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過ぎ越しの祭り──出エジプトのレベル

thumbs_laitman_749_01トーラー「レビ記23:4 – 23:8」以下は主の祝日であり、その日あなたたちはイスラエルの人々を聖なる集会に召集しなければならない。 第一の月の14日の夕暮れが主の過越である。同じ月の15日は主の除酵祭である。あなたたちは7日の間、酵母を入れないパンを食べる。初日には聖なる集会を開く。いかなる仕事もしてはならない。7日の間、燃やして主にささげる献げ物を続けて、7日目に聖なる集会を開く。いかなる仕事もしてはならない。

質問なぜ過ぎ越しの祭りの最初と最後の日に働くことが禁じられているのですか?

答え:スピリチュアルな作業の2つの状態、すなわち、下層からの目覚めと上層から目覚めという2つの状態を区別するからです。

下層からの目覚めの間、私たちは切望によって光と器の協調を呼び起こします。つまり光が器を是正し、正しい意図を与えるのです。 上層からの目覚めの間に、この作業は上層から遂行されますが、それは私たちが前もってそのための正しい状態を作り出す時のみ遂行されます。

私たちは祝日の最初と最後の日のために正しい状態を作り出すよう、努力をします。なぜなら、過ぎ越しの祭りの週は上層の光がすべての作業をするので、最後は何もしない状態で閉じられなければならないからです。祝日の最初の日は出エジプトの始まりです。 最後の日は出エジプトの終わりで、それを封じるのです。

世界の国々が異なる暦を持っているということは重要です。 キリスト教の暦は太陽の動きに基づいています。 イスラム教の暦は月の動きに基づいています。 それに対して、ユダヤ教の暦は太陽と月、そして地球の動きを考慮しています。なぜなら地球が太陽と月の間にある中心的な物体だからです。

一方で、私たちは太陽の周りを回っている地球の公転を意味する年を考慮に入れます。また一方で、地球の周りを回っている月の公転である月(マンス)を考慮に入れ、そしてその二つを比較します。ユダヤ教の暦は変わらないので、たとえば、35年後の過ぎ越しの祭りの初日の曜日を事前に計算することができます。

さらに、太陽、地球、月の動きの比較に基づくと、過ぎ越しは月(マンス)の特定の日にはできないと言うことができます。 つまり、すべては一般天文学系に正確に関連しているのです。

質問:トーラーは聖なる集会について何度も言及しています。なぜ私たちは過ぎ越しの祭りに集まらなければならないのですか?

答え:過ぎ越しの祭りの間の聖なる集会は、イスラエルの民にとって最も重要なことです。なぜなら、実際、彼らの統一したいという欲求のおかげで、エジプトから出る必要性を持つからです。

個人とグループ、社会、国家、あるいは全世界との統一は、実際、エジプト(エゴ)からの脱出のさまざまなレベルです。私たちが統一の力を獲得する時、ある緊張、つまりこの脱出、エゴからの分離が起こるのです。

それは常に私たちの間にあり、私たちを隔て、互いに拒絶を感じさせます。もし私たちがそれを圧縮し、凝縮し、統一し、互いにつながろうとし始めるなら、私たちが最初に統一を獲得する瞬間、エゴからの脱出が始まります。

過ぎ越し(出エジプト)の最初の日に、私たちはこのつながりを固く結び始めます。そして、週の間それに取り組み、出エジプトの最終日に完全に統一します。その瞬間から、私たちは統一した国家なのです。

しかし、その一方で、人々は何をすべきかを理解していません。エゴから逃げたいという欲求を駆り立てる方向があるにもかかわらずです。しかし、それは、適切な認識のない動物的な本能にすぎません。人々はシナイ山の麓に集まる時、その認識を獲得するでしょう。

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From KabTV’s “Secrets of the Eternal Book” 5/28/14

その時、新しい王がエジプトに起き上がった

『ゾハール』Shemot(出エジプト記)章 250節:彼らの部族が残りの国々と混ざることを恐れ・・・彼は、イスラエルを軽蔑しひどく嫌っていた傲慢なエジプトに、彼らを追放した。そして彼らは、アモリ人の不正が蔓延し、彼らが彼らの土地に来るまで、そこに居た。その理由は残りの国々と混ざる恐れがもうなくなったためである。

自分たちの心の中で中間線(the middle line)を築くとき、どう私達は望まれた状態にもっと近づくのでしょうか? 光、授与する者、又はクリエーター、との私達の類似である中間線は、まさに私達の内面で明かされる「エジプトへの追放」(エジプト捕囚・エジプトでの異郷生活・the Egyption Exile)と呼ばれる状態によって生じます。

自分の利己的な願望はあまりに大きくなり、私はその中にとじ込められ、それに制御されていると感じます。そのあとに私は、自分自身と自分の性質、自分自身と自分のエゴイズム、または、自分自身と自分の特性、を見分けはじめます。

私は自分の特性を変えたいと思っていますが、そうすることができません。私はその特性が自分に害を与えるのを見ます—私が自分自身、自分の人生、私の近くにいる人々の生活、そして全世界を堕落させていると、私は実感します。私は、自分で鎮めることのできない、永久に膨張し続けるエゴイズムの中に存在しているため、自分自身と残りのすべての人を危険にさらしています。それでも私は、それに対してどうすることもできないのです。

その後その人は、自分に働いている力が外来性の力であると実感しはじめる状態になります。その人はもうそれと関係しなくなり、それを自分の憎い敵として知覚しはじめます。このことを、“その時、新しい王がエジプトに起き上がった”(出エジプト記 1:8)と呼びます。人はこう感じはじめます:新たな支配力が明かされた、これは自分ではなく他の誰かがこの全てを自分のために用意していると。それは自然またはクリエーターかもしれませんが、その人ではないのです。その人はどうすれば自分がそれから自由になるのか知りません。

そのとき人は、まるで自分の脇から自分自身を見つめるように、自己の喜びを受け取る意志を、自分とは無関係なものとして見ます。その人は、クリエーターのことを、このすべてを自分のために準備・計画する者として、認識しはじめます。その人には既に、ファラオとクリエーターの両方に対して同じ姿勢があるのです。

その後その人は、内面的な分割—自分に起こることの全てを決定している上層の力が存在するという実感—を経験します。しかし、この啓示はそれ自体が独立して勝手に起きるものではありません。その人が実際にカバラの知恵に取り組み、その間における多数の学習時間、グループの中での結束、そして普及活動での作業の後にしか起こることはないのです。


自分自身から脱出し他者の中へ

自分自身、自分のエジプトから脱出することとは、何を意味しているのでしょう?

私は自分で運べる物の全てを持ち、隠れるためだけに逃げます。しかし、私が完全なるエジプトの闇に包まれているとき、何処に逃げる場所があるのでしょう? 私は自分の願望の中に閉じこめられています。それゆえ、私はどこへ逃げることができるのでしょう? 結局のところ、私には他に何もないのです。

私は自分の力だけでこれを遂行することはできないかもしれませんが、それを切望しなくてはなりません。さもなければ、生き残るチャンスはありません。人はエジプトの器のすべてを持ち、夜の暗闇の中、エジプトから逃亡します。暗闇が彼を取り巻いている状態で、彼はどこに逃げることができるのでしょうか? その次の状態も暗いのです。しかし彼はそれがより自由に近いと感じます。

たとえ私が今、他人を憎んでいて、他人とのつながりがないとしても、それでも私は次の状態がより進歩したものであることを知っています。言い換えると、私はできる限り自分の願望から出てきて、隣人の願望の中へ入るのです。私は単純に逃げます。しかしながら、私は今のところそれらの中に光を見ません。私は暗闇をよそに、それらの外に出る覚悟を示す必要があるのです。

私は自分の背後に自分に向かって輝いているものがなく、もうこれ以上自分のエゴのなかに留まることができないことを見るゆえに、最後の海(紅海)を達成し、その中に飛び込む覚悟があります。私は共通の願望、私の隣人の願望の中に入るためだけに、それを殺す覚悟ができています。

私がそこで自分のために何も受け取ることがないという事実にもかかわらず、私は次の段階、スピリチュアルな段階がそこに置かれているのを見ます。人は自分自身の内部の願望に関して、他の人々の外部の願望の方がより高い段階であることを理解します。


エジプト脱出の奇跡

『ゾハール』Bo(ファラオの所へ来る)章 ・・・そしてあなたの神である主はあなたをそこの外へ連れてきた・・あなたがエジプトから脱出したこの日を覚えておくのだ・・・そして、彼の偉大な力で、彼の存在と共になんじをエジプトの外へ連れてきた・・・主はあなたをこれの外に連れてきた・・・エジプトからの脱出は50回トーラーのなかで言及されている・・・

50とはMalchutの10個のSefirotBinaの40個のSefirotを一緒にした最高段階です。Malchutの全体はそれ自身の上、その最高段階にまで昇る必要があります。これらの2つの力は人間の中で感じられないといけません。1つがもう1つと対立するように。

したがって、自分らのエゴイズムから脱出する力が私達には備わっていないということに於けるひどく不快な気持ちに至り、同時にこの遂行が絶対に必要であることを感じるようになり、そのあとに私達が「エグザイル」(異郷生活・国外追放)を終えるまで、救済はやってきません! 私達がこの対立を最大限に感じるようになるとき、紅海(ヘブライ語では最後の海と呼ばれる)の海が開き、それを渡るのです。

人は、それがどう啓示されるのかについて知りません。これは奇跡と呼ばれています。しかし、この奇跡は人が行き詰まった状態になるときに、その人自身によってもたらされるのです。一方、その人は、どのように脱出することが可能なのか理解しません—その人にはこのための力または能力がありません。さらには、その人の性質を変化させる何らかの力が上層に存在しうることも理解しません。そして他方、自然を超えた所に存在しているこの力が啓示されるのです。

これは奇跡のようにしか起こりません。それは「エジプト」と呼ばれるその状態、その性質の上で生じ、人間の内面感覚の全体を構成します。