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民衆の悲しみを感じる人は全て慰めに値する

カバラの知恵の実践面における実現は、私達の世代から始まります。その実現とは、この世でクリエーターが創造物に対して明かされることです。今や私達は全人類と一緒に、是正の完成のため、一つのクリ(器)すなわち一つの欲求を発見しつつあります。これは目下の世界的危機と、イスラエルや世界全体での私達の普及活動のおかげです。たとえもし私達が人々から最も小さな欠乏を受け取るとしても、彼らの欠乏と私達の欠乏の間のつながりのおかげで、私達は一緒になって、これら全てをスピリチュアルな世界へ持ち上げることができます。

人々は物質的なものを欲しがります。単純なことです。しかし彼らの欲求は「是正する光」の助けなしでは是正することが不可能なように造られています。これが現在の危機の形態です。どの欠乏も、その種類に関わらず、砕かれており、利己的であり、この世界の次元には解決法がないことが明らかにされています。

その是正のためには「光」を必要とします。そしてその光は、皆の間の相互包含から引き出されるものであるため、人々の間の様々な方向での正しいつながりが要求されます。さらにそれは自然の鉱物、植物、動物との関係も含んでいます。この全てが一緒につなげられなければなりません。そしてお互いにつながりを完成させねばなりません。それができた時のみ是正が起こります。

それゆえ、今の危機が人間の努力を通じて是正され得ないことは明らかです。むしろ、私達が人々の欠乏を受け入れて、これらを持ち上げるときに、私達は聖なる仕事をしています。つまりそれはクリエーターと創造物の導管役としての奉仕であり、「司祭の王国と聖なる国家」と呼ばれるものになることです。この形において私達は歴史上初めて完全に集合的なクリ(器)を構築する機会を持ちます。それは一つの針の穴であり、また光を入れるためのクリであり、AHPから欠乏を受け取ることを通して、GEの授与する欲求にそれらをつなげ、祈り(MAN)と組み合わせることで、それらをエイン・ソフの光(オール・エイン・ソフ)まで上昇させます。

次のように言われています。「民衆と共に悲しむ人は全て民衆の慰めを受けるに値する。」それはつまり、誰でも民衆の悲しみとニーズを受け取り、それらを持ち上げる人は、真っ先に「是正する光」を受けるに値するということです。そしてその光は彼を通して、彼が気遣う人々に届けられます。

From the Preparation for the Daily Kabbalah Lesson 8/14/13

「金の子牛」を造ってはならない

私達は他者とつながる必要がある、ということを人に納得してもらうことは大変難しいことです。たとえその人が既にカバラを勉強し始めていたとしても同様です。彼はこのつながりへのいかなる願望も必要性も持ちません。反対に、普通の人の方がむしろ隣人や他者に近付くことでしょう。なぜなら結局、生活をより安全なものにするために良好な関係を維持し衝突を避ける方が、彼にとって有利であると感じるからです。

しかし上層の力や世界を発見したい、人生の意味を知りたいという個人的な願望が目覚めた人は大変個人主義的になります。彼は誰ともつながりたいと思いません。というのも本質的な問いは彼の心の内側で見出されると感じるからです。それゆえ彼がつながりについて耳を貸すことは大変困難です。彼にはそれが子供の遊びのように見え、どんな形であれ理解できません。

そのようなわけで、今日私達がこのテーマについて話し始めることに成功したことは、とても喜ばしいことです。私達は最も基本的で重要な点を見出す間際に来ました。もし私達がいつでも常にこの点に気を付けるなら、その後はそれを通して、その中において、つまり私達の間のつながり(コネクション)の中において、万事何もかもが明らかにされるでしょう。

私達のつながりとは言わば黒い点です。その黒い点は、私達がもう一つの世界へ通り抜ける際の障壁であり、「針の穴」であり、それについてクリエーターはこう言っています。「私のために針の穴のような出入り口を開けよ」。一つのハートにつながった後で、一つの願望の中で、私達は一つの点の中につなげられます。私達の点の全てが一つの点の中につなげられ、それが針の穴のような出入り口を造り上げます。もし私達がこの通りに自分自身を準備するのなら、そのとき私達は新しい世界への通路を開きます。そして最も高いレベルが私達に明らかにされるでしょう。それがスピリチュアルな梯子(はしご)の最初のステップです。

このつながりへの必要性がトーラーを受け取るための準備です。上層の力の手助け無しで私達だけでこのつながりを実現できないことは明らかです。そのため私達にできる仕事は、つながりへの必要性を感じて共通の祈りを打ち立てることです。

つながりに到達する必要性を除いて、個人的にも集団的にも私達には他に祈るものを持たないということは論理的な事柄です。つながりを求める祈りがあれば、私達は、私達が必要とする全ての肯定的な結果(成り行き)を見出します。しかしもし私が、私はもっと知らなければならない、私はもっと成功しなければならない、或いはもっと愛することさえしなければならないと自分勝手に決意するなら、それは単に私のプライドを示すものです。必要なのはただつながりだけを求めることです。そしてこれより他のものを求めることは無意味です。これが私達共通の祈りとなります。

あの「多数の祈り」も別ではありません。それもただ統一(ユニティ)についての祈りです。この祈りと私達共通の祈りとの違いはありません。というのも、その結果は正確に各レベルの梯子の位置に従うからです。私達はこの梯子をより高く登らねばなりません。私達はそれらの位置に落ち着くことはありません。むしろ私達はすべての人との間にますます強いつながりを確立しなければならないし、そうすることを決意するのみです。

これは私が見返り報酬を求めないという意味です。必要物は自ずからやってきます。私に必要なものは社会の中で見つけられます。換言すると私達のつながりの中で見つけられます。そして私達はただつながりを探求するのみになります。これはとても単純な真実なのですが、私達のエゴはいつでも新しく頭をもたげてくるので、あらぬ方向へ滑ったり転んだりし続けます。その度に何度も何度も私達は「多数の祈り」へ立ち戻るように自分自身を強制します。そしてその祈りにおいて、私達は一つの要求の中、一つに統合します。

いわゆる「金の子牛」とは、単なる自分のエゴを満足させるための個人の仕事を指すのではありません。トーラーの中ではこれについて全く何も言っていませんが、この「金の子牛」とは、単純につながりを願う気持ちのかわりに、自分自身のために霊的進歩の形態を確立したいという個人的欲求のことです。「心の点」(ポイント・イン・ザ・ハート)は他の全ての心の点と集合しながら、シナイ山頂へ登って行きます。山頂でトーラーを授かるためです。トーラーとは改正する光のことです。そうしてトーラー授与後、山の麓(ふもと)に集っていた全ての願望・欲求達は、皆同じ「心の点」につながって、そのつながりの点の中に消え去っていきます。

しかしこの全てにも関わらず、ある人は自分自身で何かを決意すること、クリエーターへの奉仕において進歩するために自分にとっては絶対必要であると考えるある種の私的な要求を付け加えることに引っ張られます。これが「金の子牛」と呼ばれます。これはこれでとても高い霊的(スピリチュアル)なレベルです。しかし、始めから終わりまで、是正の完成に到達するために私達はどのように道を踏破しなければならないかについて、トーラーで説かれている全体的な方法とは、ただつながりの強さだけによるものであり、その他はありません。

From the 1st part of the Daily Kabbalah Lesson 7/26/13, Writings of Baal HaSulam

喜びは正しい道のパラメーター

バール・ハスラム「シャマティ#58」「喜びは善い行為の反映」より:たとえもし人が、間もなくより低い段階に落ちるだろうことを明らかに見たとしても、彼(クリエーター)は依然として人を人が居る場所で判決を下す。その意味とは、もし人が今、天の王国の重荷を永遠に担おうと決心したならば、それは完全であると見なされるということ。

しかしながら、もし人が天の王国の重荷を引き受けて、その状態がその人の中に永遠に留まることを望まないとすれば、この事とこの行為は完全であるとは見なされない。そしてその当然のこととして、その人の上に上層の光が訪れて休息することはできない。

基本的な問いがあります。私達はそれが永遠か永遠でないかどのように判断するのでしょうか? それは人が何を自分のゴールとして又は未来として見るかによります。

世界には多くの組織があります。多くのグループと社会団体があり、それらは皆その構成メンバーから一定の献身とつながりを要求します。好きなだけ例が挙げられます。株式市場からはじめて、サッカーチーム、軍隊、アルコール依存治療グループ等。どの組織も献身とコミットメント(参加・寄与)を要求します。さもなければ組織が組織として結びついていることが不可能だからです。

しかし、スピリチュアルな状態を獲得することも、それとは別ではありません。メンバー相互のつながり無しにゴールを達成することは不可能であり、私達の間のつながりの中においてのみ本当に獲得できるものであることを理解するならば、それは献身を要求するものです。クリエーター(創造主)とは、私達が相互に授与する関係を達成するための努力から構築されるイメージのことです。それでここでいう献身とは、同じ物、同じ仕事、同じ喜びを求める熱望、そしてそのように魂を作り上げる努力のことです。このような理由で、これは自己犠牲とも呼ばれます。

それで私は今や、自分の受け取りたい欲求の中で手に入れた全て、私に元気を与え、存在感を与えてくれる全ての充実、全てのエネルギー、全ての喜び、全ての努力、全ての希望を、グループの集合的貯金箱に与えます。誰もがこれをするとき、私達はその集合的努力によって、その中にクリエーターが顕現するような集合的インフラを構築します。それは「イスラエル、トーラー、クリエーターは一つ」と言われるところのつながりによるものです。

グループに関する私はイスラエルに関する私であり、そして私達はひとつの「イスラエル」として、私達の間つまり私達の全体的授与力の中にクリエーターを見出そうと向きを変えます。全ての物事をひとつの全体の中につなげることによりそれは為されます。そのため集合的努力が要求されます。そして、私達はこの努力が正しいかどうかを私達の喜びのレベルにより測ることができます。正しい道に従いながら喜びを感じないでいることは不可能です。そうでなければ私は自分自身を、共に創りあげようとしているこの全体的でスピリチュアルな器に捧げることなどできないでしょう。

だから喜びは善い行為の主要なパラメーターです。鏡のようなものです。私達は霊的上昇、目覚め、エネルギー、力、喜び、唯一性そして祝福を感じるためには、これに取り組まねばなりません。これらの感覚は、それによって私達の内的行為の速度を想像できる外的なサインです。もし私達の行為が正しければ、それは私達の中に、高揚、楽しさ、希望、結束感などを喚起するのです。

しかし、もし私達がつながりにおいて正しい行為に至らなければ、それに応じて、これら喜びや高揚など全ての感情を欠くことになるでしょう。喜びがあるかどうかチェックすることはとても簡単です。人間は喜ぶと同時に叫んだりわめいたりすることはできません。あなたはあなたの存在全体の中に喜びを感じなければなりません。「全ての私の骨が教えるまでに」と言われているように。

From the 1st part of the Daily Kabbalah Lesson 6/20/13, Shamati #58

ゾハールを理解する鍵

もし私達がゾハールの書を理解したいなら、私達の間の関係をイメージしなければなりません。つまり私達の行為と努力に従って、どのようにつながりの強度が高まったり弱まったりするかということです。
私達を一緒に結びつけるネットワークについて、TES(タルムード・エセル・セフィロート)の中に詳細に記述されています。ケテル、ホフマー、ビナー、ゼイール・アンピンそしてマルフート。またはアティックのパルツフィーム、ケテルであるアリフ・アンピン、アッバとイマそれはホフマーとビナーです。そしてゾーン、それはゼイール・アンピンとマルフートです。

私達はこのネットワークによりつながっています。このネットワークが明らかになればなるほど、私達はより高く昇ります。明らかになることが少なければ少ないほど、私達は下降します。このように私達は(世界を)操作しています。

それで、私達の仕事の全ては、私達がその中に存在している、この10のセフィロートとの可能な限り強いつながりを喚起することです。そのとき、一人一人が自分自身を、これら10セフィロート全てを操作するマルフートとして見るでしょう。それは各セフィロート全てが最終的な形、エイン・ソーフ(無限)世界における形を採るまで続きます。

それで、TESと、特にゾハールの書は、私達に次のことを見させるために書かれました。それは私達が上層システムのマルフートの中にいるということです。その地点から、私達はシステム全体を呼び起こすことを望みます。

私達は一つのネットワークの部分であり、このネットワークに刺激を与えなければなりません。そうすると各自が印象を受けて他者を感じるようになるでしょう。それと同時に、このシステム全体の操作方法を調査し理解することもできるようになるでしょう。

From the 4th part of the Daily Kabbalah Lesson 6/02/13, “The Book of Zohar, Introduction”

同じ劇、違うセット

私たちは皆、私たちの全関係を貫く力の「クモの巣」によって結ばれています。全体的に見ると、これらは受け取りの力か授与の力かどちらかです。もし人がそのどちらの力も発見しないなら、彼はまるで空虚の中でぶらさがっているかのようです。しかし通常は正の力か負の力かどちらかが彼に明かされ、それらが組み合わさって総ネットワークを作り上げます。

従って「クモの巣」は存在し、どの程度それを感じるか、どの程度その中にいるのか、そして、どの程度これらの力に肉体性か霊性かどちらかになってもらいたいかは、その人次第です。

私たちの物理的な場所に関係なく、私たちはこのネットワークの中の「一定」の場所(定位置)にいると言えます。そして「場所を変える者は運を変える」という格言は、霊的な「座標」について言及しています。たとえ私がある国から他の国へと移動し、自分の周りに違う人々や環境を目にするとしても、私がシステムの中で自分の位置を多少なりとも変えたということではありません。

私は同じ点の中、同じネットワークの中にいますが、今やそれが違うように見えます。たとえ私の「運」が変わったとしても(私に作用する力という意味)私が霊的なネットワークの中で自分の位置を変えたわけではありません。現れ、「衣装」、クリエーターが私を操る彼の劇場の中での場面のみが変わったのです。しかし監督は同じで、劇は同じ劇で、新しいセットの後ろに同じ舞台装置があります・・・。

質問:しかし何を強調すべきですか? どの点において努力をすべきですか?

答え:クリエーターは私にこう告げます:「私はあなたを選択点に連れてきた、即刻それを実現しなさい。」彼は私をグループへと連れて来ましたが、それはほんの選択の場所にすぎません。それと同時に選択そのものは私の手中にあります。それは、自分のために既に用意された投票箱に私が来て、今やその選択が自分にあることに似ています。

From the 3rd part of the Daily Kabbalah Lesson 4/30/13, “The Mutual Guarantee”

生命の未解決のミステリー

カバラの知恵は全創造物を4つに分類される受け取る意志のようであるとみなします:静物(無生物)、植物、動物、そしてスピーキング(人間)。

実質的に、これはそれらの内部で働く生命力について語っています。静物の基本的なレベルにおいて、それはその構造を持続させるという強制された必要性(欲求)のみを構成します。したがって、全てのものは「プラス」と「マイナス」から、電子と陽子から、つまり単純な両極性から始まり、他の粒子がそれらへと集められ、原子の内部に完全な「宇宙」を形成します。

そのあとに、原子は様々な形態の無生物の物質を作り上げます:気体、液体、個体、プラズマ。そしてその次の段階でそれらは結合して分子になります。そして、ある特定の瞬間に物質の内部に生命が形成されるのです。

私たちはどうやってこれが起きるのか理解していません。なぜなら今まで粒子が「機械的に」お互いに結合していたのに、突如として何か新しいものがそれらの間に現れるからです。

生命とは何でしょうか? それは単なる電子の「飛躍」でしょうか? そうではありません。基本的に、どういうふうに生命のある有機物と静物の生命のない物質は違うのでしょうか? 科学はこれを知りません。しかし私たちは、その生命力、代謝、生殖、あらゆる種類の相互的なつながり、記憶が作られること、あらゆる種類の異なる細胞のつながりと特異性を生じさせる反応を作り出すことを目にします。この全進化の起源は未だに謎のままです。静物レベルから植物レベルあるいは動物レベルを作り出すことに成功した者は誰もいません。

しかし実際のところ、これは生命力、物質の内部で働く欲求(願望)について語っています。それは光と器のスピリチュアルな相互作用から生じるのです。そしてこれこそが、何故その出現を物理的な言葉で説明することができないのかということの理由なのです。

このように、受け取る意志は創造における基本的な力であり、私たちはその存在を証言することしかできません。残りのすべてを後で発見して認識できるようになるために、このことを事実として受け入れることには価値があります。ようするに私たちは、私たちの発達における特定の瞬間に、ある種の現実の中で私たち自身を認識する被造物であるのです。確かに私たちは疑問を投げかけますが、それらの事についての答えを見つけるためには、創造の始まりあるいはその終わりに行ってみることが必要なのです。

人は壮大な創造物の限られた小さな部分であり、もし彼がそれを研究したいのなら、まず最初にその次元にまで、要求される高さにまで成長しなくてはなりません。その後になって初めて彼は分析と統合を通じてそれを把握、吸収、そして調査できるようになるのです。

一般的に、生命は光です。しかし私たちは静物、植物、動物、そして人間というこれらのレベルにおける現象に対する私たちの理解の内部にある欲求(願望)の内部にこの事を発見します。たとえ私たちの意識の「スクリーン」上に光によって描かれた様々な映像を見るとしても、実際それは単一です。たとえそれらが強制的に様々な感情を私たちに経験させるとしても、このすべては現実の中ではなくて私たちの内面で起きていることなのです。現実の中に存在するものは、欲求(願望)と多かれ少なかれそれに生命を与える光だけです。光の程度がより大きければ人はよろこび、より小さければ泣きます。このようにして私たちは発達するのです…。

From the 4th part of the Daily Kabbalah Lesson 4/10/13, “Introduction to The Book of Zohar

ヴァーチャルな授与

質問:何が人をビナーの状態(ハフェツ・ヘセド)から外へ押し出すのですか?

答え:私達は決してビナーハフェツ・ヘセドの状態から去りません。ただそれに加えるだけです。スピリチュアリティにおいては、私達はある状態を失うことはなく、いつも梯子をより高く昇ります。もし私がハフェツ・ヘセド、つまり「授与のための授与」の状態に留まるなら、私は「自分自身のために受け取る」意図に落ちることになるでしょう。「授与のための授与」は私がいるべき最低限のレベルです。

私は「授与のための授与」の無限の状態への願望をより増やし厚く(アヴィユート)して、その上に「ハフェツ・ヘセド」のより高い状態を築き上げます。私はこのハフェツ・ヘセドの状態に追加の授与を着せ始めます。その中では私は何も必要とせず、私は森の中で、シャツ一枚すらなくとも何の心配もなく暮らし、幸せです。

ハフェツ・ヘセドの状態では、私はどのようなやり方でも授与しません、これは「授与のための授与」と呼ばれますが、私は授与するものを何ももっていないのです、それはまるで私が、自分のエゴを諦めることで、自分自身を授与する者と見なすかのようです。それは母親が子供に「お願いだから、静かにして」と言って、騒ぎを止めるようなものです。子供は何も役に立つものは生み出していませんし、他者に何も与えていません。彼はただ静かになっただけです。しかしこれは子供が母親を手助けしたことを意味します。

これがハフェツ・ヘセドの状態です。それは私がエゴイズムと戯れることを止めることを意味します。私はそれを欲せず、完全に裸のままで、全く自分自身を母親にゆだねて、彼女が言うことを全て聞くことを欲します。私は、母親が私に期待するところの何も良いことはしませんが、彼女が願う通り、悪いことは既に止めています。これが「授与のための授与」と呼ばれます。

全体として見れば、私は母親に「ヴァーチャルな」喜び以外何も与えていません。私は騒いだり、物を壊したり、叫んだり、いたずらをしたりすることを止めましたが、それだけです。これは私がハフェツ・ヘセドの状態に到達したことを意味します。これはエイン・ソフ(無限)に到るまでの最低限の願望の厚みの上でのみ可能です。

しかしこの上では、私は既に授与のため受け取りを始めています。母親が欲することを何かします。家事を手伝ったりします。これは既に授与のための授与の上にいることで、これが本当の授与です。

From the 3rd part of the Daily Kabbalah Lesson 4/8/13, The Study of the Ten Sefirot

憎しみのX線下のエゴの悪

私達は、人の中で起きる悪の源への憎しみに関連して、愛を調査します。つまり彼はその気分の悪さにも関わらず、自分の苦しみの源を愛することができるかどうかということです。それによって、彼は自分自身を、まるでそれが彼の性質ではないかのように、悪から隔離し、彼が苦しみを感じているその場所から離れさせなければなりません。

これは大変デリケートな点です。普通のエゴイスティックな性質では、私は私に苦しみをもたらす人、悪の源を憎みます。それはちょうど私達がしばしば、頭をテーブルにぶつけて怪我をした子供にテーブルを叩き返すように言って落ち着かせるようなものです。それは自然な本能的な動物的反応です。

しかしスピリチュアルな仕事は人間の是正を意味します。そしてすべての是正は、誰かが私を不快にさせたときでも、私に起きたことはただ愛と善のみであると自覚するときにのみ可能です。それで全ての痛みのサインがあるとき私の焦点は、この不快の源ではなく、私の中の悪の源そして私がこの悪を感じる場所、私の悪の傾向にあるべきです。そこが私が苦しみや悪い関係を感じるところであり、私が自らを引き離すべきものであり、マサッフ(スクリーン)で覆うべきものであり、制限があるべきところです。そのようにして、ついにはそれが悪をその反対の形に引っくり返します。

それはまるで私の前にフルコース料理のテーブルがあるかのようです。ただしどの皿も味は最悪で、匂いも臭く、見た目も腐っています。それはただ食べ物が少し塩っぽいとか辛すぎるとかいうものではなく、本当に有毒なものです。他方で私は、この食べ物を愛することができるように自分の知覚の器を是正しなければなりません。それは初めのうちは不可能に見えることです。同じようにして、私達もまた、私達が憎しみを感じる物事の中で私達の器を是正した上で愛に到達します。

From the Preparation to the Daily Kabbalah Lesson 4/3/13

もっと互いを妬みなさい

質問:私たちの尽力の量と質は、友達の妬み(嫉妬・羨望)によって決まると言えますか?

答え:はい、そうです。それはあなたの妬みによっても決まります。それ(ピルケイ・アヴォット 4:21)は「妬み、渇望、名誉は人をこの世の外へ連れていく」と伝えます。

私たちは、これらの性質の非常に良い点とは何か、人間の形態を失うことよりも悪くて避難されるべきことがあろうかと自問するかもしれません。妬む人は、他者を傷つけ、また、他者にひどい仕打ちをして滅ぼすことを楽しむことがあります。

要するに、私たちは否定的な性質について話しています。しかし実際は、それらが人をこの世から上層世界へと連れていってくれるものなのです。結局のところ、それらが本当のエゴを私に示してくれるのです。

もし私が、妬み、渇望、そして尊敬されたいという欲求を感じないなら、どうやって私はそれ以外の方法で他者とのつながりを築くことができるでしょうか? もし私にそのような性質がないとするなら、私には何も必要なくなります。私は郊外のどこかに住み、自分の基本的生活必需品をそろえるためにたまに買い物やお使いに行って家に帰るといった生活ができます。

しかし、突然、私はこの平穏な生活の中で自分が他者に嫉妬していることを知ります。彼らの持っているのと同じものを獲得したい、そして、彼らよりも上位者に思われるためにさらにもっと多くのことを達成したいと思います。そして私は都会に住むために引越し「職業生活」のスタートを切るのです・・・。

自分自身の悪い性質を明らかにすることなしに前進することは不可能です。私たちはただそれらが「反する手助け」であると理解すべきです。私たちはそれらが現れるのを妨げるべきではなく、むしろ許すべきなのです。「私は悪の啓示に満足している」とバール・ハスラムが言うように。

質問:どうすれば友達が妬ましいと感じることと、自分ではなく友達のために要求することを両立できますか?

答え:友達を妬むことは自分の前進を促すものです。しかし、何に向かって前進するのでしょうか? “授与・与えること”に向かって前進するのです。私は[この世における]物質的なレベルで彼らよりも大きな業績に達するつもりではありません。私はスピリチュアルなレベルで成功したいのです。スピリチュアリティのなかでの成功とは、どれくらい自分の「自己」を無にするかによって決まります。前進したい時に私は妬みと渇望と尊敬されたいという欲求によって友達から受け取ったすべてを組織化します。そしてその後で、私はスピリチュアルな前進が、実際は私自身を越えることであると理解し始めます。

したがって、私は上昇したいという欲求を友達から受け取ります。しかし私はそれを正しく解釈しません:上昇することとは、私自身の上に上がり、友達と一体化することを意味します。したがって、グループとは「反する手助け」なのです。グループは私の中にネガティブな覚醒(目覚め・気づき)を呼び起こします。そして私はいつか友達とのつながりに回帰するために、それをポジティブに変化させるのです。

ここで私は再び問題を抱えます。欲求が再び大きくなるのです。そしてこの全プロセスが繰り返されます・・・。

質問:どのように妬み、渇望、そして名誉に対する欲求を正しい方向に向けることができますか?  結局のところ、正しい目標を目指すことにおいて自分自身を正当化することはとても簡単であり、最終的に途中で暗闇と歪曲に陥ります。どうすれば先生とグループと書物に加えて、正しい方向に向かわせる内面の境界を作り上げることができますか?

答え:あなたは友達の目の前で自分自身を無にしなくてはなりません。その結果、あなたは妬み、渇望、そして尊敬に対する欲求を自分の内部に呼び起こします。あなたは目を開き、物事を調査し出し、それらをただ継続させることをしなくなります。

さもなければ、いつの間にか[この世における]物質的な妬み、渇望、そして尊敬に対する欲求に陥ります。違う存在でありたい、友達より上に上がりたいと思うのです。しかし、グループはあなたをこうしたことに陥らせないように作られています。どんな場合でもあなたは変わります。なぜならグループ内の雰囲気は特別であり、人々が内なる探求に取り組んでいるからです。したがって、友達に対するあなたの態度が徐々により正しい形態を帯びるようになります。したがって、グループ内の新しい友達でさえ正しい方向を受け取り、通常の自分に向けられた利益ではなく、真実を熱望します。

質問:しかし、友達の各自には前進するための最適な条件が与えられています。よって妬むものなどありえないのでは?

答え:私は自分の中に彼らを含ませたいのです。彼らの各自には特別な何かがあります。そうでないなら、その人はここに居なかったでしょう。だから私も同じものがほしいのです。これは私がアダム(人間)に成りたいことを意味します。

最適な条件とは、リラックスするための理由ではなく、むしろすべてのものから、すべての状態および友達から善を取り出すための理由なのです。

 

最終結果を見る

バール・ハスラム、『Introduction to the Book of Zohar(ゾハールの書の序章)』項目4:これらの質問と疑問を理解するために、その唯一の戦術は行為の終わり、すなわち創造の目的を調べることである。唯一その終わりで以外に、プロセスの途中で理解されることは何もないためである。

これはルールです、行為の終わり(結末)をよく見ることだけによって、すべての詳細、様相、すべての理由、そして、プロセス全体が理解できます。その理由は、唯一その終わりで、あらゆる詳細がどれぐらい重要であって、どの程度これらすべての詳細がこの順序で次々とアレンジされなくてはならないのかが明確になるからです。唯一その終わりで、すべてが完全だと分かります。すべての詳細が正しくアレンジされる時にだけ、完全なる終わりが可能なのです。しかし、私たちが道の途中にいるのなら、どのように終わりに達するのでしょうか?

そして、目的(意図)のない行為がないことは明白である。今日、この事を近代科学で見ます。近代科学では確かにすべては因果関係と絶対的法則に従って動きます。少なくとも自然の中の静物レベル、植物レベル、動物レベルにおいて、私は偉大な知恵、論理、常識を発見します。そこには余計なものはなく、すべては、あらゆる小さな詳細がその他すべての無数の詳細に連結できるようにアレンジされています。だから私は「スピーキング」レベルに関して結論に達することができます:私がその中に見る堕落は、私の堕落した個人的な知覚から生じていて、それが私に「スピーキング」レベルにも存在する素晴らしい秩序を見させなくしていて、それどころか、真実と逆の様相や光景を私に見せているということです。人間社会の中で堕落や大混乱を実際に見ますが、それは私たちがそれを生じさせているからです。

もちろん、この現象に対する他の説明もあり得ます:クリエーターは善良で慈悲深い、彼はすべてを包含していてすべてを行う、しかし、彼は彼の創造物を見捨てたと言うことができます。バール・ハスラムは彼の記事『The Peace(平和)』のなかで、このアプローチについての様々な検証を提示します。しかし、私がすでに人生で目にするものに反応して異なるアプローチを使うならば、最終結果を見るほうが望ましいということをよりよく理解します。私たちの研究における経験から、自然が一定のゴールに向かって発達することが分かります。だからバール・ハスラムは、唯一最終結果を見ること以外に、中間(途中)で理解できることが何もないため、最初に創造のゴールに目を向けるべきだと言うのです。

私は、クリエーターがすべての現実を創造してその後にそれを放っておいたと言って、トーラーとミツヴォット(ミツワーの複数形)の重荷を背中の上に投げる者たちがいることを知っている。ここでバール・ハスラムは、すべてが人間のために創造されたこと、人間が創造物の中心に位置していること、そして、この地点からしか私たちが正しく成長できないことを信じない人々について言及しています。すべては私のために創造された-私たちの世界全体とすべての諸世界-そして、私はこのことを受け入れなくてはなりません。それを明らかにしないといけません。状況を制しなくてはならないのです。「私のため」とは、私がそれを是正でき、それを利用することができるということを意味します。この利用のことは「ミツヴォットを尊守する」と呼ばれ、“改善する光”または“トーラー”の助けを借りて行います。こうして私たちは創造のゴールに達するのです。

確かに、彼らが話した知識なしに、私たちが私たちの堕落した極めて不快な性質の全部で私たち自身を創造したと決める前に、私たちの低さ(卑しさ)と無価値についてコメントすることは不可能であるため。私たちが完全でないことは明白です。しかし、どういうふうに世界の中のすべてのものが徐々にその完全性をあらわにすることを目にしないなら、世界が低いと決めることは不可能です。

問題は:もしクリエーターが完全なら、最初から完璧なやり方で進化を創造したのではないのかということです。 しかし、そんなことはあり得ません。創造された存在の中にも現実がなくてはならないためです。この現実はクリエーターと正反対です。従って、それは二つの反対の部分が組み込まれなくてはなりません:クリエーターの性質と創造された存在の性質です。その二つの性質は創造物の中で成長し、その内部でお互いに向かい合います。それはその二つの性質の中間にあり、それ自身を二つの力から作り上げます:授与の力と受け取りの力です。

この意味は、もしゴールが分からないなら、当然創造を正当化できるようにはならなく、以下のような様々な正当化の理由を見つけるということです:完全であるクリエーターは私たちに失望している、私たちを置き去りにした、彼の完全性の中のどこかで見つかる。他の意見には、クリエーターは善の力と悪の力これら二つの力の中にはまったく見つからない、または、多くの善の力と多くの悪の力があるなどがあります。

どちらにせよ、人がトーラーを受け取らない限り、起きていることを正当化することは明らかに不可能です。「トーラーを受け取らない限り」の意味は、その人が堕落したシステムの中にいて、それがそうであるのは、その人がその部分になるため、そして、毎回システムを稼働させることをさらに目指すということへ自分自身を引き寄せながら光によってそれを是正するためということを理解している状態に到達しない限りということです。その後にその人は、すべてが自分のために創造されたことと、最初にそのシステムを是正することなしに、より正確には、それをインストールすることなしに、クリエーターのレベルに到達することが不可能だと悟ります。子供たちがおもちゃを集めておもちゃを組み立てるといったゲームを通じて自分自身を作り上げるのと同じように、私たちの作業においても、つまりパーツを接続する(つなげる)ことにおいても、それは同じです。だから私たちはゴールを理解するために、つながり、ユニティ、そして相互保証のゲームをしなくてはならないのです。