カバラの叡智の類いまれな素晴らしさ

カバラの叡智と自然科学を比べるとき、私たちは多くの類似点と相違点を発見します。カバラでは「目に見えるものしか判断することはできない」と言われています。これは完全に科学的なアプローチであるため、物質的科学とスピリチュアル的科学の両方に全く同じ方法でアプローチする必要があり、それはつまりカバラの叡智に従う必要があるということです。

一般の科学が用いるものは全て、カバラの叡智でもよくある典型的なものです。それは到達、統計データの再現性、グラフなどです。カバラの叡智はやみくもな信仰ではなく、到達です。カバラの叡智によれば、信仰とは上層世界の感覚であり、世界を満たし、聡明に動かしている力の感覚です。これがまたカバラの叡智と他の科学との違いであり、他の科学では霊的に動きのない世界とみなされる段階で、上層の力の結果のみを知覚しています。

カバラの叡智はこの世界の一般の人々が、感じないかもしくは気づいていない真の支配する力を探求しています。そのためには、この力に類似した同様の特性を獲得する必要があります。形態の同等性における自然界の法則では、人は彼の感覚に一致したもののみを感じることができます。その時だけ、彼はただ唯一の上層の自然の力を探求することができるのです。

カバリストたちは自分たちの研究を、データやスケッチ、グラフなどで記録し処理します。彼らはまた、ヘブライ語のアルファベットは、様々なつながりを伝える信号であり、ポジティブとネガティブという2つの自然の力を結ぶ特別なシンボルでできていると主張します。

実際、ヘブライ語とアラム語は互いに互いを補完し、与えることと受けとることという2つの自然の特質を研究した結果として現れています。それらはポジティブとネガティブなど、この世界のすべての動きと現象の根底にあるものです。

カバラの叡智は主に根本的な自然の力の獲得を目的としているので、それはより正確で、より広大で、他の全ての科学よりもはるかに深遠です。これは普遍的な智恵なのです。

これは古代哲学者や中世の哲学者、科学者、そしてカバリストによっても述べられています。さらに、最近出版されたニュートンの日記によると、彼はヘブライ語とカバラを勉強して、そこから彼が書いた法則を突きとめました。

カバラの智恵の類いまれなところは、私たちがすでに定義している感覚を使って自然を研究する物質的な科学とは違い、人がさらなる新しい感覚を創造することを求めるところにあります。カバラはその人自身のなかにさらなる感覚を発達させる人のための科学なのです。

自然のなかには授与の力、相互的なつながりの力がありますが、それを知覚する内的なセンサーやレシ—バーを持っていないため、私達はそれらに気づくことができません。私たちが知っているのは創造のほんの一部のみで、それもかなり一方的なものです。

カバラの叡智は、受け取りという1つの力がある私たちの世界についてだけではなく、2つの力で作られた創造の全てについて私たちへ伝える科学です。2つの力とは、与える力と受け取る力のことです。科学者は今のところこれを理解せず、そのほんのわずかしか認めていません。問題は小さなエゴの力に仕えるという人の心ではなく、全創造を感じる必要性であり、それが私たちの範囲内で明かされたのです。

実際この必要性が人を前に押し進めるのです。人は、自分が人生の意味やその理由、その根源、そして目的に到達しなければならないと理解します。それらなしでは、人生の意味はありません。

科学者は人間の状態での獲得について述べていますが、一方でカバラの叡智はその根源について私たちに伝えています。何が人を操っているのか、なぜ、何のために、何に向かっているのか。また同時に、私たちは上層の力に類似する範囲においてのみそれを研究することができるので、カバラは私たちが内面を変える必要があると説明しています。

そして最も重要なのは、なぜカバラを勉強するのかということです。これは大きな障害でもあります。他者をケアすること、他者の利益のために他者を助けること、カバリストはこれらのために研究しています。これは原則として、一般の科学では扱いません。一般の科学は何が存在するかを研究しており、それをどのように適用するのかには興味がありません。カバラは自分たちが欲する方法で科学的成果をねじまげる政治家や富裕層へその働きを提供します。カバリストは彼の中の世界を研究し変化させますが、一方、政治家や富裕層はその使い方を知らないのです。

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From the Kabbalah Lesson in Russian 2/28/16

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