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「金の子牛」を造ってはならない

私達は他者とつながる必要がある、ということを人に納得してもらうことは大変難しいことです。たとえその人が既にカバラを勉強し始めていたとしても同様です。彼はこのつながりへのいかなる願望も必要性も持ちません。反対に、普通の人の方がむしろ隣人や他者に近付くことでしょう。なぜなら結局、生活をより安全なものにするために良好な関係を維持し衝突を避ける方が、彼にとって有利であると感じるからです。

しかし上層の力や世界を発見したい、人生の意味を知りたいという個人的な願望が目覚めた人は大変個人主義的になります。彼は誰ともつながりたいと思いません。というのも本質的な問いは彼の心の内側で見出されると感じるからです。それゆえ彼がつながりについて耳を貸すことは大変困難です。彼にはそれが子供の遊びのように見え、どんな形であれ理解できません。

そのようなわけで、今日私達がこのテーマについて話し始めることに成功したことは、とても喜ばしいことです。私達は最も基本的で重要な点を見出す間際に来ました。もし私達がいつでも常にこの点に気を付けるなら、その後はそれを通して、その中において、つまり私達の間のつながり(コネクション)の中において、万事何もかもが明らかにされるでしょう。

私達のつながりとは言わば黒い点です。その黒い点は、私達がもう一つの世界へ通り抜ける際の障壁であり、「針の穴」であり、それについてクリエーターはこう言っています。「私のために針の穴のような出入り口を開けよ」。一つのハートにつながった後で、一つの願望の中で、私達は一つの点の中につなげられます。私達の点の全てが一つの点の中につなげられ、それが針の穴のような出入り口を造り上げます。もし私達がこの通りに自分自身を準備するのなら、そのとき私達は新しい世界への通路を開きます。そして最も高いレベルが私達に明らかにされるでしょう。それがスピリチュアルな梯子(はしご)の最初のステップです。

このつながりへの必要性がトーラーを受け取るための準備です。上層の力の手助け無しで私達だけでこのつながりを実現できないことは明らかです。そのため私達にできる仕事は、つながりへの必要性を感じて共通の祈りを打ち立てることです。

つながりに到達する必要性を除いて、個人的にも集団的にも私達には他に祈るものを持たないということは論理的な事柄です。つながりを求める祈りがあれば、私達は、私達が必要とする全ての肯定的な結果(成り行き)を見出します。しかしもし私が、私はもっと知らなければならない、私はもっと成功しなければならない、或いはもっと愛することさえしなければならないと自分勝手に決意するなら、それは単に私のプライドを示すものです。必要なのはただつながりだけを求めることです。そしてこれより他のものを求めることは無意味です。これが私達共通の祈りとなります。

あの「多数の祈り」も別ではありません。それもただ統一(ユニティ)についての祈りです。この祈りと私達共通の祈りとの違いはありません。というのも、その結果は正確に各レベルの梯子の位置に従うからです。私達はこの梯子をより高く登らねばなりません。私達はそれらの位置に落ち着くことはありません。むしろ私達はすべての人との間にますます強いつながりを確立しなければならないし、そうすることを決意するのみです。

これは私が見返り報酬を求めないという意味です。必要物は自ずからやってきます。私に必要なものは社会の中で見つけられます。換言すると私達のつながりの中で見つけられます。そして私達はただつながりを探求するのみになります。これはとても単純な真実なのですが、私達のエゴはいつでも新しく頭をもたげてくるので、あらぬ方向へ滑ったり転んだりし続けます。その度に何度も何度も私達は「多数の祈り」へ立ち戻るように自分自身を強制します。そしてその祈りにおいて、私達は一つの要求の中、一つに統合します。

いわゆる「金の子牛」とは、単なる自分のエゴを満足させるための個人の仕事を指すのではありません。トーラーの中ではこれについて全く何も言っていませんが、この「金の子牛」とは、単純につながりを願う気持ちのかわりに、自分自身のために霊的進歩の形態を確立したいという個人的欲求のことです。「心の点」(ポイント・イン・ザ・ハート)は他の全ての心の点と集合しながら、シナイ山頂へ登って行きます。山頂でトーラーを授かるためです。トーラーとは改正する光のことです。そうしてトーラー授与後、山の麓(ふもと)に集っていた全ての願望・欲求達は、皆同じ「心の点」につながって、そのつながりの点の中に消え去っていきます。

しかしこの全てにも関わらず、ある人は自分自身で何かを決意すること、クリエーターへの奉仕において進歩するために自分にとっては絶対必要であると考えるある種の私的な要求を付け加えることに引っ張られます。これが「金の子牛」と呼ばれます。これはこれでとても高い霊的(スピリチュアル)なレベルです。しかし、始めから終わりまで、是正の完成に到達するために私達はどのように道を踏破しなければならないかについて、トーラーで説かれている全体的な方法とは、ただつながりの強さだけによるものであり、その他はありません。

From the 1st part of the Daily Kabbalah Lesson 7/26/13, Writings of Baal HaSulam

喜びは正しい道のパラメーター

バール・ハスラム「シャマティ#58」「喜びは善い行為の反映」より:たとえもし人が、間もなくより低い段階に落ちるだろうことを明らかに見たとしても、彼(クリエーター)は依然として人を人が居る場所で判決を下す。その意味とは、もし人が今、天の王国の重荷を永遠に担おうと決心したならば、それは完全であると見なされるということ。

しかしながら、もし人が天の王国の重荷を引き受けて、その状態がその人の中に永遠に留まることを望まないとすれば、この事とこの行為は完全であるとは見なされない。そしてその当然のこととして、その人の上に上層の光が訪れて休息することはできない。

基本的な問いがあります。私達はそれが永遠か永遠でないかどのように判断するのでしょうか? それは人が何を自分のゴールとして又は未来として見るかによります。

世界には多くの組織があります。多くのグループと社会団体があり、それらは皆その構成メンバーから一定の献身とつながりを要求します。好きなだけ例が挙げられます。株式市場からはじめて、サッカーチーム、軍隊、アルコール依存治療グループ等。どの組織も献身とコミットメント(参加・寄与)を要求します。さもなければ組織が組織として結びついていることが不可能だからです。

しかし、スピリチュアルな状態を獲得することも、それとは別ではありません。メンバー相互のつながり無しにゴールを達成することは不可能であり、私達の間のつながりの中においてのみ本当に獲得できるものであることを理解するならば、それは献身を要求するものです。クリエーター(創造主)とは、私達が相互に授与する関係を達成するための努力から構築されるイメージのことです。それでここでいう献身とは、同じ物、同じ仕事、同じ喜びを求める熱望、そしてそのように魂を作り上げる努力のことです。このような理由で、これは自己犠牲とも呼ばれます。

それで私は今や、自分の受け取りたい欲求の中で手に入れた全て、私に元気を与え、存在感を与えてくれる全ての充実、全てのエネルギー、全ての喜び、全ての努力、全ての希望を、グループの集合的貯金箱に与えます。誰もがこれをするとき、私達はその集合的努力によって、その中にクリエーターが顕現するような集合的インフラを構築します。それは「イスラエル、トーラー、クリエーターは一つ」と言われるところのつながりによるものです。

グループに関する私はイスラエルに関する私であり、そして私達はひとつの「イスラエル」として、私達の間つまり私達の全体的授与力の中にクリエーターを見出そうと向きを変えます。全ての物事をひとつの全体の中につなげることによりそれは為されます。そのため集合的努力が要求されます。そして、私達はこの努力が正しいかどうかを私達の喜びのレベルにより測ることができます。正しい道に従いながら喜びを感じないでいることは不可能です。そうでなければ私は自分自身を、共に創りあげようとしているこの全体的でスピリチュアルな器に捧げることなどできないでしょう。

だから喜びは善い行為の主要なパラメーターです。鏡のようなものです。私達は霊的上昇、目覚め、エネルギー、力、喜び、唯一性そして祝福を感じるためには、これに取り組まねばなりません。これらの感覚は、それによって私達の内的行為の速度を想像できる外的なサインです。もし私達の行為が正しければ、それは私達の中に、高揚、楽しさ、希望、結束感などを喚起するのです。

しかし、もし私達がつながりにおいて正しい行為に至らなければ、それに応じて、これら喜びや高揚など全ての感情を欠くことになるでしょう。喜びがあるかどうかチェックすることはとても簡単です。人間は喜ぶと同時に叫んだりわめいたりすることはできません。あなたはあなたの存在全体の中に喜びを感じなければなりません。「全ての私の骨が教えるまでに」と言われているように。

From the 1st part of the Daily Kabbalah Lesson 6/20/13, Shamati #58

ゾハールを理解する鍵

もし私達がゾハールの書を理解したいなら、私達の間の関係をイメージしなければなりません。つまり私達の行為と努力に従って、どのようにつながりの強度が高まったり弱まったりするかということです。
私達を一緒に結びつけるネットワークについて、TES(タルムード・エセル・セフィロート)の中に詳細に記述されています。ケテル、ホフマー、ビナー、ゼイール・アンピンそしてマルフート。またはアティックのパルツフィーム、ケテルであるアリフ・アンピン、アッバとイマそれはホフマーとビナーです。そしてゾーン、それはゼイール・アンピンとマルフートです。

私達はこのネットワークによりつながっています。このネットワークが明らかになればなるほど、私達はより高く昇ります。明らかになることが少なければ少ないほど、私達は下降します。このように私達は(世界を)操作しています。

それで、私達の仕事の全ては、私達がその中に存在している、この10のセフィロートとの可能な限り強いつながりを喚起することです。そのとき、一人一人が自分自身を、これら10セフィロート全てを操作するマルフートとして見るでしょう。それは各セフィロート全てが最終的な形、エイン・ソーフ(無限)世界における形を採るまで続きます。

それで、TESと、特にゾハールの書は、私達に次のことを見させるために書かれました。それは私達が上層システムのマルフートの中にいるということです。その地点から、私達はシステム全体を呼び起こすことを望みます。

私達は一つのネットワークの部分であり、このネットワークに刺激を与えなければなりません。そうすると各自が印象を受けて他者を感じるようになるでしょう。それと同時に、このシステム全体の操作方法を調査し理解することもできるようになるでしょう。

From the 4th part of the Daily Kabbalah Lesson 6/02/13, “The Book of Zohar, Introduction”

同じ劇、違うセット

私たちは皆、私たちの全関係を貫く力の「クモの巣」によって結ばれています。全体的に見ると、これらは受け取りの力か授与の力かどちらかです。もし人がそのどちらの力も発見しないなら、彼はまるで空虚の中でぶらさがっているかのようです。しかし通常は正の力か負の力かどちらかが彼に明かされ、それらが組み合わさって総ネットワークを作り上げます。

従って「クモの巣」は存在し、どの程度それを感じるか、どの程度その中にいるのか、そして、どの程度これらの力に肉体性か霊性かどちらかになってもらいたいかは、その人次第です。

私たちの物理的な場所に関係なく、私たちはこのネットワークの中の「一定」の場所(定位置)にいると言えます。そして「場所を変える者は運を変える」という格言は、霊的な「座標」について言及しています。たとえ私がある国から他の国へと移動し、自分の周りに違う人々や環境を目にするとしても、私がシステムの中で自分の位置を多少なりとも変えたということではありません。

私は同じ点の中、同じネットワークの中にいますが、今やそれが違うように見えます。たとえ私の「運」が変わったとしても(私に作用する力という意味)私が霊的なネットワークの中で自分の位置を変えたわけではありません。現れ、「衣装」、クリエーターが私を操る彼の劇場の中での場面のみが変わったのです。しかし監督は同じで、劇は同じ劇で、新しいセットの後ろに同じ舞台装置があります・・・。

質問:しかし何を強調すべきですか? どの点において努力をすべきですか?

答え:クリエーターは私にこう告げます:「私はあなたを選択点に連れてきた、即刻それを実現しなさい。」彼は私をグループへと連れて来ましたが、それはほんの選択の場所にすぎません。それと同時に選択そのものは私の手中にあります。それは、自分のために既に用意された投票箱に私が来て、今やその選択が自分にあることに似ています。

From the 3rd part of the Daily Kabbalah Lesson 4/30/13, “The Mutual Guarantee”

全ての瞬間が新しければ

バール・ハスラムや他の偉大なカバリスト達が書いているように、最も重要なことは毎日を新しいものとして生きることです。この「日」は瞬間を意味し、日中のことではありません。そのような訳であなたの全ての瞬間は新しくあるべきです! そしてこれが大切なことです。

眼を覚まし、起きて、昼も夜もどんな時も自分を揺さぶりなさい。まるで自分が生まれ変わったかのように。以前のもの全てを削除しなさい。それは全ての古い問題や古い関係です。過去の問題は要りません!感情の重荷も要りません!

どのグループも、そしてグループ同士の間でも、全ての悪いことは忘れなさい。全てのグループと私自身の関係も同様です。リセットし、リスタートしなさい!

From the European Convention in Germany 3/24/13, Lesson 6

もっと互いを妬みなさい

質問:私たちの尽力の量と質は、友達の妬み(嫉妬・羨望)によって決まると言えますか?

答え:はい、そうです。それはあなたの妬みによっても決まります。それ(ピルケイ・アヴォット 4:21)は「妬み、渇望、名誉は人をこの世の外へ連れていく」と伝えます。

私たちは、これらの性質の非常に良い点とは何か、人間の形態を失うことよりも悪くて避難されるべきことがあろうかと自問するかもしれません。妬む人は、他者を傷つけ、また、他者にひどい仕打ちをして滅ぼすことを楽しむことがあります。

要するに、私たちは否定的な性質について話しています。しかし実際は、それらが人をこの世から上層世界へと連れていってくれるものなのです。結局のところ、それらが本当のエゴを私に示してくれるのです。

もし私が、妬み、渇望、そして尊敬されたいという欲求を感じないなら、どうやって私はそれ以外の方法で他者とのつながりを築くことができるでしょうか? もし私にそのような性質がないとするなら、私には何も必要なくなります。私は郊外のどこかに住み、自分の基本的生活必需品をそろえるためにたまに買い物やお使いに行って家に帰るといった生活ができます。

しかし、突然、私はこの平穏な生活の中で自分が他者に嫉妬していることを知ります。彼らの持っているのと同じものを獲得したい、そして、彼らよりも上位者に思われるためにさらにもっと多くのことを達成したいと思います。そして私は都会に住むために引越し「職業生活」のスタートを切るのです・・・。

自分自身の悪い性質を明らかにすることなしに前進することは不可能です。私たちはただそれらが「反する手助け」であると理解すべきです。私たちはそれらが現れるのを妨げるべきではなく、むしろ許すべきなのです。「私は悪の啓示に満足している」とバール・ハスラムが言うように。

質問:どうすれば友達が妬ましいと感じることと、自分ではなく友達のために要求することを両立できますか?

答え:友達を妬むことは自分の前進を促すものです。しかし、何に向かって前進するのでしょうか? “授与・与えること”に向かって前進するのです。私は[この世における]物質的なレベルで彼らよりも大きな業績に達するつもりではありません。私はスピリチュアルなレベルで成功したいのです。スピリチュアリティのなかでの成功とは、どれくらい自分の「自己」を無にするかによって決まります。前進したい時に私は妬みと渇望と尊敬されたいという欲求によって友達から受け取ったすべてを組織化します。そしてその後で、私はスピリチュアルな前進が、実際は私自身を越えることであると理解し始めます。

したがって、私は上昇したいという欲求を友達から受け取ります。しかし私はそれを正しく解釈しません:上昇することとは、私自身の上に上がり、友達と一体化することを意味します。したがって、グループとは「反する手助け」なのです。グループは私の中にネガティブな覚醒(目覚め・気づき)を呼び起こします。そして私はいつか友達とのつながりに回帰するために、それをポジティブに変化させるのです。

ここで私は再び問題を抱えます。欲求が再び大きくなるのです。そしてこの全プロセスが繰り返されます・・・。

質問:どのように妬み、渇望、そして名誉に対する欲求を正しい方向に向けることができますか?  結局のところ、正しい目標を目指すことにおいて自分自身を正当化することはとても簡単であり、最終的に途中で暗闇と歪曲に陥ります。どうすれば先生とグループと書物に加えて、正しい方向に向かわせる内面の境界を作り上げることができますか?

答え:あなたは友達の目の前で自分自身を無にしなくてはなりません。その結果、あなたは妬み、渇望、そして尊敬に対する欲求を自分の内部に呼び起こします。あなたは目を開き、物事を調査し出し、それらをただ継続させることをしなくなります。

さもなければ、いつの間にか[この世における]物質的な妬み、渇望、そして尊敬に対する欲求に陥ります。違う存在でありたい、友達より上に上がりたいと思うのです。しかし、グループはあなたをこうしたことに陥らせないように作られています。どんな場合でもあなたは変わります。なぜならグループ内の雰囲気は特別であり、人々が内なる探求に取り組んでいるからです。したがって、友達に対するあなたの態度が徐々により正しい形態を帯びるようになります。したがって、グループ内の新しい友達でさえ正しい方向を受け取り、通常の自分に向けられた利益ではなく、真実を熱望します。

質問:しかし、友達の各自には前進するための最適な条件が与えられています。よって妬むものなどありえないのでは?

答え:私は自分の中に彼らを含ませたいのです。彼らの各自には特別な何かがあります。そうでないなら、その人はここに居なかったでしょう。だから私も同じものがほしいのです。これは私がアダム(人間)に成りたいことを意味します。

最適な条件とは、リラックスするための理由ではなく、むしろすべてのものから、すべての状態および友達から善を取り出すための理由なのです。

 

新たな夜明けはその前日によって決まる

質問:私はレッスンの間にゴールの偉大さ(重要性)の認識が自分に欠けていると感じます。どうすればよいですか。

答え:全体的に見て、人には1つのことだけが欠けています:グループによってのみもたらされる正しい目覚め・気付きです。そのことについてあなたは何をしましたか? 友達に助けを求める手紙を送りましたか? 彼らにそれぞれ好きなプレゼントをあげましたか? あなたは友達の注意を引き起こさなくてはならないのです。彼らがあなたのことを考えれるように、あなたがゴールの偉大さを理解しているのか彼らが心配できるように、彼らがあなたのことを忘れることなく祈れるように・・・彼らに賄賂として何かを与えなさい!

レッスンの間に堕落を正すことは既に遅すぎます。あなたは準備したものを使うのです。すべての準備はレッスンの前にします。昼間が夕方になり、夕方が夜になり、人は気が付くと暗闇のなかで混乱して理解が欠けています。そしてその後に、その人は光に会う準備をします。その人は真夜中から自分の器(願望・欲求)の用意をすることによって光に向かって突進します。その人はクリエーターに自分の依頼を掲げた後に、用意ができている荷をもってレッスンに来ます。その人は持っている全てのものをスタディにつなげるのです。

従って、スタディの時間は既に日中に起きた出来事の結果なのです。準備をして下さい。このことに関して重要に思えるものについて考えて下さい。しかし忘れないで下さい: あなたがレッスンの間に行うすべてのことは、レッスン前の行為や活動の結果であるということを。それを確認してください。そうすれば、それが本当にそうであることが分かるでしょう。レッスン前の朝に目覚める瞬間、そして、レッスンそれ自体の間に、あなたはその前日に自分自身を満たしたものに取り組むのです。全ては昨日の準備によって決まります。

From the 4th part of the Daily Kabbalah Lesson 2/6/13, “A Speech for the Completion of The Zohar

どうすれば自分のことだけを考えることをやめれるのか?

 質問:人はどの器の中でスピリチュアリティを見つけるのですか?

答え:“戻る光”(Returning Light)の中です。その意味は授与(与えること)の中ということです。それは自分のことよりも他者のことについて心配する時のこと、自分にとって自分より他者のほうが大切な時のことです。

質問:人はスピリチュアルな器を獲得するために何を無にしないといけないのですか?

答え:自分のことだけについて考えることを無にしないといけません。どうやって自分のことしか考えない私が、他者の利益のために自分自身を完全に変える状態に切り替えられるのでしょうか? どこでそのような欲求や願望を得ることができるのでしょうか? どこでそのような努力をするための力を見つけられるのでしょうか?

ここで私を助けるのが“改善する光”(the Light that Reforms)です。それは“エジプトからの脱出の奇跡”と呼ばれています。私は自分の感情(heart)と知性(mind)を、自分のことを心配するという欲求から取り出し、それらを他者の中に入れます。もちろんこれを自分の力ですることはできません。囚人は自分自身を牢獄から釈放することはできません。自分で自分の髪の毛を引っ張り、沼地から抜け出すことはできないのです。

しかし、光が来てその欲求からこの心配を取り出し、それを他の誰かの中に入れてくれます。そしたら私はその人のことを心配しだします。母親が自分の赤ちゃんの心配をするように。結局のところ、同じ事が彼女にも起こりますが、それは利己的なレベルです:それはまるで彼女が自分の赤ちゃんの心配をするように催眠術をかけられ、赤ちゃんを一日中見て心配をしているようなことです。もし私たちがこの世に於けるそのようなプロセスについて知らなかったなら、彼女が気でも狂ったのかと思うことでしょう。

これも光の働きですが、母親は自分の赤ちゃんを愛すことができるようになりたいと頼む必要はありません。彼女はこの愛を上層から単に与えられるのです。しかし私たちの場合は違います。人には選択肢が与えられます。「“動物”のレベルのままでいたいのですか?  ならどうぞいてください。しかし、もしスピリチュアルなレベルに上がりたいなら、この力を起動させる必要があります。」

あなたは常に上達し、より賢くなる必要があります。要するに、クリエーターを起動させるためにクリエーターの知性を獲得する必要があるということです。これがその二つのレベルの違いです―あなたがクリエーターを起動するという事実。このことについてタルムードは「我が息子たちは私を負かした」と伝えます。

From the 4th part of the Daily Kabbalah Lesson 2/6/13, A Speech for the Completion of The Zohar”

余計なものは全てフィルターする

カバリストはその独自の経験からグループの法則を定めました。グループを創る目的はつながること、そしてクリエイターのようになることです。グループはこの状態を達成したいと望む人々が集まることで形成されます。そしてもちろん、グループは何故自分たちが存在しているかを理解すべきです。グループにはまだそのことを理解せず知覚しない新しいメンバーも含まれますが、しかし短期間の内に、私達はグループが存在している理由を説明し、そして非強制的に、私達は次第に彼らをこの状態へと導きます。

このグループは一つに統合されるべきです。そしてそのことにおいて、いかなる歪みもあってはなりません。それは管理者と、管理者に従う労働者からなる工場ではありません。カバラを勉強するグループにそのようなものはありません。全てが集合的・共同体的です。

私達は様々な異なる委員会をつくります。それらは奉仕と助け、グループの維持と組織、勉強・研究、祭日、食事の為のものなどです。これらすべては正確に、全ての個人と集団の基本的統合に適合するものであるべきです。私達は皆異なりますが、私達は全体として平等であるべきです。ある人が賢くてもう一人が愚かであることに違いはありません。誰もがあるがままに自然で、その固有な形態は必要不可欠なのです。

次のようなメカニズムを想像してみましょう。ある部分は速く動き、他の部分はゆっくり動き、右へ動くものあれば、左へ動くものあり、他は軸の周りを回っていたりします。誰もが彼独自の役割を持ち、重要なことは誰もが全体的なユニティ(統合・統一)のために彼のベストを尽くすべきであるということです。グループにおける他の条件は、その結果としてつくられます。

主要な条件とは相互援助であり、これが私達をつながりへと導くものです。なぜなら一人の人間には是正する箇所がないからです。私たちの一人一人は絶対的な全体であり、他者とのつながりという一つのもの以外に、堕落している箇所は何もありません。そのような訳で、私はある個人の性格や外見や、嫌な習慣や、他の何であろうと、それに注意を払うことはしません。このすべては私の関心ではありません。私はある種の「フィルター」を使い、これらすべてを見ないようにします。つまり誰々が赤毛であるとか、誰々がうんざりさせるとかイライラさせるとか、彼らが私を思い通りにしようとしても、しかし私は気にしません。私は「フィルター」の背後で、たった一つのことだけを見なければなりません。それはその人物が持つ、つながりやユニティに向かう態度です。というのも、これこそ私達が彼において是正すべき唯一のことだからです。もし彼がその線において働くならば、彼は私の友人です。しかしもし彼がそうでなければ彼は私にとって見知らぬ人です。

私達は他者とのつながり(コネクション)を除いて、私達の中にある何ものも変えようとすべきではありません。これは大変重要なことです。私達はこれに対して多くの時間と力とを浪費しています。私達は不必要なことに取り組むことは止めるべきです。なぜならこのようなやり方では、私たち自身を破壊し腐敗させるだけだからです。あなたはあなた自身の道に留まるべきです。1グラムのエネルギーたりとも無駄にすべきではありません。ただコネクションに投資しなさい。

このことが明らかになるとき、この仕事は柔和で相互的になります。それは食事になり、相互関係と愛の希求となります。私達は他の何ものにも注意を払うべきではありません。ただ一つの条件だけが存在します。私たちの間のつながりです。そしてグループは常にその注目をここに置くべきです。

私達の行く先には長い道のりが待っています。そしてそのはじめには多くの歪曲、間違った理解、苛立ち、爆発などが起こるかもしれません。しかし大切なことはたった一つです。それは人が真にユニティを希求しているか否かです。もしその人が自分の中のこの衝動を強めようと試みているなら、そのとき私は彼の他の問題すべてを自分自身に引き受けて彼を助けます。

From the Georgia Convention 11/06/12, Lesson 2

ワークショップは心から心への会話です

ワークショップは特別な行為です。それは神聖なものであると言えるでしょう。我々は質問を明確にします。すなわち質問に答えるのではなく、質問が明らかになるように明確にするのです。そのあとで、数分後に私はそれについて説明するために話をします。そして、輪になって座り、我々の本に記述されていることではなくて、論理にかなった解決策、この問題の本当の解答の見つける方法について話し合います。どんな場合にも、カバリスト達の賢い格言に頼るべきではありません。むしろ、我々はお互いのつながりを持続させるために心から話し合います。

しかしながら、私は友人を絶対誤りがない、偉大な人として受け入れなくてはなりません。彼がどんなナンセンスを口にしようが問題ではありません。彼が愚かであるということは私の感覚なのです。私は、十分に彼とつながっていないから、それを目にすると感じます。もし私が彼を愛していたなら、私はクリエーターが彼を通して私に話をしていると感じていたでしょう。

したがって、10人のグループで座っている間、我々はお互いに対する関わり方(良い関係を結ぶ方法)を明確に理解しなくてはなりません。クリエーターの代表者たちが私の前に座っていて、彼らが私に絶対的真理を伝えます。私はどんな批判も、どんな不信感も、そして、彼らから私を遠ざけるどんなものも抑えなくてはなりません。彼らは、それに気づくことなく、私が同意できないことを発言しています。私はそれに反対です。私はそれを聞きたくないのです。私はすべてのものが、色あせていて、普通で、同一であるとして、くだらないと見なします。

したがって、この点において我々は巨大な内面的作業に立ち向かうのです。

From the Preliminary Lesson 8/16/12, Kharkov Convention “Uniting to Ascend”