Entries in the 'スピリチュアリティ' Category

欲求の世界を旅する

質問:日中、私がグループとレッスンから外の世界へと出て行く時、包む光(Ohr Makif)にすがり続ける事は可能ですか?

答え:全ての物理的分野の法則では、(光、又は他の刺激の)強度は源からの距離の二乗の比例で減少していくとされています。あなたが源から2倍離れると、強度は4倍減少するのです。しかし、もしあなたが2倍近づけば、強度は4倍増大するのです。

霊的世界に光の源はありません。何故なら光が全宇宙を満たしているからです。その為、あなたが何処にいようと、その影響は同じです。あなたはレッスンから抜け、外の世界に出て行くと思っています。しかし実際、空間的な変化はあなたの中で起こっているのです。あなたが欲求から欲求へと行くのです。全ての“場所”とはあなたの欲求です。あなたは自分自身の中を進んでいるのです。

その為、全てはあなたがどれだけ欲求の中で光を呼び起こすかによります。光はそれらの中に均等かつ完全にあります。あなたが何処にいても – 街路に出ていようがグループ内でのレッスンにいようが問題ではありません。私は物理的にグループの中にいても、思考の中でずっと離れているかもしれません。自分自身の光との繋がりの度合いは意図のみにかかっています:自分がどれだけそれと繫がりたいのかということに。

From the talk on the Light that Reforms 9/8/10

カバラの本の主人公

私が受けた質問:本には、必ずストーリーの主人公がいます。私がカバラの本を読み、あらゆる内面的な力を想像しようと試みているのですが、そこには主要な力と、そう重要ではない、二次的な力があるのでしょうか?

私の答え:あなたがカバラの本を読むとき、大切なのはあなたの理解力ではなく、あなたの努力です。霊性の開示とは予盾したプロセスなのです。一方では、開示とは親密で、自分の内で起こる個人的なプロセスです。また他方では、開示を獲得する為に必要な力は、他人の魂から、私の彼らとの繋がりを通じてやってくるのです。それは予盾しているように見えます。私にとっては、自分の霊性への願望が、クリエーター、そして是正する光と一対一に留まるほうがよいのです。しかしながら、もし私が霊性を明らかにしたいのであれば、グループを通じてやってくる授与の光のみにて、私はそうすることが出来るのです。

それなので、私は自分のハートの点(霊性への願望)を使ってカバラの本を読み、そして読んでいる最中、本に説明してあることをそのまま自分の内で描くことを望むのです。しかし、私が経験する変化の基準となる材料は何でしょうか?この実践的な作業の為に、私は環境、グループを与えられるのです。お互い相互に繋がり合いながら、私が彼らに正しく関わり、彼らもお返しに同じようにしてのみ、私たちは自分たちの願い、MANを上げることが出来るのです。

そのお返しに、私は是正する光を受け取るのです;つまり私は、本に何が書かれているのかを理解できる、正しい心構えを了承するのです。そのとき、私は自分自身を変え始め、他人との本当の繋がりを理解するのです。この時点では既に、他人との結合を確立することは問題ではありません。彼らは私の世界となり、私はそれを通じ、読んだことを実施するのです;他人と繫がることにより、私は本が描いている私たちの繋がり、授与の性質を感じるのです。

今のところ、私は解決の出来ない予盾のみを感じます。私は自分とクリエーター、自分と本、自分と光、自分と自分、自分と世界、自分とグループが関係を持つことに同意しますが、私は常に全てが自分から始まることを要求しているのです! しかし、ここでは、私は彼らに奉公する為に他人と繋がる必要があるのです。彼らの利益の為だけに行動するのです。これは私に全く不明瞭なことなのです。

一体どうしたら、私たちの間に違いを感じず、注意を自分から他人へと変換できるのでしょう?どうすれば自分の心を開き、与えることが出来るのでしょうか? 最初、私はエゴイズムを使い、カバラの本を開きますが、後ほど、自分に授与の力が必要であると理解し始めます。そのとき、私は授与の感覚を受け取る為に、グループに懇願するのです。そして私がこの性質を持っていず、また、持てないと悟るとき、私は自分を本の通りに変わることを補助してくれる、是正する光が必要だと理解するのです。

私たちがグループから受け取る共有の願望を持つことで、皆全員がMANを上げるのです。そのお返しに、私は是正の光を受け取り、カバラの本に違ったふうに関わり始めるのです。私は、レゴを組み立てていくように、自分を本の指示通りに造ることが出来るのです。

From the 2nd part of the Daily Kabbalah Lesson 6/24/10, The Zohar

和合とは新しい現実である

私が受けた質問:和合(ユニティ)とは何ですか?それは内面的な感覚ですか?それとも何かの力が明らかになることですか?

私の答え:和合とは、私たちには全く解らない、新しい現実のことです。それは私たちが今まで、知覚したことのない霊的な特性、つまり授与の特性を持つ新しい物質です。私たちがこの物質に含まれ、その中で生き始める時、私たちは、まるで別の惑星に自分たちを見つけるように、新しい次元を明らかにします。私たちはこの次元をこの物質の内側、つまり授与の中で明らかにします。

したがって、和合とは単なる相互的な繋がり、良い関係、自信という意味だけではないのです。それは、私たちの世界には存在しない、新しい特性が明らかになるということなのです。私たちがこの特性を獲得し、クリエーターと似通う時、私たちは全てを自分らの知性と感情の中で、彼(主)との結束にて明らかにします。

私たちは和合を達成する以外に何もすることはありません。それは私たちの能力の範囲内で出来るのです。このことに関して、“我等はやるであろう、我等は聞くであろう”と書かれています。この意味は、私たちは様々な行動を起こし、努力し、全力を尽すことが出来るということです。私たちは、カバリスト達が勧めるように、そしてまた、ラバッシュが彼の文章に書くように、一緒に勉強し、結束することができるのです。

しかしながら、私たちはこれにて成功は出来ません。私たちは“そして彼らはこの作業から叫んだ”と表現される状態に達しなければなりません。それは、私たちは和合しなければならないのに、それができない、という内面的な叫びです。この内面的な叫びの状態でのみ、それは起こります。それは真の祈り、真の叫びでなくてはなりません。

私たちは既に全体の土台を造り上げました。後は、私たちが和合の特性に達するだけです。他人との繋がりとして明らかになる、新しい物質が霊的な物質なのです。それはある程度、既に、破壊以前に存在していた、霊的な器なのです。私たちがそれを明らかにする瞬間、つまり私たちが霊的な存在状態を明らにすると、クリエータは明らかになるのです。

そのため、私たちの一人一人と全員が一日中可能な限り一緒に努力してこれだけを気にしなければならないのです。

From the 1st part of the Daily Kabbalah Lesson 6/13/10, The Zohar

最大の報酬はそれが見えないこと

私たちは、隠蔽に対しクリエーターにとても感謝するべきです。それ無しでは、私たちは見せられた快楽を絶えず追いかけ回る動物のままに留まるからです。

隠蔽は私が暗闇に留まることを助けてくれます。それは不快ですが、私は隠蔽を通して自分自身を築くのです。その理由から、私たちが正しく前進しているのか、あるいは私たちの行いが報われるのかを見ることができないのです。報酬とは隠蔽の中を歩いていき授与の行為を試みることです。最大の報酬とはこれに対する報酬が見えないことなのです。

さもなければ、私たちはクリエータの支配から出て来れません。隠蔽の中でのみ、私たちは彼に外見上服従していないのです。彼は私たちを見張っていますが、私たちに、彼を明らかにする機会と、無限の世界の制約以後に形成された隠蔽の中での彼の行為の偉大さを明らかにする機会を与えます。

私たちは啓示 [クリエーターが明らかになる事] を求めません。それは人が生来の切望に動機づけられ、動物的な状態へ戻りたいということです。知ることとは私たちに起こりうる最悪のことなのです。もし私たちが知識を“理性の上の信仰”の後に獲得したなら、私たちは受け取りではなく、授与の特質の中で新しい知識を明らかにします。これは既に神性の知識なのです。

しかしながら、私たちはまず制約を行い、向こう側へと通過して、その前ではなく、そこで初めて新しい知識を明らかにするのです。

From the 1st part of the Daily Kabbalah Lesson 6/13/10, The Zohar

偽りから光へ

私が受けた質問:私たちが完全に利己的な願望の中にいるのに、どうすれば今現在、是正を要求できますか?

私の答え:もちろん今現在、私たちは是正を要求できません。もし私が全くのエゴイストなら、どうして是正を求めることができるでしょうか?しかしながら、私に要求されていることは、少しの授与を、私がまだエゴイズムの中にいるとき、可能な限り要求することです。この意味は、あなたがLo Lishma(それは偽り、エゴ、あなたの快楽への願望の中、そして自己に関する思考の中)にいるとき、あなたは与えられるようになりたい、と微弱の叫びを上げるのです。

もちろん、それは偽りで、あなたは他人を愛し、彼らに授与したくはありませんし、そしてクリエーターに似ることを望んでいません。あなたは単純に、授与とは何なのかが分からず、この理由であなたはこのようなことが言えるのです。もしあなたがそれが何なのかを知ったら、あなたは即に逃げ出だしているでしょう。あなたが何を求めているのかを分からせないために、真理はあなたから隠されているのです。授与とは、それほどあなたの性質と反対であり、それはあなたの現在の願望と性質にしてみれば死なのです。

私たちは、カバラの科学で光と願望の関係を学びます。器、または願望があり、その反対側に光があります。この他に、別の状態があります。本物ではない、偽りの願望があり、その反対にある光は直接的ではなく、包囲的なのです。これがまさに私たちの現在の状態なのです。しかしながら、今のところは、まるで私たちが授与したいかのように、この光が授与の願望を私たちにもたらすことを求めるのです。それはこれのために作用するのです。

システムは、私たちが次の状態へ移行するのを望まない(それにもかかわらず、それを求めている)現在の状態から、次の状態へ達することが出来るように設計されているのです。私たちはそれを望み始め、受け取り、その中に存在できるのです。これは、破壊する以前にあった是正した状態からの、私たちの内面に残留している霊的遺伝子、Reshimot(レシモット)によって引き起こされます。これらのReshimotは、私たちから遠く離れているAtzilutの世界の光を目覚まします。私たちはこれらを引き寄せ、自分たちに影響させることが出来、そのあとになってやっと、それらは「囲む光(包む光—Surrounding Lights)」と呼ばれるようになるのです。

確かに、私たちは偽りの中にいて、授与、または隣人の愛を求めていません。それは本当です。トーラーは私たちにこの事実を隠しません。反対にそれは、クリエーターは隠されていている、また、霊的世界は隠されていていると伝えています。なぜなら、もしあなたがそれを見たなら、それを絶対望まないからです。

従って、霊性は、あなたが利己的な願望の中でも、それが自分にとって良いと想像できるように隠されているのです。あなたが、まるで霊性の世界を望むかのように、自分のための利己的な報酬を想像したとき、光はそれでもあなたに影響し、あなたの願望や思考を、受け取ることから与えることに変えるのです。このように作用するのです。まさに、このプロセスのためにシステムが設計されているのです。

この方法で、私たちの現状だけではなく、私たちがこの受け取りのレベルから最初の授与の段階へと上昇した時;Machsom(霊性への障壁)を渡った後でも、私たちは同じ原理で状態から状態へと上昇するのです:望ましくないものを望むによって。とはいえ、それらの段階では“人の魂が人を教える”となり、私たちはもう既に霊的世界にいるので、ある程度の補助を得られます。

From the 1st part of the Daily Kabbalah Lesson 6/2/10, The Zohar

授与への道の、心理的な障壁

スピリチュアルの目標を目指す道には、心理的な障壁があります。もし私が授与を獲得したいのであれば、私は授与の仕方、それ以外のことを尋ねてはなりません。尚又、これは自分のエゴイスティックな思考と願望で定義された授与ではありません。つまり、私は自分の現在の理解力の内から何かを要求することは出来ないのです;それは本当の授与と霊的状態の正反対となるからです。私が霊的状態へ移行し、霊的な特性を受理してのみ、私は新しい思考と、新しいハートでそこを調査し始めることが出来るのです。そうしたら、私は授与の願望の内で感じ、理解するのです。

私は単純に、授与のことを自分の利己的な願望の中からでは知ることが出来ないのです;それは無理です。実際に、霊性に入る第一の段階を“Machsomを渡る”(マクソム:霊的世界の前にある障壁)と呼ぶのは、正にこの理由からです。授与の性質の認識は、現在私の願望の中で起こっていることから全く切り離されていています。それなので、私が授与の性質を要求することは、理性を超えている(自分の現在の理解力を超える)のです。私はただ、この特性を、それの意味を分からなくても、どうしたら受け取れるのかを知りたいのです。現在、私はそれとの繋がりが全くありません、接点もなければそれを試す能力もありません。私は単にそれを、どのような形態であっても、上層から与えられるがままに受け取るのです。

そのような態度は真面目で、発達した、知性のある人に相応しくないと思われますが、しかしながら、それは全くの反対です。高度な知覚力、思考を持ち、私たちが体験するする全てのプロセスを会得している者たちは、自分のエゴイズムを調査し、私たちがそれに、どれだけ完全に制御され、奴隷にされているのかを分かっています。彼らは、自分たちの現在の願望と利己的な、制限された認識力と知力を切り離し、それを超越する以外に選択はないと理解しているのです。

そのため、レッスンの間、私は光が自分に作用することだけを求めるのです。それが私に何をするのかは構いません。私はまるで、何も理解しないで母親の腕の中に横たわり、彼女に完全に身を任せる幼児のようなのです。私は、このような上層の者への献身と無効を成し遂げなければいけません。“私を治して!”私は懇願します。これ以外、私は何も頼みません。

From the 1st part of the Daily Kabbalah Lesson 6/2/10, The Zohar

私は何を持って行くのか?

私が受けた質問:私の魂は、現世で学んだ全てを覚えているのでしょうか?来世でも私はカバラを学び続け、またグループにやって来るのでしょうか?

私の答え:人が現世から持って行く、唯一のものは、彼が歩んだ霊的な道です;これは消えません。結局、霊性から観てみれば、私たちは同一の現実に存在し続けるからです。しかしそれは私たちから少々隠されています。

私はそのようには感じませんが、私は常に自分の魂の中に位置しており、私はそれと作業し、色々な状態を経験します。これらの全ては自分の永遠の魂の中で起こります。今、私が物理的な肉体と、自分の周りの世界を見る事実は自分の霊的状態の“蜃気楼”なのです。

もし私が今、内面的に努力すれば、私は次の輪廻をより高い霊的状態から始め、カバラのグループにより早くやって来るのです。そして勉強において、より成功できます。以前の全ての行路は私の内に、霊的遺伝子(Reshimot)として残ります;それは消えません。霊的世界では何も消滅しないのです;私たちの世界でしか事は消えません。なぜならこの世界の全てはいつか消滅するからです。それまでの合間、私が利己的な願望を通して獲得した物は一切残りません。なぜなら願望そのものが消滅し、外面的な覆いが残るだけだからです。

毎回、魂が新たな輪廻を体験するとき、それの能力と自身の是正の必要性に従い、自身の為に環境を造ります。なぜ、私はこの環境に存在し、他のではないのでしょうか?その理由は、私の魂がこれを必要とするからです。肉体においては計算はありません;それらはこの世界、魂の是正に必要な全ての状況の中、お互いに連結し合い、存在しているのです。

一方、肉体は考慮に入れられていません。実に、それは全く存在しないのです;それは、私たちにこの形態で現れる仮想的な幻想なのです。実際的には、魂しか存在しません。しかし、私たちはそれを感じることができません。そしてそれの発展が肉体に何が起こるのかを左右します。

そのため、バール・ハスラムは『ゾハール書の序文』の最後に、魂の是正のみ、私たちは自分らの世界の是正を補助でき、この物質的世界をもっと優しく知覚できるのです。この世界で起こる全ての犯行は、魂の是正の必要性の結果なのです。同時に、この世界での行動や是正はありません:魂を通してのみ、変化は可能なのです。

From the 4th part of the Daily Kabbalah Lesson 6/2/10, Article “Which Degree Should One Acheive

MAN:全てを含む祈り

私が受けた質問:私たちはMANMayin Nukvin,祈り)を上げなければなりません。この行為は願望の内で行われるのですか?

私の答え:MANの意味は、私が授与の力を求めるということです。Malchutの内から、私はBinaに向かい、Binaに授与の能力を求めます。しかしながら、私はこの祈り(MAN)で自分が満ちるので十分だ、という状態に達する必要があります;私はMANを上げれることに喜びを感じるのです。

トーラーはこの状態をどう記述しているでしょうか?それはあなたが“日光”の中へとやって来る時です。“日中”とは、あなたは何も無く、MAN(授与への願望)を捜しに砂漠の中をさまよってきて、それを見つけるのです。その時、それはあなたを元気づけ、あなたの全ての味覚を満足させるのです。それはあなたが望む全てを含んでいるのです。

それはどのような“味”でしょうか?それは何処から来ているのでしょうか?MANとは何?それはBinaからあなたにやって来るのです。それはクリエーターに嘆願できるという、単なる可能性だけでも、あなたには充分という時です:“私は彼との繋がりがある。私は彼に求めることができる。私にそれ以外、何も重要なことはない。”

しかしながら、私はクリエーターを明らかにすることのできる願望を自分の内に持つべきではないでしょうか?いいえ、私は単に彼への熱望を持てるだけで満足するのです。これが現在の私の充足を構成しています。グループを通じたクリエーターとの繋がりが自分を満たすのです。

“しかし、それはどのような繋がりなのですか?何を得れるというのでしょう?あなたには何も無い。本当です。が、しかし、私はMANを上げて、彼に哀願できますか?これが可能なら、それで充分なのです。これを“砂漠をさまよう”といい、“Hafetz Hesed”(何も望まない者)の特性を獲得するのです。砂漠の中では、あなたは全てを剥奪されていて、本当に自分の為には何も望まないのです。ですが、それによってあなたは授与の特性による是正、クリエーターとの類似を獲得し、これがあなたの充足になるのです。

From the 1st part of the Daily Kabbalah Lesson 6/6/10, The Zohar

トーラーを学び、従事するとはどういう意味か?

私が受けた質問:真正のトーラーに従事するとはどういう意味ですか?

私の答え:バール・ハスラムが書くように、カバラを実践するという意味は、それを自分の中で実現化、体験するということです。私たちを是正する光をトーラーと呼びます。それは私と反対で、遠くから私のレシモ(私の霊的な、情報遺伝子)に照りつけるのです。私は前世代からレシモット(レシモの複数形)の連鎖によって進化してきて、“ハートの点”と呼ばれるレシモに到達しました。それは光の影響によって目覚め、私に、この身体の中で過ごしてきた人生より高い何かがあると感じさせます。

全ての作業は是正する光によって成されます。光が私を目覚めさせるのです。始めに、光は動物のレベルで私を発達させてきました。しかし今、私が人間になる時が来たのです。

私、自分自身では行えないので、魂のシステム(カバリスティック・グループ)に頼むのです。そしてそこから付加的な意思と付加的な重要性を受け取り、つまり私は“彼”の重要性と自分の無意義さを感じ始めるのです。それともう一方との相違が付加的な、MAN(祈り)と呼ばれる願望を生み出します。私はこのMANを上のほうへ上げるのです。基本的に、私の主な作業はこれにあるのです。クリエーターを獲得する願望、MANを初期のハートの点からして10倍の大きさにして上の方へ上げれば、私は自分の任務を果たせたるのです。

しかしながら、これはまだ“トーラーを学ぶ”または“トーラーに従事する”までには至りません。今まで、これらの全ては準備だったのです。しかし今、光は私により強力に照り付け始めます。今、囲む光-2となったのです。それは違ったふうに私に照り付けます。直線に、そして私の想望の度合いまで。

クリエーターの重要性の認識はKeterと呼ばれ、人の自分の無意義さはMalchutです。この意味は、今、私は自分の願望を一つの線に整え、クリエーターを獲得するという目標と一致して行動しているということです。それの最も外側の点らがKeterMalchutなのです。クリエーターと授与は上で、私と受理が下です。

現在、私に光は別の、直接的な形態でやってきて、私の性質を照合し始めます。それは全てを整列し私の中で何がもっと重要で、そうでないのか、を私に見せます。つまり、囲む光-2はよく整列されており、それはこの順序により私を是正し始めるのです。この意味が、私は今“トーラーを学ぶ”ということです。なぜなら囲む光が自分の中で是正することを学ぶからです。

From the 3rd part of the Daily Kabbalah Lesson 5/31/10, Introduction to the Study of the Ten Sefirot

何を是正するのか:私自身か、それとも世界?

私たちの目の前には目的地があります。それは私たちにとって魅力的とも、そうでないとも感じられます。私たちの視点は、子供が必ずしも自分のためになるもの(ホウレンソウ)ではなくて、自分の目に良く映るもの(お菓子)を求めるのと幾分似ています。私たちは、気が進まないかもしれませんが、現在の受け取るだけの願望に留まるのではなく、授与に対する新しい願望へ上昇するために、行動の正しい形態を見つけ出し、身につけなければなりません。

これが意味することは、目的地と上層の支配は善くて必要だ、なぜならそれは違うレベル、つまり授与のレベルに属しているからだと私たちが自分らの意思と性質を超えて受け入れなければならないということです。そしてカバリストたちは私たちに、この目的地、授与のレベルに近づく最善の方法を知らせてくれます。

その方法はシンプルです。彼らは私たちに伝えます:私たちは自分たちにとって不快な事実を受け入れなければならない。私たちは世界を自分たちに合うように曲げ、私たち自身は変らぬままでいたいと願う。しかしながら、カバリストたちは私たちに、世界(それは良く、完璧である:私にはそのように見ないだけである)をそのままで受け入れ、自分たちを無化するようにと助言します。

だから人は理性より上の信仰(faith above reason)を使って歩むのです。つまり自分のエゴイスティックなハートと理解を超えて、カバラで述べられているように授与の光で世界を見ることを望むということです。もし私たちが是正された世界、是正されたグループ、そして是正された私たち自身を見ようと努力すれば、私たちは是正させる光を求め始めるでしょう。これが、なぜ私たちが自分自身と世界を一瞬一瞬、調査し、批評し、そしてこの批評を超えて歩まなければいけないことの理由なのです!