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死ぬと魂はどうなるのか?

質問:人は死ぬとどうなるのですか? 魂はどうなってしまうのでしょうか?

答え:魂を知覚できている人々は、その中に生きます。なぜなら、魂は身体の死とは無関係だからです。

魂を獲得しなかった人々には、レシモット(ヘブライ語の“roshem”:記録)だけが残ります。これはDNAのような情報の一片であり、人がこれまでに構成した全情報を含む特定のコードです。

身体が死ぬと、この情報(レシモット)はこの世で新たな身体に結びつかねばならず、そしてもう一度最初からやり直すのです。皆、このレシモットを持っています。これは、最終的に私たちが魂を発達させる小さなかけらです。

発言:魂を構築した人だけが、魂を持っているということですか?

答え:そうです。真実、そうなのです。情報の一片であるレシモットは、魂を築くように人々を強いる欲求の内側で機能しているのですが、魂を構築する人は、そのレシモットに基づいた利己的な欲求の外側に魂を築きあげます。

質問:私は何を持っていて、何を逃しているのでしょうか? 私が本当にしなければならないのは、何なのでしょうか?

答え:私たちの利己的な受け取りたいという意志は、私たちが今持っているすべてです。しかし、突然、私たちの中に特別な欲求が浮かびあがることがあります。これは魂を知覚し、私たちが生きる理由や存在の目的、命の源を理解したいという欲求です。

つまり、レシモットが目覚めたのです。それは小さなちいさな火花であり、言うなれば私たちの内側の心の点です。このときはじめて、私たちは次に何をすべきかを熟考するに至ります。心の点が私たちを切望させ、押し進め、そのままにはさせないからです。

こうして、私たちは自分の利己的な欲求に取り組み、この火花が何かを知れる場所を探し始めます。そしてやがて、本物のカバラの知恵を教える場所、魂の築き方の説明を受け取れる場所へと行き着きます。魂を築くということ。それは、自分たちのために受け取りたいという、その意志を、他者のためへと変化させることを意味しているのです。

 

過ぎ越しの祭り──出エジプトのレベル

thumbs_laitman_749_01トーラー「レビ記23:4 – 23:8」以下は主の祝日であり、その日あなたたちはイスラエルの人々を聖なる集会に召集しなければならない。 第一の月の14日の夕暮れが主の過越である。同じ月の15日は主の除酵祭である。あなたたちは7日の間、酵母を入れないパンを食べる。初日には聖なる集会を開く。いかなる仕事もしてはならない。7日の間、燃やして主にささげる献げ物を続けて、7日目に聖なる集会を開く。いかなる仕事もしてはならない。

質問なぜ過ぎ越しの祭りの最初と最後の日に働くことが禁じられているのですか?

答え:スピリチュアルな作業の2つの状態、すなわち、下層からの目覚めと上層から目覚めという2つの状態を区別するからです。

下層からの目覚めの間、私たちは切望によって光と器の協調を呼び起こします。つまり光が器を是正し、正しい意図を与えるのです。 上層からの目覚めの間に、この作業は上層から遂行されますが、それは私たちが前もってそのための正しい状態を作り出す時のみ遂行されます。

私たちは祝日の最初と最後の日のために正しい状態を作り出すよう、努力をします。なぜなら、過ぎ越しの祭りの週は上層の光がすべての作業をするので、最後は何もしない状態で閉じられなければならないからです。祝日の最初の日は出エジプトの始まりです。 最後の日は出エジプトの終わりで、それを封じるのです。

世界の国々が異なる暦を持っているということは重要です。 キリスト教の暦は太陽の動きに基づいています。 イスラム教の暦は月の動きに基づいています。 それに対して、ユダヤ教の暦は太陽と月、そして地球の動きを考慮しています。なぜなら地球が太陽と月の間にある中心的な物体だからです。

一方で、私たちは太陽の周りを回っている地球の公転を意味する年を考慮に入れます。また一方で、地球の周りを回っている月の公転である月(マンス)を考慮に入れ、そしてその二つを比較します。ユダヤ教の暦は変わらないので、たとえば、35年後の過ぎ越しの祭りの初日の曜日を事前に計算することができます。

さらに、太陽、地球、月の動きの比較に基づくと、過ぎ越しは月(マンス)の特定の日にはできないと言うことができます。 つまり、すべては一般天文学系に正確に関連しているのです。

質問:トーラーは聖なる集会について何度も言及しています。なぜ私たちは過ぎ越しの祭りに集まらなければならないのですか?

答え:過ぎ越しの祭りの間の聖なる集会は、イスラエルの民にとって最も重要なことです。なぜなら、実際、彼らの統一したいという欲求のおかげで、エジプトから出る必要性を持つからです。

個人とグループ、社会、国家、あるいは全世界との統一は、実際、エジプト(エゴ)からの脱出のさまざまなレベルです。私たちが統一の力を獲得する時、ある緊張、つまりこの脱出、エゴからの分離が起こるのです。

それは常に私たちの間にあり、私たちを隔て、互いに拒絶を感じさせます。もし私たちがそれを圧縮し、凝縮し、統一し、互いにつながろうとし始めるなら、私たちが最初に統一を獲得する瞬間、エゴからの脱出が始まります。

過ぎ越し(出エジプト)の最初の日に、私たちはこのつながりを固く結び始めます。そして、週の間それに取り組み、出エジプトの最終日に完全に統一します。その瞬間から、私たちは統一した国家なのです。

しかし、その一方で、人々は何をすべきかを理解していません。エゴから逃げたいという欲求を駆り立てる方向があるにもかかわらずです。しかし、それは、適切な認識のない動物的な本能にすぎません。人々はシナイ山の麓に集まる時、その認識を獲得するでしょう。

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From KabTV’s “Secrets of the Eternal Book” 5/28/14

どのように世界をコントロールできるのか?

質問:私たちはしばしば、人々の間の特定の心の状態がどのようになっているのかを観察します。変わりたい、やせたいという願望や、幸せまたは憂鬱な感情は、それらの飛沫によって伝染します。人はどのようにして、このような感覚が個人的な感覚なのか、それとも環境から押し付けられたものなのかを知覚することができますか?

答え:私たちがシステムの性質を探求すればするほど、私たちは全てが他のみんなに依存していることに気づきます。これは深く相互的な関係であり、私たちの間の幾千もの関係性から成っています。もちろん、私たちはそれを実感していませんが、そのつながりは変わらずあります。それは絶えず続くものであり、無視することはできません。

私は砂漠の島や深い森に隠れ、切り離すこともできますが、それでは自分と社会の距離が大きくなるので、私は自分自身に限りのある、みじめな人生を強いることになります。たとえば、もし私が一人でこの宇宙にいるのなら、私の全ての感覚が体から切り離された細胞や肉の小さな破片のように萎縮することに、私はすぐに気づくでしょう。

私たちがお互いにコミュニケーション手段を学ぶことは、とても重要です。なぜならそれは真の環境に関連する立場に私たちを据えるからです。第一にそれは人間社会、そしてそこにどのように結びつくべきなのかということに関連しています。

人はどのようにそのようなつながりを発見することができますか? どのようにそれらの感じ方を学べるのでしょうか? どういう形で、私たちは与え受け取るべきですか? 原則としてそれが私たちのゴールであり、この意味は、私たちが統合されたシステム、つまり幸せな人生へ到達する方法を勉強しなければならないということです。

コメント:私たちの中の何かが間違っていて、私たちがその理由を感じる時、私たちは直感的に自分自身に注意を払い始めます。

答え:私たちには生理学的、精神的ないかなる病気、または個人的、家族的な問題、もしくは共通の全世界的な問題はありません。私たちが自分自身を見つけるシステムの欠点があるだけです。それゆえ私たちには、政治、経済、金融、そして各国々や人々の生活が混ざり合ってお互いに依存していることがわかります。

もし私が誰かを統治しようとするなら、私は間違いなく真逆の反応を得ることになります。かつて、ヨーロッパはアフリカやアジアを治めたいと思っていましたが、今や移民に翻弄されています。

質問:だとすると、もし私が何か間違っているのなら、私は自分自身のなかにその原因を探すべきなのでしょうか?

答え:興味深いことは、“私”はこの理由にはならないということです。私は私が誰であるのかによって、もしくは全システムがそうであるからといって自分自身を責めません。しかしながら、私はそのシステムが変化することに力を与えることができ、それは私に変化をもたらします。実際、インテグラル・エデュケーション(統合的教育)の手法は人々に世界がどのように働きそれを管理しているかについて理解を与えます。

質問:自分の状態はシステムの一般的な状態によって起こされていると気づくということですか。このような理解に対しどうしたらいいのでしょうか?

答え:あなたのように人生の質を向上させたいと思っている人々から成るグループに、あなたは加わります。例えば、私たち10人がいます。そして私たちは様々なエクササイズやゲームを通してお互いにコミュニケーションを始めます。

もし私たちが適切につながるのなら、私たちは自分たちのエゴや個人的目的、習慣を超えてつながりを感じ始めます。共通の使命で結ばれた人々のグループや、個人的利益が共同体の利益よりも下にある家族で、時々この感情が起こります。

私たちがつながって一つになるその瞬間、その“一つ”は統合された感覚を生み出します。このような感覚を通して、私たちはこの世界に含まれる一体化した力を、まるで衛生配列が宇宙からの信号を吸収するように掴み始めます。

質問:そのような情報は人生においてどのように私を助けますか?

答え:社会は閉ざされたシステムです。もし私たちが話題にしている10人のグループのように、小さな各部分のバランスがとれるのなら、それは確実に人間社会をより健全にします。人々は徐々にこのアプローチでそれに気づくようになり、すべての人類の欠点を正すことが可能なのです。

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From KabTV’s “A New Life” 11/12/13

あなた自身ではなく、あなたの友達を信頼しなさい

質問:「あなたが死ぬその日まであなた自身を信頼するな」と書かれています。それなら、もし私が私自身あるいは友達を信頼できないなら、アルヴット(相互保証)の意味とは何ですか?

答え:当然私は私自身を信頼できません。しかしこれは友達について言及しているのではありません。グループとは単にレッスンに来た人々の集まりではありません。グループとは彼らの魂と魂の内なる和合・統一です。

クリエーターは魂たちが住む「無限の世界」と呼ばれる欲求(喜びを受け取る意志、すなわちクリ)を創造しました。これらの魂たちはお互いに結合し、無限の光で満たされている1つの集合したシステム、すなわち1つの魂の状態にあります。

しかしこのシステムは、それを隠すスクリーン、すなわちフィルターによってあなたから遮断されています。このシステムはフィルターを通じることで幾分堕落した又は壊れたようにあなたに映ります。その内側は完全で無限の光によって満たされていますが、現在あなたはそれを歪んだものとして見ています。さらに進んで、その次のフィルターの後ろでは、あなたにとってそれがさらにいっそう堕落しているように見えます。

第一状態、すなわち無限の世界から、最終状態、すなわち私達の物質世界まで、全部で125個のそのような段階あるいはフィルター、すなわち無限の状態を隠すものが存在します。したがって、あなたはグループをあなたの物質的な視覚で見て考えます、「そもそも彼らは誰なんだ? 私は彼らより低くない! 彼らは本当に統合しているのか? いや、彼らは統合していない。彼らは本当に統合することを望んでいるのか? いや、彼らはそれを望んでない。彼らは本当に何かを理解しているのか? ラビ・シモンのグループを私にくれ。そこでなら私は彼らの腕の中の赤ちゃんになることに同意するだろう! そしてこれらの・・・ 彼らは私にとって誰なんだ?」

しかしこれは間違いです。すべては友達に対するあなたの態度によって決定されます。もし人が彼らを「貫通」し、つながりたいと思うなら、隠れた状態にあり、参加していて理解するこれらの物質的な身体とではなく、むしろ彼らを完全な結合状態で無限の中に住むグループとして扱うなら、仕事は終わりです:彼はこの完全な状態に接着します。

なので、ラビ・ヨスィ・ベン・キスマは彼のビギナーの弟子たちなしでは居ることができなかったのです。彼らは小さな段階でいくらかスピリチュアリティを求めていたのでしょうか?彼らを通して彼が、彼ら自身がそのことに気付いていないにもかかわらず、彼らが1つの心を持つ1人の人間のように、皆1つになっている場所であるスピリチュアルな状態に入るのにそれで十分でした。

これは環境、すなわちグループと呼ばれます。しかしながら、私自身は、私が私自身を想像できる場所の中に住んでいます。そして、私は私自身を、何でも受け取ることができる理想的で完全な環境に照らし合わせて想像します。そして唯一それを通じて私は力を獲得します。

したがって、グループとは身体的な人々の集まりではなく、むしろ私の内なるスピリチュアルな特質なのです。

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From the 1st part of the Daily Kabbalah Lesson 12/24/10, “Perfection in Life”

喜びは正しい道のパラメーター

バール・ハスラム「シャマティ#58」「喜びは善い行為の反映」より:たとえもし人が、間もなくより低い段階に落ちるだろうことを明らかに見たとしても、彼(クリエーター)は依然として人を人が居る場所で判決を下す。その意味とは、もし人が今、天の王国の重荷を永遠に担おうと決心したならば、それは完全であると見なされるということ。

しかしながら、もし人が天の王国の重荷を引き受けて、その状態がその人の中に永遠に留まることを望まないとすれば、この事とこの行為は完全であるとは見なされない。そしてその当然のこととして、その人の上に上層の光が訪れて休息することはできない。

基本的な問いがあります。私達はそれが永遠か永遠でないかどのように判断するのでしょうか? それは人が何を自分のゴールとして又は未来として見るかによります。

世界には多くの組織があります。多くのグループと社会団体があり、それらは皆その構成メンバーから一定の献身とつながりを要求します。好きなだけ例が挙げられます。株式市場からはじめて、サッカーチーム、軍隊、アルコール依存治療グループ等。どの組織も献身とコミットメント(参加・寄与)を要求します。さもなければ組織が組織として結びついていることが不可能だからです。

しかし、スピリチュアルな状態を獲得することも、それとは別ではありません。メンバー相互のつながり無しにゴールを達成することは不可能であり、私達の間のつながりの中においてのみ本当に獲得できるものであることを理解するならば、それは献身を要求するものです。クリエーター(創造主)とは、私達が相互に授与する関係を達成するための努力から構築されるイメージのことです。それでここでいう献身とは、同じ物、同じ仕事、同じ喜びを求める熱望、そしてそのように魂を作り上げる努力のことです。このような理由で、これは自己犠牲とも呼ばれます。

それで私は今や、自分の受け取りたい欲求の中で手に入れた全て、私に元気を与え、存在感を与えてくれる全ての充実、全てのエネルギー、全ての喜び、全ての努力、全ての希望を、グループの集合的貯金箱に与えます。誰もがこれをするとき、私達はその集合的努力によって、その中にクリエーターが顕現するような集合的インフラを構築します。それは「イスラエル、トーラー、クリエーターは一つ」と言われるところのつながりによるものです。

グループに関する私はイスラエルに関する私であり、そして私達はひとつの「イスラエル」として、私達の間つまり私達の全体的授与力の中にクリエーターを見出そうと向きを変えます。全ての物事をひとつの全体の中につなげることによりそれは為されます。そのため集合的努力が要求されます。そして、私達はこの努力が正しいかどうかを私達の喜びのレベルにより測ることができます。正しい道に従いながら喜びを感じないでいることは不可能です。そうでなければ私は自分自身を、共に創りあげようとしているこの全体的でスピリチュアルな器に捧げることなどできないでしょう。

だから喜びは善い行為の主要なパラメーターです。鏡のようなものです。私達は霊的上昇、目覚め、エネルギー、力、喜び、唯一性そして祝福を感じるためには、これに取り組まねばなりません。これらの感覚は、それによって私達の内的行為の速度を想像できる外的なサインです。もし私達の行為が正しければ、それは私達の中に、高揚、楽しさ、希望、結束感などを喚起するのです。

しかし、もし私達がつながりにおいて正しい行為に至らなければ、それに応じて、これら喜びや高揚など全ての感情を欠くことになるでしょう。喜びがあるかどうかチェックすることはとても簡単です。人間は喜ぶと同時に叫んだりわめいたりすることはできません。あなたはあなたの存在全体の中に喜びを感じなければなりません。「全ての私の骨が教えるまでに」と言われているように。

From the 1st part of the Daily Kabbalah Lesson 6/20/13, Shamati #58

ゾハールを理解する鍵

もし私達がゾハールの書を理解したいなら、私達の間の関係をイメージしなければなりません。つまり私達の行為と努力に従って、どのようにつながりの強度が高まったり弱まったりするかということです。
私達を一緒に結びつけるネットワークについて、TES(タルムード・エセル・セフィロート)の中に詳細に記述されています。ケテル、ホフマー、ビナー、ゼイール・アンピンそしてマルフート。またはアティックのパルツフィーム、ケテルであるアリフ・アンピン、アッバとイマそれはホフマーとビナーです。そしてゾーン、それはゼイール・アンピンとマルフートです。

私達はこのネットワークによりつながっています。このネットワークが明らかになればなるほど、私達はより高く昇ります。明らかになることが少なければ少ないほど、私達は下降します。このように私達は(世界を)操作しています。

それで、私達の仕事の全ては、私達がその中に存在している、この10のセフィロートとの可能な限り強いつながりを喚起することです。そのとき、一人一人が自分自身を、これら10セフィロート全てを操作するマルフートとして見るでしょう。それは各セフィロート全てが最終的な形、エイン・ソーフ(無限)世界における形を採るまで続きます。

それで、TESと、特にゾハールの書は、私達に次のことを見させるために書かれました。それは私達が上層システムのマルフートの中にいるということです。その地点から、私達はシステム全体を呼び起こすことを望みます。

私達は一つのネットワークの部分であり、このネットワークに刺激を与えなければなりません。そうすると各自が印象を受けて他者を感じるようになるでしょう。それと同時に、このシステム全体の操作方法を調査し理解することもできるようになるでしょう。

From the 4th part of the Daily Kabbalah Lesson 6/02/13, “The Book of Zohar, Introduction”

同じ劇、違うセット

私たちは皆、私たちの全関係を貫く力の「クモの巣」によって結ばれています。全体的に見ると、これらは受け取りの力か授与の力かどちらかです。もし人がそのどちらの力も発見しないなら、彼はまるで空虚の中でぶらさがっているかのようです。しかし通常は正の力か負の力かどちらかが彼に明かされ、それらが組み合わさって総ネットワークを作り上げます。

従って「クモの巣」は存在し、どの程度それを感じるか、どの程度その中にいるのか、そして、どの程度これらの力に肉体性か霊性かどちらかになってもらいたいかは、その人次第です。

私たちの物理的な場所に関係なく、私たちはこのネットワークの中の「一定」の場所(定位置)にいると言えます。そして「場所を変える者は運を変える」という格言は、霊的な「座標」について言及しています。たとえ私がある国から他の国へと移動し、自分の周りに違う人々や環境を目にするとしても、私がシステムの中で自分の位置を多少なりとも変えたということではありません。

私は同じ点の中、同じネットワークの中にいますが、今やそれが違うように見えます。たとえ私の「運」が変わったとしても(私に作用する力という意味)私が霊的なネットワークの中で自分の位置を変えたわけではありません。現れ、「衣装」、クリエーターが私を操る彼の劇場の中での場面のみが変わったのです。しかし監督は同じで、劇は同じ劇で、新しいセットの後ろに同じ舞台装置があります・・・。

質問:しかし何を強調すべきですか? どの点において努力をすべきですか?

答え:クリエーターは私にこう告げます:「私はあなたを選択点に連れてきた、即刻それを実現しなさい。」彼は私をグループへと連れて来ましたが、それはほんの選択の場所にすぎません。それと同時に選択そのものは私の手中にあります。それは、自分のために既に用意された投票箱に私が来て、今やその選択が自分にあることに似ています。

From the 3rd part of the Daily Kabbalah Lesson 4/30/13, “The Mutual Guarantee”

全ての瞬間が新しければ

バール・ハスラムや他の偉大なカバリスト達が書いているように、最も重要なことは毎日を新しいものとして生きることです。この「日」は瞬間を意味し、日中のことではありません。そのような訳であなたの全ての瞬間は新しくあるべきです! そしてこれが大切なことです。

眼を覚まし、起きて、昼も夜もどんな時も自分を揺さぶりなさい。まるで自分が生まれ変わったかのように。以前のもの全てを削除しなさい。それは全ての古い問題や古い関係です。過去の問題は要りません!感情の重荷も要りません!

どのグループも、そしてグループ同士の間でも、全ての悪いことは忘れなさい。全てのグループと私自身の関係も同様です。リセットし、リスタートしなさい!

From the European Convention in Germany 3/24/13, Lesson 6

最終結果を見る

バール・ハスラム、『Introduction to the Book of Zohar(ゾハールの書の序章)』項目4:これらの質問と疑問を理解するために、その唯一の戦術は行為の終わり、すなわち創造の目的を調べることである。唯一その終わりで以外に、プロセスの途中で理解されることは何もないためである。

これはルールです、行為の終わり(結末)をよく見ることだけによって、すべての詳細、様相、すべての理由、そして、プロセス全体が理解できます。その理由は、唯一その終わりで、あらゆる詳細がどれぐらい重要であって、どの程度これらすべての詳細がこの順序で次々とアレンジされなくてはならないのかが明確になるからです。唯一その終わりで、すべてが完全だと分かります。すべての詳細が正しくアレンジされる時にだけ、完全なる終わりが可能なのです。しかし、私たちが道の途中にいるのなら、どのように終わりに達するのでしょうか?

そして、目的(意図)のない行為がないことは明白である。今日、この事を近代科学で見ます。近代科学では確かにすべては因果関係と絶対的法則に従って動きます。少なくとも自然の中の静物レベル、植物レベル、動物レベルにおいて、私は偉大な知恵、論理、常識を発見します。そこには余計なものはなく、すべては、あらゆる小さな詳細がその他すべての無数の詳細に連結できるようにアレンジされています。だから私は「スピーキング」レベルに関して結論に達することができます:私がその中に見る堕落は、私の堕落した個人的な知覚から生じていて、それが私に「スピーキング」レベルにも存在する素晴らしい秩序を見させなくしていて、それどころか、真実と逆の様相や光景を私に見せているということです。人間社会の中で堕落や大混乱を実際に見ますが、それは私たちがそれを生じさせているからです。

もちろん、この現象に対する他の説明もあり得ます:クリエーターは善良で慈悲深い、彼はすべてを包含していてすべてを行う、しかし、彼は彼の創造物を見捨てたと言うことができます。バール・ハスラムは彼の記事『The Peace(平和)』のなかで、このアプローチについての様々な検証を提示します。しかし、私がすでに人生で目にするものに反応して異なるアプローチを使うならば、最終結果を見るほうが望ましいということをよりよく理解します。私たちの研究における経験から、自然が一定のゴールに向かって発達することが分かります。だからバール・ハスラムは、唯一最終結果を見ること以外に、中間(途中)で理解できることが何もないため、最初に創造のゴールに目を向けるべきだと言うのです。

私は、クリエーターがすべての現実を創造してその後にそれを放っておいたと言って、トーラーとミツヴォット(ミツワーの複数形)の重荷を背中の上に投げる者たちがいることを知っている。ここでバール・ハスラムは、すべてが人間のために創造されたこと、人間が創造物の中心に位置していること、そして、この地点からしか私たちが正しく成長できないことを信じない人々について言及しています。すべては私のために創造された-私たちの世界全体とすべての諸世界-そして、私はこのことを受け入れなくてはなりません。それを明らかにしないといけません。状況を制しなくてはならないのです。「私のため」とは、私がそれを是正でき、それを利用することができるということを意味します。この利用のことは「ミツヴォットを尊守する」と呼ばれ、“改善する光”または“トーラー”の助けを借りて行います。こうして私たちは創造のゴールに達するのです。

確かに、彼らが話した知識なしに、私たちが私たちの堕落した極めて不快な性質の全部で私たち自身を創造したと決める前に、私たちの低さ(卑しさ)と無価値についてコメントすることは不可能であるため。私たちが完全でないことは明白です。しかし、どういうふうに世界の中のすべてのものが徐々にその完全性をあらわにすることを目にしないなら、世界が低いと決めることは不可能です。

問題は:もしクリエーターが完全なら、最初から完璧なやり方で進化を創造したのではないのかということです。 しかし、そんなことはあり得ません。創造された存在の中にも現実がなくてはならないためです。この現実はクリエーターと正反対です。従って、それは二つの反対の部分が組み込まれなくてはなりません:クリエーターの性質と創造された存在の性質です。その二つの性質は創造物の中で成長し、その内部でお互いに向かい合います。それはその二つの性質の中間にあり、それ自身を二つの力から作り上げます:授与の力と受け取りの力です。

この意味は、もしゴールが分からないなら、当然創造を正当化できるようにはならなく、以下のような様々な正当化の理由を見つけるということです:完全であるクリエーターは私たちに失望している、私たちを置き去りにした、彼の完全性の中のどこかで見つかる。他の意見には、クリエーターは善の力と悪の力これら二つの力の中にはまったく見つからない、または、多くの善の力と多くの悪の力があるなどがあります。

どちらにせよ、人がトーラーを受け取らない限り、起きていることを正当化することは明らかに不可能です。「トーラーを受け取らない限り」の意味は、その人が堕落したシステムの中にいて、それがそうであるのは、その人がその部分になるため、そして、毎回システムを稼働させることをさらに目指すということへ自分自身を引き寄せながら光によってそれを是正するためということを理解している状態に到達しない限りということです。その後にその人は、すべてが自分のために創造されたことと、最初にそのシステムを是正することなしに、より正確には、それをインストールすることなしに、クリエーターのレベルに到達することが不可能だと悟ります。子供たちがおもちゃを集めておもちゃを組み立てるといったゲームを通じて自分自身を作り上げるのと同じように、私たちの作業においても、つまりパーツを接続する(つなげる)ことにおいても、それは同じです。だから私たちはゴールを理解するために、つながり、ユニティ、そして相互保証のゲームをしなくてはならないのです。

 

動きなしに目覚めること

私達の仕事の全ては、現実に確固として存在している永遠で全体的な状態を発見することです。私達はその中に存在しています。私達は、今感じているこの世界のかわりに、それを感じるように感情と思考を喚起しなければなりません。私達はクリエイターとの密着を達成するまで、いつでも、動くことではなくより目覚めることのみによって、ハートとマインドを開かなければなりません。

もしこのように状態をイメージするならば、そのとき私達は、自分達に起こる全てのことは特別な注意を払うべき場所の合図である、ということを明確に理解します。私達は、それらの場所において、自分達の感情、思考、意図、性質について態度を明らかにしなければなりません。それは一連の出来事でそれらをより発達させるためであり、また私達が、クリエイターと持続的に密着している状態を啓示されるに相応しい者になるためです、

それで、逃げ場所はどこにもありません。私達はいつでも「心の点」(point in the heart)から始まった同じ内的地点まで戻らねばなりません。そしてその絶え間ない発達を確かなものにしなければなりません。全てのリアリティの中で私達が発見できるものは一つの力(フォース)を除いてありません。その力は私達の中にあり、私達を支え、いつでも私達を世話してします。

もしある人がこの方法で自分自身の動きを停止させるなら、(彼は)「心の点」の中にある上層の力の啓示へ導くような発達をするために、唯一正しい方向を見ることによって、そして同時に、その方向から離れずに、彼が発達し、見て、確認し、感じることを可能にするように見える他のやり方全てを意図的に止めて制限すること、つまり強くそれらを締め出すことによって、彼は自分の諸力をゴール達成に向けていることを意味します。

From the 1st part of the Daily Kabbalah Lesson 2/19/13, Writings of Baal HaSulam