正当化しなければならない頭金

世界はスピリチュアルな上昇に関して二つの部分に分かれています。1の部分は“心の点(・)”が既に目覚めた人々です。従って彼らはスピリチュアルな上昇への憧れを感じます。

彼らは人生の意味(彼らの根源を直接獲得したいという欲求)に興味があります。

これらの人々は私たち(ブネイ・バルーフ(BB))のところに来ます。一部の人々は私たちと共に留まり、一部の人々は去ってしばらくしてから戻ってきます。

両者は絶えず揺さぶられます。揺さぶられずして前進することができないためです。

まるでポンプが1つの場所から別の場所へと空気を送り込むように、まるで自動車の中のピストンのように、私たちも前進運動においてそのように前へ進み、行ったり来たり、行ったり来たりしているのです。

これは私たちがどこかに行っているという意味ではありません。私たちはどんどん高く上がるに連れ、少し高くなったり少し低くなったりして動くのです。

従って私たちは絶えず前へ進み、エゴを下から“すくい取り”、そのエゴを上げて是正します。それをなお一層深くすくい取り、上げて是正するのです。このように私たちは螺旋(らせん)のように徐々に前進します。しかし、その螺旋は上がったり下がったり、上がったり下がったりして徐々に広くなります。

上から下へ移動しない者は、なにも上に持ってくるものがありません。私たちはカバラの知恵でこう学びます:創造物の欲求は粉々に割れ、全ての欲求はベリア(Beria)、イェツィラ(Yetzira)、この世を含むアシィア(Assiya)と呼ばれる諸世界に分散しました。

よって、“心の点”(アジィルットのマルフート(Malchut of Atzilut))を持つ全ての人々は、下降して器を上げ、そして再び下降し、さらに大きな器をまたまた持ってこなければならなく、それ故、この動作を何度も繰り返すのです。

この全ては全部私たちのケリム(複数の器)、つまり私たちの欲求です。したがって是正の最後(完全なグマー・ティクン(Gmar Tikkun))までは、下の方への動きが常にあり、その動きは交互に始まっては止まり、是正されてないケリムがある場所へと徐々に戻ります。それは常にマイナスがプラスの反対側にあることを意味します。

従って、私たちは欲求を引き寄せ、それを上げて是正します。 私たちは知らずに下にある殆どの欲求を是正します。

様々な変化が世界にいる全ての人に起き、私たちは絶えず是正することで忙しいのです。

全ての変化、この世界で起きる全てのこと、誰もに起きること全ては、下方へ降りることと上方へ昇ること、つまり下降と上昇のおかげで起きるのです。

従って、この世の全ての人々は、したい、したくないに関わらず、無意識に是正のために働きます。

私たちは既に上層の器に属している“心の点”があるため、意識的に働いています。それから立ち去る時、私たちは螺旋のように絶えず下がったり上がったり、下がったり上がったり円を描きはじめます。

意識的な働きと無意識的な働きの間には大きな違いがあります。結局のところ、無意識に働く者は痛みを経験します。彼らは後ろからの圧力によって前へ押され、自分達が前進しているようには感じません。彼らは単に人生の様々な状況(痛みや苦しみ)の影響を受けて動かなければなりません。

私たちはそうではありません。私たちはこれを意識的に、はるかに効率的に行うのです。結局のところ、私たちは、他の人を押すように私たちを下から押す苦しみを超越し、私たちを最初から押すポジティブな力をこのネガティブなベクトルに加えようと試みます。

ポジティブな力の助けを借りて前進するためには、グループ内でつながらなければなりません。それに加え、私たちは共に勉強し、事前にグループの中に上層の世界(Upper World)に存在する全ての条件を設ける必要があります。

グループの規則、全てのグループの規範は、私達がまだエゴイズムの中にいる間に少なくともある程度、従おうと努力している上層世界の法です。私たちはそれが全てゲームであると把握しています。

私達はあたかもお互いを愛し、お互い、1つになること、つながりを切に求めているかのようにただ演じているのです。私たちはゲームをしています。恥じることは何もありません。ある者は「もしこれが本当でないなら、それをしない」と言いますが、これは誤りです。子供を考えてみてください。彼らにとって遊びはとても真剣なことです。他者との接触の中にスピリチュアルな世界を形成しようと試みるとき、それはとても真剣なことです。

それを切望する程度にまで、私は自分の中に新しいベクトル(絵の中の赤い矢印)を発達させ、後ろからの圧力を受けることなく、前方に魅力を感じはじめます。私は、例えば世界を前に押す危機や、私たち一人一人を押す様々な個人的問題のような周囲の様々な状況を待ちません。私はグループの力を装着し、グループの力はそれ自身に強い光を上層から引き寄せます。

実はこの強い光は、私たちの唯一のスピリチュアルな構造を構築します。そして今回、それは本当です。私たちが皆1つになるとき、私たちは光と同等になります。その理由は光も1つであるからです。

性質のつながり(関連性)、つまり形態の等価に従って光は私たちに入り、上層世界、次なる段階、次なる次元が私たちに明かされます。これが自分達自身で前進したいという欲求を受け取る人々とそれ以外の人々との違いです。

最初の部分(図1の黄色い部分)が私たち、“心の点”のある人々で、他の部分(下側)がその他の人々です。

近頃、これらの2つの部分の相互依存関係が明らかになっています。その理由は二番目の部分が最初の部分に無意識に引き込まれ、それ故に人間の歴史を通してその欲求の多くを無意識に是正したからです。

“心の点”を持たない人々は歴史を通して様々な状態を経験し、それ故に今日私たちにつながる程度にまで達しました。私たちは、上方への動き、上方への引き寄せを受け取り、彼らは私たちのとても近く、私たちの周りに居て、私たち皆が一緒に危機に瀕しています。これは全く同じ危機、クリエーターの不在の危機、上層の摂理の啓示の欠如です。しかし私たちにとって、この上層の摂理の欠如は深刻な問題で、私たちは「彼」を見つけたいと思い、前方へ引き寄せられます。しかし、私たちは世界がどんな状態に陥っているのかを見るので、彼らにとってそれはとても不愉快な後ろからの突きなのです。

まさにこれが、創造の目的(器の中で光を明かすこと)に魅力を感じる人々のために用意された唯一無二の機会です。彼らの有利な点は、もし彼らが光とのつながりを持たない世界の部分の是正のために働くならば、光が彼らの中を通って他者に渡るので、彼らが光に速く近づく機会を得るということです。

私たちの各々は、どういうふうに特別なのでしょうか? 私たちはどんな特別なことを人生でしたのでしょうか? 私たちにどんな特別な性質があるのでしょうか? 私たちに、そしてまた私にも、特別なことなど何もありません。“心の点”、つまり上層の光を明らかにしたいという欲求は、“前提条件”として、“頭金”として私たちに与えられたのです。もし私たちが他の人々のために働くならば、上層の光は必ず私たちに現れ、私たちの中を通って全人類に渡るでしょう。

従って、私たちはその条件が何なのか理解することが出来きます:「汝の隣人を汝自身のように愛せよ」と「1つの心を持つ1人の人のように」、私たちの間のつながりに達することなどなど。これらが光を明かすこと、つまり複数の器の是正に必要な正確な条件なのですが、それは様々な言葉で表現されます。

前の世代のカバリストたちはカバラの知恵を自分たちの是正に合わせて変え、私たちがいかなる場所において広くそれを利用できる準備をするために、それを彼らの著書の中に書き表しました。従って、彼らの著書は全て私たちに向けたものです。全ての前の世代には、ごく少数のカバリストたち(実際のところ数十人)しかいなかったからです。例えば16世紀の偉大なカバリストであるアリ(The Ari)には6~7人しか生徒がいませんでした。後に、イタリアのパドヴァに現れたもう1人の偉大なカバリストであるラムハル(Ramchal)には2~3人の生徒しかいませんでした。

現在、全世界で数千人の人々がカバラの知恵に興味をもっており、彼らはそれを必要としています。それなしでは、人生が単なる肉体の人生であるからです。実は私はそんなにも多くの人々がカバラを学んでいるとは思っていませんでした。人類全体に対して10~20人といった小さなブループしかないと思っていました。

カバラは私たち自身に光を引き寄せる知恵です。それをするために私たちは、上層の世界の構造、どのようにその全部分が整えられているのか、どのようにエゴイスティックな(利己的な)欲求がアツィルットのマルフートの是正に上昇するのか、どのようにそれらが一体になり、後にイェシスット(YESHSUT)のパーツフィム(Partzufim)、アバ・ヴェ・イマ(Abba ve Ima)、アリッフ・アンピン(Arich Anpin)、アティック(Atik)、それ故にエイン・ソフ(Ein Sof)の世界にまで上昇するのか学ばなければなりません。

しかし、それは私たちのためのものです。私たちは上層の光を引き寄せてそれと共に相互的に働き、それに頼り、それから受け取るためにカバラの知恵を必要としています。

一般大衆は上層の光を受け取るためにカバラの知恵を必要としていません。彼らは光と共に相互に働かないからです。しかし、それでも彼らは1つにならなければなりません。彼らはあらゆる面に圧力を与える全問題を取り除くものが1つである状態だと理解しなければなりません。彼らが知る必要のあることは1つだけです:もし私たちが1つになれば、私たちは全ての問題、全てのネガティブな状態(−)から脱するということです。

一般大衆向けの知恵はインテグラル・エデュケーションと呼ばれています。インテグラル・エデュケーションは、全てのマイナス効果(悪影響)を無力化する力が、1つである状態の中で明らかになるよう、1つになることの必要性について説きます。したがって、一般大衆にもグループが必要です。しかし、違う立場、違う形、違うスタイル、違う切望をもつグループです。単に人々の結束です。

彼らが1つになれば、より気持ちがよくなり、様々な弊害の全てが消えてなくなるということを彼らが理解する時、これが起きるでしょう。これがカバラの知恵とインテグラル・エデュケーションの違いです。

全体的に見ると、これらは地球上での人々の結束における同じ知恵の2つの部分です。それらは同じことについて説いているのです。“心の点”を持っているということから、上層の光を引き寄せ、それと共に相互に働ける人々だけが、その構造、相互の働き、上層の世界、光の上昇と光の下降を求める要求のレベルについて説明できます。彼らは上層の光の引き寄せを促すためにこれを必要とします。

他の人たちにそれは必要ありません。彼らは単に、1つになることを切望することだけが彼らに平和とよい暮らしをもたらすということを知る必要があるのです。これが彼らの欲求の中で彼らが感じることなのです。最終的に、両方が同じ状態に到達します。パーサ(Parsa)の下にある全ての欲求が上昇するからです。それが意味することは、それらがパーサの上にある光の中に組み込まれるということです(図2)。

これが私たちの将来の在り方、私たちの次なる次元、上層の世界です。従って人類は2つの部分に分かれており、各部分に独自の是正方法があるのです。

従って1つになること(インテグラル(統合)の方法を受け入れてそれを実行すること)は今日の世界にとって非常に重要です。私たちは、どれほど人類がそれを必要としているのかを理解し、それ(一般大衆に適しているカバラの知恵の主要部分)を広めなければなりません。

創造物の1つになる方法は、クリエーターが創造物の中で明かされることに向けられています。「彼」は私たちの中を通って一般大衆の中で明かされるのです。

私たちの中を通って(図1の赤い矢印)上層の光は彼らへ伝えられます。『ゾハールの書の前書き』は私たちにこのことについて伝えます。

インテグラル(統合)の方法を広めることはヨーロッパ(世界の他の部分よりも発達していることから、非常に多くの緊張を経てきた、多国間の危機の重圧が感じられる大陸)においても必要です。

もし私たちがここで危機を是正し、なんとかして人間の結束の知恵の普及を一般大衆に適している方法で促進できるなら、それはインテグラル・エデュケーションとインテグラル協力の形でという意味で、それは第一に私たちの前進を助けるでしょう。

こうして私たちは「彼」の粉々に割れた複数の器を是正するので、クリエーターに大きな満足をもたらします。そしてこれらの是正された複数の器の中で、創造の目的である「者(One)」を明らかにすることができます。従って、全ての人にとってインテグラル(統合)の方法はとても重要です。私たちはそれを子供たち、大人たち、そして高齢者のために開発します。私たちは一般の人々のために講座を開き、ワークショップや様々なイベントを開催します。私たちはそれが私たちにとっても、非常に重要であると考えます。なぜならもし私たちがそれに従事しないなら、私たち、つまりブネイ・バルーフが前進することは許されないからです。なぜなら私たちは残りの世界の人々のことを考えるという条件で、それを“頭金”として、単に受け取ったにすぎないからです。

From the 2nd Lesson of the European Convention In Germany 3/22/13

 

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