理性を超えた信仰へ至るには?

理性を超えるとはどういうことなのでしょうか? 私たちが理解していることや、この世の人の思考からすれば、理性の範囲内とは人のエゴを意味します。「私の意見では」などというように、エゴによって、人は理解し、感じ、決意し、行動します。しかし、自分の意見を超えたところに、上層世界の意見があります。つまり、クリエーターの意見と引き換えに、自分の意見をあきらめなければならない、ということです。

しかし、人はクリエーターの意見を知りません。それはテン(TEN:10人)を通して届きます。もしテン(TEN:10人)につながるなら、徐々に自分を無化して友に統合することで、友の意見と引き換えに自分の意見をあきらめていくことになります。これは何かを単純に別の何かに交換するといったことではありません。それでは天使、つまりスピリチュアルな獣になってしまいます。そのため、自分の理性を超えてそれを振る舞うのです。自分の意見は保ちながら、それを超えていくのです。つまり、2つの段階にいることになります。この2つの違いからスピリチュアルな人が持つ理解力を見つけ出していきます。

人の感覚は何も壊されませんし、何も消されません。その代わり、今までとは異なったクリエーターの性質を付け加えることで、理性を超えた信仰を獲得します。自分の意見を持ちつつ、それを超えた信仰を持つのです。そして、人はその2つの間に存在するようになります。クリエーターは、無駄な楽しみのために私たちの欲求を創ったのではありません。それは、「暗闇は光のように輝く」という、常に私たちに伴っている基礎を成すものであり、エゴや自分の意見といった暗闇はそれを超えた意見を助けています。人が低き被造物にクリエーターの偉大さを獲得するのは、それらの対比によってなのです。

私たちは自分を取り消すことも、自分にある何かを失うこともありません。両足でしっかりと立ちながら、中間の線を築きます。そして唯一この方法だけが、自分たちをクリエーターと類似したアダムという人間に位置づけるのです。被造物にあるすべて、起こることすべては、クリエーターから受け取っています。しかし、それは人が自分でどう決めるかによっています。1

クリエーターは人に「彼」(クリエーター)とつなげるアダプターを与えてくれています。それは、テン(TEN:10人)です。このアダプターはとても複雑なものですが、他に選択の余地はありません。たとえ何年かかろうとも、そのアダプターにつながってそれを使うしかないのです。そして、自分を無化しなければ、グループにつながることはできません。自分のプラグではソケットに合わないからです。クリエーターは友人たちの内側にいて、「彼」はもっともっと友人たちにつながれるよう助けているのです。友人たちの内側に「彼」を明かし始めるまで……。そうして人は、友人たちを通してクリーターと共に働き始めます。その友人たちはその人の魂であり、魂を満たす光であるからです。

そのため、これまで経験したすべてのことから離れて、グループに入り自分を無化し始める以外に私たちに選択肢はないのです。今私たちは、人生経験と知識が豊富な大人について話しています。しかし、人はその自分から抜け出して胚(胎芽)を作り、グループに対して無(ゼロ)になります。その状態から人が知識を得始めて、成長し始めると、人のもともとの性質やその思考、自己への欲求といった土台の上に、理性を超えた信仰を築きます。片方がなければ、もう片方もありようがないのです。2

From the 1st part of the Daily Kabbalah Lesson 1/23/19, Writings of Rabash, Vol. 1, Articles “Rungs of the Ladder,” Article 21 “Concerning Above Reason” (1986)

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