'愛'

あなたの隣人を愛せよ - カバラモーメント 2011.4.15

愛についてもう一度

質問:友の愛とは何ですか?

答え:愛とは1つの共通願望の中に於けるユニティーです。カバラは以下の例を挙げます:ビナーがハフェツ・ヘセド(Hafetz Hesed-自分自身のために何も求めないこと)に達する時、ビナーはマルフトに降りて来て一体化し、ビナーの全ての力をもってマルフトの願望を満たすために、マルフトの願望を吸収する。

それが愛と呼ばれるものです:誰か他の人の願望を吸収し、何でもあなたに出来ることでそれを満たすこと。人は1つしかない枕を譲らなくてはならないと記されています。それは私達が到達する必要のある愛の顕示です。

しかし、どうやってそれを達成できるのでしょうか?私達は物質世界の中で一人一人に全ての基本的生活必需品があるようにしなくてはならず、そして霊的な世界の中において一人一人が私達の共通願望(Kli、器)のなかにある全てのものを受け取ることを確実にしなくてはなりません。

私達全員を1つの願望として見なし、それを生き生きした状態に保つために全てをすることがとても重要です。各自はそれが自分にかかっていて、しかも、この世界のための天秤を罪悪感の皿から慈悲の皿へと傾かせることが自分の手の内にあると感じなくてはなりません。このやり方で、私達はマルフトと呼ばれる場所を作り出し、その中で上層の光、クリエーターが明かされます。しかし、その究極的な目的はクリエーターに満足を与える事というのを私達は忘れないようにしなくてはなりません。

しかし、クリエーターに対してそれをする事は容易ではありません。私達にはまだ「彼」の光の確かな感覚がありません。よって私達は最低限、どうやって「彼」が隠れている場所に、「彼」に対する願望の全てが集合した場所に、喜びをもたらすのかということについて考えるべきなのです。「創造された存在物に対する愛からクリエーターに対する愛へ」と記されているように。創造された存在物に対する愛は、実際は、最も総体的な願望、一体化した願望です。

私達が復活させたいと望む私達の魂の関係を友の愛と呼びます。友達とは内面的で霊的な繋がりに達するために物質レベルで集まった個人たちなのです。私達は既にそれについて知っています。今はそれをただ実行するときなのです。

それについての無数の言葉が語られてきましたが、その人のいる状態にしたがって、毎回それらは新しく認知されました。私達はそれらを私達自身の内側へ、より深く吸収する必要があるだけなのです。そのあとに、それは明確になるでしょう。

この点において辛抱・我慢・忍耐が必要です。それは私が待つことに賛成し、全てのものを後回しにする、明日にするということではありません。今日できる全ての努力をする辛抱・我慢・忍耐(根気)を持って下さい。しかし、もし成功の兆候が見られないなら、それが今にも起きるといった自信を持ってください。

From the Daily Kabbalah Lesson 12/10/2010, Baal HaSulam, Letter 13, 1925

動物の世界 vs 人間の世界

ラビ・アキヴァは「自分のようにあなたの隣人を愛しなさい。それはトーラーの偉大な規則である!」と言いました。なぜ隣人に対する愛が偉大なルール、つまり私達を動物か人間のカテゴリーに二分割する基礎を成しているのでしょうか?もし自分自身を愛しているのなら、私は動物ということになり、もし隣人を愛しているなら、私は人間ということになります。動物としての私はこの物質世界しか知覚しません。しかし隣人を愛し始めるとき、私はクリエーターとスピリチュアルワールドを知覚します。

スピリチュアリティーは、スピリチュアルな器、またはKliと呼ばれる、愛の力の中で感じられます。今の自分の器は、利己的な愛、自分自身を愛したいという願望です。現在知覚している世界とは、この願望の中で知覚されます。この利己的な現実の中で、私は自分に対して良いものか悪いものしか明らかにしません。

私は、世界及びその光を遮る様々なもの全部を、自分自身に関連させてしか明らかにしません。世界にある色や音のすべても、自分にとって有益か有害かによって決定されます。私は、ある一つのものに対して恐れをなし、それとは違う何かを求めるのです。私はあるものに反発し、その他のものを引き寄せるのです。すべての影響は、自分自身に対する愛を中心に機能している、自分の感覚の中で明かされます。したがって私は、自己愛に関連しないものに気づきません。私は単にその存在を認知しないのです。

事実、私は[今現在も]無限(Ein Sof)に直面していますが、それを感じません。それは自分に対しては存在していないように見えます。なぜなら、それが私を気持ち良くも悪くもしないからです。利己的な愛は自分の知覚する宇宙の大きさを決定します。よって、無限世界の外側で私はほんの小さな範囲、つまり自分の世界しか感じていないのです。

私が自分自身の外に出はじめるとき、私は自分の以前の願望の中で、他者に対して良いものと悪いものを感じます。言い換えると、自分の隣人を愛しはじめるということです。これを上層のスピリチュアルな世界と呼ぶのです。それを明かすとき、私は全く違う宇宙を明らかにします。

もし私が自分自身に対する利己的な考えに注意を払わなくなり、自分の友達について考え始めるのなら、たとえそれが全く物質的な意味であったとしても、私は全く違った世界と問題と解決策に気づくでしょう。私が自分以外の人に対して良い事を明らかにする時、それが自分と関連して「上層のスピリチュアルワールド」と呼ばれるようになります。人はその人の物質的で利己的な世界と同じものも見ますが、私がその人の現実の中に入り込んでそれに包まれ、その人の世界をその人の中から明らかにしたいと切望するとき、それは自分のスピリチュアルワールドに変わります。

この訓練が私を自分自身の外に出させ、クリエーターを感じさせます。私はクリエーターをあなたの中で感じるのです。「クリエーターは彼の国の中に存在する」と記されているように。

From the 3rd part of the Daily Kabbalah Lesson 4/26/10, “Matan Torah”


私達の考える愛とは変装したエゴイズムです

受取った質問:なぜあなたは私達が”他者に対する愛”を知らない、または理解していないと言うのですか?

私の答え:人々は”愛”がセックス、子どもの世話、病人と貧困者への手助けなどに関係しているものだと大抵考えています。今や私達はこの概念を本当に理解しなければなりません。それが現在の危機の起きた理由でもあるからです。この危機は、愛が何であるのか、そして愛を欠くことの意味が何なのかを私達に本当に理解させるために起きているのです。実際にこれが危機の本質です。

金融、産業、その他の分野で起きている全出来事の唯一の目的は私達に真実の愛が本当に何であるかを示すことです。その後に私達は他の全てのことをこの概念に比較させて今の私達の性質がエゴイズムでしかないことを実感するようになります。

人々は”悪の啓示”(悪が明らかになること)と呼ばれるプロセスを経験しなくてはならなくなります。私達の現在の愛の理解は悪であり、既に他者を愛していると考えているという事実もそれと同じことだと人々は理解しなくてはなりません。その後に人々は、お互いに対する扱い方を今と同じように続ければ、個人的にも集団的にも全員の気分が悪くなるということを理解するようになります。あなたは個人的に気分がよいかも知れません。しかし他者を愛さないかぎりあなたもまだ邪悪な段階にいるのです。

私達は”他者に対する愛”の本当の意味を定義しなくてはなりません。またそれと反対なもの – 憎しみ – も定義しなくてはなりません。なぜなら「”ひかり”は暗闇よりも有利である」からです。私達が自分以外のすべての人を憎んでいるということを認識しないかぎり、私達は愛に転身できるようにはなれません。これが最初のステージであり、人類はその状態に近づきつつあります。

今のところ、人々は「そうですね。私達はお互いに対する愛を十分に持っていないのかも」と考えながらただ賛同しているだけです。人々は私達の間に、はびこっている憎しみについてまだ理解しはじめていないのです。

愛と憎しみの数学

仲間に対する憎しみは、憎しみの感覚としてではなく、自分の利益のためにその人を利用したいという願望として表れます。この感覚はそれを愛 – 自分自身ではなく他者を充足させたいという願望 – に変化させない限り続きます。

私の先生だったラバシュは次ように言いました。「自分が0で友人を1として心に描くことができる。または自分が1で友人を0として見なすこともできる。これは自分の願望しだいである – 自分の利益の為に彼を使いたいか、または友人に利益を与えるために自分を使いたいかによって決まる。」

あなたが他者をどの程度満たしたいかによって授与と愛の光はあなたを満たします。

単一性 – 救いの力

私達は統一(団結・結束・協調)が必要不可欠な状況に至りました。しかし私達の統一は各自の気分が良くなるという理由からではなく、私達全員の気分が一緒に良くなるという理由から行われなければいけません。

過去において私達を互いに引きつけていたものは、協力から得られる利益でした。この理由で全世界の人々の繋がりが築かれたのです。私達は世界の一部で何かを生産し、それを世界のもう一部に売り、そしてさらに違うもう一部から何か別なものを受取り、これら全てのことが、またさらに違う場所に影響を及ぼしてきました。このようにして人々は自分達のエゴ(喜びを受取りたいという個人の願望)を満たしてきました。

しかし今日私達はこの利己的な繋がりから利他的な繋がりに切り替える時期を迎えています。それは個人の利益の為ではなく全員の利益の為に行われるべきなのです。私達の繋がりは”受取る為”から”与える為”に変わらなくてはなりません。私達は授与する機会の為に統一しなくてはいけないのです。

このことが完全に非現実的に聞こえることはもちろんですが、自然はこのような統一を私達に余儀なくするでしょう。よって、自然法則の普遍的な授与と愛を率先して学ぶことのほうが懸命なのです。この法則は自然が一体であるという事実に起因しています。私達が少なくてもこのことについて話し、考えはじめれば、私達の思考がそのすべてをしてくれます!

カバラの科学は、自分一人でスピリチュアリティを達成する力は誰にも備わっていないと説きます。自分一人では、授与の特質に満たされ、よって平安が獲得されることは不可能です。もっと正確にいうと、私達の間に正しい繋がりを築くことだけがその達成を可能にします。そしてこれを行うために理解すべきことは、正しい種類の統一に至ることによって、私達の一人一人が、共通の力の全部を受取るということです。そして、これは愛を通じることでしか達成できないことなのです。

私達は常に愛の自然法則に影響されている

「隣人を自分のように愛しなさい」という言葉を言えば言うほど、私達はその意味が分からなくなります。その言葉は総括的なルール、すべての現実における法則であると記されており、私達は皆それに従って行動しなくてはなりません。宇宙を構成する「個のもの」でこの法則に従わないものがあると思っている人は間違っています。

私達がその法則に従う理由は、それ以外に私達には選択肢がなく、私達が1つの次元 、1つの球体に住んでいるからです。その法則は私達に作用していますが、私達は自分達の意に反して、それに従っています。私達が知覚する苦しみとは、その法則に従いたいという願望の欠如そのものです。私達はそのようにして今の状態とより進歩した状態との違いを感じるのです。

もし私達がその事に注意を払うのなら、私達は最も重要なことを認識できるようになります。それはこの法則が義務的なものであるということです。その法則は私達に影響を及ぼしています。そして私達がその法則に背いていること、そしてそれを望んでいない状態にあることには、意図があります。それは私達にその重要性、その素晴らしさ、そしてその普遍性を理解させるためです。そしてその後に私達は、その法則に自ら進んで従うようになり、自由意志を獲得するのです。

私達の皆がクリエーター(自然・授与の力または特質)に奉仕しているということは事実です。しかしながら、私達の中にはそれを不本意に行っている人もいれば、それを意識的に進んで行っている人もいるということです。

本当の愛とは他者の願望を満たすこと

受取った質問:愛が人の感情に関するものだとしたら、どうしてそれが法則といえるのですか?

私の答え:願望は創造の材料です。願望は力—引きつけと反発の力—です。世界の法則には明白なものがあり、私達はそれにやむを得ず従っています。他の法則は未だに私達から隠されています。よって私達はまだそれらの法則には従っていません。しかしそれらが明かされたときは、それらを早めに学んで従うことが懸命です。

私達の世界での「愛」とは何でしょうか。それは何かによって自分の中で喜びを得ることのできる感覚が芽生えるときです。そして人はこのもの—光のスパーク(火花)—を切望します。人は自分を満たすために、この光に近づいてそれとの繋がりを求めます。喜びは色々なものから得る事ができます。食べ物、セックス、家族、お金、権力、知識。しかし実際に人は何に繋がるのでしょうか。人が繋がるものとは、喜びたいという願望に入る喜びのスパークです。これが私達の世界における「愛」というものです。

私達の世界における人々の「隣人愛」の解釈は、まさに誰かの顔、性格、または社会的地位が好きということですが、カバラにおける「隣人愛」はそうではありません。この世界における「隣人愛」は相手に対する愛ではなく、自分を満足させるものに引きつけられているという感覚です。

本当の愛とは、あなたが他者の願望を、それがあたかも自分のものであるように満たすことなのです。この意味は、あなたが自分を愛することではなくて、あなたの隣人を愛することです。それはあなたが相手の願望を扱って、それを満たすことです。これが「隣人に対する愛」というものなのです。

“隣人を愛せよ”とは自然が私達に課している条件

受取った質問:自分達が一体で自然的だと感じている人々、集団、組織があります。彼らはお互いのことを愛し合い、動植物への愛も持っています。”隣人を愛せよ”とはこのことですか?

私の答え:“隣人を愛せよ”とは自然の法則です。それは私達の周りにある世界の条件です。現在この条件は急速に目の前に現れてきています。なぜなら私達がそこまで成長したからです。それは子供が大人になり、社会のルールを守らなくてはいけないのと同じことです。

全てのメディアが突然以下のことを発表したと想像して下さい。「年末までにあなたの隣人を愛しなさい、それができなかった人は全員死刑になります!」これは笑い事ではありません。これは自然が私達に課すようになった条件なのです。しかし私達はそのことに気づけないままでいます。

では何をすればよいのでしょうか? 私達は”隣人への愛”を獲得する方法を学ばないといけません。私達はこの掟の意味と自然が私達に何を求めているのか発見しなくてはなりません。この法則を避けることは誰にもできません。私達はそれを学ばなくてはならないのです。しかしどうやってでしょうか?

学習を通してです。自然が持つ特別な力だけが人間を是正することができ、それ以外の解決策はないということを人々に理解させる唯一の手段は学ぶことだけです。この特別な力が効果を及ぼす対象は、自分を是正させて”隣人を愛する”段階に到達したいと望んでいる人です。

それは何十億もある波または周波数のうちの1つを選ぶことに例えることができます。[自分の聞きたいラジオ局をつまみをまわして選択するように]あなたの願望だけがそれを感知させます。自然はあなたが隣人を愛することだけをしたいと感じさせる周波数に同調することを求めています。そうすればこの自然の力はあなたのところに訪れ、あなたを是正します。

それ以外の全ての試みは私達を危機に導きます。私達が目的地にたどり着ける道を発見できるようにする為です。その他の方向に向かうことはだんだん無くなります。このことを”エジプトの災い”と呼びます。[出エジプト記に記載されている古代エジプトにたいして神がもたらしたとされる十の災いのこと]それらは最終的に私達にそうする以外に選択肢がないことを気づかせます。完全な暗闇が私達に訪れるとき、私達は逃げ惑い、“隣人を愛すること”だけをを求めるようになります。人々がエジプトから逃げた場所はどこでしたか? 愛が唯一ある場所です。後にシナイ山のふもとで人々が見せた団結がそれを表しています。

どのようにすれば他者を愛せますか?

私に寄せされた隣人を愛することについての質問です:

質問:あなたは自分を愛すように他者を愛すことが可能であると言いました。私はこれをとても求めます。教えて下さい、母親が子を愛すのと同じように、友が自分の友を愛すことができるよう、心の全体で友のために祈ることができる人はいますか?

私の答え:これは自分自身の祈りでなければなりません。その理由はあなたの要望が – それが完全であるなら – 必ず上層のひかりを呼び、あなたを是正してこの特質をあなたに与えるからです。

質問:私達は愛の見返りをもとめる愛し方なら知っています。しかし「自分のように隣人を愛しなさい」とは何のことですか? この愛は利己的な愛とどのように違いますか? 私達はこのような崇高な愛を知りません。毎日の暮らしの中でこの愛をどのように実践すべきですか?

私の答え:カバラの勉強には、次のもっと進歩した状態を引き寄せるための全行為が必然的に含まれています(これらの行為には、勉強、生徒グループのなかでの団結、および普及活動が含まれます)。さもないと私達は苦難を与えられて同じ状態を強いられることになるでしょう。私達に課せられていることは、私達が後ろから苦難によって押されながらただ苦難を避けるためだけに新しい状態を切望するということを強いられる前に、この状態になることを切望することです。

従って私達に新しい状態を引き寄せる上層のひかり(オア・マキフ)と呼ばれる力だけが、私達に”本物の愛” – 自分自身以外の人の為の愛 – を”説明”することが可能なのです。

質問:仮に私の隣人が私にたいして親切でなく意地悪であったら? どのように私はこれを乗り越えて私の隣人を愛せますか?

私の答え:もし創造主があなたにとって自分自身よりも大切なら、あなたはこれを創造主の為にします。この創造主に対する大切さは、あなたの属している環境から得られなくてはなりません。