'グループ作業'

エゴを欺きなさい。さもないとそれがあなたを欺くでしょう。

私が利己的な奴隷の境遇から出るときに入る「砂漠」が、グループです。

相互授与のなかに居ることと、みんなに授与するという事実から喜びを感じることが、自分にとって、真の「砂漠」および「苦しみのパン」(マッツァー:ユダヤ人が過越祭に食べる無酵母のパン)です。

もし私が授与から利己的な喜びを受け取ることができれば、私は受け取るために喜んで与えるでしょう。しかし、私は、何の個人利得なしに「授与するため」に与えることはできません。私はこのように振る舞うことが出来ません。私は“授与の燃料”で指の一本も動かすことができないのです。私はこのことからなんの栄養も受け取りません、よって、どのようにしてエンジンは、燃料なしに、電気なしに、動くことができるのでしょうか?

利己的な受け取りは、私にあらゆる種類の多大なエネルギー(カロリー、ワット、ジュール)を与えますが、授与は何も与えません。私は受け取るために自分の手を動かしますが、それが授与であると知ればすぐに、私は凍りつき、それいじょう動けません。その瞬間、その行為のまっ最中に、それが授与に向けられていることに私が気づくとき、私は凍りつき、動かなくなり何も出来ないのです。あなたは「頑張れ!やれ!あともう一歩だ!」と私に向かって叫ぶことができますが、私はそれを聞き入れることが出来ません。

したがって、私達のエジプト(エゴ)から私達がスピリチュアリティの世界の美しさを見て、それを望みはじめることが出来ないのです。グループだけが私達にスピリチュアリティの重要性をしみ込ませます。それは私達のエゴを欺き、スピリチュアリティの中が気持ちいいとエゴに信じさせるのです。

私達が内部的につながっていて、お互いに影響を及ぼし合っていることから、私はこのうそを真実であるとみなします。私の高慢と情欲と野望を巧みにあやつりながら、喜びを私に約束した肉体上の世界のうそを真実とみなしていたように。私は突然、自分の利己的な所有物の全て―魚やお肉の入っているかめでいっぱいの“ピトムとラムセスの開花している都市”―を捨てる覚悟があるほど強くスピリチュアリティを望み始め、1袋の小麦粉を背負い砂漠へと逃げるのです。

だから私達の作業のすべては、スピリチュアリティの世界が世の中で最善のものであると、お互いを納得させることにあるのです。これはその通りです。たとえ私達の現在の利己的な願望との関係上、スピリチュアリティが完全な砂漠で悲しみのパンであったとしても。

したがって、下降の諸状態のなかで絶望しないでください。なぜならそれらが本物の状態であり、突破の前に生じることになっているからです。一方では、私が状況を現実的に評価し、自分が授与したくないと実感します―私はそれが大嫌いであり、それに憤慨します。しかしながら、それは非常に重要なので、私はどんなことがあってもそれに到達したく、スピリチュアリティのない人生を、死よりも悪いと見ます。私 に於けるこの考え方(心構え・姿勢・態度)は、社会によって生み出されます。

From the 4th part of the Daily Kabbalah Lesson 10/31/10, “This is for Judah”

なぜ私は努力をするのか、そして私は何を見つけるのか?

バール・ハスラム、シャマティ161番『トーラーの授与の問題(The Matter of the Giving of the Torah)』:「私は努力をした、そして見つけなかった、信じない。」私たちは「私は見つけた」の意味を理解しないといけません。見つけるための何があるのでしょうか?クリエーターの視点に於ける恩恵を見つけることに対する懸念を見つけなさい。

「私は努力をした、そして見つけた」と、是正の方法を実現することについて記されてます。これはなんて変わったモットーなのでしょう。「努力をした」は、私は理解できますが、「見つけた」の部分はとても不明確です。

もし私が他者への愛を達成するために自分自身を是正するなら、他者および他者との繋がりに向けられたこの善い態度(心構え)に於いて、私はただ誰かを見つけるのではなく、クリエーター彼自身(すべてのものを1つの全体系に結び合わせる、全てを含んだ自然の力)を見つけます。すべては努力にかかっています。私は体系全体を集め、他者との関係を構築し、正しい繋がりを確立し、そしてそれを暗闇のなかで感じようとしながら、自分自身を注ぎ込み、汗水を流して働かなくてはなりません。

これにおいて私は努力をし、最後に体系の複数の部分が1つになる瞬間に、クリエーターを見つけます。ゆえに、私は万有の力を明かし、それが自分の内的な生命の力になるのです。そして、もし私が努力をせず、この探求を行わないのなら、私は全ての魂を1つにするために必要な理解と印象を欠くことになるでしょう。

まだ私たちはこの事を明らかにしていませんが、まさにすべての細胞が全身体の世話をするのと同じように、この体系を獲得し、それを制御する方法を習得するのは、実に自分次第なのです。それと同じ原理は全ての創造に適用されています:ホログラムのように、各要素は他のすべての要素および全体系と相互に繋がっているのです。これが完全・完ぺきなのです。

この理由から、是正方法を実現することに於いて、努力を惜しむことは不可能です。なぜなら、そうでないと、私は内側ですべてと繋がり、すべてを理解し、すべてを吸収することが絶対にできないからです。

しかし、スピリチュアリティに於いて、いくらその人が好意をもたれている状態といった報酬を受けているとしても、やはりその人は後でその全額―すべてのひとが与える努力の量―を支払わなくてはならないのです。もしそうでないなら、その人はクリ(Kli:器)を失うことになります。

From the 1st part of the Daily Kabbalah Lesson 10/8/10, “The Matter of the Giving of the Torah”

真の悪

質問:クリエーターとの付着は何を暗示しますか?

答え:付着は大きな是正、性質または「形態」の同等性に基づく一体化です。私たちは、受け取る意志それ自体の構成要素を変える必要はありません。しかし、この構成要素は「悪」、クリエーターと反対、とみなされる利己的な形態(意図)を有しています。

自然の無生物、植物、そして動物が、悪でありクリエーターと反対とみなされないのと同様、受け取る意志それ自体が悪でクリエーターと反対であるとはみなされません。また人は、自分がクリエーターと反対であると感じるまで、その人に「悪の性向」があるともみなされません。

最初は、あなたの願望の意図または「形態」がクリエーターと反対であると知ることが必要です。もしそうでないなら、人には悪はありません:その人は単に本能に従って行動しているだけです。カバラに於いて、悪とは、クリエーター、善、または光と反対の性質として定義されます。人は、善の性質(特質・属性)、繋がり、そして愛がその人に明かされたときに、悪を感じることができ、自分自身がクリエーターと反対であると見ます。

その時点で人は「人間」になります。その時にどれだけこの人間が悪いかに関係なく。そして、これはカバラの知恵の勉強が伴ったときにだけ起こることです。その時以前に、人や世界のすべてのエゴイストに是正するものはありません。是正が必要なのは、形態ではないのです。

私とクリエーターの間にある断絶・違反のみに対して是正が必要なのです。私はクリエーターと反対な形態を「彼」と似ている善いものへと変形させなくてはなりません。そして、私たちが「彼」と相互授与において同等となるときに、記されているように、私たちは「付着」(Dvekut)と呼ばれる繋がりを獲得します。この内面的作業(悪または壊れている状態の啓示とその是正)は、グループがカバラを勉強している最中に引き寄せられる光を手段としてしか起きません。

その人の複数の肉体化(Gilgulim)の中の一つに於いて、突然人は心の中への“銃弾”、なにか新しい非物質主義の人生にその人を引き寄せる“スパーク”を感じます。その人は、ありきたりで地上的な生活を超越したく、勉強とグループに来ます。時間が経つにつれ、その人は自分が授与と比べて、どれほど不十分であるのかと感じ始めます。その瞬間から、その人は自分の性質がクリエーターと反対であることを悟るのです。その時になって初めて、「自己の悪の認識」がその人のなかで現れたと言えることができるのです。

しかし人々はたいてい「悪」とは単に社会に於ける悪い人と考えており、すべての人がクリエーターと一つになることに対して反していることだとは考えません。カバラは地上的な悪(おばあちゃんが道路を渡るのを助けないことや、物乞いにお金をあげないこと)を是正しません。この悪が是正されることは完全に不可能です―私たちが霊的な悪をなくすまで、地上的な悪は増大しつづけていくだけです。

From the 4th part of the Daily Kabbalah Lesson 10/7/10, “The Love for the Creator and Love for the Created Beings”

グループとは自分の影です

グループとは私のコピー、私の影です。まさに私がクリエーターの影のように。私は自分が友だちの中に入れるよりも遥かに多くを彼らから受け取ります。それは彼ら又は彼らの行動によるのではなく、自分の彼らに対する態度だけによるのです。この環境もクリエーターです。それは「彼」と一緒に働くために「彼」が私に与えた機会なのです。実際には私の外側にはクリエーターしか存在しないのに、その間まるで私の外側に何かが存在しているような錯覚を私に創ったことによって。

この理由から私たちは常にその環境を目覚めさせなくてはならないのです。私が環境を通じてクリエーターと一体化するために、環境と一つになりたいと願うよう、その環境が私に影響を及ぼすといった状態を、私たちが獲得するまで。環境なしに私がクリエーターに到達することは出来ません。なぜなら、環境とは、私が環境を通じることでクリエーターのイメージを観るといった外部的な手段であるからです。

もし私がグループと一つになりたいと望まないなら、私は少しもゴール、クリエーターを目指して進んでいません。結局のところ、私の隣人とはだれでしょうか? それはスピリチュアリティの中で私を二つの部分、私と私の隣人に分けた破壊の力なのです。何のためにでしょうか? それは私がクリエーターと一体化するために自分に欠けているものを認識・識別させるためです。

たとえこの環境が自分にとって異質・無関係・無縁に見えるとしても、私がこの環境をもっと自分の近くに持ってこれるならすぐに、もっとクリエーターに近づくことが出来るようになります。クリエーターは私にわざと二重の知覚・認知を授けました。私が自分の一部をよそ者として、そして、憎らしいものとして、目にするために。

それが何故「隣人を自分のように愛しなさい」ということがトーラーの最も重要な規則であるのかということの理由です。これが光の唯一是正するものです。そして、これ以外に是正させるものはないのです。もしあなたがこの是正を求めないのなら、あなたの全努力は無駄になります。それ以外のすべては、役に立たない荒野のなかへの叫びなのです。

From the 2nd part of the Daily Kabbalah Lesson 10/5/10, The Zohar

与えることのパラドックス

人は自分を喜ばせるのではなく、他者を喜ばせることによって自分自身を満たしたいと熱望しなくてはなりません。私はあなたを満たし、あなたの願望を感じ、それがどう満たされているのかを感じ、こうして自分自身を喜こばせるのです。私はあなたの満足を感じることによって満たされます。それは、自分の子供に授乳して喜ぶ母親のように何故私があなたを出来る限り喜ばせようと努力するのかということの理由なのです。

私は自分自身を直接満たそうとはしません。自分の隣人を通じてのみそうするのです。それは自分の肉体の体がどれぐらい食べ物を摂取したことについてではありません。それは自分の魂を満足させることについてです。私の魂は、私が他者を満足させるとき、私がクリエーターを満たすとき、嬉しくなるのです。そうすれば私は「彼」に似るようになります。なぜなら「彼」は私たちを大喜びさせることを楽しむからです。もし私たちが「彼」から流出している喜びを受け取ることが出来ないなら、私たちは「彼」にシェヒナ(Shechina:神性)の苦悩を感じさせることになります。

クリエーターは私たちの満足から喜びを感じます。私たちに出来ることの全ては、「彼」が私たちを喜ばすのを“許す”ことです。これが私たちの全ての願いであるといった状態に到達しなくてはなりません。

これはパラドックス(逆説)のように見えます:“与えることによって満足するということ”が、どう可能であるのか? そして、これが愛とは何のためにということなのです:私たちの全員を一緒につなげることなのです。もし愛が私たちの間にないのなら、単に私たちは授与して喜ぶことができないだけです。私は自分の隣人の願望を自分のよりも大切なものとして感じなくてはならないのです。

母親にとって自分の赤ちゃんが感じることは、自分が感じることよりも遥かに重要です。母親は子供の痛みを内側から感じるのです。これは自然な愛です。私たちは光の助けを借り、光に私たちを是正させて、それと同じ種類の愛を獲得しなければなりません。その結果、私たちはクリエーターと同じ願望を持つことになり、スピリチュアリティに到達するでしょう。

想像してください。あなたには数十億人の赤ちゃんがいて、あなたが彼らを満たすことのできるものを所有していると。なぜなら無限の光の“水路”へ近づく方法を、あなたが持っているからです。他の人々の願望と充足を自分自身のものとして感じながらあなたが感じるであろう至福とはどのようなものでしょうか!あなたは自分自身を620倍より強く充足することになるでしょう。なぜなら、あなたが憎しみの上に愛を築くことを何とか成し遂げたためです。

彼らを満たすことにより、あなたは彼らの各自が受け取った1“オンス”の喜びではなく、620“オンス”の喜びを感じます。私は彼らの魂に自分自身をつなげ、それらをあたかも自分自身のものとして感じるのです。

From the 4th part of the Daily Kabbalah Lesson 9/27/10, “The Love for the Creator and Love for the Created Beings”

一体性の125段階

私達はどうすればお互いと結束し合うことが出来るのでしょうか?それは人が自分の願望を持ちながら友人の中で存在し、[同時に]その人の中にその友人が存在する場合に限り可能なのです。皆が他人の願望を吸収し、それに取り組まなければなりません。そうする事により彼らは結ばれるのです。彼らの願望は同じ目標に向っている為、彼らの相互的な作業により、前進する為の共同的な力を作るのです。この力は彼らの向上を保証し、それはArvut(相互責任・相互保証)と呼ばれます。

結束は、私があなたの願望の一部を授かり、それを私のものとして経験し、私の願望の全てがそれを満たす為に仕える時に起こります。更に、あなたの願望は目標に辿り着くことである為、私はあなたをそれに導き、同時にあなたが私を導くことになります。このように私達の願望は共通の目標の中で結束するのです。このゆえに「あなたの願望を彼のものにせよ、そうすれば彼はあなたの願望を彼のものにする。」と書かれているのです。

これが私達の繋がりの度合いを確かめる為の基準です。私達の間の隔たりは125の度合い(階段)、私の利己的な願望の125の部分に達しています。しかし徐々に、それを「あなたの為」の行為を通じて是正して行くにつれ、私は授与の為の作業の中であなたに近づくのです。

これが「自分を愛するように他人を愛す」と呼ばれるものです。言い換えれば、私はあなたの願望を使用し、それの前で私の願望を無効にするのです。そうする事により私は自分の願望を是正します。私の願望は残存しますが、あなたに辿り着く為にこれほどの距離を行ったので、私は自分の願望を授与的にしたのです。何も変わってはいません;私は単に意図を追加しただけです。そして、私達の間の距離は消えたのです。私が自分の意図によりそれを一掃した為です!

そして、この「他人」は何が欲しいのでしょう?彼はあなたと全く同じようにクリエーターとの結合を達成したいのです。なので、あなたが彼に手伝うべき事は一つしかありません:クリエーターと一つになる事です(あなたと一緒に)。このたった一つの意図が私達皆を一つに結合するのです。

このゆえに、私達は皆一つのボートに乗っていて、それは一つの方向に向かう、と言うのです。私があなたに近づくほど、私はクリエーターに近づくのです。

From the 1st part of the Daily Kabbalah Lesson 9/3/10, Shamati #50

皆の為の一つの生

質問:私たちがゾハールを読むときにクリエーターに要求する、私たちの間の結束とは何ですか?

答え:本当は、私たちは結束が何であるのかを知りません。結束するとはどういう意味なのでしょうか?それは私たちの世界のように、共通の興味、願望、追求を通して繋がり、サッカーや釣り、飲酒、またはジムで運動するなど、自由時間を一緒に過ごすのを楽しむ友達になることでしょうか?それとも私たちは、厳しい精神的訓練を受け、他人の為に死ぬ覚悟がある堅実な潜水艦の乗組員のようになるべきでしょうか?

霊性における結束とは、全く異なった意味です。そのような結束にある霊的生活は共同的なのです。それはシャム双生児(結合双生児)のそれに似ています。一人が死んでしまうともう一人も死んでしまうのです。彼らは一人としてしか生きられないのです。「私の」「あなたの」または、「双方に半分ずつ」という分断がないのです。

この共同的生活が霊的結束と呼ばれるのです。あなたが得る全てのものは他人との接続を通すからです。あなたは一つの「身体」を共用します。それは魂の身体と呼ばれる霊的な器です。この霊的な器の中は魂の光であり;それは一つの魂なのです。もしこの単一性が崩壊すれば身体、そして光も共に消えるのです。その結果、魂も霊的生活もなくなるのです。

From the 2nd part of theDaily Kabbalah Lesson 8/4/10, The Zohar

クリエーターとの対話を始めなさい

人に対して主に要求されることは、クリエーターがその人に呼びかけるときの適切な反応です。クリエーターが最初です。クリエーターがいつも始めるのです。人はその結果です。人は願望に及ぼされるクリエーターの影響に対する反応なのです。私は願望の反応、それに及ぼされる光の影響に対する反応です。上層の光は1-2-3-4、HaVaYaH(ハヴァヤー:ユッド-ヘイ-ヴァヴ-ヘイ)という4つの段階を通じ、上層から私たちのところに送られて来ます。創造された存在にとって、クリエーターとの繋がりはそれ以外にありません。

したがって、私たちはクリエーターのアピールに適切に反応しようと努力すべきなのです。つまり、いつなんどきでも私たち自身と世界に対する我々の知覚に対して適切に反応しなければならないのです。私たちは生活の中で休みなく続くクリエーターとの対話に気づくべきです。彼は、最初の文字「ユッド」の先端(Kutso Shel Yod)とHaVaYaHの最後の文字「ヘイ」の間に繋がりを創りました。私たちの世界と私たちはこの繋がりの中にあるのです。

「ユッド」という文字の初期点と最後の文字「ヘイ」の間にある繋がりは、全部で5つの世界、125の段階を含むことができ、その後にはクリエーターとの繋がりは感じられません。私たちが最初の段階、125番、アスィヤ(Assiya)の世界のマルフト(Malchut)に上昇すれば、すぐにその繋がりは明かされます。その後は、私たちが最上段階、無限の世界に上昇するまで、124番、123番・・・と段階が後に続くのです。

そしてこの全てはHaVaYaHの中、文字「ユッド」の始まりと最後の「ヘイ」の間にあるのです。このHaVaYaH(クリエーターとの自分の繋がり)は、まるで霧(隠蔽:the concealment)が消えるかのように、ますます鮮明になり始めます。

私は「彼以外には何もない」という原理に従い、全てを彼に繋げようと努力しながら、私に及ぼされる彼の影響に反応し、自分自身をクリエーターへと向かわせることにより、その繋がりの啓示を達成します。どうすれば最も適切で効果的なやり方でその反応を示せるのでしょうか?いかなる状況にいようとも正確にクリエーターに向けられた最も効果的な反応とは、友達と一緒に“クリエーターにアピールする”共同行為を実行しようと努力することです。

しかし、そのアピールが効果的になるのは、そのアピールがHaVaYaHを通じて戻るよう向けられているときだけです。これは真正なカバラの情報源を読むことによって達成されます。HaVaYaHの中で何が起きるのかということについて読むとき、あなたはMalchut(マルフト)をKeter(ケテル)に向かわせます。つまり、あなたが自分の一体化を根源へと向かわせるのです。

私たちが一体化する程度まで、私たちはMalchutの中に存在します。これは私たちが一緒になる場合に限ってのことです。そして、私たちが一緒に『ゾハールの書』を読むとき、私たちは反射された光を通じてHaVaYaHを打ち上げ、それをその始まり、文字「ユッド」に戻したいと願うのです。結局のところ、カバラの書物が私たちに伝える事とは、Keter・「ユッド」とMalchut・下の方の「ヘイ」の間の繋がりについてだけです。

したがって、私たちがHaVaYaHの中の繋がりの理解と啓示を欠いて読む時、私たちはこの繋がりを私たち自身の上に目覚めさせ、このシステムの啓示を引き起こすのです。

From the 2nd part of the Daily Kabbalah Lesson 7/28/10, The Zohar


自然のなかに存在しないものをどのように獲得するのか?

私が受けた質問:なぜあなたは、我々が最初は自分たちの特質と違うものにしか気がつかないと言ったのですか;つまり、私たちは自分たちと同じものには気づくことがなく、私たちよりも上か下のものにしか気がつかないと? それからあなたは、特質の同等性(等価・同値)が、自分の“受信機”で霊的な波をキャッチするのに必要不可欠な条件であると言いました。

私の答え:私たちのエゴイズムは、それと等しいものには気がつきません。そして、もし私たちが等しさを知覚したいのなら、私たちは自分たちのエゴよりも上に上昇する必要があります。

授与の特質に於けるクリエーターとの同等性に達するためには、私にはグループが必要です。友達との同等性に自分自身を適合させることによって、私は自分自身をクリエーターに合わせるのです。さもなければ、私はクリエーターと同等になれません。私はその代わりにクリエーターに自分を支配してもらうため、利益を期待しながら、または、彼とくっ付きたいと願いながら、子供のように彼の前で屈服するでしょう。言い換えれば、彼を自分よりも上か下に置こうとはするが、同等には置かないのです。

グループを通じることでしか同等になることはできません。グループが、その変形(変化・変質)をさせるものなのです。グループの助けによってでしか、与える者の特質(性質・属性・特性)との類似と同等性を達成できません。実はグループとは、自分がクリエーターとの同等性に到達する為に、自分の想像のなかにしか存在していません。クリエーターとの同等性とは、天然(自然の中)には存在しない種類の同等性(等価・同値)なのです。

From the 4th part of the Daily Kabbalah Lesson 7/8/10, “Introduction to the Book, Panim Meirot uMasbirot

スピリチュアルな発達は赤ちゃんから学べます

受け取った質問:私がゾハールで説明されている内面的特質を少しも理解していなく、それと繋がることもできない場合、私はどうそれを見つけることができますか?

私の答え:私達は、自分がどんな世界に存在しているのか知らないが、成長に必要なものすべてを提供する母親や身内の愛情を抱いた手の中にいる赤ちゃんに似ています。赤ちゃんはただ成長したいと思わなくてはならないだけで、自然はこの欲求を赤ちゃんに与え助けてくれます。

私達の世界において、つまり動物レベルにおいて、この欲求は赤ちゃんに自然に備わっています。この世界の中における人間の身体的発達を含む動物レベルに加えて、無生物と植物レベルにおいてでさえ、成長したいという自然的欲求が存在しています。しかしながら、もし私達が人間レベル-スピリチュアリティ-において成長したいのなら、その欲求は私達から生じなくてはなりません。

無生物レベル、植物レベル、そして動物レベルの発達は自然に起きます。この程度まで、私達-この世界の中にいる人々-はこれらすべてのレベルにおいて発達し終えました。そして、過去から現在において私達の欲求も同じレベルにおいて発達しました。しかし、今や私達は“スピーキング(言葉を話す)”レベル、または“人間”レベルへと上昇しなくてはなりません。人間レベルとは、私達が自分たちの力で発達して目標を達成しなくてはならないという意味です。私達の身体的欲求(食べ物、セックス、家族)と社会的欲求(富、権力、知識)のすべてに基づきながら、私達は自分たちの力でスピリチュアリティに対する強い欲求を発達させなくてはなりません。私達は心の点(the point in the heart)によって始まりますが、そのあとは、環境からの助けを借り、その発達を押し進め続けなくてはなりません。

これを行うには、私達にはグループが必要です。なぜなら、それしか心の点を発達させる欲求を与えることができないからです。この欲求で“武装”しながら、私達はグループと一緒にゾハールの書を読み始めるのです。読んでいる間、私達は発達したいと思わなくてはなりません。そこでの“発達”とは、未来の状態または感覚をゾハールの書の中で見つけることを意味します。私達が現在探しているものはこれだけです。

この他に私達がしなくてはならないのは、待つことだけです。したがって、だた成長したいと願ってください。大人になりたいと自然に思う赤ちゃんのように。赤ちゃんを落ち着かせて、彼に成長しないよう、または成長したいと要求しないよう説得させることができるか試してみてください。あなたはそれが不可能であることに気づくでしょう。なぜなら、自然は彼に成長するよう打ち勝ちがたい力で駆り立てるからです。私達はこのように根気強くスピリチュアリティに対して努力しなくてはなりません。私達は常に私達自身の内側で捜し求めていなくてはなりません。そしてどんなときも落ち着つくことなく、変化し続けなくてはなりません。そうすれば、私達は確かに成長するでしょう。これが私達に求められている唯一の条件です。

そのシステムは存在していますが、私達は欲求で、つまり内面の強い願望でそれを動かさなくてはなりません。この内面的圧力が私達から生じないかぎり、そのシステムは私達を感化しません。言い換えると、それは私達を目覚めさせるために、苦しみを通して私達を感化するでしょう。しかしこの方法で私達は一歩も前進することはありません。上層から送られてくる苦しみを手段として。私達は、下から、つまり私達から、生じる私達自身の欲求を手段にすることでしか進歩できません。

私達は絶え間ない困難と問題を受け取っているかもしれませんが、同じ場所で動けなくなっていることの理由は、これらの問題が私達にとって、正しいグループと融合して発達したいという欲求を獲得するのに十分でないからです。困難にもかかわらず、私達は同じ場所で立ち続けるでしょう。困難があるというだけでは、それは発達の兆候ではありません。それどころか、それは私達がまだ一歩も前進していないことの兆候なのです。