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他者のために求める

質問:私の人生で最も重要なものとして何を識別しないといけませんか? 最初は何に注目すべきですか?

答え:あなたの注目すべき唯一のことは、他者のために祈るということです。そのことだけに集中すべきです。人々に1つになることで気持ちよくなってもらうこと(善を感じてもらうこと)です。なぜならクリエーターが人々を善へともたらし、クリエーターがそれを楽しむからです。

質問:私の人生の他の部分の問題はどうなのですか?

答え:あなたの祈りがまだ完全ではないように思われます。クリエーターはあなたにそれを完全なものにしてもらいたいのです。だからクリエーターはあなたをあちこちで「つつき」、あなたを目的地の方に向けるのです。もしあなたが、十分に敏感でない、あるいは無神経、または頑固であるなら、望まれる進路・軌道を与えるために「絵に修正」を加える必要があります。確かに、目的地に向ってさらに先へ前進するほど、是正もより正確であるべきです。だから一歩前進するたび、正確に正しい方向に導くために「突き」がより細かくなるのです。

質問:どうやってそれら(突き)を利用することができますか?

答え:私たちは愛を持ってそれらを受け入れる必要があります。結局のところ、それらは進路に沿ってあなたを導く航海者の指示のようなものです。それらなしで、どうやってなんとか成し遂げることができるのですか? あなたはどこで次に曲がるのか理解していますか、または感じますか? あなたにはこれらの痛い感覚が必要なのです:震え、フラストレーション、そして拒絶。

毎回あなたは友だちを通し、グループを通し、そして世界を通し、それらの助けを借りて目的地を目指して努力します。クリエーターのところへこの器全体を持っていくために、クリエーターだけに向って進路を維持しながら。その器は是正することができ、そのおかげで、その器はクリエーターに喜びをもたらすためという意図だけを持ち、クリエーターの喜びによって完全に満たされます。クリエーターが世界全体を善良さで満たすように世界全体がそれ自身を開きたいと望み、私たちはすべてのものをクリエーターに対する授与へと変化させることができるようになるでしょう。

どうやって私たちはこの授与に向って前進できるのでしょうか? これをどうやって学ぶことが出来るのでしょうか?―不快な物事を乗り越えて。もし現在あなたが自分にとって気持ちよいことをしないようにすることができなく、受け取りたいという欲求(願望)の中における心地よさの度合いを減らすことが出来ないならば、後でどうやって楽しみをやめることが出来ますか? だから私たちは発達の段階を経る必要があるのです。

質問:これが意味することは、楽しいことをやめることがより簡単になるように困難が私に生じるということですか?

答え:まったく違います。私たちはそれら(困難)を何か他のことに利用するのです。それらはあなたの感覚の中に生じます。それらはクリエーターの重要性(偉大さ)に気づいていない欲求(願望)のなかに現れるのです。もしあなたがをそれらの中にクリエーターの重要性を感じていたなら、痛みは感じていなかったでしょう。すべての不快な感覚は、ただクリエーターの重要性の欠如だけを隠します。あなたがクリエーターが重要であると感じれば、すぐにどんな不快感も消えてなくなります。同様に、自分の子供の体の調子がよいならば、母親にとって自分自身の状態は重要ではありません。「愛はすべての罪を覆う」と書き記されているように。

したがって、私たちは友だちのために、そして全世界のために祈らなければならないのです。しかしながら、ただ座って祈ることはできません。私はグループの中で作業して、必要な祈りに達しなければなりません。祈りは自分の全ての行為と全ての努力の結果です。私は自分の出来る唯一の手助けは、他者を唯一の目的地の方向に誘導することだけであると理解して、友だちと社会を助けるのです。

身体的な努力は、最終的に人々とのつながりを築いて、彼らを正しいアプローチを与えるメソッド(方法)に連れて来ることを目的としています。慈善行為それ自体は世界を良い方向へ変えません。そして政府もこのことにおいては無力です。だから私たちは宇宙のシステム(体系)を研究しなければならないのです。そして本当に効果的な手段が唯一1つだけあることを理解しなければなりません。それは人々ために祈るために彼らを結び付けることです。

From the 4th part of the Daily Kabbalah Lesson 1/9/14, Writings of Baal HaSulam

 

 

 

うぬぼれからの脱却

エゴイズムに対する取り組みは基本的にうぬぼれとの闘いです。すべては段階形式に配列されていて、人は自分の本当の位置と行為に気付いていません。エゴイズムは人が見ることを許さず、光の各行為をまるで存在しないかのように人から隠します。したがって、私たちは世界が勝手に回っていて、その管理者または計画者が存在しないと思います。すべては自由に、偶然に、どんな理由も目的も持たずに、ぐるぐる回っていると考えられています。

完全に隠された状態にいることから、人は自分がすべてを自分でしていると思うことに慣れています。環境からの助けを受けること以外に、より強くなって自分自身(自分の利己的な欲望)を少し超越し、外側から起きていることを見る機会はありません。そのあとで自分が実行しなかったこと、そして起きることのすべてに自分の努力や計画や自主性が含まれていなかったことを目にします。

したがって、私たちは絶えず誰が支配するのかをめぐって争っています:私たちのエゴイスティックな欲望、つまりファラオ(パロ)か、それともクリエーターか。この葛藤は、最も小さな境遇と人生に対する全態度に関することの両方で生じています。不純な力(クリパー)と神聖の間の議論はこのことのみに関してです。

不純な力の兆候は、うぬぼれです。すなわち自分自身が自分でどんなこともできると思う時です。実際のところ人には自由に選べることが1つしかありません。それは毎回正しい環境の中に含まれることです。人生において膨大な数の機会があるなかで、1つのことを除けば、行動の自由を与えるものは何もありません:まず第一に正しい環境の中に含まれること、そしてそのあとにそれを通じて、その中に含まれて自分が消えた、環境の活動を続けることです。

これが、うぬぼれ、慢心、そして間違った行為を回避する唯一の方法です。そしてそのあとにグループに加えて、神性にマルフートをつなげるために実際に何かをすることが出来るようになります。また、ただ自分を分析して裁くことは少しも助けになりません。環境の中に含まれることによってのみ、最も小さな行為でさえもスピリチュアルなものになるのです。

From the Preparation for the Daily Kabbalah Lesson 9/27/13

“労働は果てし無い、しかし報酬は大きい”

ラバシの記事『信仰』より:「ラビ・タルフォンは “日は短い、労働は果てしない、精をだして働く者は怠けている、しかし報酬は大きい、そして家の「主」は強要する(ピルケイ・アヴォット 2:20)。”と言っていた。」もし人が、「統治者」がいない首都はないということを信じ、「主」が存在することを確信しているなら、その人は強要されていると感じます。

クリエーターが私たちを目覚めさせない限り、私たちが自力で目覚めることはできません。その理由は私たちが、生命力を少しも持っていない物質からできているからです。よって私たちは創造物と呼ばれます。つまり私たちは上から支配されているということです。クリエーターが私たちを目覚めさせて初めて私たちは、“日は短い、労働は果てしない、精をだして働く者は怠けている、しかし報酬は大きい、そして家の「主」は強要する”ということを目にします。そのあとに私たちは働き始めます。

この時点で私たちの自由意志が“オン”になります。クリエーターは人の手を良い運命の上に置かせ、言います:「受け取りなさい!」言い換えれば、クリエーターの行為が最初なのです。その次に私たちが仕事を継続する番になります。その意味とは、クリエーターが私たちに与えるものを、私たちが受け取るということです。一方と他方、両方に対して努力することを許す構造を日常生活に与えるために、私たちは環境と勉強を整えなければなりません。

普段の仕事量と普及活動に対する責任に関係なく、私たちは決して原文の情報源とのつながりを断つべきではありません。絶えず情報源とのつながりをどうにかして維持する場合に限り、私たちは望ましくて予想された結果に至ります。労働は果てしない、しかし報酬は大きい、従って私たちはそれを受け取るための複数の器を用意しなければならないのです。

この全ては私たちに時間をいくつかに区分することを要求します:通常の生活、勉強、普及活動です。私たちは常にこの3つのこと全てに精を出し、それらのいずれに対しても決して避けたり見過ごすべきではありません。私たちがそれらの1つでさえおろそかにすれば、中間の線(middle line)から離れてしまいます。たとえ私たちがそれらに均等な時間を割り当てないとしても、依然、3つの部分すべての世話をしなければなりません。

私たちはこれらの問題点に個別の注意を払うべきです。とても重要な普及の任務があるときでさえ、勉強することを忘れるべきではありません。ただ普及活動で忙しいというだけで、授業を休むことに対する弁明の余地はありません。それは本当に悪いです。なぜなら「もしあなたが「私」を一日置き去りにするなら、「私」はあなたを二日間放置する」と言われているからです。それは危険です。普及活動の理由で勉強を止めれば、私たちの前進はいずれ損失になるでしょう。

From the preparation to the Daily Kabbalah Lesson 9/10/13

過去を後悔するより悪いことはない

恥と愛は私達の発達の主要な動力です。それらは互いに正反対の同じ力であり、マイナスの無限とプラスの無限に似ています。

もしあなたが自分自身を恥じて過去を後悔するなら、それは不浄な活動、すなわちクリパーです。なぜなら、それはあなたが、クリエーターの他に存在するものはない、という事実に賛同しないことを意味するからです。

クリエーターの他に存在するものはない、とは物事の最終的な結果が「彼」に依存していることを意味するだけではなく、あなたの経験する全ても「彼」が始めから計画していた、ということを意味します。それは、あなたが自分に訪れる全ての状態をどのように通過し、その後どのように後悔するかまでも含みます。

今のあなたは、過去の全てを行ったのは「私」でありクリエーターではないと考えたこと自体を後悔する代わりに、起こったことをただ後悔しています。これは、あなたがクリエーターとの固着状態にないということです。

もしあなたが何か過去を修正したいと望むなら、そのとき、あなたはクリエーターに固着していません。つまり、あなたは「彼」のみが世界を支配していることを受け入れていません。あなたに唯一必要なことは、悪い出来事に対しても良い出来事と同じように感謝することです。そしてあなたが、たとえ一瞬でもこれに対処(感謝)できるようになると、次の瞬間には、あなたはその過去について(自分がクリエーターを除外していたことに)より大きく後悔するようになるでしょう。

私達は最後にはこの恥の属性を調査しなければなりません。私達がこの調査を完了するまで、次の段階へ移行することはありません。人は常に自分自身を責めすぎていますが、これは、その計画、その行為、その行為の結果、そしてあらゆる事柄が、一つの源から来ることを理解することに失敗した結果です。あなたはクリエーターの業(わざ)には同意すべきです。あなたは「彼」があなたに対して行うことの印象を感じるべきです。そうすればこれら全ての経験において、あなたは、利己的な願望の感覚を越えて、「彼」との固着状態に留まることができるでしょう。

From the 1st part of the Daily Kabbalah Lesson 9/11/13, Writings of Baal HaSulam

正しい意図による小さな善行為

質問:私達はどのようにしてクリエーターに満足をもたらすことができますか?

答え:クリエーターに満足をもたらす、とは「彼」を発見することを意味します。これが「彼」に満足をもたらし、また人類全てにも満足をもたらします。クリエーター(創造主)と被造物の満足とは器を満たす光のことです。それは受取りたいという願望が満たされることから来る喜びであり、また、授与の姿勢から来る喜びです。つまり第一段階は物質のレベルであり、第二段階はスピリチュアルなレベルです。これがクリエーターの目標 ―諸々の器を充分に満たすこと― であり、それが創造主と被造物双方に満足をもたらします。そしてその中で、双方はお互いに固着します。

正しい意図があれば、行動は少なくてもよいのです。それは量の問題ではありません。もしあなたがもっと心の準備に時間を掛ける必要があるなら、それは価値あることです。それにより人々はつなげられます。つまり、もしあなたが接触する一定の人々に話をし、影響を与え、スピリチュアルな感覚を運ぶ「内なる光」を伴って正しく事が為されるなら、それは後になって、私達から話を聞いた彼らから、更に彼ら自身が接触する他の人々に広がっていきます。そのようにして、その影響の広がりは全ての人に及びます。人々は自分で自覚することなく、そのように行います。

しかし、もしそれがただの物質的・外面的行為に過ぎないとき、人々は刺激され、声を上げて泣いたり、叫んだりすることが起こるかもしれませんが、それはポップスター(人気歌手)のパフォーマンスに熱狂するファンの群れと同じようなものです。また人々は、例えばトロツキーのような才能ある雄弁家の(共産主義による世界革命のような)スケールの大きい立派な言葉に影響されがちです。しかしこれはいかなる肯定的な結果にも導かず、むしろ破壊へと導くものです。それで、全ての行為の前には心の準備が最も大切なのです。その準備とはクリエーターに満足をもたらす意図のことです。

これが終日、私が考えるべき唯一のことです。どのようにして私の意図を自分の仕事に加えようかと考えることです。なぜならこれが成功の秘訣だからです。

From the Preparation to the Daily Kabbalah Lesson 8/26/13

なぜ今日恐竜はいないのか?

もし私達が、クリエイター(創造主)に授与し「彼」に満足を与えるために、私達の利己的な願望の上に一つの共有されたつながりを造り、自分自身をその中に無化するならば、そしてまた私達が一般の人々との仕事、その仕事の中で私達は、クリエイターが私達を通して彼らに授与できるよう彼らを私達に近づけて、私達を通して彼らをクリエイターに近づけることを望んでいるのですが、そのような仕事のためにこの全て(つながり)を使うならば、そのとき私達は全ての高位の「諸世界」、全体システムを発見するでしょう。それは人間の外側には存在せず、むしろ私達の間にのみ存在します。

そして同時に、自然界の鉱物、植物、動物もまた私達の内側にあることを発見します。突然、私達は自分達の内側にキリン、ライオン、全ての野生動物、あらゆる植物、そして全ての人間たちを発見します。これら全ては私達の属性のただの複製(コピー)です。

かつて昔、私達は今とは異なる他の属性を持っていました。その時には、見たところ世界には恐竜たちが生息していました。しかし今ではその属性は変わってしまい、その恐竜たちは姿を消してしまいました。私達の時代においては、私達の中の属性は急速に変換しつつあり、多くの植物や動物の種が絶滅しかかっているのを目撃しています。世界では毎日150種消えていると言われています。つまりそのような速いペースで私達の「受取りたい願望」は変化し、発達し、進歩しているということです。

私達には、植物や動物のレベルでは何も変化していないように見えます。しかし本質的には自然の中で毎日たいへん大きな変化が起こっています。なぜなら、それら全体は一人の人間の中に包含されているからです。自然それ自体は私達の内的な特質の複製にすぎないのです。

From the 1st part of the Daily Kabbalah Lesson 8/21/13, Writings of Baal HaSulam

民衆の悲しみを感じる人は全て慰めに値する

カバラの知恵の実践面における実現は、私達の世代から始まります。その実現とは、この世でクリエーターが創造物に対して明かされることです。今や私達は全人類と一緒に、是正の完成のため、一つのクリ(器)すなわち一つの欲求を発見しつつあります。これは目下の世界的危機と、イスラエルや世界全体での私達の普及活動のおかげです。たとえもし私達が人々から最も小さな欠乏を受け取るとしても、彼らの欠乏と私達の欠乏の間のつながりのおかげで、私達は一緒になって、これら全てをスピリチュアルな世界へ持ち上げることができます。

人々は物質的なものを欲しがります。単純なことです。しかし彼らの欲求は「是正する光」の助けなしでは是正することが不可能なように造られています。これが現在の危機の形態です。どの欠乏も、その種類に関わらず、砕かれており、利己的であり、この世界の次元には解決法がないことが明らかにされています。

その是正のためには「光」を必要とします。そしてその光は、皆の間の相互包含から引き出されるものであるため、人々の間の様々な方向での正しいつながりが要求されます。さらにそれは自然の鉱物、植物、動物との関係も含んでいます。この全てが一緒につなげられなければなりません。そしてお互いにつながりを完成させねばなりません。それができた時のみ是正が起こります。

それゆえ、今の危機が人間の努力を通じて是正され得ないことは明らかです。むしろ、私達が人々の欠乏を受け入れて、これらを持ち上げるときに、私達は聖なる仕事をしています。つまりそれはクリエーターと創造物の導管役としての奉仕であり、「司祭の王国と聖なる国家」と呼ばれるものになることです。この形において私達は歴史上初めて完全に集合的なクリ(器)を構築する機会を持ちます。それは一つの針の穴であり、また光を入れるためのクリであり、AHPから欠乏を受け取ることを通して、GEの授与する欲求にそれらをつなげ、祈り(MAN)と組み合わせることで、それらをエイン・ソフの光(オール・エイン・ソフ)まで上昇させます。

次のように言われています。「民衆と共に悲しむ人は全て民衆の慰めを受けるに値する。」それはつまり、誰でも民衆の悲しみとニーズを受け取り、それらを持ち上げる人は、真っ先に「是正する光」を受けるに値するということです。そしてその光は彼を通して、彼が気遣う人々に届けられます。

From the Preparation for the Daily Kabbalah Lesson 8/14/13

「金の子牛」を造ってはならない

私達は他者とつながる必要がある、ということを人に納得してもらうことは大変難しいことです。たとえその人が既にカバラを勉強し始めていたとしても同様です。彼はこのつながりへのいかなる願望も必要性も持ちません。反対に、普通の人の方がむしろ隣人や他者に近付くことでしょう。なぜなら結局、生活をより安全なものにするために良好な関係を維持し衝突を避ける方が、彼にとって有利であると感じるからです。

しかし上層の力や世界を発見したい、人生の意味を知りたいという個人的な願望が目覚めた人は大変個人主義的になります。彼は誰ともつながりたいと思いません。というのも本質的な問いは彼の心の内側で見出されると感じるからです。それゆえ彼がつながりについて耳を貸すことは大変困難です。彼にはそれが子供の遊びのように見え、どんな形であれ理解できません。

そのようなわけで、今日私達がこのテーマについて話し始めることに成功したことは、とても喜ばしいことです。私達は最も基本的で重要な点を見出す間際に来ました。もし私達がいつでも常にこの点に気を付けるなら、その後はそれを通して、その中において、つまり私達の間のつながり(コネクション)の中において、万事何もかもが明らかにされるでしょう。

私達のつながりとは言わば黒い点です。その黒い点は、私達がもう一つの世界へ通り抜ける際の障壁であり、「針の穴」であり、それについてクリエーターはこう言っています。「私のために針の穴のような出入り口を開けよ」。一つのハートにつながった後で、一つの願望の中で、私達は一つの点の中につなげられます。私達の点の全てが一つの点の中につなげられ、それが針の穴のような出入り口を造り上げます。もし私達がこの通りに自分自身を準備するのなら、そのとき私達は新しい世界への通路を開きます。そして最も高いレベルが私達に明らかにされるでしょう。それがスピリチュアルな梯子(はしご)の最初のステップです。

このつながりへの必要性がトーラーを受け取るための準備です。上層の力の手助け無しで私達だけでこのつながりを実現できないことは明らかです。そのため私達にできる仕事は、つながりへの必要性を感じて共通の祈りを打ち立てることです。

つながりに到達する必要性を除いて、個人的にも集団的にも私達には他に祈るものを持たないということは論理的な事柄です。つながりを求める祈りがあれば、私達は、私達が必要とする全ての肯定的な結果(成り行き)を見出します。しかしもし私が、私はもっと知らなければならない、私はもっと成功しなければならない、或いはもっと愛することさえしなければならないと自分勝手に決意するなら、それは単に私のプライドを示すものです。必要なのはただつながりだけを求めることです。そしてこれより他のものを求めることは無意味です。これが私達共通の祈りとなります。

あの「多数の祈り」も別ではありません。それもただ統一(ユニティ)についての祈りです。この祈りと私達共通の祈りとの違いはありません。というのも、その結果は正確に各レベルの梯子の位置に従うからです。私達はこの梯子をより高く登らねばなりません。私達はそれらの位置に落ち着くことはありません。むしろ私達はすべての人との間にますます強いつながりを確立しなければならないし、そうすることを決意するのみです。

これは私が見返り報酬を求めないという意味です。必要物は自ずからやってきます。私に必要なものは社会の中で見つけられます。換言すると私達のつながりの中で見つけられます。そして私達はただつながりを探求するのみになります。これはとても単純な真実なのですが、私達のエゴはいつでも新しく頭をもたげてくるので、あらぬ方向へ滑ったり転んだりし続けます。その度に何度も何度も私達は「多数の祈り」へ立ち戻るように自分自身を強制します。そしてその祈りにおいて、私達は一つの要求の中、一つに統合します。

いわゆる「金の子牛」とは、単なる自分のエゴを満足させるための個人の仕事を指すのではありません。トーラーの中ではこれについて全く何も言っていませんが、この「金の子牛」とは、単純につながりを願う気持ちのかわりに、自分自身のために霊的進歩の形態を確立したいという個人的欲求のことです。「心の点」(ポイント・イン・ザ・ハート)は他の全ての心の点と集合しながら、シナイ山頂へ登って行きます。山頂でトーラーを授かるためです。トーラーとは改正する光のことです。そうしてトーラー授与後、山の麓(ふもと)に集っていた全ての願望・欲求達は、皆同じ「心の点」につながって、そのつながりの点の中に消え去っていきます。

しかしこの全てにも関わらず、ある人は自分自身で何かを決意すること、クリエーターへの奉仕において進歩するために自分にとっては絶対必要であると考えるある種の私的な要求を付け加えることに引っ張られます。これが「金の子牛」と呼ばれます。これはこれでとても高い霊的(スピリチュアル)なレベルです。しかし、始めから終わりまで、是正の完成に到達するために私達はどのように道を踏破しなければならないかについて、トーラーで説かれている全体的な方法とは、ただつながりの強さだけによるものであり、その他はありません。

From the 1st part of the Daily Kabbalah Lesson 7/26/13, Writings of Baal HaSulam

喜びは正しい道のパラメーター

バール・ハスラム「シャマティ#58」「喜びは善い行為の反映」より:たとえもし人が、間もなくより低い段階に落ちるだろうことを明らかに見たとしても、彼(クリエーター)は依然として人を人が居る場所で判決を下す。その意味とは、もし人が今、天の王国の重荷を永遠に担おうと決心したならば、それは完全であると見なされるということ。

しかしながら、もし人が天の王国の重荷を引き受けて、その状態がその人の中に永遠に留まることを望まないとすれば、この事とこの行為は完全であるとは見なされない。そしてその当然のこととして、その人の上に上層の光が訪れて休息することはできない。

基本的な問いがあります。私達はそれが永遠か永遠でないかどのように判断するのでしょうか? それは人が何を自分のゴールとして又は未来として見るかによります。

世界には多くの組織があります。多くのグループと社会団体があり、それらは皆その構成メンバーから一定の献身とつながりを要求します。好きなだけ例が挙げられます。株式市場からはじめて、サッカーチーム、軍隊、アルコール依存治療グループ等。どの組織も献身とコミットメント(参加・寄与)を要求します。さもなければ組織が組織として結びついていることが不可能だからです。

しかし、スピリチュアルな状態を獲得することも、それとは別ではありません。メンバー相互のつながり無しにゴールを達成することは不可能であり、私達の間のつながりの中においてのみ本当に獲得できるものであることを理解するならば、それは献身を要求するものです。クリエーター(創造主)とは、私達が相互に授与する関係を達成するための努力から構築されるイメージのことです。それでここでいう献身とは、同じ物、同じ仕事、同じ喜びを求める熱望、そしてそのように魂を作り上げる努力のことです。このような理由で、これは自己犠牲とも呼ばれます。

それで私は今や、自分の受け取りたい欲求の中で手に入れた全て、私に元気を与え、存在感を与えてくれる全ての充実、全てのエネルギー、全ての喜び、全ての努力、全ての希望を、グループの集合的貯金箱に与えます。誰もがこれをするとき、私達はその集合的努力によって、その中にクリエーターが顕現するような集合的インフラを構築します。それは「イスラエル、トーラー、クリエーターは一つ」と言われるところのつながりによるものです。

グループに関する私はイスラエルに関する私であり、そして私達はひとつの「イスラエル」として、私達の間つまり私達の全体的授与力の中にクリエーターを見出そうと向きを変えます。全ての物事をひとつの全体の中につなげることによりそれは為されます。そのため集合的努力が要求されます。そして、私達はこの努力が正しいかどうかを私達の喜びのレベルにより測ることができます。正しい道に従いながら喜びを感じないでいることは不可能です。そうでなければ私は自分自身を、共に創りあげようとしているこの全体的でスピリチュアルな器に捧げることなどできないでしょう。

だから喜びは善い行為の主要なパラメーターです。鏡のようなものです。私達は霊的上昇、目覚め、エネルギー、力、喜び、唯一性そして祝福を感じるためには、これに取り組まねばなりません。これらの感覚は、それによって私達の内的行為の速度を想像できる外的なサインです。もし私達の行為が正しければ、それは私達の中に、高揚、楽しさ、希望、結束感などを喚起するのです。

しかし、もし私達がつながりにおいて正しい行為に至らなければ、それに応じて、これら喜びや高揚など全ての感情を欠くことになるでしょう。喜びがあるかどうかチェックすることはとても簡単です。人間は喜ぶと同時に叫んだりわめいたりすることはできません。あなたはあなたの存在全体の中に喜びを感じなければなりません。「全ての私の骨が教えるまでに」と言われているように。

From the 1st part of the Daily Kabbalah Lesson 6/20/13, Shamati #58

ゾハールを理解する鍵

もし私達がゾハールの書を理解したいなら、私達の間の関係をイメージしなければなりません。つまり私達の行為と努力に従って、どのようにつながりの強度が高まったり弱まったりするかということです。
私達を一緒に結びつけるネットワークについて、TES(タルムード・エセル・セフィロート)の中に詳細に記述されています。ケテル、ホフマー、ビナー、ゼイール・アンピンそしてマルフート。またはアティックのパルツフィーム、ケテルであるアリフ・アンピン、アッバとイマそれはホフマーとビナーです。そしてゾーン、それはゼイール・アンピンとマルフートです。

私達はこのネットワークによりつながっています。このネットワークが明らかになればなるほど、私達はより高く昇ります。明らかになることが少なければ少ないほど、私達は下降します。このように私達は(世界を)操作しています。

それで、私達の仕事の全ては、私達がその中に存在している、この10のセフィロートとの可能な限り強いつながりを喚起することです。そのとき、一人一人が自分自身を、これら10セフィロート全てを操作するマルフートとして見るでしょう。それは各セフィロート全てが最終的な形、エイン・ソーフ(無限)世界における形を採るまで続きます。

それで、TESと、特にゾハールの書は、私達に次のことを見させるために書かれました。それは私達が上層システムのマルフートの中にいるということです。その地点から、私達はシステム全体を呼び起こすことを望みます。

私達は一つのネットワークの部分であり、このネットワークに刺激を与えなければなりません。そうすると各自が印象を受けて他者を感じるようになるでしょう。それと同時に、このシステム全体の操作方法を調査し理解することもできるようになるでしょう。

From the 4th part of the Daily Kabbalah Lesson 6/02/13, “The Book of Zohar, Introduction”