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最も難しい事は助けを求めること

thumbs_laitman_239バール・ハスラム「トーラーの授与」:我々はトーラーにおける残りの612のミツヴォット(戒律)が、それらのすべての解釈と共に、ただ一つのミツヴァ(ミツヴォットの単数形)、すなわち「汝の友を愛せよ」の中に挿入され、含まれている詳細の合計以上でも以下でもないことを理解すべきである。

613の「戒律」、すなわち是正に至らせる613の行いがあります。私たちは受け取りたいという欲求に関連する意図を、利己的なもの(受け取るために)から利他的なもの(与えるために)に改めるべきです。私たちがそうするとき、それは私たちが「戒律を果たした」ことを意味します。

戒律の数は、魂の器に含まれている個人の受け取りたいという欲求の総計で定義されます。それは2つの部分に分かれています。

上部  ガルガルタ・ヴェ・エイナイム (Galgalta Ve Eynaim <G’E>)248の欲求
下部  アハップ(AHP)365の欲求

受け取りのためという意図は邪悪な性向と呼ばています。一方で与えるためという意図は、善い性向と呼ばれています。行為自体は同じです。それらの背後にある意図によってのみ、私たちは良い行為と悪い行為を識別することができます。そのため、是正のプロセスは実際には意図を変更することです。意図が自己中心的なら邪悪な性向とみなされ、その中心が隣人に向けられているなら善い性向なのです。

結局、私たちは248と365の欲求を是正しなくてはなりません。全部で613です。しかし、最後の戒律(愛についてのもの)は「問題をはらんだ」ままなので、私たちは実際612の欲求しか是正しません。カバリストたちが言うように、612の欲求を改善することによって、我々は愛を達成します。 言い換えれば、友への愛から、私たちは創造主を愛するようになります。

 

総体のシステムの中には、欲求の特別な部分があります。それはグループと呼ばれるそれ自身を是正しなくてはならない部分で、当然ながら残りの欲求と相互的につながっています。最初、私はそこにいません。 しかし、グループで友と一緒に作業を始めて、友とのつながりを望み、現実にそうするやいなや、自分の性質がすべてこれに反していると分かります。つまり、「できない」「不可能だ」「したくない」 「しない」ということ。これが邪悪な性向というものです。つまり統合したくないということ。それは私を妨げます。

その後で私はそれを私の中に存在する「憎む人」と呼び、至る所にいる友からその是正を要求します。私はどこを是正するのか、どのように是正を実現化するのか、そしてどのように自分の性向に打ち勝つことができるのかを発見します。そして、クリエイターの方を向く必要を感じるまで私はそうします。

それはすぐに起こりません。私は今、叫ぶことができますが、その後で利己的な欲求は高まり、クリエーターの考えに我慢できなくなります。私はクリエーターを憎んでいて、いつでもクリエーターを滅ぼす準備ができています。クリエーターに向かうこと以外なら何でも喜んでするのです。私は不可能なことをするよう要求されていると思います。まるで敵を滅ぼす代りに敵を愛して助けなければならないかのように。それは非常に難しいことです。その後で、絶望を感じ、何よりも授与の獲得を欲する時、私はクリエーターの方に向くのです。

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From the 4th part of the Daily Kabbalah Lesson 10/21/12, “Matan Torah (The Giving of the Torah)”

なぜ今日恐竜はいないのか?

もし私達が、クリエイター(創造主)に授与し「彼」に満足を与えるために、私達の利己的な願望の上に一つの共有されたつながりを造り、自分自身をその中に無化するならば、そしてまた私達が一般の人々との仕事、その仕事の中で私達は、クリエイターが私達を通して彼らに授与できるよう彼らを私達に近づけて、私達を通して彼らをクリエイターに近づけることを望んでいるのですが、そのような仕事のためにこの全て(つながり)を使うならば、そのとき私達は全ての高位の「諸世界」、全体システムを発見するでしょう。それは人間の外側には存在せず、むしろ私達の間にのみ存在します。

そして同時に、自然界の鉱物、植物、動物もまた私達の内側にあることを発見します。突然、私達は自分達の内側にキリン、ライオン、全ての野生動物、あらゆる植物、そして全ての人間たちを発見します。これら全ては私達の属性のただの複製(コピー)です。

かつて昔、私達は今とは異なる他の属性を持っていました。その時には、見たところ世界には恐竜たちが生息していました。しかし今ではその属性は変わってしまい、その恐竜たちは姿を消してしまいました。私達の時代においては、私達の中の属性は急速に変換しつつあり、多くの植物や動物の種が絶滅しかかっているのを目撃しています。世界では毎日150種消えていると言われています。つまりそのような速いペースで私達の「受取りたい願望」は変化し、発達し、進歩しているということです。

私達には、植物や動物のレベルでは何も変化していないように見えます。しかし本質的には自然の中で毎日たいへん大きな変化が起こっています。なぜなら、それら全体は一人の人間の中に包含されているからです。自然それ自体は私達の内的な特質の複製にすぎないのです。

From the 1st part of the Daily Kabbalah Lesson 8/21/13, Writings of Baal HaSulam

ヴァーチャルな授与

質問:何が人をビナーの状態(ハフェツ・ヘセド)から外へ押し出すのですか?

答え:私達は決してビナーハフェツ・ヘセドの状態から去りません。ただそれに加えるだけです。スピリチュアリティにおいては、私達はある状態を失うことはなく、いつも梯子をより高く昇ります。もし私がハフェツ・ヘセド、つまり「授与のための授与」の状態に留まるなら、私は「自分自身のために受け取る」意図に落ちることになるでしょう。「授与のための授与」は私がいるべき最低限のレベルです。

私は「授与のための授与」の無限の状態への願望をより増やし厚く(アヴィユート)して、その上に「ハフェツ・ヘセド」のより高い状態を築き上げます。私はこのハフェツ・ヘセドの状態に追加の授与を着せ始めます。その中では私は何も必要とせず、私は森の中で、シャツ一枚すらなくとも何の心配もなく暮らし、幸せです。

ハフェツ・ヘセドの状態では、私はどのようなやり方でも授与しません、これは「授与のための授与」と呼ばれますが、私は授与するものを何ももっていないのです、それはまるで私が、自分のエゴを諦めることで、自分自身を授与する者と見なすかのようです。それは母親が子供に「お願いだから、静かにして」と言って、騒ぎを止めるようなものです。子供は何も役に立つものは生み出していませんし、他者に何も与えていません。彼はただ静かになっただけです。しかしこれは子供が母親を手助けしたことを意味します。

これがハフェツ・ヘセドの状態です。それは私がエゴイズムと戯れることを止めることを意味します。私はそれを欲せず、完全に裸のままで、全く自分自身を母親にゆだねて、彼女が言うことを全て聞くことを欲します。私は、母親が私に期待するところの何も良いことはしませんが、彼女が願う通り、悪いことは既に止めています。これが「授与のための授与」と呼ばれます。

全体として見れば、私は母親に「ヴァーチャルな」喜び以外何も与えていません。私は騒いだり、物を壊したり、叫んだり、いたずらをしたりすることを止めましたが、それだけです。これは私がハフェツ・ヘセドの状態に到達したことを意味します。これはエイン・ソフ(無限)に到るまでの最低限の願望の厚みの上でのみ可能です。

しかしこの上では、私は既に授与のため受け取りを始めています。母親が欲することを何かします。家事を手伝ったりします。これは既に授与のための授与の上にいることで、これが本当の授与です。

From the 3rd part of the Daily Kabbalah Lesson 4/8/13, The Study of the Ten Sefirot

憎しみのX線下のエゴの悪

私達は、人の中で起きる悪の源への憎しみに関連して、愛を調査します。つまり彼はその気分の悪さにも関わらず、自分の苦しみの源を愛することができるかどうかということです。それによって、彼は自分自身を、まるでそれが彼の性質ではないかのように、悪から隔離し、彼が苦しみを感じているその場所から離れさせなければなりません。

これは大変デリケートな点です。普通のエゴイスティックな性質では、私は私に苦しみをもたらす人、悪の源を憎みます。それはちょうど私達がしばしば、頭をテーブルにぶつけて怪我をした子供にテーブルを叩き返すように言って落ち着かせるようなものです。それは自然な本能的な動物的反応です。

しかしスピリチュアルな仕事は人間の是正を意味します。そしてすべての是正は、誰かが私を不快にさせたときでも、私に起きたことはただ愛と善のみであると自覚するときにのみ可能です。それで全ての痛みのサインがあるとき私の焦点は、この不快の源ではなく、私の中の悪の源そして私がこの悪を感じる場所、私の悪の傾向にあるべきです。そこが私が苦しみや悪い関係を感じるところであり、私が自らを引き離すべきものであり、マサッフ(スクリーン)で覆うべきものであり、制限があるべきところです。そのようにして、ついにはそれが悪をその反対の形に引っくり返します。

それはまるで私の前にフルコース料理のテーブルがあるかのようです。ただしどの皿も味は最悪で、匂いも臭く、見た目も腐っています。それはただ食べ物が少し塩っぽいとか辛すぎるとかいうものではなく、本当に有毒なものです。他方で私は、この食べ物を愛することができるように自分の知覚の器を是正しなければなりません。それは初めのうちは不可能に見えることです。同じようにして、私達もまた、私達が憎しみを感じる物事の中で私達の器を是正した上で愛に到達します。

From the Preparation to the Daily Kabbalah Lesson 4/3/13

カバラ、マルクス、そして大きな嘘について

 今日、私たちの発達の時代の間じゅうずっと伴ってきた傾向が終わりに近づいています。エゴは私たちを木から降ろし人類の進化を始めることを余儀なくさせました。私たちは生活における多くの様相と形態を経てきました:奴隷制度、偽りの自由、中世期、そして資本主義。私たちは利益を得るために、成功するために、そして、進歩するために常に働いてきました。しかしながら今日、私たちのエゴとの「パートナーシップ」はもうすぐ終わります。

この事にはいくつかの理由があります。その1つは、エゴそれ自体がもう満足しなくなったということです。私たちはあらゆる良いことを受け取りますが、それは私たちを満足させません。裕福な人々でさえ、まるで彼らが何もない状態で取り残されたようだとますます感じています。その理由は、その満たすものに対する欠乏がない状態でそれに満たされることが、何の喜びももたらさないためです。

全体的にエリートは世界を自分たちの所有物として扱い、自分たちのために「全世界」を作り上げます。彼らはメディアを通じて、朝から晩まで働くべきだ、流行を追うべきだ、製品やサービスを購入すべきだ、そしてまた働くべきだと私たちを納得させて混乱させています。混乱状態、戦争、そして「アラブの春」のような暴動は絶えず生じています。どうしてでしょうか? それは彼らが注目されずに静かに世界を支配して自分たちのために何十億という利益を得るためです。これこそが、ごく一握りの人々によって支配されている政府や他局の終わることのない仕事なのです。

しかしながら、彼らは自分たちが支配力を失いつつあると既に感じ始めています。エゴイスティックな進化の法則に従い、現在の世界形態はもうすぐ終わりを迎え、世界危機に直面します。大量消費社会を無期限に維持し継続させることに関心のあるエリートを含め、このことを望んだ人は誰もいません。しかし、これはうまくいかないのです。

今や私たちは何処に向かうのか決心しなくてはなりません。だから一方ではマルクスの著書が再びひもとかれていて、他方ではカバラの智慧が明かされているのです。

今日、受け取りたいという願望や欲求の異なる使い方についての話があります。次なる段階は、人々が週に約1時間ぐらい働く、1つに結ばれた社会を築くことです。なぜなら私たちが現在生産している全てのものは、私たちに必要ないからです。今日においてユニティー(統一・団結・和合)とは、人間社会にとって最も重要なモデルです。それなしでは、私たちは日々の糧さえも受け取ることができないでしょう。もし私たち同士がつながらないなら、基本的生活必需品の提供はありません。しかし、つながることこそが私たちのしなくてはならないことにもかかわらず、人類はつながり方を知りません。このため、一見したところ不可能な課題に直面する時、人類は滅亡に向かい、逃げ場がなくなります。

正確にこの時、カバラの智慧をその隠し場所から外に持ち出し、マルクスの『資本論(Das Kapital)』を背景にそれを「振る」のです。人々が私たちを聞き入れることを望みながら。

質問:どんな証拠を持っていけますか?

答え:これを証明する方法は二つあります:

  • 「賢者とは未来が見える人である」と書かれているように、理にかなった証拠があります。私たちのアプローチは実例に基づく実際どおりかつ効率的なもので、より大きな困難を待つ必要がないと人々を納得させることができます。
  • あるいは、その代わりに証拠が災いの形として現れることになりえます。

私たちは人々に不慮の災害が訪れる前にカバラの智慧を広めようと努力しなくてはなりませんが、それは容易ではありません。私たちはメディアを支配していません。エリートは人々を混乱させて大きな嘘を助長することを目的とする大勢のエコノミストと金融専門家と他分野の専門家を作り上げました。これはすべてピラミッドの頂点にいる人々が支配できるようにするためです。では何を支配するのでしょうか? 今日では彼らでさえ正確に分かっていません。その答えは全く彼らの支配下にないのです・・・。

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From the 4th part of the Daily Kabbalah Lesson 2/15/13, “The Peace”

私自身のエゴの鏡のなか

質問:グループの友達が、何のためにエゴが必要なのかと伝えました。私は何のために外側(外の世界)で感じる、つまり路上や街頭で感じるエゴが必要なのですか?

答え:これはすべてあなたの魂の一部です。マルクト、魂、人類、それをどのように呼んでも構いませんが、実のところすべてはあなたです。したがって、残りのすべての人は誰なのでしょうか? 彼らはすべてあなたの一部です。あなただけについての。

これは、それが全ての個人の魂がつながるところの、70億人の多層構造であり、平面ではなく球体になることを意味します。それで、あなたは100%すべてのものが必要なのです。したがって、この世におけるどんな人に対する皮肉な、そして、失礼な態度もあなたのスピリチュアルな前進を著しく遅らせます。

それどころか、あなたは世界の全ての人々、完全にネガティブな人と完全にポジティブな人を、自分自身の切り離すことのできない部分と同じくらい身近に感じる状態に到達しなくてはなりません。彼らは実際は誰でもないのです。あなたにとって、彼らは操り人形であり、彼らはあなたがクリエーターに近づくための正しい背景を与えるためだけに動いています。

質問:私は自分のエゴに耐えることができません。私には選択肢がありません。それは本来備わっている私の一部です。しかし、別の人のエゴをはぐらかすこと、または、追い払うことはできます。

答え:あなたは他の誰かのエゴをどこで目にするのですか? もしあなたがそれをあなたのエゴの中で感じるなら、実際にあなたは何を感じるのでしょうか? それはあなた自身のエゴです。世界は多数の人に分けられているように見えますが、今でさえあなたはあなた自身と話をしているのです。

From the Kharkov Convention “Uniting to Ascend” 8/17/12, Lesson 2

相互保証は霊的誕生の必要条件

ミューチュアル・ギャランティ(相互保証)のおかげで、人は、その人の必要物全てを提供するために皆がサポートしてくれている、と感じる状態に達します。そしてその状態において、人は他者について考えることが可能になります。人が自分のエゴを乗り越えるのは、この条件においてのみです。

エゴを乗り越えさせる他の力はありません。このエゴは私達を支配する唯一の力であり、それはグループの中でのみ中性化することができます。

もしグループが私のエゴを中性化せず無効化しないならば、私は自分自身の力だけで中性化することは決してできないでしょう。私はその中に永遠に埋もれたままで、そこから誕生して脱出することはできないでしょう。それゆえ、この相互保証は私にとって生命の法則であり、私の霊的誕生の必要条件となります。

もし私がグループから、十分な保護と必要な物全ての供給という、この安全の感覚を受け取らなかったならば、私は自分自身を越えて上ることはできないでしょう。実際、私の中にこの感覚を生むものは相互保証です。この感覚は全く私個人に起因するものではありません。もし友人達が彼らの相互保証によって私に影響を与えるならば、私が彼らについて考えることを止めることはありません。相互保証はそのように働きます。

それは母の両腕の中にいる赤ん坊に似ています。そこでは赤ん坊はいかなる問題も持ちません。赤ん坊は本能的に安全を感じ、そして必要な物は何でも与えられるであろうと感じています。私もまた、グループの両腕の中にあって、この赤ん坊のように感じることになります。全ての問題、全ての心配、全ての疑問が去ったように感じるのです。

私個人につながっているものは何もありません。それはまるで私が空中に浮かんでいるかのようです。私が他者について考え始めることが可能になるのは、まさにこのような瞬間からです。

私達は、不変の法則について、私達に作用する力について、話しています。それは私のファンタジーや推測ではありません。もし、この相互保証の力が私に作用するなら、そのとき私は自分自身を切り離し、そして私個人の欲する・欲しないには何の違いもなくなります。もし友人達がこの力で私に作用するなら、私は自分のエゴの支配から自由になります。そして、その瞬間から、私は他者について考えることが可能になるのです。

From the 1st part of the Daily Kabbalah Lesson 9/24/12, Writings of Baal HaSulam

嫉妬は欠点ではない

質問:カバリストは嫉妬を、人がこの世界から脱出してスピリチュアルな世界に入ることを助ける性質のものとしています。本当に、なぜ私は他者を妬むべきなのですか? 結局、誰もが特別で誰もがその人独自の道をたどっています。なぜ他の人のユニークさ(唯一性)が私を嫉妬させ、私の道において私を力づけるべきなのですか?

答え:私は、嫉妬や肉体的欲望や尊敬への欲求を、目的を持って自分の内に呼び起こします。それは他者の成功を妬んだり尊敬を追い求めるような、普通の人についてのことではありません。この世界では私達はあらゆる種類のナンセンスに嫉妬し、つまらない物を本当に欲しています。私は、その反対に、生活に必要なものだけを手に入れ、残り全ては無視します。私が全ての基本的必要物を持っているとき、私はスピリチュアルな仕事のために自分を構築し、このフレームワークの中で私は嫉妬のような道具を使います。

もしそうでなければ、私は前進のための何ものも持たないでしょう。嫉妬、肉体的欲望、尊敬は3つのエゴイスティック・アプローチです。そして私の内にそれらなしで、私に何の仕事ができるでしょうか? この世界から私を連れ出すのは、これらの3つの特質なのです。それはBYA世界を脱してアツィルート世界に入るようなものです。

それで、もし私がスピリチュアルな仕事をしたいと思うなら、私は他人の仕事を見て、彼らの前に自分を無にします。それから私は、彼らを私達の世代の最も偉大な人々として見ます。彼らは、はるか先まで進んでおり、彼らは(すでに)是正の終わりを達成しており、そして私は彼らを妬みます。もし私が妬まないなら、私に力はなく、動くことができません。私は前進するためのすべての力を自分のエゴから受け取ります。正しい意図を伴う正しい前進、それは物質の中に包まれた形態が光によって私の元にもたらされることを意味します。そしてその物質によって私は上昇するのですが、その物質自体とは私自身のエゴのことです。

質問:しかし、どのようにして私は正しい意図を嫉妬から守ることができますか?

答え:それは、その意図が築かれる、嫉妬、肉体的欲望、そして尊敬への欲求によります。あなたはその嫉妬をクリエイターへの嫉妬に転換し、尊敬への欲求をクリエイターのための尊敬に転換し、衝動への肉体的欲求を彼(クリエイター)への密着に転換します。そうでなければ、あなたは何を是正するのですか? あなたは何を建てるのですか、雲の中に空想的なお城ですか?

質問:しかし依然、私が嫉妬すると、その(嫉妬の)火が私を焼き尽くします。

答え:そうではありません。あなたは制限の後に、嫉妬、肉欲、尊敬欲求が起こるのを許すのです。その制限とは、もはやあなたのためではなく、理解し「作業場」を決めるためです。全てがコントロール下になければなりません。そうでなければ、あなたは始めることさえすべきではありません。

手短に言えば、やってみなさい。嫉妬に陥ることを恐れてはなりません。それに取り組み始めなさい。もしあなたが友達を嫉妬するなら幸運なことです。それは良いことです。結局、私達は前進のための他の力を持っていません。もし私が環境なしに一人だけで生きるのなら、私は一匹の動物のようなものでしょう。他方、もし社会が、私に欠けているものを友達が持っていることを、私に常に見せつけ続けることによって、私を駆り立て刺激するなら、それは人生において私の前進を助けます。私はまさに、私に良い例を提供し私が嫉妬するような、特別な環境を必要としているのです。

From the 4th part of the Daily Kabbalah Lesson 9/12/12, “Peace in the World”

微かな光が射し込む壁の裂け目をお見逃しなく

「涙の門」に至るとは、あなたが自分を、持ち上げることのできない重い石、すなわち自分自身の力では動かすことのできない欲求として、そしてそれ以外の何者でもないと見るようになることを意味します。その動きのすべては外部から来るエネルギーによってのみ可能になります。それで、私達の仕事の全ては、外部の環境から、この状態に対する助けを誘導する手段を見つけることです。

大変重要なポイントは、私達が自由意志を与えられていることです。ちょうど人が力を失い、もはや何もすることができないように見えるとき、また人が絶望、あるいは、ただの弱さを感じるとき、また人がモチベーションと未来の希望を失うとき、そのようなとき、その人は突然、自分自身では全く身動きできないことを感じます。その人をゴールへ向けて引っ張ってゆく意志の力は存在せず、ただわずかに、彼を背後から駆り立て、強制的に動かす小さな針がいくつか存在するだけです。

しかしながら、自分自身の力によって前進する自由意志が現れるのは、まさにそのような死んだ状態の中においてなのです。それは、ポジティブであろうとネガティブであろうと、何か見知らぬ異質な力によってではなく、自分自身でその前進する力を見つけることにかかっています。そしてその人はこれらの力をその人自身の内側に探し求めるのではなく、むしろ環境と共に働き始めるべきであり、そしてその力によってクリエイターの元へ登っていきます。

しかし人は、そのような惨めで灰色の状態の中で、光が開示される瞬間を見分けるために、とても敏感であるべきです。その時にあなたは光の中に入ることができ、そして行動することができます。

突然、多くの欲求の中に光の窓口が現れ、人はその中に貫通し突破することができるようになります。人は、最も死んだような状態にあるとき、無力感を感じスピリチュアリティの全ての味わいを失ってしまったときには、常にそのような瞬間を待たなければなりません。そのような状態においてすら敏感であることは可能です。

絶望や無関心を感じるとき、人は、この状態の中でも外へ飛び越えることができる日が来ることを心待ちにしながら、依然として鋭い知覚を維持しなければなりません。それはあたかも、あなたの目の前に堅固な壁があって、ある日突然そこに小さなひび割れがあることに気づくようなものです。あなたはそれを貫き通し、そこから脱出する道を発見します。この暗闇の状態の中にあって充実と達成の獲得方法を見つけるのは、まさにその場所なのです。

From the 1st part of the Daily Kabbalah Lesson 9/6/12, Writings of Rabash 

エゴよ、私はお前のものではない

質問:どうやって私たちはゾハールを読んでいるときに自分たちの意図を確認できますか?

答え:もし私たちがゾハールの書を正しく使うことを願うのなら、ゾハールの書は私たちにやって来る光の源です。したがってカバラの本を勉強している間、私は常にいくらかのイルミネーションを呼び出していますが、それは私の努力の、そして、用意ができていることの激しさに応じてやって来ます。もし私が肉体上の何かを手に入れるために、または、来世を個人的な特権として勝ち取るために勉強するなら、光はその影響によって私の中によりいっそうの暗闇を作り出します。私は、何のためにこのシステムが私に与えられたのか、私は何をしなくてはならないのか、そして、どのように私は他者を扱うべきなのかということの理解からだんだん離れていきます。愛とつながりについての素晴らしい言葉を読む時でさえ、私はもはや帰属感を感じず、つながりを目にせず、文章を読み取る方法が分かりません:それを私のハートに入れさせるのかどうか。これは、夜に養われ夜明けを予期しないコウモリのように私が勉強することを意味します。

しかし、もし私が他者とつながろうとし、これがその方法論を学ぶ理由であって、シナイ山でそれを受け取るための条件を保持して守ることによって、皆と一緒に「一つのハートを共有する一人の人間」に成ることを切望し、相互保証に参加するために、兄弟愛を達成するために、そして、それを通じることでクリエーターへの愛を達成するためにということなら、光は私を前進させ始めます。これはもう段階ごとに克服するという普段の道ではありませんが、私は徐々にその中に悪い粉々になった状態を発見し始めます。

利己的な勉強は私から私のエゴを隠し、私は自分自身を高潔として見ます。一方、正しい勉強によって、私は自分が悪の中にどっぷり浸かっていることを発見します。光が私に明らかにする最初のものは私の悪い性質であり、私はそれに応じて作業しなくてはなりません。悪を発見することによって、私は前よりもさらに悪い気持ちを感じます。では、私には何ができるのでしょうか? 結局のところ、私は私の性質に従って気分が悪い時は逃げたいのです。

もしかすると私は勉強を止めて、グループから離れるべきかもしれない? もしかすると私は絶望を感じるべきかもしれない? あるいは、もしかすると私は悪の認識を知ることを許されて喜ぶべきかもしれない? それは私にとって法則、招待であるべきです:もし私がこの不快感(気分の悪さ)を乗り越えられるのなら、私は受け取ることを超えて授与を切望するでしょう。

私のエゴの中で明かされる苦しみが、私がエゴために作業していないことを示すので、私は打撃を受けることを好みます。私は不快感を感じますが、それらを克服してユニティーを目指します。私は苦痛を和らげるために逃げることはしません:私は自分自身を閉ざさない、私は落ち込まない、私は勉強をやめない。それどころか、私は友達と一体になる途中にて、あらゆる方向からやって来る全ての困難を、クリエーターによって送られているものとして受け入れます。彼(クリエーター)以外には何も存在しないのです。

私はどんな状態も私の前進のためになるものとして受け入れます。私はそれらを無効にしたくありません。そして私は不快感を中和するために勉強し続けます。私は実のところそれを望んでいるのです。それがその乗り越え方、理性よりも上になることに私を正確に集中させるので、私はそれが継続することを望みます。全てはゴールに正しく集中することを助け、それらの中で作業することによって明らかに前進するといった制約や枠組みを作るので、私は喜んで全ての問題や妨害、状況の圧力、外的な嘲り、様々な苦しみを受け入れます。

こうして私の内側に授与の器を受け取りの器よりも上に構築します。それらは成長し続けます。そして、苦しみ続けます。その間、私は、それらよりも1つ上の段階に在り、完全な信仰、ビナーの属性を達成し、私の受け取りの器を授与するために使い始めるまで、クリエーターとのつながりを持ち続けたいのです。

しかしその一方では、また、私は独り善がりの考えがあってはならない段階に上がったので気持ちを落ち着かせるつもりはありません。それどころか、私はますます上向きに切望し、喜びを受け取る準備でさえできていますが、それは私自身を満たすためではなく、クリエーターの願望を満たすためです。

これはすべて私たちの作業です。私はこの道に沿って本当の源、私に授与の力を与える利己的な欲求が必要です。それは利己的な欲求の中で明らかになる問題や苦悩を私が克服した結果です。そして、私はそれが全てクリエーターによってもたらされることをはっきり分かっています。

From the 2nd part of the Daily Kabbalah Lesson 8/16/12, The Book of Zohar