Entries in the '祈り、意図' Category

正しい態度の準備をする

私たちの全作業は、準備に向けられています。私たちの任務は、私たちの中で明かされるようになるエゴイズムを消すことではなく、常にそれが私たちの中で上層の光、クリエーターによって明かされているのだといつでも認知できるようになることです。私たちはすぐにそれを光の中で、私たちの成長の、苦いが嬉しい兆候なのだと判別すべきなのです。

私たちの魂(願望と光)は、段階的な下降を経験しました。そして今や私たちはその同じ段階(度合い)又は状態を下から上へと明かさねばなりません。私たちはそれらとそれらの全細部を経験しなくてはなりません。なぜなら、さもないと最後の是正(Final Correction:最終是正段階)で、総体の器に欠陥(ひび・きず)が生じてしまうからです。

それが上から下へと下降する際に、私たちが運命を変えることは出来ません。しかし、私たちはそれを違うように観ることと、認知することの準備をすることができます。エゴイズム―楽しもうという意志―の中の不愉快な感覚は、私が自分のエゴと同一視する事実によって生じているのです。

しかし、もし私がその上に上がり、クリエーターに由来する全てのものの中に、よい変化を観る準備をするのなら、エゴイズムの不愉快な感じが明かされた同じ状態が、よくてポジティブで役に立つと認知されるようになり、私はそれらをありがたく思うでしょう。

私がクリエーターの私に対する態度を違って認知し始めるとき、自分の全ての故意の違反および故意でない違反が、是正されて授与に到達するための自分の機会になり、その後、これらの違反は私の功績に変わります。したがって、すべては私と私の準備によるのです。

From the 1st part of the Daily Kabbalah Lesson 10/7/10, “The Righteous Feels Good and the Righteous Feels Bad”

グループとは自分の影です

グループとは私のコピー、私の影です。まさに私がクリエーターの影のように。私は自分が友だちの中に投入するよりも遥かに多くを彼らから受け取ります。それは彼ら又は彼らの行動によるのではなく、自分の彼らに対する態度だけによるのです。この環境もクリエーターです。それは「彼」(クリエーター)と一緒に働くために「彼」が私に与えた機会なのです。実際には私の外側にはクリエーターしか存在しないのに、その間まるで私の外側に何かが存在しているような錯覚を私に創ったことによって。

この理由から私たちは常にその環境を目覚めさせなくてはならないのです。私が環境を通じてクリエーターと一体化するために、環境と一つになりたいと願うよう、その環境が私に影響を及ぼすといった状態を、私たちが獲得するまで。環境なしに私がクリエーターに到達することは出来ません。なぜなら、環境とは、私が環境を通じることでクリエーターのイメージを観るといった外部的な手段であるからです。

もし私がグループと一つになりたいと望まないなら、私は少しもゴール、クリエーターを目指して進んでいません。結局のところ、私の隣人とはだれでしょうか? それはスピリチュアリティの中で私を二つの部分、私と私の隣人に分けた破壊の力なのです。何のためにでしょうか? それは私がクリエーターと一体化するために自分に欠けているものを認識・識別させるためです。

たとえこの環境が自分にとって異質・無関係・無縁に見えるとしても、私がこの環境をもっと自分の近くに持ってこれるならすぐに、もっとクリエーターに近づくことが出来るようになります。クリエーターは私にわざと二重の知覚・認知を授けました。私が自分の一部をよそ者として、そして、憎らしいものとして、目にするために。

それが何故「隣人を自分のように愛しなさい」ということがトーラーの最も重要な規則であるのかということの理由です。これが光の唯一是正するものです。そして、これ以外に是正させるものはないのです。もしあなたがこの是正を求めないのなら、あなたの全努力は無駄になります。それ以外のすべては、役に立たない荒野のなかへの叫びなのです。

From the 2nd part of the Daily Kabbalah Lesson 10/5/10, The Zohar

欲求の世界を旅する

質問:日中、私がグループとレッスンから外の世界へと出て行く時、包む光(Ohr Makif)にすがり続ける事は可能ですか?

答え:全ての物理的分野の法則では、(光、又は他の刺激の)強度は源からの距離の二乗の比例で減少していくとされています。あなたが源から2倍離れると、強度は4倍減少するのです。しかし、もしあなたが2倍近づけば、強度は4倍増大するのです。

霊的世界に光の源はありません。何故なら光が全宇宙を満たしているからです。その為、あなたが何処にいようと、その影響は同じです。あなたはレッスンから抜け、外の世界に出て行くと思っています。しかし実際、空間的な変化はあなたの中で起こっているのです。あなたが欲求から欲求へと行くのです。全ての“場所”とはあなたの欲求です。あなたは自分自身の中を進んでいるのです。

その為、全てはあなたがどれだけ欲求の中で光を呼び起こすかによります。光はそれらの中に均等かつ完全にあります。あなたが何処にいても – 街路に出ていようがグループ内でのレッスンにいようが問題ではありません。私は物理的にグループの中にいても、思考の中でずっと離れているかもしれません。自分自身の光との繋がりの度合いは意図のみにかかっています:自分がどれだけそれと繫がりたいのかということに。

From the talk on the Light that Reforms 9/8/10

祈るのを止めるな

質問:もし自分の祈りが利己的だと感じたなら、私は祈るのを止めたほうが良いのでしょうか?

答え:祈ることを止めることほど最悪なことはありません。それはあなたが動物的状態に戻るという意味なのです。なぜなら動物は祈ることをしないし、出来ないのです。私たちが話しているのは本当の祈りのこと、あなたの是正のことであって、涙や本の語句についてではありません。

祈りとは純粋な無私の授与を獲得するための懇願です。しかし、もしその祈りがさらに利己的であるのなら、どうやって利他的な授与を求めることができるでしょう? あなたの祈りが自分自身のためではないという場合に限って、祈ることが可能になるということが判明します。あなたが自分のために祈るなら、既にそれは霊的ではないのです。なぜならあなたは自分のエゴイズムを満たすためにクリエーターに祈るからです。

クリエーターへの祈りは授与の力に関することのみです。このように祈りは始まり、後に、あなたはなぜそれが必要なのか、そして何のために必要なのかを定めなくてはなりません。自分の与えたいという願いが、自分のエゴイズムのために、さらに多く受け取るためであるのかどうかを私は見い出さなくてはなりません。

人が上る全125の段階とは、祈りの段階の識見なのです。私は自分の願望の詳細を査定するために必要な、AB-SAGの光を受け取ります。私はそれぞれの霊的状態、それぞれの新しい段階にて一層多く識別するのです。なので、私はなぜ全てが必要なのかを理解し始めます:この世界、友達、そして敵、愚か者、賢人、奴隷、英雄、それと情欲と権力に駆られた者たち。私は自分と彼ら全員との関係を調査し、クリエーターを志す必要があるのです。

どうすれば自分の祈りが無私で個人的な関心、又は自分自身のためになることが含まれていないかを知ることが出来るでしょうか?私は他人のために祈るときだけそれを知ります。これは、私が自分の祈りを査定するのを補助してくれます。その結果、クリエーターが、なぜ私と世界全体をそうように創ったのかを理解することが出来るのです。現実の全ては一つの目的のために創られ、整えられています:私たちがクリエーターに正しく祈ることを学ぶために、そして私たちが求めるもの-クリエーターの性質、私たちのエゴイズムに取って代わる、本当の授与の性質を受け取るためにです。

From the 1st part of the Daily Kabbalah Lesson 7/28/10, Article, ““Who is He Who Causes Prayer?”

和合とは新しい現実である

私が受けた質問:和合(ユニティ)とは何ですか?それは内面的な感覚ですか?それとも何かの力が明らかになることですか?

私の答え:和合とは、私たちには全く解らない、新しい現実のことです。それは私たちが今まで、知覚したことのない霊的な特性、つまり授与の特性を持つ新しい物質です。私たちがこの物質に含まれ、その中で生き始める時、私たちは、まるで別の惑星に自分たちを見つけるように、新しい次元を明らかにします。私たちはこの次元をこの物質の内側、つまり授与の中で明らかにします。

したがって、和合とは単なる相互的な繋がり、良い関係、自信という意味だけではないのです。それは、私たちの世界には存在しない、新しい特性が明らかになるということなのです。私たちがこの特性を獲得し、クリエーターと似通う時、私たちは全てを自分らの知性と感情の中で、彼(主)との結束にて明らかにします。

私たちは和合を達成する以外に何もすることはありません。それは私たちの能力の範囲内で出来るのです。このことに関して、“我等はやるであろう、我等は聞くであろう”と書かれています。この意味は、私たちは様々な行動を起こし、努力し、全力を尽すことが出来るということです。私たちは、カバリスト達が勧めるように、そしてまた、ラバッシュが彼の文章に書くように、一緒に勉強し、結束することができるのです。

しかしながら、私たちはこれにて成功は出来ません。私たちは“そして彼らはこの作業から叫んだ”と表現される状態に達しなければなりません。それは、私たちは和合しなければならないのに、それができない、という内面的な叫びです。この内面的な叫びの状態でのみ、それは起こります。それは真の祈り、真の叫びでなくてはなりません。

私たちは既に全体の土台を造り上げました。後は、私たちが和合の特性に達するだけです。他人との繋がりとして明らかになる、新しい物質が霊的な物質なのです。それはある程度、既に、破壊以前に存在していた、霊的な器なのです。私たちがそれを明らかにする瞬間、つまり私たちが霊的な存在状態を明らにすると、クリエータは明らかになるのです。

そのため、私たちの一人一人と全員が一日中可能な限り一緒に努力してこれだけを気にしなければならないのです。

From the 1st part of the Daily Kabbalah Lesson 6/13/10, The Zohar

スピリチュアルな発達は赤ちゃんから学べます

受け取った質問:私がゾハールで説明されている内面的特質を少しも理解していなく、それと繋がることもできない場合、私はどうそれを見つけることができますか?

私の答え:私達は、自分がどんな世界に存在しているのか知らないが、成長に必要なものすべてを提供する母親や身内の愛情を抱いた手の中にいる赤ちゃんに似ています。赤ちゃんはただ成長したいと思わなくてはならないだけで、自然はこの欲求を赤ちゃんに与え助けてくれます。

私達の世界において、つまり動物レベルにおいて、この欲求は赤ちゃんに自然に備わっています。この世界の中における人間の身体的発達を含む動物レベルに加えて、無生物と植物レベルにおいてでさえ、成長したいという自然的欲求が存在しています。しかしながら、もし私達が人間レベル-スピリチュアリティ-において成長したいのなら、その欲求は私達から生じなくてはなりません。

無生物レベル、植物レベル、そして動物レベルの発達は自然に起きます。この程度まで、私達-この世界の中にいる人々-はこれらすべてのレベルにおいて発達し終えました。そして、過去から現在において私達の欲求も同じレベルにおいて発達しました。しかし、今や私達は“スピーキング(言葉を話す)”レベル、または“人間”レベルへと上昇しなくてはなりません。人間レベルとは、私達が自分たちの力で発達して目標を達成しなくてはならないという意味です。私達の身体的欲求(食べ物、セックス、家族)と社会的欲求(富、権力、知識)のすべてに基づきながら、私達は自分たちの力でスピリチュアリティに対する強い欲求を発達させなくてはなりません。私達は心の点(the point in the heart)によって始まりますが、そのあとは、環境からの助けを借り、その発達を押し進め続けなくてはなりません。

これを行うには、私達にはグループが必要です。なぜなら、それしか心の点を発達させる欲求を与えることができないからです。この欲求で“武装”しながら、私達はグループと一緒にゾハールの書を読み始めるのです。読んでいる間、私達は発達したいと思わなくてはなりません。そこでの“発達”とは、未来の状態または感覚をゾハールの書の中で見つけることを意味します。私達が現在探しているものはこれだけです。

この他に私達がしなくてはならないのは、待つことだけです。したがって、だた成長したいと願ってください。大人になりたいと自然に思う赤ちゃんのように。赤ちゃんを落ち着かせて、彼に成長しないよう、または成長したいと要求しないよう説得させることができるか試してみてください。あなたはそれが不可能であることに気づくでしょう。なぜなら、自然は彼に成長するよう打ち勝ちがたい力で駆り立てるからです。私達はこのように根気強くスピリチュアリティに対して努力しなくてはなりません。私達は常に私達自身の内側で捜し求めていなくてはなりません。そしてどんなときも落ち着つくことなく、変化し続けなくてはなりません。そうすれば、私達は確かに成長するでしょう。これが私達に求められている唯一の条件です。

そのシステムは存在していますが、私達は欲求で、つまり内面の強い願望でそれを動かさなくてはなりません。この内面的圧力が私達から生じないかぎり、そのシステムは私達を感化しません。言い換えると、それは私達を目覚めさせるために、苦しみを通して私達を感化するでしょう。しかしこの方法で私達は一歩も前進することはありません。上層から送られてくる苦しみを手段として。私達は、下から、つまり私達から、生じる私達自身の欲求を手段にすることでしか進歩できません。

私達は絶え間ない困難と問題を受け取っているかもしれませんが、同じ場所で動けなくなっていることの理由は、これらの問題が私達にとって、正しいグループと融合して発達したいという欲求を獲得するのに十分でないからです。困難にもかかわらず、私達は同じ場所で立ち続けるでしょう。困難があるというだけでは、それは発達の兆候ではありません。それどころか、それは私達がまだ一歩も前進していないことの兆候なのです。