Entries in the '内面的作業' Category

新年前の畏れの日々

人がスピリチュアリティに目覚めさせられた後、以後の上昇は(その人の)欠乏に依存します。これが彼がなすべく要求される唯一のことです。すなわち、MANと呼ばれる祈り、欠乏を持つことです。

これは、人がそのような切望を受け取ったことに感謝するときのみ可能です。それ後で彼は自分自身でゴールの重要性を強めます。つまり次のレベルの重要性です。加えていえば、何よりも彼が、自分の中にもう一つ別の欠乏を発達させ、自分自身のためではなくクリエイターに満足をもたらすために上昇しようとするなら、それは可能です。それはホスト(主人)を喜ばせようとするゲスト(客)の有名な例に似ています。

このようにして、彼は上層からの助けを受け取れるように自分を準備します。そしてその助けが彼の欲求を正しいものに作り上げるでしょう。たとえ人が、どれほど私達の取引が実際エゴイスティックなものかを理解していなくても違いはなく、しばらくはそれでも十分です。あとから彼は、彼の取引がクリーンではないことを知るでしょう。こういうわけで、この準備の時期はロー・リシマ(彼女のためではない)と呼ばれます。

それは自然なエゴイスティックな取引であり、私達のエゴを一度に全てスキップすることは不可能です。それは私達が努力できる程度により、そして、どの程度(自分の習性に)反対して仕事ができるかにより、徐々に開いていくものです。(その仕事は)私達が通常喜びを見つけるものとは反するものであり、私達の習慣に反するものであり、そして私達が他者とつながるために、自分のプライドを踏みつける準備ができている程度によるものです。

このすべては単純ではありません。しかし、もし人がそれに常に注意を払い続けるのなら、彼は前進します。私達の問題は、誰もが自分のコーナー(片隅)に逃げて隠れようとすることです。いわゆる「勉強」の背後に隠れ、何が書かれているのか知りたいという欲望の背後に隠れます。しかし、それはスピリチュアルな前進とも、内的な是正・修正とも関係がありません。人は、頭脳を乾いた事実で満たし、心の中の作業は無視します。

心の中の作業とは、その心に反して作業をすることです。「石の心」を「肉の心」に換えるためです。しかし私達は主な努力を置くべき場所を忘れています。誰もが何らかの快適なスポットを見つけ、自分の道を見つけたと考えます。このようにして彼はロー・リシマからさえ落ちます。なぜならロー・リシマとは、自分のエゴの範囲内にも関わらず、依然として上に登るための何らかの努力をしているときのことだからです。

他者とつながり、他者の要望を認め、自分自身を踏みつけ、自分の「セルフ」を無にし、グループの意見の重要性を受け入れ、その使命の奴隷となるような、日々の仕事はどこにあるのでしょうか? 私は自分自身を調査し、私がいる状態を見ることができるでしょうか? これがロー・リシマと呼ばれます。

エジプトでのモーセの仕事の全ては、ロー・リシマにおける仕事の例です。彼は奴隷状態から逃れたいと思いましたが、恐れていました。なぜなら彼は、自分がファラオ(つまりエゴ)の支配下におり、彼にどう話をすればよいか分からないことを、理解していたからです。そしてそこから、クリエイター自身がモーセをつかみ、ファラオのもとに連れていき、モーセがする全てのことにおいて彼を助ける状態に至ります。

クリエイター自身がファラオと戦います。彼は言います。「ファラオのもとへ来なさい!」しかししばらくの間、人は恐れます。彼は、エゴが全体的に彼を支配しており、その前に立つとき彼がいかに弱いかを知っています。彼は恒常的なジレンマの中にいます。一方では、彼は準備ができており、他方では、準備ができていません。もし彼が少なくとも、クリエイターに彼の前に行くようにお願いすることができたなら、そして、ちょうどクリエイターの背後に隠れ、そのようにしてファラオの前に立つことができたなら、と思います。しかし彼は実際には行くことは望まず、彼のエゴだけでなく、「イスラエルの国家」と呼ばれる自分自身の属性にも、立ち向かうガッツを持ちません。

しかし、自分をファラオやクリエイターや国家につなげる、ひとつのシステムの中に入ることによって、彼はこれら全てのつながりを明らかにしなければなりません。彼は何らかの理論の背後に隠れることも、ただの手段である何らかの仕事の背後に隠れることもできません。ロー・リシマが何を意味するか明らかにすることはとても重要です。

人がリシマ(彼女のため)の状態に入るとき、物事はより明白になり、より疑う余地のないものになります。物事がより易しくなると言うことはできませんが、人はその体験から利益を得ます。しかし当面の間、つまり準備期間の間は、人は彼の最後の日まで、座る用意のできた片隅に身を避けます。もしグループが彼を駆り立てず案内しないなら、それは大きな問題です。彼は、彼ら(グループ)が言うことを聞くために、彼らよりも低いと感じなければなりません。

助けがないという感じが一方にあり、他方には前進する必要性があります。この状態をヤミーム・ノライーム(畏れの日々)と呼びます。人は不安な状態にあります。というのも彼はクリエイターの欲求を満たすことができず、創造主が全ての創造物に顕現させることができず、創造主と創造物の収束(コンバージェンス)のために自分自身を捧げることができない、という恐れを持つからです。

このすべてが彼の中に畏れを呼び起こします。それで、この期間が彼にとっての新年の始まりと呼ばれるように、彼はこの段階を実際に実現したいと願います。

From the Preparation to the Daily Kabbalah Lesson 9/14/12

嫉妬は欠点ではない

質問:カバリストは嫉妬を、人がこの世界から脱出してスピリチュアルな世界に入ることを助ける性質のものとしています。本当に、なぜ私は他者を妬むべきなのですか? 結局、誰もが特別で誰もがその人独自の道をたどっています。なぜ他の人のユニークさ(唯一性)が私を嫉妬させ、私の道において私を力づけるべきなのですか?

答え:私は、嫉妬や肉体的欲望や尊敬への欲求を、目的を持って自分の内に呼び起こします。それは他者の成功を妬んだり尊敬を追い求めるような、普通の人についてのことではありません。この世界では私達はあらゆる種類のナンセンスに嫉妬し、つまらない物を本当に欲しています。私は、その反対に、生活に必要なものだけを手に入れ、残り全ては無視します。私が全ての基本的必要物を持っているとき、私はスピリチュアルな仕事のために自分を構築し、このフレームワークの中で私は嫉妬のような道具を使います。

もしそうでなければ、私は前進のための何ものも持たないでしょう。嫉妬、肉体的欲望、尊敬は3つのエゴイスティック・アプローチです。そして私の内にそれらなしで、私に何の仕事ができるでしょうか? この世界から私を連れ出すのは、これらの3つの特質なのです。それはBYA世界を脱してアツィルート世界に入るようなものです。

それで、もし私がスピリチュアルな仕事をしたいと思うなら、私は他人の仕事を見て、彼らの前に自分を無にします。それから私は、彼らを私達の世代の最も偉大な人々として見ます。彼らは、はるか先まで進んでおり、彼らは(すでに)是正の終わりを達成しており、そして私は彼らを妬みます。もし私が妬まないなら、私に力はなく、動くことができません。私は前進するためのすべての力を自分のエゴから受け取ります。正しい意図を伴う正しい前進、それは物質の中に包まれた形態が光によって私の元にもたらされることを意味します。そしてその物質によって私は上昇するのですが、その物質自体とは私自身のエゴのことです。

質問:しかし、どのようにして私は正しい意図を嫉妬から守ることができますか?

答え:それは、その意図が築かれる、嫉妬、肉体的欲望、そして尊敬への欲求によります。あなたはその嫉妬をクリエイターへの嫉妬に転換し、尊敬への欲求をクリエイターのための尊敬に転換し、衝動への肉体的欲求を彼(クリエイター)への密着に転換します。そうでなければ、あなたは何を是正するのですか? あなたは何を建てるのですか、雲の中に空想的なお城ですか?

質問:しかし依然、私が嫉妬すると、その(嫉妬の)火が私を焼き尽くします。

答え:そうではありません。あなたは制限の後に、嫉妬、肉欲、尊敬欲求が起こるのを許すのです。その制限とは、もはやあなたのためではなく、理解し「作業場」を決めるためです。全てがコントロール下になければなりません。そうでなければ、あなたは始めることさえすべきではありません。

手短に言えば、やってみなさい。嫉妬に陥ることを恐れてはなりません。それに取り組み始めなさい。もしあなたが友達を嫉妬するなら幸運なことです。それは良いことです。結局、私達は前進のための他の力を持っていません。もし私が環境なしに一人だけで生きるのなら、私は一匹の動物のようなものでしょう。他方、もし社会が、私に欠けているものを友達が持っていることを、私に常に見せつけ続けることによって、私を駆り立て刺激するなら、それは人生において私の前進を助けます。私はまさに、私に良い例を提供し私が嫉妬するような、特別な環境を必要としているのです。

From the 4th part of the Daily Kabbalah Lesson 9/12/12, “Peace in the World”

620倍に拡大する顕微鏡下の自分の悪意

全ての出来事が人に明かされる理由は、その人の不完全な知覚、まだ是正されていない感覚のせいです。世界はその人の知覚と理解に従って不完全なものとして描かれます。しかし我々は、この不完全状態(欠陥)が外の世界にあるのではなく、自分たち自身の中にあると理解すべきです。

現在の世界危機は我々の周囲ではなく、我々の知覚の中だけにおいて生じます。しかし我々が自分たち自身を是正すれば、途端に外の問題の全ては消えて無くなります。その理由は、世界がそれ自体で存在しているのではなく、我々の感覚の中においてのみ存在しているためです。世界は我々の内側にあるのです。我々が私たち自身の性質を是正すればすぐに全ての災害や問題、あらしや危機は消えて無くなります。この何1つも存在していません。上層の光は単に現実の全てを満たしているだけなのです…。

真実と偽りの違いは、人の内側だけにあります。最初は与えられたすべての打撃(不慮の災害・不意の衝撃)を明確にすることにより、その人はそれらに目的と理由があると理解すべきです。その理由を意味する「わたしは初めである」、そしてその目的を意味する「わたしは終わりである」と記されているように。これらの打撃は、自分自身を是正することを可能にし、現実に対する自分の知覚が正しくないことを悟らせるためにやってくるのです。

それは「協力者・仲間」のように働きます。この悪(不正)が人の中に残ったとしたら、それがその人によって明らかにされることが決してないからです。しかし、悪が外側で明かされる理由から、あたかもそれがその人に反しているようであり、その結果その人がそれを認識することができるのです。我々のエゴは、この悪を最も目立つ形で他人の中に見る能力を与えることにより、この悪を何倍も拡大して見せるのです。

我々は自分たちの悪をまるで虫眼鏡を通すかのように620倍も拡大して見ています。これが悪を明らかにすることを手助けし、それを「協力者・仲間」と呼ぶのです。

私はこの悪を他人の中で明らかにします。しかしそれは反対であって、自分の中にあり、それゆえに自分自身を是正できると私は理解します。人は正しい知覚を有しているのか常に自分自身をチェックしなくてはなりません:その人はすぐに外側に見えるすべての悪をひっくり返し、自分自身の中でその悪を見て、是正しなくてはならないのです。

したがって私が自分自身の外側にあるものと自分を同一視するとき、この特質が自分にとって良いと分かります。私はそれを受け入れ、自分自身を是正することによってその中に参加しています。そのおかげで、私は自分自身をグループ、他者、そしてクリエーターに照らし合わせてチェックできるのです。

外側の現実を知覚することは、内観して自分の中にある悪を見つけることと、破壊されたのは世界ではなく自分であると理解することに役立つということが判明します。このようにして自分の悪が明かされるからです。私は自分自身を是正することによって全世界を是正するのです。このことを「自分自身と全世界を価値のある天秤の皿の方へ判決すること」と呼びます。

我々がこのことを理解し消化できるようになることを願いましょう。この実態に気付いて、この正しくて健全なアプローチを世界全体、全ての人々に伝えれるように。それなら、人間の是正によってすべての問題を解決することができます。最初の難しさは、自分のアプローチを変えることです。我々は、世界を是正する代わりに、自分たち自身を是正すべきだと理解すべきなのです。

カバラの知恵によると、我々の周囲に見える全世界は我々の内面的な性質をまるで鏡のように映し出しているということです。しかし、そのことをシンプルにするために我々は人々に、後で世界を正すことができるように最初に自分自身を正すべきだと説明すべきです。その理由は、不正な人は不正な世界を築き、正された人は正された世界を築くためです。

From the 1st part of the Daily Kabbalah Lesson 8/2/12, Writings of Baal HaSulam

クリエイターとタンゴを踊る

私達が達成しなければならない唯一のことは、「彼以外に誰も存在しない」という状態です。これはそれとは反対のことによってのみ、つまり、いわゆる「反対する助け」と呼ばれるものによってのみ達成されます。クリエイターは私達に様々に異なる妨害を送ってきます。それは異なる複数の力から来るように見え、見知らぬもの、クリエイターに反するものであり、偶然のように見えます。その妨害はランダムに見えます。それは不純の力、ファラオ、この世全体のことです。私達はこれら無関係の源が、全ての問題の原因であると考えます。

しかし私達はこの感情を克服し、私達は全ての出来事の中にクリエイターを明らかにしていかなければならない、という考えを常に抱かなければなりません。もし私達が、この世の全ての出来事の中に彼(クリエイター)を見るならば、私達はそれらの出来事の根源と、クリエイターの方法と態度を見始めます。このようにしてクリエイターは、とても秘密的で巧妙な方法で、彼が誰かを私達に示すことで、私達に教えます。

クリエイターは彼自身を隠したり現したり、交互に何度も繰り返しながら、私達と遊んでいます。彼が隠されたとき、私達はこの隠された状態を、この人生では不快な出来事として感じます。しかし私達は、これが単なる人形劇に過ぎず、全ては一人の偉大なディレクターによって運営されていることを発見しなければなりません。リアルに見えるものはただの人形です。自然の鉱物、植物、動物しかり、そしてこの世で生きている人々しかりです。彼らは生きており、自分自身で動くことができ、自由意志を持ち、独立して行動しているように見えます。しかしもし私達が、この世は生命のない包み紙のようなものであり、上層の力だけがそれに生命を与えているものとして見るならば、私達はクリエイターの啓示により近づくことでしょう。

この仕事は単純ではなく、幾多の困難を克服することによってのみ可能です。それを成し遂げるために私達は友人達からの支援、いわゆる相互保証を必要をします。相互保証とは、人がこの仕事を忘れることのないようにし、持続的に人を「彼以外に誰も存在しない」という考えに維持します。

人が弱さや絶望を感じるときは、これらの感情もまたクリエイターから送られてきたことを理解しなければなりません。クリエイターは今彼と遊んでいるのです。人は直ちに彼(クリエイター)との対話を始めなければなりません。そして内的意味を解明し始めなければなりません。それが私達がクリエイターと直接対面する、より率直なやり方です。全てのこれらの努力は結局は人を「涙の門」に連れていきます。これは、彼が多くの他の欲求に支配されているにも関わらず、それらの欲求の中心のどこかで、彼自身に打ち勝ちクリエイターへの愛と畏怖に至らせるひとつの欲求が、一瞬現れることを意味します。クリエイターは実際、彼(クリエイター)を隠している全ての無関係の考えや状況の中で、明らかにされます。

人は、彼にとってはリアルで独立しているように見えても、実際は想像上のものである、全ての人生の形態の中に、クリエイターの力を見るようベストを尽くさなければなりません。そして何故クリエイターがそうしたのか理解するよう努めなくてはなりません。そうするために、彼は今起こっていることを調べ、この全てを発見しなければなりません。結局、クリエイターは、自分が人に明らかにされる、という唯一つの意図を持っています。

これらの努力のお陰で、人は、彼に対するクリエイターの態度の性質について学びます。彼はクリエイターの行為からクリエイターを知ります。クリエイターは隠蔽(concealment :隠すこと, 隠された状態)を通じて隠れます。それはあたかも、どのように人自身もまた自分を隠したり現したりすべきか教えるために、その人と遊んでいるようなことです。クリエイターが明らかにされるときは、人は自分の力によってこの啓示に達したと考えることのないように彼自身を隠さなければなりません。だから彼は自分をマサッフ(スクリーン)で覆わなければなりません。

クリエイターが隠されるとき、人は彼(クリエイター)を発見することをしきりに願わなければなりません。こうしてそれは、お互いに一歩前に出れば、一歩下がるというような相互の仕事になります。それはまるで一緒にタンゴを踊っているかのようです。一旦クリエイター側が動けば、創られた存在側も動く。そのように彼らは隠蔽(隠れた状態)と啓示(明かされた状態)を創造します。彼らはお互いの間に、安定したマサッフを構築します。

人のエゴはそのマサッフの後ろに隠されています。一方、彼、すなわち彼の心の複数の欲求はエゴを越えて昇り、マサッフを越えて昇り、クリエイターの前で明らかにされます。その時、クリエイターもまた同じように、その人の前に明らかにされます。

これが起こる瞬間、「涙の門」は開きます。その後、人はこのゲームを理解し、受け入れ、彼が接触しているクリエイターの大きな重要性を知り、幸せになります。そしてそれからは、人は、それがどれほど困難で、どれほど困惑させるものであっても、人生の全ての出来事を喜んで受け入れることが可能になります。結局、彼がコツコツと全ての努力を積み重ねて、ひとつの大きな総量まで築きあげることができるのも、これらのお陰なのです。

From the Preparation to the Daily Kabbalah Lesson 8/3/12

愛は人生を飾り台無しにもする

私の妻は私の鏡です。結局、私はパートナーを決して見ません。むしろ彼または彼女の中に、私の特質の反映を見ます。例えば、私は中国で受け入れられている美の基準を理解しません。私は真に美しいという評判を持っている女性を見て不思議に思います。私なら彼女を美しいと呼ぶことはないでしょう。私のセンスでは、彼女の顔は丸過ぎ、彼女の眼は狭過ぎ、彼女の髪はストレート過ぎです。私には全て魅力的には見えません。

しかし、かつて私は中国人記者による「ミス・アジア」国際美人コンテストについての記事を読んだ時、そこでは眼が大き過ぎるという理由で、中国ではその女性は勝利できないであろうと書かれていました。私は、私達の美の知覚は何と異なるのだろうと、ただ唖然としました。全く逆なのです。こういうわけで私達はお互いを理解することができません。

当然の結果として、私は目の前の女性を見て、全ての私の美に関するアイデアを彼女に投影します。そして、もし私がそれらの上に上昇しないならば、それは私達の全ての関係に影響するでしょう。私は彼女を、彼女の本当の特質と共に、ありのままに知覚しようとせず、彼女の中に私の特質、私のセンスの反映を見るでしょう。

人がある人物をバイアス無しに見るとき、彼または彼女が美しいかどうか決めることは全く不可能です。どんな母親にでも聞いてみなさい、彼女は自分の子供以上にかわいい子供は世界にはいないと言うでしょう。「愛は全ての罪を覆う」と言われている通りです。

そして反対に、私達のエゴ、憎しみは全ての美を損なうでしょう。私が憎む人物は外観も耐えられないものになります。そして客観的になって、私の基準に従って、彼や彼女が綺麗な顔に見えるということを認める準備ができても、私は別の理由でそれを憎んだりします。

人間だけがそのような態度を示します。動物は美を見ません。動物は、それぞれの他の力を重んじます、生殖能力や、健康な子供を産み、彼らが独り立ちするまで育て上げることです。

しかしながら人間は、美の観念によって台無しにされます。真実は、これは美ではなく私のエゴの実演です。反対側(相手)に提示する特別な条件です。それは物理的肉体の必要最小限の要求を超過しています。

もし私達がお互いを合理的に自然に見たならば、私は自分の前に健康的な力強い女性を見て、結婚しようと思うでしょう。結局、私は彼女が家を良く保つだろうことを見ます。過去において、人々はこの単純な利己的な原理に基いて伴侶を選んだものでした。または社会的立場や富を検討に入れました。人々は美には十分な注意を払いませんでした。しかし単純な実際的な理由、すなわち人生にとって価値あるもの、に基いて伴侶を選択したものでした。

更にしばしば、若い人々ではなく、両親でさえカップルの相手選びや仲人役をしたものでした。これは多くの文化で習慣となっていました。また若い人々は助言を求めて、賢く尊敬されている人物の元へ向かったりしました。そして私達の時代になって、私達は突如、特有なやり方で修正を行うように強いる、歪んだ状況に至っています。

今日私達はお互いを愛しているかどうかだけ考えます。全ての映画はそのような愛についてだけ語ります。以前はそのようなものではありませんでした。私達は100年、200年前人々がどのように生きていたか理解しません。愛や相互の魅力は視界にありませんでした。性的魅力は役割を果たしましたが、それは今日の私達がいう愛の概念で意味するものではありません。それはまさにごく最近に発達してきたものであり、私達の人生全体を台無しにしました。それゆえ、もし私達がそれを正しく使用し、「愛で全ての罪を覆う」のならば、そしてもし私達が、他者を愛したり憎んだりする衝動を特定の方法で扱うならば、私達は成功するでしょう。

From a “Talk on Integral Upbringing” 7/31/2012 

無関心との闘い

質問:努力としてみなされるものは何ですか?

答え:主な努力は、無関心に、軽視に、そして、授与の重要性に欠ける気持ちに対抗する作業にあります。主な、そして、永久的な闘いは、授与に対する敬意の欠如に対して仕掛けられるべきです。そのことにおいて我々は、常に我々をより強くするものを探さなければなりません。

From the 1st part of the Daily Kabbalah Lesson 7/12/12, Writings of Rabash

我々の世界の目的とは何か

我々が発達し終わった時に、我々は完全な充足と共に、限りのない受け取りの状態、そして、善と永遠と完璧さと力を限りなく明らかにする状態に達しなければなりません。これがこれから先に我々を待ち受けているいるものです。しかし、それには、クリエーターが我々に向けて示す意図と同一な意図を我々がクリエーターに向けて示すために受け取り始めるという条件があります。

我々の世界(クリエーターが隠されている状態)が創造された目的とは、我々が、これらの状況下で、与えられた環境と共に、我々を受け取り(盗み、悪意、対抗意識、ねたみ、憎しみ)から、授与と愛の感覚、そして、自分自身を超越するという感覚へと転換させる、人間間の交流スキルを発達しようと努力するためです。

人が自分自身を本当に超越するなら、人は自分の周りの世界を満たす光・この世に存在しているクリエーター・全体の光・愛と授与の総体的特質を知覚し始めます。そして、その人は自身の動物的な体から分離し、この広大で終わりのない、愛と善に満たされている状態の雰囲気(空気)の中に単に「浮かび漂う」のです。

これが次なる状態であり、我々はその状態へと上昇しなくてはなりません。これは決して我々の世界を破壊しません。我々はそこに徐々に入り、我々の世界と共にそれを感じ、感覚に於いて次の段階(度合い・程度)へと変化します。

From the Sunday Virtual Lesson Series 11/6/2011

私よりも達成して!

質問: 誰もが自分自身を超えることができるよう、どのようにして私達はこのコンベンションで互いに助け合うことができますか?

答え: まず第一に、もし自分が自分自身を超えることについて考えているのならば、私はそうして他者を助けています。 自分の個人的な「ボートの底の穴」を「ふさぐ」ことで十分なのです。これが1つ目。

第二に、もし自分が他者について考え、彼らのことを気にかけるならば、私は彼らを助けます。第三に、自分の他者に対する心配は、友人たちが多くの障害に立ち向かって、多大な努力、時間、力、そしてお金を費やしたことを見て、彼らのほうが私よりもスピリチュアルな達成にふさわしいので、自分の努力が彼らのスピリチュアルな達成に貢献するような状態に達したいと思うという事実で表現されます。

彼らが正しい意図(真の欲求、私達の繋がり)から離れないことを、私は心配します。私は自分の欲求の中でとても心配しているので、彼らは「落下」しません。それだけについて考えてください。

この心配は私達の状態で実行できる最高の保護(防御)であり、それは誰一人として私達の間のこの相互保証を止めないことを確実とし、私達は常に私達自身のエゴを超越します。自分のすべての子供たちを大切に思う母親のように、自分の友人たちのことだけを考える気持ちを失わないよう、全員が警戒すべきです。

From Lesson 1, Arvut Convention at the Arava Desert 11/18/2011

今日の明快な事実

我々は、1つの明快な事実を理解しなければなりません。それは、現代の世界における我々の成功とは我々の正しい相互連結(相互接続)にかかっているということです。これは、全体的な危機によって我々に示されます。危機は、我々にメッセージを送っています:「あなたは、やることすべてにおいて成功を成し遂げたいと思っていますね? しかしながら、周りを見てみてください:あなたが今日までしたすべてのことが危機に瀕しています。今日この日から、我々が完全にそろった世界的なシステムと一致しない限り、何をしても成功することができないことは、あなたにとって明白であるに違いないでしょう。」

この一致のことを、相互的な保証と呼ぶのです!成功することと、何か良いものを生産することは、あなたが世界的なネットワークに適正に参加することにかかっており、これは相互保証なしでは不可能なことであると分かるようにならなくてはなりません。それができたなら、成功します。それができなければ、ただ時間を無駄にして、今の自分自身の状況をさらに悪化させるだけです。

成功を収めることは難しくありません。誰もが相互保証が何であるかを感じることができ、誰もが暖かくて愛情深い本当の家族を想像することができます。

それでもなお、相互保証を学ばなくてはなりません。最終的にすべての人は、カバラに対する意見を変えなければなりません。カバラはより崇高な知恵であり、自分自身が魂の是正に従事していると理解しなくてはならないのです。我々はカバラに関する恐れを払拭しなければならなく、この知恵が非常に自然的なことであると理解しなければなりません。その中で、我々は人間社会の中に存在する活性力について学びます。この力を知っておかなければ我々は単に存在できなくなります。

誰がこの事実に反論できるのでしょうか?結局のところ、この力を明かさない限り、我々は我々自身を維持することができなくなります。カバラのことを「この世のものとは思えない科学」だと思っている人は少なくありませんが、実際はカバラほど我々にとって身近なものはありません。

From the Daily Kabbalah Lesson 9/2/2011, Rabash’s article

猛犬に注意!

質問:私は他者に憎しみを感じながら、まるで自分より強い「動物」が自分の内側に隠れているように感じます。どうやってそれを支配する力を得ることができますか?

答え:エゴを支配する力の獲得は、一つの条件下においてのみ可能です:自分たちをコントロールするその「動物」のせいで失うものが、どれほど多いのか分かったとしたらという条件です。私達は自分たちのエゴによって支配されており、それは良くて優しい世界における永遠で完ぺきな人生を、私達に達成させません。

もし私が自分のエゴが自分からどれほど盗み、そして、自分からどれほど取り、自分に何も与えないことが分かったとしたなら、私はそれを憎むでしょう。しかし私はそれを嫌ってもいないし、愛してさえいるのです。私は自分をそれと同一視します。なぜなら実際に自分の全人生はそれを満たすことであるからです。どのようにして私は自分のエゴを自分の死であると感じることができるのでしょうか。

私にできる最も重要なことは、スピリチュアリティに対する重要性、つまり与えることと他者との一体化の重要性を高めてもらうために、グループ・環境に入ることです。なぜなら特にこのおかげで人間レベルの人生を明らかにするからです。もし私が環境から印象付けられ、環境が自分に影響を及ぼすことができるのなら、私は自分のエゴに打ち勝つために十分な力を獲得します。

私達の作業と努力のすべては、悪(私達の利己的な願望)の認識に達するために欠かせません。現在それは自分にとって有益に見えます:望めば望むほど、より多く稼げ、ますます権力を獲得し、もっと盗める。もっと、もっと、もっと・・・。私達の社会の中で大きなエゴを持っている者たちは、より成功しているように見えるのです。

この世の中で良い人生を手に入れることは、スピリチュアルな美しい人生を自身から奪い、ここ、この世界の中で良い人生を描いて私に嘘をつくのだと、自分自身に言い聞かせないといけません。これは、私を本当の意味で洗脳し、私に影響を及ぼし、私を説得することのできる環境の中でのみ可能なことです。環境の考えが私に強い影響を与えるため、私は自分のエゴイズムの力を超越したくなります。

その後、今まで感じたことのなかった異なるレベルで人生を経験し始めるでしょう。それは一瞬にして起きます。つまり移り変わりがないという意味です。私が絶えず自分自身をできる限り満たしたかったとき、私は自分の中ではなく自分の外側に人生が存在しているとすぐに感じます。それどころか、私は何も吸収することのできないこの“動物”から脱出するときに人生を感じるのです。

この第一歩を踏み出すことにより私は上層の世界をすぐに明らかにします。“上層の世界”とはいったい何でしょうか。現在私が生きている現実を“この世”と呼びます。私が自分自身の外側で感じる現実、私の友達とのつながりの中で感じる現実、人間同士とのつながりの中で感じる現実を“上層の世界”と呼ぶのです。なぜなら、それは動物レベルよりも高尚な人間レベルであるからです。

From Lesson 1, Convention in Spain, 6/3/2011