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コロナウイルスの感染爆発でイタリアの人々にしてあげられることとは?

私のFacebookページMichael Laitman 3/29/20より

「何週間もこもっている部屋の窓から外を見ると、近所の人が遺体袋に入れられているのを目にしました。コロナウイルスで亡くなったからです」。これはイタリア人の生徒の一人が、今イタリアで起こっていることについて議論した際に口にしたことです。

コロナウイルスのパンデミックは世界中が感じていますが、イタリアでは極めて痛切です。

報告ではコロナウイルスによる致死率が一番高く、イタリア人はずっしりと重い死への恐れで苦しんでいます。

イタリア市民は、社会的距離をとる期間が長期化し、それに耐えることに不確かで不満の募る日々を送っています。

その間、コロナウイルスは広がり続け、迅速に突然変異を起こしました。

ウイルスに感染した人々を治癒させるため、ワクチンを見つけるためにかなり多くの努力がなされています。しかし、当分の間、ウイルスはなくならないように思われます。

そうだとしたら、イタリア人だけでなく、この期間、世界中で家に留まっている人々のために、私たちは何を差し出せるのでしょうか?

私たちがすべきことは、このウイルスの発生と人類全体への拡散の理由について、より深い説明を与えることです。つまり、人類に対する自然の計画と目的、および自然が私たちに期待していることへの理解です。

コロナウイルスには明らかに、私たち人間には悪影響を与え、自然の他の部分には影響を及ぼさない、という一面があります。 これは、パンデミックに至るまで、私たち自身とこの惑星を傷つけるやり方をしてきたという現実から、私たちを目覚めさせるためにコロナウイルスが現れたからです。

言い換えれば、私たちと自然とのアンバランスさが、このパンデミックを自らにもたらしたということ。

私たちは自分たちの生活を、他者を犠牲にして自分の得を探すという、大量消費のランニングマシン上で展開される競争に変えてしまっていました。そうして、製造や宣伝、売り買いのシステムを作り、必要性をはるかに超える数々の品を即座に捨ててきたのです。

私たちは、お互いの頭上に浮かぶドルマークを見るかのように、人と関わってきました。つまり、相手から刈り取れる利益や利点の量をお互いに測り合い、利己的な欲求が成長するにつれて、さらに分離していったのです。

だから、コロナウイルが、しばらくの間、私たちを物理的に引き離すために現れたのです。人や世界とどう関わればいいのか。元の破壊的な世界に戻らないようにするにはどうしたらいいのか。世界がより良く、より本物で公正になるためには何が起こるべきかなのか。それらについて、考える時間と空間を与えています。

最終的には、私たちの関係性を修復するために、このウイルスは現われています。私たちがもっと思いやりを持ち、お互いを支え合うようになるということです。だから、まだワクチンが視野に入らず、科学者や研究者も途方に暮れているのです。

お互いに対する態度を修復するまで、このウイルスによる感染症への治療方法はぐらつきます。どんな治療であってもです。より強力でより脅威的な新しいウイルス、およびコロナウイルスの突然変異といった重みがあるからです。

だから、今の人類の未来を心配している人々は、コロナウイルスの背後にあるより深い説明をメッセージとして広め、私たちがお互いにつながったときの力を認識させようとしているのです。

いかに私たちが相互依存しているか。ポジティブな未来は、どれだけ私たちが相互依存関係を積極的に実現するかにかかっているか。これらを学ぶことによって、自然にあるプラスのつながりの力を私たちの生活の中に目覚めさせていきます。自然は、あらゆる病気を治し、どんな問題も解決する方法を知っています。

私たちの主な問題の1つは、自然が主導権を握っていて、自分たちより賢くすぐれていることを認められないことです。自然の優位性とより優れた知恵を認められれば、そのようなアプローチをすることで、自然とのバランスへ移行する方法や新たな調和を知る方法を学び吸収する準備を整えることになるはずです。

イタリア人はこのメッセージを比較的容易に消化できると思っています。彼らは当然、世界にはより高い力があると感じており、温かく開かれた心を持っています。イタリアの人々の健康と平和、迅速な回復を願っています。

人がいなくなると自然が活性化する理由

私のFacebookページ Michael Laitman 02/18/20より(英語)

1986年、チェルノブイリで起きた世界最大の原子力事故。人々はおびただしい量の放射能から逃れるため、大急ぎで家をあとにしました。それから30年後の今日、チェルノブイリから30km圏内の閉鎖地帯には、数十種の生き物が生息しています。そして、その多くは何世紀もの間、その一帯にはいなかった種なのです。

この事例が示しているのは、人間の自然への干渉は放射能よりもはるかに悪いということです。どうしてでしょうか?

カバラの知恵は、人間には自然にはない付加的な側面がある、と述べています。それは、人間のエゴであり、他のものを犠牲にして楽しむという欲求です。

そのため、たとえ気づいていなくても私たちがいる限り、どんな些細な行為であっても自然のシステムの完璧なバランスを妨げます。だから、人がいなくなることで自然が活性化するのです。

では、人間社会において、自然のような調和を得ることは可能なのでしょうか?

もちろん可能です。これは私たちがしなければならないことです。でも、一体どうやって? 自然の内的感覚やその法則を研究し、自然と一体となるよう努め、互いに流れ込むようにしてください。そのような自然との統合に達すれば、実際、すべてはただただ至福であると、わかるようになります。

新年の抱負

私のFacebookページ Michael Laitman 12/29/19より(英語)

他者とより強い関係性を結ぶほど、私たちはもっと幸せになれます。

新年の抱負として最も重要なことは、真の満足のあるたった一つの源へ投資をすることです。その源は良好な人間関係を通して見つけられます。皆それぞれが友情を築き、社会へ利益をもたらすことを焦点とする、全体的な統一の中で見つけていきます。

私たちの欲求が自分の外、他者へ与えることへ向いていれば、どんなときもむなしさを感じることはありません。そのようなつながりがある状態では、苦しみのない美しく完璧な人生を得ることができます。この満たしの源は際限がなく、新年のみならず、私たちの全人生に関わっています。

バール・ハスラム

私のFacebookページ Michael Laitman 10/10/19より(英語)

イェフダ・レイブ・ハレヴィ・アシュラグは、『ゾハールの書』の解説書である『スラム(梯子)』から、バール・ハスラム(梯子の所有者)として知られています。バール・ハスラムはその生涯を、カバラの智恵の解釈と革新のために捧げ、それをイスラエル中に、また世界中に広げていきました。バール・ハスラムが展開したカバラの研究に関する独特のメソッドにより、誰もが現実を深く掘り下げ、その根と存在の目的を明かせるようになったのです。

バール・ハスラムは、1884年9月24日、ポーランドのワルシャワ生まれ。19歳のとき、ワルシャワで最高位のラビによってラビに任命されました。16歳のときには、ダヤン(正統派ユダヤ裁判官)として仕え、またワルシャワで教師をしていました。

ポーソブのラビ・イェホシュアに師事し、1921年にイスラエルに移住。エルサレムの旧市街に居をかまえました。バール・ハスラムが来たといううわさは、ポーランドから移住したユダヤ人たちの間ですぐに広まり、ただちにカバラの権威として知られるようになります。その周りには徐々に生徒たちのグループができ、夜明け前のカバラのレッスンに参加しました。後には、旧市街から引っ越して、エルサレムの新しい居住区であるギバト・シャウルに落ち着き、そこで数年間、その地区のラビを務めています。

1926年から1928年まではロンドンで過ごし、その間、アリの『生命の樹』の解説書『パニム・メイロット・ウマスビロット』をしたため、 1927年に出版。また、その滞在中、イスラエルの生徒たちと頻繁に手紙を交わし、それは1985年に『イギロット・コデシュ(神聖なる手紙)という本にまとめられています。

1933年には、論文『マタン・トーラー(トーラーの授与)』『ハアルヴット(相互保障)』『ハシャロム(平和)』を出版。

バール・ハスラムの長きにわたる仕事の成果として、2つの主な作品があります。それは、アリの著作に関する解説『タルムド・エセル・セフィロト(10個のセフィロトの研究)』と、『ゾハールの書』の解説『ペルシュ・ハスラム(スラムの解説書)』です。16章(6巻)からなる『タルムド・エセル・セフィロト(10個のセフィロトの研究)』の出版は、1937年に開始。1940年には、アリの著作を厳選しその解説を添えた、『ベイト・シャアル・ハカヴァノット意図の門)』を上梓しました。ゾハールの解説である『ペルシュ・ハスラム』18巻は、1945〜1953年にわたって印刷されています。 後に、さらなる解説を含む3巻、『新ゾハール』が、バール・ハスラムの死後、1955年に刷られました。

バール・ハスラムはゾハールの書への手引きで次のように書いています。「私がその解説をスラム(梯子)と名付けた理由は、この書の目的があらゆる梯子と同様であり、もしも屋根裏部屋に山ほどの素晴らしいものがあるならば、必要なものはそこにいくための梯子だけであり、その時世界中のすべての恵みはあなたの手の中にある、ということを示すためである(第58項)」。

バール・ハスラムは、カバラの原典を正当に学ぶための準備として、一連の解説を書いています。その一部には、『ゾハールの書の前書き』『ゾハールの書への手引き』『カバラの知恵への前書き』『スラムの解説書の前書き』『生命の樹への一般的前書き』『タルムード・エセル・セフィロトへの手引き』などがあります。

1940年には『ハウマー(国家)新聞』を初刊行。しかし、結局それが最終刊となりました。この新聞は、英国の委任当局が共産主義を広めたという悪意のある情報を受け取ったことで、廃刊とされたのです。

バール・ハスラムは、自分の本の出版で途方もない困難に直面しています。2003年のイスラエル賞を受賞したシュロモ・ギオラ・ショハム教授が1950年代初頭にバール・ハスラムと会談した際の記述から、バール・ハスラムが出版とカバラの普及に帰した重要性を知ることができます。

「彼は老朽化したぼろぼろの建物、ほぼ掘っ立て小屋のようなところにいた。そこには古い印刷機があった。彼には植字技術者に支払う余裕がなく、 60代後半にして、自ら一文字ずつ組版し、何時間も通して印刷機の前に立っていた。 アシュラグはツァディック(義人)であることは明らかで、晴れやかな顔をした謙虚な男であった。 しかし、彼は完全に社会の本流から外れた人物であり、ひどく貧しかった。 後に聞いたところでは、彼は非常に多くの時間を植字に費やし、印刷過程で使用された鉛が健康を損ねたとのことだ」

この抜粋は、2004年12月17日にハアレツ新聞に掲載された、ミッカ・オデンハイメルによる記事です。

バール・ハスラムは、単に自分の考えを紙に著しただけにとどまらず、その推進活動にも精力的でした。 当時のイスラエルにおけるユダヤ人居住地の多くの指導者や労働運動の指導者ほか、多くの公人と会談しています。その中には、ダヴィド・ベン=グリオンやザルマン・シャザール、モシェー・サデー、ハイム・アーロゾロブ、 モシェー・アラム、メイル・ヤアリ、ヤアコブ・ハザン、ドブ・サダン、偉大な詩人であるハイム・ナフマン・ビアリクなどの人物がいます。

イェフダ・アシュラグと数度にわたり会談したベン・グリオンは、実に驚いたとのこと。

「私は彼とカバラについて話したかったが、彼は社会主義について話すことを望んでいた」

(ベン=グリオン・アーカイブ、1958年8月11日の日記より)。
ドブ・サダンは、そのエッセイ「3つの会議とその間に」(アモット、テルアビブ、1963、P.49)で次のように書いています。

「当時最も偉大なカバリストの一人であるラビ・イェフダ・レイブ・アシュラグは、カバラの基本を私たちの世代の歴史的なエンジンに変えることを目指していた。これに基づいた社会主義的な認識を通じて、彼はキブツ運動との接触を求めたのだ」

バール・ハスラムがヘブライ労働運動とその指導者たちとのつながりを求めたことは、両者にある精神的および教育的な食い違いを考慮すれば、驚くことかもしれません。しかし、彼の著作を深く研究すると、イスラエル国内でも世界でも、その両方でその時代の出来事に多大に関与していた博識者のうち魅力的で興味をそそる人物、そのアイデアが今日にあってなお画期的で大胆であると考えられている人物が明らかになります。

ラバシ

私のFacebookページ  Michael Laitman 10/3/19 より(英語)

思い悩み眠れずにいた、1978年のある寒い雨の夜のこと。私は、不意に自分がどこともなく車を走らせていることに気づくと、大きな標識が私の目に映りました。「ブネイ・ブラク*」という標識でした。そこへ入っていくと、通りに人気はありませんでした。「ハゾン・イシュ」ストリートの角で通行人に出くわし、私は尋ねました。「ここでは、どこで学べるんですか?」と。するとその人は私を見て、こう答えました。「この道の突き当たりまで行くと、そこに果樹園が見えます。その反対側です」

私はこうして、20世紀最大のカバリスト、バール・ハスラムの長男であり後継者である我が師、ラビ・バルーフ・シャローム・アシュラグ(ラバシ)と出会い、その時から、私の人生はまるで別の人生になったのです。

それから12年の間、私はラバシの個人助手および弟子として仕え、ラバシがカバラの知恵において知るすべてを吸収しました。毎日、ラバシは2階に閉じこもり、筆をしたためていました。そうやって、ラバシの深遠な記事が生まれたのです。そして、その記事が、今日の人に最も適したスピリチュアルな道を切り開き、すべての人のために道を整えました。ラバシ以前には、彼のように簡潔および実践的な手法で著した人はいませんでした。道に沿って子を導く父のように、ラバシは読者の手を取り、真の人生の意味を見つけるまで導いていきます。

「一度、私が愛の服を手に入れたら」と、ラバシはその有名な手紙『友の愛』の文末で、生徒たちに書いています。「愛の火花はすぐに私の中で輝き始める。心は友とつながり一緒になることを切望し始めた。私の目が友を見て、耳が友の声を聞き、口が友に話し、手が抱きしめ、足は友と一緒に輪になって、愛と喜びの中で踊るかのように……」(ラバシ)。

1991年にラバシが旅立った後、自分の目的を明らかにしたい、という欲求で心を燃やす人々が集まり始めました。 そして次第に、ブネイ・バルーフ「カバラ教育研究所」が形づくられていったのです。ブネイ・バルーフとは、カバリスト、バルーフ・アシュラグにちなんで名付けられました。 毎朝、私たちは『10個のセフィロトの研究』や『ゾハールの書』の解説書である『スラム(梯子)』といった、バール・ハスラムやラバシなど、カバリストの著作を研究しています。 我が師がその父から継いだカバラの知恵を私に与えたように、私たちは興味のある人なら誰にでも、このメソッドを分かち合っています。

本日**、この世代で最も偉大なる我が師、ラバシを亡くしてから28年目を迎えました。 私たちが彼の道を忠実にたどれることを、願っています。

*イスラエルテルアビブの東の中央地中海沿岸平原に位置する、超正統派ユダヤ教の中心地(訳注)

**10月3日(訳注)

気候について、グレタのこと

私のFacebookページMichael Laitman9/27/19より(英語)

「あなたたちは空っぽの言葉で、私の夢と子ども時代を奪いました。でも、私は運が良い方です。人々は苦しみ、死にかけ、全生態系が崩壊しかけています。人類全体が絶滅しかけているのに、あなたたちが話すのはお金のことと、経済成長がずっと続くというおとぎ話だけ。よくもそんなことができますね!」グレタ・トゥンベリ

スウェーデンの環境活動家であるグレタ・トゥンベリは国連気候変動会議で、言葉に詰まることなく、率直で直接的、断固とした口調で演説しました。なおざりにされた気候危機に対する、若者の世界的抗議です。11歳でうつ病になり、話すのをやめ、アスペルガー症候群、強迫性障害(OCD)、場面緘黙症と診断されたこの少女は、現在16歳。放置された気候危機問題に対する、世界規模の若者の運動をリードしています。

グレタの声は、世界中の環境活動家の声になり、400万人以上の人々を世界中の街頭に駆り立てました。しかし、心を打つ純真さの背後で、多くの人がこの機会を自分が取り組んでいる問題を促進するために利用しています。これは私たちが住んでいる利己的な世界における、物事の仕組みのありようです。すべては利益に基づいて計算され、最終的に誰かが利益を得ます。また、世界の各首都の空っぽな広場で見られる、色とりどりのグレタのプラカードもその仕組みの一環です。

私は、彼女にも彼女の背後にいる人々にも、何も言うことはありません。個人的には、彼女が候補になっているノーベル平和賞を、彼女に与えたいと思います。人類の4分の1と彼女の緑の抗議から生まれた肯定的なメッセージ。それにより、ついに世界はここに深刻な問題があることに、同意し始めたのです。自然の力から逃れられないこと。地球温暖化は人間の意思の弱さの報いであること。気候危機の大部分は直接的にも間接的にも、人類によるものだということに。

ここから、2つのタイプの性質が明らかになります。グローバルに相互接続された性質と利己的に切り離された性質です。そして、この2つの交わりは、ゼロです。また、人間のつながりが自然の各部の関係に影響を与えるため、何よりもまず自然の法則に合わせて、自分たちを調整する必要があります。

生態系はその全体が不可欠です。人間の活動、つまり世界に対する人間の態度だけが、人類を悩ませている気候危機を生じさせています。 これは、私たちの手足で何かしたからでも、口に入れた食べ物の種類によるものでもありません。私たちの利己的な性質が抑制されないまま、制御不能となり、国連の誰一人として、対面上でしか地球規模の生態学的バランスを考えないのなら、私たちは地球に別れを告げることになりかねません。

自分たちを自然と調和させる根本的な解決策は、ますます増大する自我の上で、ポジティブな人間関係を強めていくことにあります。私たちの間にある分離。その悪影響が、鉱物、植物、動物という自然の全段階に浸透しています。カバリストが、「人は小さな世界であり、世界とは偉大な人である」と書いているように。

ですから、親愛なるグレタ。地球規模の現象を癒やすには、人間としての相互関係を築き始めることです。社会が正されるようにと、私たちが純粋に泣いて求めるのなら、きっとうまくいくでしょう。その間、私はずっとあなたとともにいます。  

 

カバラは社会を再起動させるオープンソース・コード

私のFacebookページ Michael Laitman 3/28/19より(英語)

動物は決して間違いを犯しません。自然の完璧な操作がそこにあるからです。しかし、人間は四六時中、間違いをおかします。

21世紀の今、私たちは一つのボタンを押すだけで、この惑星とそこにいる私たちの存在を終焉させかねない、おろかな状態に達しています。 個人レベルでも、多くの人が現代の奴隷のように暮らしていて、仕事や通勤に時間を費やし、常に気を張って忙しくしています。 抗うつ薬の処方が急増しているのは当然のことと言えるでしょう。

カオスが蔓延しているかのような人間社会とは異なり、自然は深く掘り下げば下げるほど、不思議な知恵を明らかにしてきます。 どんな存在もその要素も、互いに調和してつながっているように見えます。 孤立して存在するものは何もありません。 あらゆる生命体がシステムの中で他の部分に貢献しています。

ではなぜ、私たち人間についてだけ、自然の操作がうまく働かないように見えるのでしょうか。 私たちは自然のオペレーティングシステムのバグみたいなものなのでしょうか?

いいえ、違います。 そうではなく、カバラはそれを、より大きな全体図を見る能力の欠如にあると説明しています。 私たちに起こる絶え間ない問題や課題、苦しみはすべて、私たちを人間として育てるために画策されたものです。 自分たちの周りに見えるカオスは、私たちにこう尋ねさせるために図られているのです。「何が起こっているんだ? 」「私たちはどこに向かっているんだ?」「 私たちの目的は何んだ?」と。

しかし、その答えを得るためには、人間の進化の次なるレベルへ、もっと人間的に高次の知識や技術があるレベルへと上昇しなければなりません。

私たちがこれまでに成し遂げてきたことを見てください。 私たちは、コンピューターやスマートフォンを通して世界中をつなぎ、精巧なヴァーチャル・ネットワークを開発しました。今日、すべてがグローバル・ビレッジ(地球村)でつながっています。ただし、 私たちの心を除いては……。私たちはまだ、人間関係の次なるレベルを築けていません。 人類は今にもシステムのアップグレードをしなくてはならないのです。

自然世界のつながりの性質と人間の自己中心的な性質との間にある激しい衝突。私たちの時代は、それがますます大きくなっていく様子を明確に示しています。 簡潔に言えば、個人的なエゴの誤った導きで、個人的な利益のために、お互いをそしてこの世のすべてを、悪用するように推し進めてきたということです。

それは、人類が古いオペレーティングシステムにこだわっているかのようでもあります。私たちの利己的な社会は、相互的な搾取に褒美を与え、世界に向かって一人ぼっちで、自分のためにそっちにいればとけしかけます。 私たちには洗練されたコミュニケーション手段がありますが、皮肉なことにそれは、私たちがお互いに、いかに感情的な分離をしているかをさらに際立たせてしまっています。

では、どうしたら、私たちの意識を自然のオペレーティングシステムに合うように向上させられるのでしょうか。 それを成功させるには、自然のコードを熟知した一流の開発者による、アップグレードのためのガイドが必要です。 そして、まさにこれを、カバラという本物の知恵がもたらしているのです。

数千年もの間、カバラは少人数の小さなグループによって実践的に用いられてきました。 しかし、それには意図がありました。人間の性質を向上させる必要性が現れたその時に、この知恵をすべての人に明かすためです。 そして、今がその時なのです。

いったんアップグレードをしたなら、まったく新しいレベルの人生が待っています。そこでは私たち一人ひとりが切り離されない状態となり、人類全体がつながっています。そこは、皆が皆のために利益をもたらすことを望むところ、「汝の隣人を汝のごとく愛せ(周りの人を自分のように愛しましょう)」という概念の背後にある真の意味を発見するところです。

「汝の隣人を汝のごとく愛せよ」とは、倫理でも習慣でも、優しさあふれる行動のことでもありません。 そういったものは単に、そこに潜在している副効力にすぎません。「汝の隣人を愛せ」とは、人間の感情や知覚の拡大を意味しています。そして、それが自然そのものにある愛の力、自然のオペレーティングシステムを導く根本的な力に触れさせるのです。この啓示による驚くべき事実によって、私たちは高次の意識からの神の喜びで満たされます。そしてそれは、すべて初めから私たちのために仕組まれていたのだと、私たちは発見するのです。

 

バレンタインズ・デイ

私のFace bookページ Michael Laitman 2/14/19 より

愛とは何でしょうか?  一般的に愛の定義とは、非常に曖昧なものです。 愛は音楽や文学、詩のひらめきの源ですが、基本的に多くの人にとって、その本当の意味は知られていません。今、私たちが知覚している現実というのは、実のところ「汝の隣人を汝のごとく愛せ(周りにいる人を自分のように愛しましょう)」という全体的な力に支配されているのですが、愛とは本当は何を意味するのでしょうか?

私たちが動物的、物質的、利己的にお互いを楽ませるような愛、肉体の世界で手にすることのできる愛は、愛ではありません。親は本能的に自分の子を愛し、子も本能的に親を愛しますが、そこには、お互いに求めるものを受け取りたいという期待があります。

一方、男女の間の愛は、単にホルモンによるものです。それは突然消えたり、逆にどこからともなく降って湧いてきたりと、動物レベルで引きつけあっているにすぎません。

それとは対象的に、真実の愛とは永遠であり、この地上の欲望を超えたところに根付いています。私たちはいつも自分の利益を利己的に計算していますが、それを超えて互いに依存しあう自然と人類を統合した一つの世界の、一つのシステムに自分たちが属していることを知り、それを悟ったとき、真実の愛は生まれます。つまりそれは、相互に関連しあったシステムであり、私たちはその一部なのです。そして、さまざまな違いの上で、まるで一つの家族のような一つの統一体として、そのシステムは維持されていきます。

家族の中では、お互いに大きいも小さいもありません。それぞれが同じように重要です。これこそが私たちが人類をどうみるかに必要なものです。そこでは、お互いに感謝し、良さを認め支えあい、自然の完璧な完成図を得るために各自が不可欠であり、それがあらゆる関係性を成功させる鍵になるのです。

この形をとっていても、私たちが持つ傾向や欠陥がなくなるわけではありません。私たちはただ、それをどう超えていけるかについて関わっていきます。私たちを分離しているすべての憎しみと拒絶を覆うような、真実の愛という空の下でつながるために……。その空の覆いを創ることが、いつなんどきも、無限の愛という新しい感覚に到達するための条件なのです。