'毎日のカバラレッスン'

愛についてもう一度

質問:友の愛とは何ですか?

答え:愛とは1つの共通願望の中に於けるユニティーです。カバラは以下の例を挙げます:ビナーがハフェツ・ヘセド(Hafetz Hesed-自分自身のために何も求めないこと)に達する時、ビナーはマルフトに降りて来て一体化し、ビナーの全ての力をもってマルフトの願望を満たすために、マルフトの願望を吸収する。

それが愛と呼ばれるものです:誰か他の人の願望を吸収し、何でもあなたに出来ることでそれを満たすこと。人は1つしかない枕を譲らなくてはならないと記されています。それは私達が到達する必要のある愛の顕示です。

しかし、どうやってそれを達成できるのでしょうか?私達は物質世界の中で一人一人に全ての基本的生活必需品があるようにしなくてはならず、そして霊的な世界の中において一人一人が私達の共通願望(Kli、器)のなかにある全てのものを受け取ることを確実にしなくてはなりません。

私達全員を1つの願望として見なし、それを生き生きした状態に保つために全てをすることがとても重要です。各自はそれが自分にかかっていて、しかも、この世界のための天秤を罪悪感の皿から慈悲の皿へと傾かせることが自分の手の内にあると感じなくてはなりません。このやり方で、私達はマルフトと呼ばれる場所を作り出し、その中で上層の光、クリエーターが明かされます。しかし、その究極的な目的はクリエーターに満足を与える事というのを私達は忘れないようにしなくてはなりません。

しかし、クリエーターに対してそれをする事は容易ではありません。私達にはまだ「彼」の光の確かな感覚がありません。よって私達は最低限、どうやって「彼」が隠れている場所に、「彼」に対する願望の全てが集合した場所に、喜びをもたらすのかということについて考えるべきなのです。「創造された存在物に対する愛からクリエーターに対する愛へ」と記されているように。創造された存在物に対する愛は、実際は、最も総体的な願望、一体化した願望です。

私達が復活させたいと望む私達の魂の関係を友の愛と呼びます。友達とは内面的で霊的な繋がりに達するために物質レベルで集まった個人たちなのです。私達は既にそれについて知っています。今はそれをただ実行するときなのです。

それについての無数の言葉が語られてきましたが、その人のいる状態にしたがって、毎回それらは新しく認知されました。私達はそれらを私達自身の内側へ、より深く吸収する必要があるだけなのです。そのあとに、それは明確になるでしょう。

この点において辛抱・我慢・忍耐が必要です。それは私が待つことに賛成し、全てのものを後回しにする、明日にするということではありません。今日できる全ての努力をする辛抱・我慢・忍耐(根気)を持って下さい。しかし、もし成功の兆候が見られないなら、それが今にも起きるといった自信を持ってください。

From the Daily Kabbalah Lesson 12/10/2010, Baal HaSulam, Letter 13, 1925

エゴを欺きなさい。さもないとそれがあなたを欺くでしょう。

私が利己的な奴隷の境遇から出るときに入る「砂漠」が、グループです。

相互授与のなかに居ることと、みんなに授与するという事実から喜びを感じることが、自分にとって、真の「砂漠」および「苦しみのパン」(マッツァー:ユダヤ人が過越祭に食べる無酵母のパン)です。

もし私が授与から利己的な喜びを受け取ることができれば、私は受け取るために喜んで与えるでしょう。しかし、私は、何の個人利得なしに「授与するため」に与えることはできません。私はこのように振る舞うことが出来ません。私は“授与の燃料”で指の一本も動かすことができないのです。私はこのことからなんの栄養も受け取りません、よって、どのようにしてエンジンは、燃料なしに、電気なしに、動くことができるのでしょうか?

利己的な受け取りは、私にあらゆる種類の多大なエネルギー(カロリー、ワット、ジュール)を与えますが、授与は何も与えません。私は受け取るために自分の手を動かしますが、それが授与であると知ればすぐに、私は凍りつき、それいじょう動けません。その瞬間、その行為のまっ最中に、それが授与に向けられていることに私が気づくとき、私は凍りつき、動かなくなり何も出来ないのです。あなたは「頑張れ!やれ!あともう一歩だ!」と私に向かって叫ぶことができますが、私はそれを聞き入れることが出来ません。

したがって、私達のエジプト(エゴ)から私達がスピリチュアリティの世界の美しさを見て、それを望みはじめることが出来ないのです。グループだけが私達にスピリチュアリティの重要性をしみ込ませます。それは私達のエゴを欺き、スピリチュアリティの中が気持ちいいとエゴに信じさせるのです。

私達が内部的につながっていて、お互いに影響を及ぼし合っていることから、私はこのうそを真実であるとみなします。私の高慢と情欲と野望を巧みにあやつりながら、喜びを私に約束した肉体上の世界のうそを真実とみなしていたように。私は突然、自分の利己的な所有物の全て―魚やお肉の入っているかめでいっぱいの“ピトムとラムセスの開花している都市”―を捨てる覚悟があるほど強くスピリチュアリティを望み始め、1袋の小麦粉を背負い砂漠へと逃げるのです。

だから私達の作業のすべては、スピリチュアリティの世界が世の中で最善のものであると、お互いを納得させることにあるのです。これはその通りです。たとえ私達の現在の利己的な願望との関係上、スピリチュアリティが完全な砂漠で悲しみのパンであったとしても。

したがって、下降の諸状態のなかで絶望しないでください。なぜならそれらが本物の状態であり、突破の前に生じることになっているからです。一方では、私が状況を現実的に評価し、自分が授与したくないと実感します―私はそれが大嫌いであり、それに憤慨します。しかしながら、それは非常に重要なので、私はどんなことがあってもそれに到達したく、スピリチュアリティのない人生を、死よりも悪いと見ます。私 に於けるこの考え方(心構え・姿勢・態度)は、社会によって生み出されます。

From the 4th part of the Daily Kabbalah Lesson 10/31/10, “This is for Judah”

私たちは自由の身でしょうか、それとも機械の中のただの歯車でしょうか?

意志の自由は最も重要なトピックです。なぜなら、それが私たちの生活における主要な問いを提示するからです:私たちは、自然の何か他の部分のように、完全に上層からコントロールされているのでしょうか?私たちは、全てのものが上層からの支配、つまり自然(クリエーター)の支配の下で機能していることを目にします。自然を超えるものは何もありません。私たちは支配の力を何らかの働き・作用において見分けることができます。しかし、他のものにおいて、それらの支配の力は私たちから隠されています。

若いとき私たちは、私たちが自分たちの人生を支配するのだと考えますが、成熟し人生の経験を積むにつれ、人生が私たちをコントロールしているのであって、その逆ではないと理解するようになります。私たちが、物理学的、化学的、生物学的といった自然の全レベルを操作している厳密かつ不変な法則を発見するとき、実に、どこに意志の自由の可能性があるのでしょうか?また、もし私たちが法則を見ない場所があるとするなら、それは、絶対的な確実性をもって働く法則がそこに存在しないのではなく、私たちがまだそれを明かしていないという意味なのです。

どうすれば何の法則からも影響を受けない、制御されていない自然の部分が存在することができるのでしょうか?これは絶対に不可能です!私たちは、自然を明らかにする全ての場所において、厳密な規則性を発見します。

すると、選択の自由とはなんでしょうか?それは決定論的な自然の法則に支配されることなく、自分が好きなようにする可能性でしょうか?選択の自由はどこからもたらされるのでしょうか?自然の中に於いて[法則に]従わない“白い斑点”はありえるのでしょうか?

私たちの全ての見かけ上の自由とは、厳重な監視下で自分の部屋で遊ぶよう残されたにもかかわらず、自分が自由であると考えている小さな子供の錯覚であるということが分かります。つまり、自由意志とは私たちの無知のみによって説明されているのです。そして、これは私たちが自由と呼ぶものでしょうか?すると、人間とは何でしょうか?それに気がつくことさえもなく、完全に上層からコントロールされている、自然のもう1つの部分?もし私たちが操り人形でしかないのなら、私たちは善も悪もしません。私のすることの全てが法則に従っているとき、自分に期待されるものがありえるのでしょうか?

私が突然したいと望むことの全ては、外側および内側から私を操作し、制御する生まれながらの本能です。もし私たちが創造の中の単なる普通の「歯車」でしかないなら、褒美も罰もありえません。しかし、もし全部の存在が“包装済みのゲーム”なら、そのすべての意味とはなんなのでしょうか?

その意味することとは、何よりもまず、私たちにそれでもまだ意志の自由があるのかどうか、そして、それが何処にあるのかについて解明する必要があるということです。結局のところ、もしここに本当に選択があるなら、高得点を取ることも、あるいは、全てを失うことも可能です。

したがって、意志の自由はカバラに於ける主要なテーマなのです。なぜなら、それが次の段階の始まりであるからです:私たちには自由があるのかどうか、そしてもしそうなら、最大限の恩恵を得るように、それをどうやって、そして、どこに利用できるのかということです。

From the 4th part of the Daily Kabbalah Lesson 10/8/10, “The Freedom”

なぜ私は努力をするのか、そして私は何を見つけるのか?

バール・ハスラム、シャマティ161番『トーラーの授与の問題(The Matter of the Giving of the Torah)』:「私は努力をした、そして見つけなかった、信じない。」私たちは「私は見つけた」の意味を理解しないといけません。見つけるための何があるのでしょうか?クリエーターの視点に於ける恩恵を見つけることに対する懸念を見つけなさい。

「私は努力をした、そして見つけた」と、是正の方法を実現することについて記されてます。これはなんて変わったモットーなのでしょう。「努力をした」は、私は理解できますが、「見つけた」の部分はとても不明確です。

もし私が他者への愛を達成するために自分自身を是正するなら、他者および他者との繋がりに向けられたこの善い態度(心構え)に於いて、私はただ誰かを見つけるのではなく、クリエーター彼自身(すべてのものを1つの全体系に結び合わせる、全てを含んだ自然の力)を見つけます。すべては努力にかかっています。私は体系全体を集め、他者との関係を構築し、正しい繋がりを確立し、そしてそれを暗闇のなかで感じようとしながら、自分自身を注ぎ込み、汗水を流して働かなくてはなりません。

これにおいて私は努力をし、最後に体系の複数の部分が1つになる瞬間に、クリエーターを見つけます。ゆえに、私は万有の力を明かし、それが自分の内的な生命の力になるのです。そして、もし私が努力をせず、この探求を行わないのなら、私は全ての魂を1つにするために必要な理解と印象を欠くことになるでしょう。

まだ私たちはこの事を明らかにしていませんが、まさにすべての細胞が全身体の世話をするのと同じように、この体系を獲得し、それを制御する方法を習得するのは、実に自分次第なのです。それと同じ原理は全ての創造に適用されています:ホログラムのように、各要素は他のすべての要素および全体系と相互に繋がっているのです。これが完全・完ぺきなのです。

この理由から、是正方法を実現することに於いて、努力を惜しむことは不可能です。なぜなら、そうでないと、私は内側ですべてと繋がり、すべてを理解し、すべてを吸収することが絶対にできないからです。

しかし、スピリチュアリティに於いて、いくらその人が好意をもたれている状態といった報酬を受けているとしても、やはりその人は後でその全額―すべてのひとが与える努力の量―を支払わなくてはならないのです。もしそうでないなら、その人はクリ(Kli:器)を失うことになります。

From the 1st part of the Daily Kabbalah Lesson 10/8/10, “The Matter of the Giving of the Torah”

真の悪

質問:クリエーターとの付着は何を暗示しますか?

答え:付着は大きな是正、性質または「形態」の同等性に基づく一体化です。私たちは、受け取る意志それ自体の構成要素を変える必要はありません。しかし、この構成要素は「悪」、クリエーターと反対、とみなされる利己的な形態(意図)を有しています。

自然の無生物、植物、そして動物が、悪でありクリエーターと反対とみなされないのと同様、受け取る意志それ自体が悪でクリエーターと反対であるとはみなされません。また人は、自分がクリエーターと反対であると感じるまで、その人に「悪の性向」があるともみなされません。

最初は、あなたの願望の意図または「形態」がクリエーターと反対であると知ることが必要です。もしそうでないなら、人には悪はありません:その人は単に本能に従って行動しているだけです。カバラに於いて、悪とは、クリエーター、善、または光と反対の性質として定義されます。人は、善の性質(特質・属性)、繋がり、そして愛がその人に明かされたときに、悪を感じることができ、自分自身がクリエーターと反対であると見ます。

その時点で人は「人間」になります。その時にどれだけこの人間が悪いかに関係なく。そして、これはカバラの知恵の勉強が伴ったときにだけ起こることです。その時以前に、人や世界のすべてのエゴイストに是正するものはありません。是正が必要なのは、形態ではないのです。

私とクリエーターの間にある断絶・違反のみに対して是正が必要なのです。私はクリエーターと反対な形態を「彼」と似ている善いものへと変形させなくてはなりません。そして、私たちが「彼」と相互授与において同等となるときに、記されているように、私たちは「付着」(Dvekut)と呼ばれる繋がりを獲得します。この内面的作業(悪または壊れている状態の啓示とその是正)は、グループがカバラを勉強している最中に引き寄せられる光を手段としてしか起きません。

その人の複数の肉体化(Gilgulim)の中の一つに於いて、突然人は心の中への“銃弾”、なにか新しい非物質主義の人生にその人を引き寄せる“スパーク”を感じます。その人は、ありきたりで地上的な生活を超越したく、勉強とグループに来ます。時間が経つにつれ、その人は自分が授与と比べて、どれほど不十分であるのかと感じ始めます。その瞬間から、その人は自分の性質がクリエーターと反対であることを悟るのです。その時になって初めて、「自己の悪の認識」がその人のなかで現れたと言えることができるのです。

しかし人々はたいてい「悪」とは単に社会に於ける悪い人と考えており、すべての人がクリエーターと一つになることに対して反していることだとは考えません。カバラは地上的な悪(おばあちゃんが道路を渡るのを助けないことや、物乞いにお金をあげないこと)を是正しません。この悪が是正されることは完全に不可能です―私たちが霊的な悪をなくすまで、地上的な悪は増大しつづけていくだけです。

From the 4th part of the Daily Kabbalah Lesson 10/7/10, “The Love for the Creator and Love for the Created Beings”

正しい態度の準備をする

私たちの全作業は、準備に向けられています。私たちの任務は、私たちの中で明かされるようになるエゴイズムを消すことではなく、常にそれが私たちの中で上層の光、クリエーターによって明かされているのだといつでも認知できるようになることです。私たちはすぐにそれを光の中で、私たちの成長の、苦いが嬉しい兆候なのだと判別すべきなのです。

私たちの魂(願望と光)は、段階的な下降を経験しました。そして今や私たちはその同じ段階(度合い)又は状態を下から上へと明かさねばなりません。私たちはそれらとそれらの全細部を経験しなくてはなりません。なぜなら、さもないと最後の是正(Final Correction:最終是正段階)で、総体の器に欠陥(ひび・きず)が生じてしまうからです。

それが上から下へと下降する際に、私たちが運命を変えることは出来ません。しかし、私たちはそれを違うように観ることと、認知することの準備をすることができます。エゴイズム―楽しもうという意志―の中の不愉快な感覚は、私が自分のエゴと同一視する事実によって生じているのです。

しかし、もし私がその上に上がり、クリエーターに由来する全てのものの中に、よい変化を観る準備をするのなら、エゴイズムの不愉快な感じが明かされた同じ状態が、よくてポジティブで役に立つと認知されるようになり、私はそれらをありがたく思うでしょう。

私がクリエーターの私に対する態度を違って認知し始めるとき、自分の全ての故意の違反および故意でない違反が、是正されて授与に到達するための自分の機会になり、その後、これらの違反は私の功績に変わります。したがって、すべては私と私の準備によるのです。

From the 1st part of the Daily Kabbalah Lesson 10/7/10, “The Righteous Feels Good and the Righteous Feels Bad”

グループとは自分の影です

グループとは私のコピー、私の影です。まさに私がクリエーターの影のように。私は自分が友だちの中に入れるよりも遥かに多くを彼らから受け取ります。それは彼ら又は彼らの行動によるのではなく、自分の彼らに対する態度だけによるのです。この環境もクリエーターです。それは「彼」と一緒に働くために「彼」が私に与えた機会なのです。実際には私の外側にはクリエーターしか存在しないのに、その間まるで私の外側に何かが存在しているような錯覚を私に創ったことによって。

この理由から私たちは常にその環境を目覚めさせなくてはならないのです。私が環境を通じてクリエーターと一体化するために、環境と一つになりたいと願うよう、その環境が私に影響を及ぼすといった状態を、私たちが獲得するまで。環境なしに私がクリエーターに到達することは出来ません。なぜなら、環境とは、私が環境を通じることでクリエーターのイメージを観るといった外部的な手段であるからです。

もし私がグループと一つになりたいと望まないなら、私は少しもゴール、クリエーターを目指して進んでいません。結局のところ、私の隣人とはだれでしょうか? それはスピリチュアリティの中で私を二つの部分、私と私の隣人に分けた破壊の力なのです。何のためにでしょうか? それは私がクリエーターと一体化するために自分に欠けているものを認識・識別させるためです。

たとえこの環境が自分にとって異質・無関係・無縁に見えるとしても、私がこの環境をもっと自分の近くに持ってこれるならすぐに、もっとクリエーターに近づくことが出来るようになります。クリエーターは私にわざと二重の知覚・認知を授けました。私が自分の一部をよそ者として、そして、憎らしいものとして、目にするために。

それが何故「隣人を自分のように愛しなさい」ということがトーラーの最も重要な規則であるのかということの理由です。これが光の唯一是正するものです。そして、これ以外に是正させるものはないのです。もしあなたがこの是正を求めないのなら、あなたの全努力は無駄になります。それ以外のすべては、役に立たない荒野のなかへの叫びなのです。

From the 2nd part of the Daily Kabbalah Lesson 10/5/10, The Zohar

一体性の125段階

私達はどうすればお互いと結束し合うことが出来るのでしょうか?それは人が自分の願望を持ちながら友人の中で存在し、[同時に]その人の中にその友人が存在する場合に限り可能なのです。皆が他人の願望を吸収し、それに取り組まなければなりません。そうする事により彼らは結ばれるのです。彼らの願望は同じ目標に向っている為、彼らの相互的な作業により、前進する為の共同的な力を作るのです。この力は彼らの向上を保証し、それはArvut(相互責任・相互保証)と呼ばれます。

結束は、私があなたの願望の一部を授かり、それを私のものとして経験し、私の願望の全てがそれを満たす為に仕える時に起こります。更に、あなたの願望は目標に辿り着くことである為、私はあなたをそれに導き、同時にあなたが私を導くことになります。このように私達の願望は共通の目標の中で結束するのです。このゆえに「あなたの願望を彼のものにせよ、そうすれば彼はあなたの願望を彼のものにする。」と書かれているのです。

これが私達の繋がりの度合いを確かめる為の基準です。私達の間の隔たりは125の度合い(階段)、私の利己的な願望の125の部分に達しています。しかし徐々に、それを「あなたの為」の行為を通じて是正して行くにつれ、私は授与の為の作業の中であなたに近づくのです。

これが「自分を愛するように他人を愛す」と呼ばれるものです。言い換えれば、私はあなたの願望を使用し、それの前で私の願望を無効にするのです。そうする事により私は自分の願望を是正します。私の願望は残存しますが、あなたに辿り着く為にこれほどの距離を行ったので、私は自分の願望を授与的にしたのです。何も変わってはいません;私は単に意図を追加しただけです。そして、私達の間の距離は消えたのです。私が自分の意図によりそれを一掃した為です!

そして、この「他人」は何が欲しいのでしょう?彼はあなたと全く同じようにクリエーターとの結合を達成したいのです。なので、あなたが彼に手伝うべき事は一つしかありません:クリエーターと一つになる事です(あなたと一緒に)。このたった一つの意図が私達皆を一つに結合するのです。

このゆえに、私達は皆一つのボートに乗っていて、それは一つの方向に向かう、と言うのです。私があなたに近づくほど、私はクリエーターに近づくのです。

From the 1st part of the Daily Kabbalah Lesson 9/3/10, Shamati #50

新しい要求の為の新しい充足

現代の人はこの世界の全ての快適さを得ていますが、私達は依然として満足していません-実際、以前よりももっとそうです。過去では、もし人が毎日、ひと塊のパンを得たなら、彼はそれ以上何も夢見ることができませんでした。それに比べ、現代の人が必要とするあらゆる物を見てください。けれども、その人は満足しているでしょうか?いいえ!そして誰もが皆尋ねているのです:何故だと。

充足は通常の人間のレベルでは見つかりません。そして私達が得るあらゆる新しいおもちゃはその助けになりません。私達は“物”で自分たち自身を酔わせたいのですが、私達の中で湧き上がる空虚感は全く異なる場所から来るのです-それは私達のクリエーターとの類似の欠落からくる欠乏です。その為、私達はクリエーターを感じること以外でしかそれを充足することが出来ないのです!

この空虚感は徐々に私達の中で形成されていき、“爆発”する為に特定の度合いまで蓄積されていきます。その時になって人は、もはやその空虚感を抑える事が出来ないと悟るのです。彼はそれを満たさなければなりません。さもなければ彼の人生は死よりも悪いと思われるからです。この願望の充足をこの世界で見つけることは不可能です。何故ならそれは上層世界、クリエーターを明らかにする欲求であるからです!

それにもかかわらず、身体の防衛力は私達に、自分たち自身を惑わす方法を探すように強いてきます。人々は麻薬、酒を使用したり、または中身のない流行の物や旅行で人生を満たします。このようにして、まるでダチョウのように、私達は問題から逃れる為に頭を砂の中に隠すのです。

私達のエゴの防衛力はこのように働き、それ自身にそれが満たされていると証明し、決して満たされることのできない空虚感を包み隠すことを望んでいるのです。なぜ決して得る事の出来ないものに対し考えを巡らせ、自分達の人生を台無しにする必要があるのだと言わんばかりに。

しかし、これは長く続きません!今のところ、私達は“人間”レベルでの欲求不満を感じるのを避ける為に“動物的”レベルにおいて自分達を惑わすことが出来ています。しかし、その覆い隠しが破裂することは避けられません。

歴史の異なる時期において同様の状態が革命、戦争、そして劇的で悲劇的な解決策をもたらしました。私達の場合において、解決策がそのように残酷にならない事を願いましょう。私達の場合、私達の世界のレベル、“動物”の段階から、上層世界のレベル、アダム、又はクリエーターのレベルへと上昇しなければならないのです。これは私達の力の範囲外であり、人類はそれ自体の無力さに気を狂わせ始めているのです。

私達の利己的なレベルでは、革命、戦争、新しい政体、又は宗教、そして本の印刷、蒸気エンジン、インターネットなど、一段階から次へと新たなテクノロジーによって上昇する事が可能でした。この全ては一定の期間充足を与えましたが、今エゴイズムはそれ自身を消耗し切っており、クリエーターを明らかにする欲求はまさに霊的な充足を要求しているのです。私達は新しい内面的な願望を明らかにしています:それは私達をコントロールする「者」を明らかにすることです。

From the 4th part of the Daily Kabbalah Lesson 9/2/10, “Introduction to the Book, Panim Meirot uMasbirot

真実の甘い味

質問:私は「甘いか苦いか」の感じは知っています。しかし「真実か偽りか」とは何なのですか?

答え:私達の世界にて真実に味はありません;私達は甘い、苦いしか感じません。それは心ではなく、何が真実で何が偽りなのかを主張する思考なのです。

嘘をつく事は嫌われている事ですが、真実と偽りとはあまり理解されていないのです。何故なら、それらを識別する手段がないからです。私達は真実を語る事で気持ち良くなります;しかしながら、それは本当の真実ではなく、単なる真実を語る事の甘い感覚なのです。私達の「真実か偽りか」の識別はエゴによる「甘いか苦いか」の査定に変わってしまうのです。

つまり、私達は「甘いか苦いか」という一つの基準しか使っていないという意味です。何故なら私達の思考でさえも「腹」に合わせる為に働くからです。言い換えれば、人の思考は彼のエゴイズムに従属しているという事です。しかしながら、カバラの伝える偽りと真実とは、私達が未だ持っていない授与の性質を通してのみ知る事が出来るのです。この特性を通してのみ、私達は授与が真実である事を理解できるのです。それは私達の喜びを受け取る願望の中で起こっているどんな事とも全く関係ないのです。即ち、それが満たされていても、いなくてもです。

従って、動物的な身体を超越し、それから自由になる為に、私達には上層の力、是正する光が必要なのです。これらの力は、利己的な願望のみで働く私達の世界には存在しません。もし私達が悪と善を見分けられるようになりたいのであれば、私達はアダム・ハリション(最初の人間)の段階へ上昇しなければなりません。サーペントが彼の目を開いた時に、彼は善と悪を理解出来ていたのです。一方において、それは毒であって、また一方で私達はそれを薬として使えるのです。

何故、魂に明らかにされる最初の霊的段階、アダム・ハリションは直ぐに分裂したのでしょうか?一つの願望しか存在していなかったのに、何故それは二つ、男と女(アダムとハヴァ)に裂け、そしてその後に更に多くの人たちへと分裂し、数十億になるまで砕けたのでしょうか?

これは、アダムが複数の魂へと砕かれなければ是正は不可能だからです。それぞれの魂は小さな、的確で特別な目的を持たなければなりません;それは、明確で具体的な機能を持つ生物の細胞の一つ一つのように、一定の任務を遂行しなければならないのです。例えば、コンピューターは“0”と“1”のみで成る二元方式(バイナリーシステム)によって作動しています。これはとても複雑には思えませんが、そのようなシンプルなシステムが生む驚くほどの成果を見てください!

こうゆう訳で魂は分裂したのです;そうでもなかったら私達は是正を遂行出来ないのです。私達が小さな小片に砕かれた今でさえ、全員が特別な、特定の任務を持っているのにも拘わらず、どれだけ私達が混乱し、各自が何をすればいいのかを理解出来ないでいるかを見てみてください。

From the 4th part of the Daily Kabbalah Lesson 7/18/2010, “Introduction to the Book, Panim Meirot uMasbirot