が本当に光に似ていることに気づくでしょう。あなたはこの点において、自分自身が光、クリエーターになったと感じるでしょう。あなたにはそのための方法と手段のすべてがあるのです。

エゴイズムはその限界まで到達した

この世界で人々が持っている願望のすべては、その発達の最期を迎えました。よって、これ以上発達するものは何もありません。私達の世界は完全停止状態にきたのです。私達のすべての肉体的願望(食料、性交、家族、住居にたいする願望)、および社会的願望(富、名声、名誉、権力、知識にたいする願望)は危機に落ち入っています。その理由は、それらの願望がその発達の最終段階を過ぎ去り、それらが誤った形に変質化してきているからです。

 よって、この世界でエゴイズムはもう発達することは不可能です。それはむしろ私達をつなげ、私達が完全に相互依存していることを感じさせています。たとえ国々や人々が互いから遠ざかろうと試みたとしても、これから私達はもっともっとこのつながりを感じはじめるようになります。最終的に私達は完全で完璧なつながりに到達し、そのことが“他者を自分のように愛する”という義務を負わすことになるでしょう。

 そうなった後に私達は、これがすべての問題に対する解決策であることを発見するでしょう。

カバラには人間の利己的な性質を無にすることなく是正させる力があります

受取った質問:私達の利己的な願望からの脱却方法を教える多くのメソッド(方法論)があります。それらに対するカバラの見解はどのようなものですか?

私の答え:これらのメソッドのすべては近い将来に消えてなくなるでしょう。なぜならそれらには人々を利己的な性質から抜け出させる力がないからです。それらのできることは、利己的な願望を麻痺させることだけです。しかし、私達の願望は発達するものであり、これらすべてのメソッドはこの発達方向とは反対の行為であるため、人々を社会と人生から遠ざけます。その理由は、それらが人々に提供するものは、瞑想やその他の“トリック”をすることで、人々をすべての問題から完全に切り離すことであるからです。

さらに、これらのメソッドは人々の繋がりを築くことができません。一般的にこれらのメソッドを応用する人々はお互いに遠ざかります。しかし、自然は私達を一体化に向かわしています。こうした理由でこれらのメソッドには満足な効果がないと立証されてきています。

一方、カバラが残る理由には2つの要因があります。第一に、カバラは私達には逃れることのできない、人類の歴史を通じて発達してきた人の巨大な利己的願望を扱います。第二に、カバラのメソッドはこの巨大なエゴイズムを減少させるのではなく、むしろその応用を自分自身と他者の利益に方向転換させて利用する方法を説明します。これが、自己の性質やこの世界にあるどんなものも拒絶することなく、また自己のどんな資質も破壊することなく、人が自己のエゴイズムにたいして行う取り組みです。結局のところ、カバラは私たちに、与えられた全てのものを利用することが必要不可欠であると伝えます。

さらに、カバラの科学の助けをかりることで私達は効果的に人々の間にある隔たりを正すことができます。その他の全てのメソッドは私達がお互いを愛さなければならないことをただ語るだけです。例えばインドの現状です。インドに存在する人々を分割する為のカースト制は、人々が”他者への愛”を語ることをべつに妨げないということです。

私達の完全な世界は始まりも終わりもない円形です

受取った質問:同時に他人を憎むことなくして、どのようにして人は自己のエゴイズムを憎むようになれますか?

私の答え:今日の世界における問題は、誰もが責任を他人のせいにすることです。しかし閉鎖した完全な体系に関していうのなら、その中にいるすべての人に責任があります。誰も正しくもないし、間違ってもいません。もし悪が存在するのなら、その原因は私達全員にあるのです。

もし全ての歯車が互いにかみ合っているなら、賞罰を免れる歯車は1つもありません。全てが繋がっています。誰かが回転しなければならないとは言えないのです。または他人の理由でその他の人の回転を強いることもできません。すべてが同時に動いているのです。したがって私達の是正は相互的でなくてはいけません。これが意味することは、私達の皆が同時に決心するということ:「逆方向に回転することを止めよう。他人のために一丸となって同じ方向に回転しはじめよう。」

世界で起きていることの責任は全員にあります。そこには加害者も被害者もいません。私達全員に全ての悪い事と良い事におけるまったく同じ責任があります。この理由は、私達が完全な世界に住んでいて、完全な世界は始まりも終わりもない“円形”で表現されるからです。よって誰々に責任があるということはありません。すべての人が人間社会で起きている全出来事に加担しているのです。

私達は何も欠けていることのない全部がそろった完全な体系における属性(特性・特質・性質)を獲得し、すべての人に対する扱い方を変えなくてはいけません。もし私が自分自身の“悪の認識”に到達したのなら、自分だけが世界における犯罪者だと実感するようになるでしょう。

成長するエゴイズムが子供に及ぼす影響

新聞記事(The Daily Mailから):少年のための”コンドーム・カード” 12才に避妊具を無料配布 – 12才の若い少年にも”コンドーム・カード”が配られ、親に知られることなく無料の避妊具を入手できるようになる。税金で運営されるこの企画は、サッカー場、理髪店、健康センターで、少年らがプラスチックのカードを見せるだけでコンドームをもらえるものである。

私のコメント:発達の加速は増大するエゴイズムによるものです。また性行為は、一般的な不満足と”充足の欠如”に関係しています。

自然は万物のバランスを支配しています

受取った質問:あなたは人間の是正について話します。しかし自然界の動植物段階には何が起きているのですか? どのようにしてそれらは創造主との合一に至らさられるのですか?

私の答え:人間のエゴイズムは全ての悪における唯一の原因です。人間と自然との正しい相互関係とは、その人の文化に沿った普通の生活を営むのに必要なものだけを自然から摂取し、それ以上はしないことです。普通の生活に必要な分量を超える余剰は皆のものになります。

このルールは1つの生物を構成している部分間の繋がり方に似ています:心臓、肺、肝臓、腎臓、その他全ての部分が生きるのに必要なエネルギーをもらいます。それにもかかわらず、それらは存続するのに必要な量を超えて消費することはなく、全ての部分が全体に利益があるように働いて機能しています。

人間社会 – 私達が構成している”生物” – の中でも、私達はこれと同じように行動しなくてはなりません。もし一人の人間が必要以上に消費すれば、その人は自分自身とその他の全員に被害を与えることになります。必要なもの以上に消費することをエゴと呼ぶのです。

自然のなかにおける”人間”としての段階がどのように自然との調和を達成できるのか、私達は他の段階 – 無生物、植物、動物 – から学ぶ必要があります。

人には家族、住居、仕事、収入、余暇、年金、保険が必要です。しかし必要なものを超えて余計に取得することは自然とのバランスを崩し、世界を破壊することになります。どうなろうとも、自然が依然として私達にそれとのバランスの達成を強要しつづけることに変わりありません。