Entries in the '結束' Category

ワークショップは心から心への会話です

ワークショップは特別な行為です。それは神聖なものであると言えるでしょう。我々は質問を明確にします。すなわち質問に答えるのではなく、質問が明らかになるように明確にするのです。そのあとで、数分後に私はそれについて説明するために話をします。そして、輪になって座り、我々の本に記述されていることではなくて、論理にかなった解決策、この問題の本当の解答の見つける方法について話し合います。どんな場合にも、カバリスト達の賢い格言に頼るべきではありません。むしろ、我々はお互いのつながりを持続させるために心から話し合います。

しかしながら、私は友人を絶対誤りがない、偉大な人として受け入れなくてはなりません。彼がどんなナンセンスを口にしようが問題ではありません。彼が愚かであるということは私の感覚なのです。私は、十分に彼とつながっていないから、それを目にすると感じます。もし私が彼を愛していたなら、私はクリエーターが彼を通して私に話をしていると感じていたでしょう。

したがって、10人のグループで座っている間、我々はお互いに対する関わり方(良い関係を結ぶ方法)を明確に理解しなくてはなりません。クリエーターの代表者たちが私の前に座っていて、彼らが私に絶対的真理を伝えます。私はどんな批判も、どんな不信感も、そして、彼らから私を遠ざけるどんなものも抑えなくてはなりません。彼らは、それに気づくことなく、私が同意できないことを発言しています。私はそれに反対です。私はそれを聞きたくないのです。私はすべてのものが、色あせていて、普通で、同一であるとして、くだらないと見なします。

したがって、この点において我々は巨大な内面的作業に立ち向かうのです。

From the Preliminary Lesson 8/16/12, Kharkov Convention “Uniting to Ascend”

非個人的な生(せい)

質問:どのようにして正しいつながりを感じればよいのでしょうか?

答え:正しいつながりとは、つながりのみを感じて、われわれ自身を感じない時のことです。それは今起きていることとは正反対なことです。

もし我々の皆が自分自身を切り離すのなら、我々は我々の間にあるつながりだけを感じるでしょう。すなわち、生きていて存在している全員から成る体のことです。各自は自身の個人的な細胞を感じるのではなく、全員から成る体の中に含まれて、自分自身ではなく全員から成る体のみを感じるまで自分自身を捧げるでしょう。これが、つながりを達成(獲得)したことを意味するのです。

個人的に誰かに属しているのではなく、我々のつながりの結果である、全員から成る体における生命の集団的感覚、この感覚のことをクリエーターと呼びます。

この器をアダム(人間)と呼び、それを満たしているものをクリエーター・生命の光・授与の相互的な力と呼ぶのです。

From the 1st part of the Daily Kabbalah Lesson 9/20/12, Writings of Rabash

値段の付けられない科学

バール・ハスラム「パニーム・メイロート・ウ・マシュビロート(歓迎と光照の啓示)の書の序論」p5:これがそうであるのは、もはや、自分の利点・価値を維持できなくなり、市場でこの「知恵」を取引することになるかもしれない、という恐れがないからである。群衆の中に、それを市場で買う者はいない。この知恵は、見返りとして名誉も本能的欲望も満たされないため、彼らの眼にはとても忌々(いまいま)しいものと映る。

それ故、(知恵の世界に)入りたいと望むすべての人は、来て入ることができる。そこには多くの放浪の旅路があり、知識はそれに相応しい人々の間で増すだろう。そしてそれによって、私達は速やかにメシアの到来という報いを受けるであろう。そして我々の時代において、速やかに魂の救済があるだろう。アーメン。

何世代にも渡って、カバラの科学は神秘主義と考えられてきました。タロットカード、祝福と呪い、黒魔術、精霊・亡霊、悪魔など、およそ人間の想像力の及ぶもの全てが、カバラと見なされてきました。何世紀もの間、人々は、これらの道具が、人に世界を支配する力を与え、勝利すること、富栄えること、優位を占めること等をもたらすと信じていました。それで、多くの人々が、おそらくそこに隠れているはずの、この超自然的な力を知り、理解し、習得することを欲しました。誰もが成功し他者に抜きん出ることを夢見ています。それは明らかです。

そのような訳で、カバラの知恵は、そのようなものとして扱われてきました。「ユダヤ人は力を与える秘密の知恵を所有している...」という言説や、フリーメイソン及びあらゆる種類のセクト(党派)の存在など、沢山の発明・創案がありました。しかしカバリストは真実を隠してきました。そのため、本当はカバラの本質とは、人々のユニティ(統一・和合)の科学であることを誰も知りませんでした。

今日、私達がカバラの科学をより理解するに従って、人類は次第にその神秘のオーラに別れを告げることになり、結果として、もはやそれを必要としなくなっています。「なぜ私にそれが必要なんだい?統合?私が期待しているのは、奇術や占いや、取引の成功や、全ての病気を治す薬や、奇跡を起こすことなんだ。でも、人々の統合だなんて、自分の胸にでもしまっておいてくれ。たとえ君がお金を出すと言ったって、私はそんなもの必要としていないよ。」

そうして、人々はこの知恵を拒絶します。ここに真実が現れています。なぜなら私達のエゴイズムは実際、この統一の科学を拒絶し、受け入れません。これは自然な態度です。人は他者を避け、統一のニュースを軽蔑し、それを何かむかむかさせるようなものとして憎み、蔑みます。しかしそれから彼は、他に選択肢がないことが分かってきます。彼は様々な要因によってその方向に導かれるようになります。その要因とは、私達の普及活動であり、様々な問題であり、現在の危機を脱することは統一を通してのみ可能である、という理解です。

「しかし、どのようにしてそれが可能なのか?どこで私達はその力を得ることができるのか?行動の手順は何か?」まさにその疑問が起きるとき、人々はカバラの科学を、本来の正しい真実のかたちである、統一の知恵として明らかにしてゆくでしょう。

この科学に結びついた革命は、今日起こらなければなりません。そして私達はその展開のペースを加速させなければなりません。そして現在のカバラに対する一般的な軽視は、むしろ(正統な)カバラを守るものであるため、真に統一を願い努力を捧げる者達だけが、各々の能力に従って、カバラに向かい関わってくるようになります。そのようにして、カバラの周りに外的なサークルが形作られます。

From the 4th part of the Daily Kabbalah Lesson 9/20/12, “Introduction to the Book, Panim  Meirot  uMsbirot”

「心の賢者」とは誰?

質問:バール・ハスラムが書いている「心の賢者」とは誰を指しているのですか?

答え:「心の賢者」とは、より高い「知恵」−「ホフマー」に向けて、心を開く道を探し求めている人のことです。それはユニティ(統一)の知恵であり、他者とつながることによって得られます。

私達は心(ハート)でつながることを望み、様々な願望をつなげることを望み、そして全ての心と全ての願望の総計の中から、つながる準備のできたものだけを選びます。そしてそれらの願望の間にコネクションをつくることによって、その中で私達が行動し始めることを望むところの共通のネットワークを創造します。

このネットワークの内側にいる間は、私達はどの願望が誰のものだったかについて忘れます。なぜならそれは今や私達に共通のシステムだからです。それから私達はその中に、ホフマーの光を感じ始め、それゆえ「心の賢者」と呼ばれます。結局、私達は心(ハート)のつながりの中でホフマー(知恵)の光を明らかにします。

From the 1st part of the Daily Kabbalah Lesson 9/11/12, Panim Meirot UMasbirot

エゴよ、私はお前のものではない

質問:どうやって私たちはゾハールを読んでいるときに自分たちの意図を確認できますか?

答え:もし私たちがゾハールの書を正しく使うことを願うのなら、ゾハールの書は私たちにやって来る光の源です。したがってカバラの本を勉強している間、私は常にいくらかのイルミネーションを呼び出していますが、それは私の努力の、そして、用意ができていることの激しさに応じてやって来ます。もし私が肉体上の何かを手に入れるために、または、来世を個人的な特権として勝ち取るために勉強するなら、光はその影響によって私の中によりいっそうの暗闇を作り出します。私は、何のためにこのシステムが私に与えられたのか、私は何をしなくてはならないのか、そして、どのように私は他者を扱うべきなのかということの理解からだんだん離れていきます。愛とつながりについての素晴らしい言葉を読む時でさえ、私はもはや帰属感を感じず、つながりを目にせず、文章を読み取る方法が分かりません:それを私のハートに入れさせるのかどうか。これは、夜に養われ夜明けを予期しないコウモリのように私が勉強することを意味します。

しかし、もし私が他者とつながろうとし、これがその方法論を学ぶ理由であって、シナイ山でそれを受け取るための条件を保持して守ることによって、皆と一緒に「一つのハートを共有する一人の人間」に成ることを切望し、相互保証に参加するために、兄弟愛を達成するために、そして、それを通じることでクリエーターへの愛を達成するためにということなら、光は私を前進させ始めます。これはもう段階ごとに克服するという普段の道ではありませんが、私は徐々にその中に悪い粉々になった状態を発見し始めます。

利己的な勉強は私から私のエゴを隠し、私は自分自身を高潔として見ます。一方、正しい勉強によって、私は自分が悪の中にどっぷり浸かっていることを発見します。光が私に明らかにする最初のものは私の悪い性質であり、私はそれに応じて作業しなくてはなりません。悪を発見することによって、私は前よりもさらに悪い気持ちを感じます。では、私には何ができるのでしょうか? 結局のところ、私は私の性質に従って気分が悪い時は逃げたいのです。

もしかすると私は勉強を止めて、グループから離れるべきかもしれない? もしかすると私は絶望を感じるべきかもしれない? あるいは、もしかすると私は悪の認識を知ることを許されて喜ぶべきかもしれない? それは私にとって法則、招待であるべきです:もし私がこの不快感(気分の悪さ)を乗り越えられるのなら、私は受け取ることを超えて授与を切望するでしょう。

私のエゴの中で明かされる苦しみが、私がエゴために作業していないことを示すので、私は打撃を受けることを好みます。私は不快感を感じますが、それらを克服してユニティーを目指します。私は苦痛を和らげるために逃げることはしません:私は自分自身を閉ざさない、私は落ち込まない、私は勉強をやめない。それどころか、私は友達と一体になる途中にて、あらゆる方向からやって来る全ての困難を、クリエーターによって送られているものとして受け入れます。彼(クリエーター)以外には何も存在しないのです。

私はどんな状態も私の前進のためになるものとして受け入れます。私はそれらを無効にしたくありません。そして私は不快感を中和するために勉強し続けます。私は実のところそれを望んでいるのです。それがその乗り越え方、理性よりも上になることに私を正確に集中させるので、私はそれが継続することを望みます。全てはゴールに正しく集中することを助け、それらの中で作業することによって明らかに前進するといった制約や枠組みを作るので、私は喜んで全ての問題や妨害、状況の圧力、外的な嘲り、様々な苦しみを受け入れます。

こうして私の内側に授与の器を受け取りの器よりも上に構築します。それらは成長し続けます。そして、苦しみ続けます。その間、私は、それらよりも1つ上の段階に在り、完全な信仰、ビナーの属性を達成し、私の受け取りの器を授与するために使い始めるまで、クリエーターとのつながりを持ち続けたいのです。

しかしその一方では、また、私は独り善がりの考えがあってはならない段階に上がったので気持ちを落ち着かせるつもりはありません。それどころか、私はますます上向きに切望し、喜びを受け取る準備でさえできていますが、それは私自身を満たすためではなく、クリエーターの願望を満たすためです。

これはすべて私たちの作業です。私はこの道に沿って本当の源、私に授与の力を与える利己的な欲求が必要です。それは利己的な欲求の中で明らかになる問題や苦悩を私が克服した結果です。そして、私はそれが全てクリエーターによってもたらされることをはっきり分かっています。

From the 2nd part of the Daily Kabbalah Lesson 8/16/12, The Book of Zohar

絆が大切 - カバラモーメント 2011.5.13

あなたの隣人を愛せよ - カバラモーメント 2011.4.15

天秤のはかりを「結束」の方に傾ける

質問:カバラの勉強において、いつ何時でも、自分が正常に前進しているのかどうか、そしてその道から逸脱しなかったかどうかをどのようにして分かることが出来るのでしょうか?

答え:私はまるでつりあいの取れた天秤の上に乗っているかのように一瞬一瞬エゴイズムか心の中の核心(心の点)かを選ばなくてはなりません。そして毎回天秤のはかりを「心の核心(心の点)」と結束の方に傾かせなくてはなりません。結束するという行動以外には何もないのです。

我々は勉強、そして様々な行動をしたいと思います。我々はそうすることによって無意識のうちに結束から逃げてしまうのです。私自身もこれを経験しました。私にこれが聞こえ始めるようになるまで、かなりの時間がかかりました。

私は勉強することや資料を整理したり系統化することがとても好きでした。結束に向けて取り組む以外、想像できることは全てやりました。結束が私たちの責務であることを認識しはじめることと、この知覚を掘り下げて考えることに慣れることが早ければ早いほど、早くこの習慣は第の天性になります。

我々は友達の内面世界―結束とクリエーターを目指す強い願望―を感じることを求めるようになるために常に自分自身を訓練する必要があります。私の目標が彼らの内面であるなら、彼らの外見に気付くことがなくなります。

結局のところ、我々は自身の愛する家族の顔を重要視しません。我々は家族の魂と性格と情緒を感じるのです。同様に、私と同じ目標を目指している友人の願望を常に感じるようにしようとする必要があります。私はこの願望とつながりたいのです。

友達の外見や性格のあり方は関係ありません。気にすることはたった一つだけです:友達の強い願望が何であるのかということ。これは男性にとって最も難しいことで、正確にこの部分に男性の作業の本質があるのです。女性はより簡単にそういう知覚に切り替えることができます。なぜなら女性は外面的な様子を男性ほど重要視しないからです。

From Lesson 2, WE! Convention 4/2/2011

グループとは自分の影です

グループとは私のコピー、私の影です。まさに私がクリエーターの影のように。私は自分が友だちの中に投入するよりも遥かに多くを彼らから受け取ります。それは彼ら又は彼らの行動によるのではなく、自分の彼らに対する態度だけによるのです。この環境もクリエーターです。それは「彼」(クリエーター)と一緒に働くために「彼」が私に与えた機会なのです。実際には私の外側にはクリエーターしか存在しないのに、その間まるで私の外側に何かが存在しているような錯覚を私に創ったことによって。

この理由から私たちは常にその環境を目覚めさせなくてはならないのです。私が環境を通じてクリエーターと一体化するために、環境と一つになりたいと願うよう、その環境が私に影響を及ぼすといった状態を、私たちが獲得するまで。環境なしに私がクリエーターに到達することは出来ません。なぜなら、環境とは、私が環境を通じることでクリエーターのイメージを観るといった外部的な手段であるからです。

もし私がグループと一つになりたいと望まないなら、私は少しもゴール、クリエーターを目指して進んでいません。結局のところ、私の隣人とはだれでしょうか? それはスピリチュアリティの中で私を二つの部分、私と私の隣人に分けた破壊の力なのです。何のためにでしょうか? それは私がクリエーターと一体化するために自分に欠けているものを認識・識別させるためです。

たとえこの環境が自分にとって異質・無関係・無縁に見えるとしても、私がこの環境をもっと自分の近くに持ってこれるならすぐに、もっとクリエーターに近づくことが出来るようになります。クリエーターは私にわざと二重の知覚・認知を授けました。私が自分の一部をよそ者として、そして、憎らしいものとして、目にするために。

それが何故「隣人を自分のように愛しなさい」ということがトーラーの最も重要な規則であるのかということの理由です。これが光の唯一是正するものです。そして、これ以外に是正させるものはないのです。もしあなたがこの是正を求めないのなら、あなたの全努力は無駄になります。それ以外のすべては、役に立たない荒野のなかへの叫びなのです。

From the 2nd part of the Daily Kabbalah Lesson 10/5/10, The Zohar

ワンネスの125段階

私達はどうすればお互いと結束し合うことが出来るのでしょうか?それは人が自分の欲求を持ちながら友人の中で存在し、[同時に]その人の中にその友人が存在する場合に限り可能なのです。皆が他人の欲求を吸収し、それに取り組まなければなりません。そうする事により彼らは結ばれるのです。彼らの欲求は同じ目標に向っている為、彼らの相互的な作業により、前進する為の共同的な力を作るのです。この力は彼らの向上を保証し、それはArvut(相互責任・相互保証)と呼ばれます。

結束は、私があなたの欲求の一部を授かり、それを私のものとして経験し、私の欲求の全てがそれを満たす為に仕える時に起こります。更に、あなたの欲求は目標に辿り着くことである為、私はあなたをそれに導き、同時にあなたが私を導くことになります。このように私達の欲求は共通の目標の中で結束するのです。このゆえに「あなたの欲求を彼のものにせよ、そうすれば彼はあなたの欲求を彼のものにする。」と書かれているのです。

これが私達の繋がりの度合いを確かめる為の基準です。私達の間の隔たりは125の度合い(階段)、私の利己的な欲求の125の部分に達しています。しかし徐々に、それを「あなたの為」の行為を通じて是正して行くにつれ、私は授与の為の作業の中であなたに近づくのです。

これが「自分を愛するように他人を愛す」と呼ばれるものです。言い換えれば、私はあなたの欲求を使用し、それの前で私の欲求を無効にするのです。そうする事により私は自分の欲求を是正します。私の欲求は残存しますが、あなたに辿り着く為にこれほどの距離を行ったので、私は自分の欲求を授与的なものにしたのです。何も変わってはいません;私は単に意図を追加しただけです。そして、私達の間の距離は消えたのです。私が自分の意図によりそれを一掃した為です!

そして、この「他人」は何が欲しいのでしょう?彼はあなたと全く同じようにクリエーターとの結合を達成したいのです。なので、あなたが彼に手伝うべき事は一つしかありません:クリエーターと一つになる事です(あなたと一緒に)。このたった一つの意図が私達皆を一つに結合するのです。

このゆえに、私達は皆一つのボートに乗っていて、それは一つの方向に向かう、と言うのです。私があなたに近づくほど、私はクリエーターに近づくのです。

From the 1st part of the Daily Kabbalah Lesson 9/3/10, Shamati #50