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憎しみを愛へ変える

質問:愛を憎しみへ、憎しみを愛へ変えるなら、その祈りの場所はどこにありますか?

答え:今あなたは、愛か憎しみの状態にあって、それを変えることをとても簡単に思っているようです。しかし、実際にはそれができないことに気づくでしょう。

誰かを愛せなくて、憎しんで拒絶さえしていると想像してみてください。次に、その状態を真逆のものに変えようとしてみてください。できますか? いいえ、不可能です。

しかし、あなたはそれを望んでいますし、あなた自身を変える必要があります。その憎しみが、自分をスピリチュアリティから遠ざけ、上層の世界を感じさせないようにしていることを理解するのです。では、一体どうすればいいのでしょう? その疑問を持った時、あなたは自分の憎しみを愛に変えて欲しいと請い始めます。

どうしたら、それができるのか? それを心配すべきではありません。わずかな光線が上層からあなたへ送られ、あなたは別人に、若く、美しく、愛し愛される人になり、すべてが開花します。それが、祈りです。
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From KabTV’s “Fundamentals of Kabbalah,” 12/29/19

最も難しい事は助けを求めること

thumbs_laitman_239バール・ハスラム「トーラーの授与」:我々はトーラーにおける残りの612のミツヴォット(戒律)が、それらのすべての解釈と共に、ただ一つのミツヴァ(ミツヴォットの単数形)、すなわち「汝の友を愛せよ」の中に挿入され、含まれている詳細の合計以上でも以下でもないことを理解すべきである。

613の「戒律」、すなわち是正に至らせる613の行いがあります。私たちは受け取りたいという欲求に関連する意図を、利己的なもの(受け取るために)から利他的なもの(与えるために)に改めるべきです。私たちがそうするとき、それは私たちが「戒律を果たした」ことを意味します。

戒律の数は、魂の器に含まれている個人の受け取りたいという欲求の総計で定義されます。それは2つの部分に分かれています。

上部  ガルガルタ・ヴェ・エイナイム (Galgalta Ve Eynaim <G’E>)248の欲求
下部  アハップ(AHP)365の欲求

受け取りのためという意図は邪悪な性向と呼ばています。一方で与えるためという意図は、善い性向と呼ばれています。行為自体は同じです。それらの背後にある意図によってのみ、私たちは良い行為と悪い行為を識別することができます。そのため、是正のプロセスは実際には意図を変更することです。意図が自己中心的なら邪悪な性向とみなされ、その中心が隣人に向けられているなら善い性向なのです。

結局、私たちは248と365の欲求を是正しなくてはなりません。全部で613です。しかし、最後の戒律(愛についてのもの)は「問題をはらんだ」ままなので、私たちは実際612の欲求しか是正しません。カバリストたちが言うように、612の欲求を改善することによって、我々は愛を達成します。 言い換えれば、友への愛から、私たちは創造主を愛するようになります。

 

総体のシステムの中には、欲求の特別な部分があります。それはグループと呼ばれるそれ自身を是正しなくてはならない部分で、当然ながら残りの欲求と相互的につながっています。最初、私はそこにいません。 しかし、グループで友と一緒に作業を始めて、友とのつながりを望み、現実にそうするやいなや、自分の性質がすべてこれに反していると分かります。つまり、「できない」「不可能だ」「したくない」 「しない」ということ。これが邪悪な性向というものです。つまり統合したくないということ。それは私を妨げます。

その後で私はそれを私の中に存在する「憎む人」と呼び、至る所にいる友からその是正を要求します。私はどこを是正するのか、どのように是正を実現化するのか、そしてどのように自分の性向に打ち勝つことができるのかを発見します。そして、クリエイターの方を向く必要を感じるまで私はそうします。

それはすぐに起こりません。私は今、叫ぶことができますが、その後で利己的な欲求は高まり、クリエーターの考えに我慢できなくなります。私はクリエーターを憎んでいて、いつでもクリエーターを滅ぼす準備ができています。クリエーターに向かうこと以外なら何でも喜んでするのです。私は不可能なことをするよう要求されていると思います。まるで敵を滅ぼす代りに敵を愛して助けなければならないかのように。それは非常に難しいことです。その後で、絶望を感じ、何よりも授与の獲得を欲する時、私はクリエーターの方に向くのです。

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From the 4th part of the Daily Kabbalah Lesson 10/21/12, “Matan Torah (The Giving of the Torah)”

他者のために求める

質問:私の人生で最も重要なものとして何を識別しないといけませんか? 最初は何に注目すべきですか?

答え:あなたの注目すべき唯一のことは、他者のために祈るということです。そのことだけに集中すべきです。人々に1つになることで気持ちよくなってもらうこと(善を感じてもらうこと)です。なぜならクリエーターが人々を善へともたらし、クリエーターがそれを楽しむからです。

質問:私の人生の他の部分の問題はどうなのですか?

答え:あなたの祈りがまだ完全ではないように思われます。クリエーターはあなたにそれを完全なものにしてもらいたいのです。だからクリエーターはあなたをあちこちで「つつき」、あなたを目的地の方に向けるのです。もしあなたが、十分に敏感でない、あるいは無神経、または頑固であるなら、望まれる進路・軌道を与えるために「絵に修正」を加える必要があります。確かに、目的地に向ってさらに先へ前進するほど、是正もより正確であるべきです。だから一歩前進するたび、正確に正しい方向に導くために「突き」がより細かくなるのです。

質問:どうやってそれら(突き)を利用することができますか?

答え:私たちは愛を持ってそれらを受け入れる必要があります。結局のところ、それらは進路に沿ってあなたを導く航海者の指示のようなものです。それらなしで、どうやってなんとか成し遂げることができるのですか? あなたはどこで次に曲がるのか理解していますか、または感じますか? あなたにはこれらの痛い感覚が必要なのです:震え、フラストレーション、そして拒絶。

毎回あなたは友だちを通し、グループを通し、そして世界を通し、それらの助けを借りて目的地を目指して努力します。クリエーターのところへこの器全体を持っていくために、クリエーターだけに向って進路を維持しながら。その器は是正することができ、そのおかげで、その器はクリエーターに喜びをもたらすためという意図だけを持ち、クリエーターの喜びによって完全に満たされます。クリエーターが世界全体を善良さで満たすように世界全体がそれ自身を開きたいと望み、私たちはすべてのものをクリエーターに対する授与へと変化させることができるようになるでしょう。

どうやって私たちはこの授与に向って前進できるのでしょうか? これをどうやって学ぶことが出来るのでしょうか?―不快な物事を乗り越えて。もし現在あなたが自分にとって気持ちよいことをしないようにすることができなく、受け取りたいという欲求(願望)の中における心地よさの度合いを減らすことが出来ないならば、後でどうやって楽しみをやめることが出来ますか? だから私たちは発達の段階を経る必要があるのです。

質問:これが意味することは、楽しいことをやめることがより簡単になるように困難が私に生じるということですか?

答え:まったく違います。私たちはそれら(困難)を何か他のことに利用するのです。それらはあなたの感覚の中に生じます。それらはクリエーターの重要性(偉大さ)に気づいていない欲求(願望)のなかに現れるのです。もしあなたがをそれらの中にクリエーターの重要性を感じていたなら、痛みは感じていなかったでしょう。すべての不快な感覚は、ただクリエーターの重要性の欠如だけを隠します。あなたがクリエーターが重要であると感じれば、すぐにどんな不快感も消えてなくなります。同様に、自分の子供の体の調子がよいならば、母親にとって自分自身の状態は重要ではありません。「愛はすべての罪を覆う」と書き記されているように。

したがって、私たちは友だちのために、そして全世界のために祈らなければならないのです。しかしながら、ただ座って祈ることはできません。私はグループの中で作業して、必要な祈りに達しなければなりません。祈りは自分の全ての行為と全ての努力の結果です。私は自分の出来る唯一の手助けは、他者を唯一の目的地の方向に誘導することだけであると理解して、友だちと社会を助けるのです。

身体的な努力は、最終的に人々とのつながりを築いて、彼らを正しいアプローチを与えるメソッド(方法)に連れて来ることを目的としています。慈善行為それ自体は世界を良い方向へ変えません。そして政府もこのことにおいては無力です。だから私たちは宇宙のシステム(体系)を研究しなければならないのです。そして本当に効果的な手段が唯一1つだけあることを理解しなければなりません。それは人々ために祈るために彼らを結び付けることです。

From the 4th part of the Daily Kabbalah Lesson 1/9/14, Writings of Baal HaSulam

 

 

 

正しい意図による小さな善行為

質問:私達はどのようにしてクリエーターに満足をもたらすことができますか?

答え:クリエーターに満足をもたらす、とは「彼」を発見することを意味します。これが「彼」に満足をもたらし、また人類全てにも満足をもたらします。クリエーター(創造主)と被造物の満足とは器を満たす光のことです。それは受取りたいという願望が満たされることから来る喜びであり、また、授与の姿勢から来る喜びです。つまり第一段階は物質のレベルであり、第二段階はスピリチュアルなレベルです。これがクリエーターの目標 ―諸々の器を充分に満たすこと― であり、それが創造主と被造物双方に満足をもたらします。そしてその中で、双方はお互いに固着します。

正しい意図があれば、行動は少なくてもよいのです。それは量の問題ではありません。もしあなたがもっと心の準備に時間を掛ける必要があるなら、それは価値あることです。それにより人々はつなげられます。つまり、もしあなたが接触する一定の人々に話をし、影響を与え、スピリチュアルな感覚を運ぶ「内なる光」を伴って正しく事が為されるなら、それは後になって、私達から話を聞いた彼らから、更に彼ら自身が接触する他の人々に広がっていきます。そのようにして、その影響の広がりは全ての人に及びます。人々は自分で自覚することなく、そのように行います。

しかし、もしそれがただの物質的・外面的行為に過ぎないとき、人々は刺激され、声を上げて泣いたり、叫んだりすることが起こるかもしれませんが、それはポップスター(人気歌手)のパフォーマンスに熱狂するファンの群れと同じようなものです。また人々は、例えばトロツキーのような才能ある雄弁家の(共産主義による世界革命のような)スケールの大きい立派な言葉に影響されがちです。しかしこれはいかなる肯定的な結果にも導かず、むしろ破壊へと導くものです。それで、全ての行為の前には心の準備が最も大切なのです。その準備とはクリエーターに満足をもたらす意図のことです。

これが終日、私が考えるべき唯一のことです。どのようにして私の意図を自分の仕事に加えようかと考えることです。なぜならこれが成功の秘訣だからです。

From the Preparation to the Daily Kabbalah Lesson 8/26/13

どうすれば自分のことだけを考えることをやめれるのか?

 質問:人はどの器の中でスピリチュアリティを見つけるのですか?

答え:“戻る光”(Returning Light)の中です。その意味は授与(与えること)の中ということです。それは自分のことよりも他者のことについて心配する時のこと、自分にとって自分より他者のほうが大切な時のことです。

質問:人はスピリチュアルな器を獲得するために何を無にしないといけないのですか?

答え:自分のことだけについて考えることを無にしないといけません。どうやって自分のことしか考えない私が、他者の利益のために自分自身を完全に変える状態に切り替えられるのでしょうか? どこでそのような欲求や願望を得ることができるのでしょうか? どこでそのような努力をするための力を見つけられるのでしょうか?

ここで私を助けるのが“改善する光”(the Light that Reforms)です。それは“エジプトからの脱出の奇跡”と呼ばれています。私は自分の感情(heart)と知性(mind)を、自分のことを心配するという欲求から取り出し、それらを他者の中に入れます。もちろんこれを自分の力ですることはできません。囚人は自分自身を牢獄から釈放することはできません。自分で自分の髪の毛を引っ張り、沼地から抜け出すことはできないのです。

しかし、光が来てその欲求からこの心配を取り出し、それを他の誰かの中に入れてくれます。そしたら私はその人のことを心配しだします。母親が自分の赤ちゃんの心配をするように。結局のところ、同じ事が彼女にも起こりますが、それは利己的なレベルです:それはまるで彼女が自分の赤ちゃんの心配をするように催眠術をかけられ、赤ちゃんを一日中見て心配をしているようなことです。もし私たちがこの世に於けるそのようなプロセスについて知らなかったなら、彼女が気でも狂ったのかと思うことでしょう。

これも光の働きですが、母親は自分の赤ちゃんを愛すことができるようになりたいと頼む必要はありません。彼女はこの愛を上層から単に与えられるのです。しかし私たちの場合は違います。人には選択肢が与えられます。「“動物”のレベルのままでいたいのですか?  ならどうぞいてください。しかし、もしスピリチュアルなレベルに上がりたいなら、この力を起動させる必要があります。」

あなたは常に上達し、より賢くなる必要があります。要するに、クリエーターを起動させるためにクリエーターの知性を獲得する必要があるということです。これがその二つのレベルの違いです―あなたがクリエーターを起動するという事実。このことについてタルムードは「我が息子たちは私を負かした」と伝えます。

From the 4th part of the Daily Kabbalah Lesson 2/6/13, A Speech for the Completion of The Zohar”

痛みを感じる丸太

バール・ハスラム、「ゾハールの完成のためのスピーチ」:あなたがクリエーターとの形態の等価(同等性)を達成する時―彼の全行為は与えることそして他者に利益を与えること、そのようにあなたも、全ての行為が与えることそして他者に利益を与えることだけになる。これが完全なるディヴィクット(密着)である。

質問:“形態の等価(同等性)”とは何ですか? もし私が“受け取る意志”ならば、どうやって私は形態において等しくなれますか?

答え:仮にあなたが私に似たいとします。私はあなたと遊び、あなたに対してある形で現れ、あなたは私のようになろうとします:あなたは私がすることをし、私のように考え、私のように話します。翌日に私はより進歩した形で現れ、あなたは話し方と振る舞い方と考え方において私にもっと適応しなければなりません。私はあなたに模範を示し、あなたはそれらに従わないといけないのです。これを「形態の等価(同等性)」といいます。

ここであなたはこう尋ねるかもしれません:「しかし、クリエーターが見えないなら、どうやって彼に似ることができますか?それ(旧約聖書)は「汝の神、主に立ち帰れ」と伝えます。どうやって彼のもとへ帰れますか?どうやって彼にますます似ることができますか?せめて模範を示して下さい・・・。」

頼みなさい。あなたがクリエーターのようになることができるように、彼に模範を示すよう、そして、彼が誰で何であるか示すよう頼みなさい。もし頼まないなら、あなたは彼のようになりたくないことを意味します。あなたにとって本当に必要なものが模範だけの時、あなたはそれを受け取るでしょう。

質問:私は猫を飼っています。私は猫に私の知る全てのことを教えることができますが、猫はいずれ私のようになるでしょうか?

答え:猫に「心の点」はありません。猫に教えることはできません。あなたは猫を手なずけることしかできません。猫を何らかにすることはできますが、猫を人間にすることはできません。なぜなら“人間”(アダム)とは“クリエーターと似ている”(ドメー)を意味するからです。猫にはそのための出発点、初めのスパーク、つまり「心の点」がないのです。

もし器の破壊の間に受け取る意志の中に入った心の点がなかったとしたら、私たちも動物のレベルまでしか発達しなかったでしょう。しかし、私たちがこのフェーズを完了させるとき、スピーキングのレベルの点が私たちの中で吹き出すように現れます。これが今日人類に起きていることなのです:人類は“動物”のレベルにおいて進化の終わりに到達したのです。

全てはゼロから、カオス(混沌)から始まりました。そして自然において静物のレベル(still nature)が現れ、その後に植物のレベル(vegitative nature)が現れ、そしてその後に動物のレベル(animate nature)が現れました。もしスピーキングの点が動物のレベルになかったとしたら、スピーキングのレベルに属する人間(Adam)は、どこへも進化せず、全てはここで終わるでしょう。

これが世界での驚きと問題なのです:人々は彼らが新たなレベルに直面していることを理解していません。彼らが理解しない理由は彼らにそれが見えないからです。それは触れられません。それはスピリチュアルなのです。前のレベルの全ては具象的なのに、スピーキングのレベルは具象的ではありません。

もし私が自然における静物のレベルであるなら、自分のより高いレベルを認識することはできません:植物のレベルと動物のレベルのことです。下位と上位の両方に見ることのできるつながりはありますが、人間のレベルが何なのか私には全くわかりません。また、人間のレベルに上昇することは私にとって大きな謎です。私に何ができるのでしょうか?私にはそれをつかむ方法も模範もなく、それはまさに未知なのです。

これこそが、世界中の人々が何が起きているのか理解できない理由および将来の上昇のメッセージをを受け入れることのできない理由なのです。

最初、クリエーターによって創造された欲求(または願望)は、心の点(・)、ガルガルタ・ヴェ・エインアイム(GE)としての機能を果たす部分でした。これを“イスラエル(Israel)”といい、それは“ヤシャー・エル”(クリエーターへ真っ直ぐ)ということを意味します。アブラハム(Abraham)はこの部分に属す人々を古代のバベル(Babel)から連れていきましたが、心の点のない(without (・))他のバビロニア人はバベルに残りました。

そしてその後に、粉々に砕け散ること(shattering)、つまり破壊(destruction)により複数のイスラエルの点は陥落し、欲求の物質とミックスされました。これがイスラエルの人々の国外追放(exile)です。つまり特質の相互的な取り入れ(mutual incorporation)によって今日の全ての人が心の点を持つようになったことです。

そうはいっても、人々の目の前に進化のもう一つのフェーズ、“動物”のレベルよりも質が高く本質的で強力なもう一つのレベルがあることを心に描くことはとても難しいことです。地球の表面に植物しか見ることができないと想像してみてくだい。この光景に次なる動物のレベルである鳥や魚、そして人とその文明を加えると、なんという違いでしょう。

現在、私たちは新しいレベルに直面しているのに、誰もそれを理解していなく、誰もそこへと上昇する必要性に気づいてません。

質問:心の点が全てのことを決めるなら、私を今日のピノキオに例えることは可能ですか?

答え:心の点がなければ、あなたは“丸太”になるでしょう。しかし、この丸太の中には何か他のものがあります。したがってゼペットがそれを斧で切り始めた時にそれが大声を上げるのです。これが“心の点”で、それが人間の声を出すのです。私たちの中の他の全てのものはまさに“丸太”にすぎません。

次なるレベルは無からは形成されません。したがって発達する必要を感じる人々が我々、ブネイ・バルーフ(BB)に来るのです。上昇する性向を持ち、愛(love)によって前進するために。他の人々(others)はこのレベルに達するために「苦難の道」に沿って発達しなくてはならないでしょう。

もし心の点が目立たなく、人々がその存在に気づかないなら、苦しみだけが彼らを前に進ませるでしょう。心の点は人々を前に引き寄せますが、苦しみ(suffering)は人々を後ろから押します。それはダイポール(双極子)に似ており、全ては何があなたを動かすかによります―それがトーラー(Torah)なのか、それとも苦しみ(suffering)なのかということです。

From the 4th part of the Daily Kabbalah Lesson 2/3/13A Speech for the Completion of The Zohar”

微かな光が射し込む壁の裂け目をお見逃しなく

「涙の門」に至るとは、あなたが自分を、持ち上げることのできない重い石、すなわち自分自身の力では動かすことのできない欲求として、そしてそれ以外の何者でもないと見るようになることを意味します。その動きのすべては外部から来るエネルギーによってのみ可能になります。それで、私達の仕事の全ては、外部の環境から、この状態に対する助けを誘導する手段を見つけることです。

大変重要なポイントは、私達が自由意志を与えられていることです。ちょうど人が力を失い、もはや何もすることができないように見えるとき、また人が絶望、あるいは、ただの弱さを感じるとき、また人がモチベーションと未来の希望を失うとき、そのようなとき、その人は突然、自分自身では全く身動きできないことを感じます。その人をゴールへ向けて引っ張ってゆく意志の力は存在せず、ただわずかに、彼を背後から駆り立て、強制的に動かす小さな針がいくつか存在するだけです。

しかしながら、自分自身の力によって前進する自由意志が現れるのは、まさにそのような死んだ状態の中においてなのです。それは、ポジティブであろうとネガティブであろうと、何か見知らぬ異質な力によってではなく、自分自身でその前進する力を見つけることにかかっています。そしてその人はこれらの力をその人自身の内側に探し求めるのではなく、むしろ環境と共に働き始めるべきであり、そしてその力によってクリエイターの元へ登っていきます。

しかし人は、そのような惨めで灰色の状態の中で、光が開示される瞬間を見分けるために、とても敏感であるべきです。その時にあなたは光の中に入ることができ、そして行動することができます。

突然、多くの欲求の中に光の窓口が現れ、人はその中に貫通し突破することができるようになります。人は、最も死んだような状態にあるとき、無力感を感じスピリチュアリティの全ての味わいを失ってしまったときには、常にそのような瞬間を待たなければなりません。そのような状態においてすら敏感であることは可能です。

絶望や無関心を感じるとき、人は、この状態の中でも外へ飛び越えることができる日が来ることを心待ちにしながら、依然として鋭い知覚を維持しなければなりません。それはあたかも、あなたの目の前に堅固な壁があって、ある日突然そこに小さなひび割れがあることに気づくようなものです。あなたはそれを貫き通し、そこから脱出する道を発見します。この暗闇の状態の中にあって充実と達成の獲得方法を見つけるのは、まさにその場所なのです。

From the 1st part of the Daily Kabbalah Lesson 9/6/12, Writings of Rabash 

転落は獲得されねばならない!

あなたが上位のものを評価すればするほど、あなたはより光に近くなります。あなたがクリエイターを正当化し、崇敬するとき、その高みから、あなたは追加の願望(アヴィユート)、すなわち転落を獲得します。あなたが光に近づけば近づくほど、それがあなたに働きかける強度もより大きくなります。

光の効果は、あなたのアプローチ、より光に近づこうとするあなたの試みによって、増幅されます。そしてそのような訳で、あなたの願望に従って、情報遺伝子(レシモット)はより高い速度で現れ、光により近い特徴を持ちます。

そしてその途上で、あなたの願望の深さとネガティヴな感情が、あなたに明かされます。しかしこれは全て、同じポジティヴな傾向の中にあります。その状態は全く反対に見えるかもしれませんが。そのような訳であなたは暗闇の中でさえ是正を実行するのです。

From the 3rd part of the Daily Kabbalah Lesson 8/27/12, The Study of the Ten Sefirot

皆で一緒に求めよう

我々の状態におけるクリエーターへの訴え、つまり祈りは集団でのみありえます。さもなければクリエーターは聞き入れません。人々が集まり、一つのハートを共有する一人の人間のように同じ意見になり、心一つに団結するときにおいてのみ、彼(クリエーター)は聞き入れるのです。その理由は、そうして彼らが集団的欲求を創り出すからです。

彼らの求めるものは何でしょうか? それは、彼(クリエーター)が彼らを是正し、持ち上げ、満足させることなどです。

一人は何の価値もなく、何の意味もありません:そのような祈りは存在しません。あなたは好きなだけ叫ぶことができますが、それは荒野で泣き叫ぶ者の声になるでしょう。もし10人が集まるのなら、彼らがどのように叫んだとしても、また、偽ってでさえも、彼らの訴えは考慮に入れられます。なぜなら彼らがお互いにつながろうと努力しているからです。

From the Kharkov Convention “Uniting to Ascend” 8/17/12, Workshop 3

エゴよ、私はお前のものではない

質問:どうやって私たちはゾハールを読んでいるときに自分たちの意図を確認できますか?

答え:もし私たちがゾハールの書を正しく使うことを願うのなら、ゾハールの書は私たちにやって来る光の源です。したがってカバラの本を勉強している間、私は常にいくらかのイルミネーションを呼び出していますが、それは私の努力の、そして、用意ができていることの激しさに応じてやって来ます。もし私が肉体上の何かを手に入れるために、または、来世を個人的な特権として勝ち取るために勉強するなら、光はその影響によって私の中によりいっそうの暗闇を作り出します。私は、何のためにこのシステムが私に与えられたのか、私は何をしなくてはならないのか、そして、どのように私は他者を扱うべきなのかということの理解からだんだん離れていきます。愛とつながりについての素晴らしい言葉を読む時でさえ、私はもはや帰属感を感じず、つながりを目にせず、文章を読み取る方法が分かりません:それを私のハートに入れさせるのかどうか。これは、夜に養われ夜明けを予期しないコウモリのように私が勉強することを意味します。

しかし、もし私が他者とつながろうとし、これがその方法論を学ぶ理由であって、シナイ山でそれを受け取るための条件を保持して守ることによって、皆と一緒に「一つのハートを共有する一人の人間」に成ることを切望し、相互保証に参加するために、兄弟愛を達成するために、そして、それを通じることでクリエーターへの愛を達成するためにということなら、光は私を前進させ始めます。これはもう段階ごとに克服するという普段の道ではありませんが、私は徐々にその中に悪い粉々になった状態を発見し始めます。

利己的な勉強は私から私のエゴを隠し、私は自分自身を高潔として見ます。一方、正しい勉強によって、私は自分が悪の中にどっぷり浸かっていることを発見します。光が私に明らかにする最初のものは私の悪い性質であり、私はそれに応じて作業しなくてはなりません。悪を発見することによって、私は前よりもさらに悪い気持ちを感じます。では、私には何ができるのでしょうか? 結局のところ、私は私の性質に従って気分が悪い時は逃げたいのです。

もしかすると私は勉強を止めて、グループから離れるべきかもしれない? もしかすると私は絶望を感じるべきかもしれない? あるいは、もしかすると私は悪の認識を知ることを許されて喜ぶべきかもしれない? それは私にとって法則、招待であるべきです:もし私がこの不快感(気分の悪さ)を乗り越えられるのなら、私は受け取ることを超えて授与を切望するでしょう。

私のエゴの中で明かされる苦しみが、私がエゴために作業していないことを示すので、私は打撃を受けることを好みます。私は不快感を感じますが、それらを克服してユニティーを目指します。私は苦痛を和らげるために逃げることはしません:私は自分自身を閉ざさない、私は落ち込まない、私は勉強をやめない。それどころか、私は友達と一体になる途中にて、あらゆる方向からやって来る全ての困難を、クリエーターによって送られているものとして受け入れます。彼(クリエーター)以外には何も存在しないのです。

私はどんな状態も私の前進のためになるものとして受け入れます。私はそれらを無効にしたくありません。そして私は不快感を中和するために勉強し続けます。私は実のところそれを望んでいるのです。それがその乗り越え方、理性よりも上になることに私を正確に集中させるので、私はそれが継続することを望みます。全てはゴールに正しく集中することを助け、それらの中で作業することによって明らかに前進するといった制約や枠組みを作るので、私は喜んで全ての問題や妨害、状況の圧力、外的な嘲り、様々な苦しみを受け入れます。

こうして私の内側に授与の器を受け取りの器よりも上に構築します。それらは成長し続けます。そして、苦しみ続けます。その間、私は、それらよりも1つ上の段階に在り、完全な信仰、ビナーの属性を達成し、私の受け取りの器を授与するために使い始めるまで、クリエーターとのつながりを持ち続けたいのです。

しかしその一方では、また、私は独り善がりの考えがあってはならない段階に上がったので気持ちを落ち着かせるつもりはありません。それどころか、私はますます上向きに切望し、喜びを受け取る準備でさえできていますが、それは私自身を満たすためではなく、クリエーターの願望を満たすためです。

これはすべて私たちの作業です。私はこの道に沿って本当の源、私に授与の力を与える利己的な欲求が必要です。それは利己的な欲求の中で明らかになる問題や苦悩を私が克服した結果です。そして、私はそれが全てクリエーターによってもたらされることをはっきり分かっています。

From the 2nd part of the Daily Kabbalah Lesson 8/16/12, The Book of Zohar